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奇跡と仮城の平和憲法

2004年2月18日

宇佐美 保

 

 最近は、改憲論が大手を振るって政界やマスコミ界などを闊歩している事が気掛かりです。

そして、テレビ朝日の『朝まで生テレビ「今、なぜ“改憲”か?」』(1月30日放送)では出席者は、ここぞとばかりに改憲への思いをぶちまけていました。

しかし、私は改憲に反対です。

そこで、この番組の発言等を引用させて頂きながら(即ち、以下、特に断りのない場合はこの番組からの引用です)私の改憲への反論を展開させて行こうと存じます。

 

番組出席者、又、世の中の改憲論者の多くは、「憲法の前文が間違っている」と唱えていますが、私には、それらの方々が愚か者に思えてなりません。

 

例えば、ジャーナリストの工藤雪江氏も、次のように述べていました。

 

憲法の前文は、日本は平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して我々の生存と安全を保持しようと決意したとなっているが、我々の住む世界はテロ国家やならず者国家も存在せずに、非常に美しく平和な話し合いが判る世界であるとの前提が必要であり、自分達は何もせずに、他人任せの平和を実現しようとしているのであるから現実を全く無視している。

 

 この工藤氏の発言を“そんな事は当たり前だ!だからこそ自衛隊が存在するのだ!”と叱責(?)した田原総一朗氏ご自身は、氏の著作『聞き出す力(カナリア書房発行)』にて、次のように記述しています。

 

 僕はいまの憲法は、とってもすばらしいと思っている。そりやアメリカが押し付けたものには違いないけど、でももしアメリカが押し付けなかったら、主権在民なんていうのは憲法に入らなかった。基本的人権もたぶん入らなかったと思う

 戦前の憲法にも、言論・表現の自由や結社の自由はあったの。でもそれは法律に許される範囲でという但し書きがあって、法律が変わったら全然自由じゃなくなる。だから治安維持法なんてのができた。でもいまの憲法は、法律じゃなく、憲法でそれらの自由を保障している。ここがすばらしいんだ。

 でもいくらすばらしい憲法でも、やっぱり時代が経てばいろいろ問題だって出てくる。

 さっき言った国際貢献の他にも、移民の問題とか実はいろいろあるんだ。

 具体的には九条と九十二条、ここは変えたほうがいい。それから前文、これは明らかに間違い。

 なぜ前文が間違っているかというと「平和を愛する諸国民を信頼してこの憲法を作る」となっている。諸国民は、平和を愛して戦争なんて起こさない、つまり戦争なんか起さないということが憲法の前提になっているのね。でもすでに世界中で、戦争はたくさん起きているでしょ。それらの戦争に日本だけは関係ないとはもう言えない。だから前文は変えなきやいけないよね

 その代わり僕は前文に、第二次大戦の反省を入れるべきだと思っている。それから、原爆のことも入れたほうがいい。だって唯一の被爆国なんだから。

 それから九条、これはもっとはっきり謳ったほうがいい。九条の一項は生かす。国権の発動としての戦争はしない。これはつまり、侵略戦争はしないという意味ね。それで自衛隊が海外に行くのは、国連安保理決議があって、国連の多国籍軍の一員として行く。これはちゃんと憲法の中に入れたほうがいい。

 改憲というと、基本的人権なんかに関しても、いろいろ言いたい人が出てくるでしょう。

いまの憲法は権利と自由が多過ぎて、責任と義務が少な過ぎるという意見もあるし。でもそこをやりだすと、これはもう収拾がつかなくなるので、むしろその部分には手をつけないほうがいいと僕は思うけどね。

 

 最近は、憲法(特に、前文)に対して、ここに抜粋させて頂きました田原氏のような見解を持つ方が多いようです。

 

 しかし、ここに掲げた工藤氏や田原氏に代表される憲法前文に対する見解は、全く私達の平和憲法の趣旨から逸脱しているのです。

ここで、改めて憲法前文の問題(第2項)の部分を次に掲げます。

(ホームページ(http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html)から抜粋させて頂きます。)

 

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

 よくこの前文を読んでみて欲しいのです。

この前文では、「国家」間の問題ではなく、「日本国民」そして、「全世界の国民」について記述しているのです。

即ち、「日本国民」「全世界の国民」の平和への願いについて言及しているのです。

そして、この前文は憲法自体の前文であると共に、第九条(特に、第2項)に対する前文であるのです。

 

 即ち、この前文の趣旨は次の点なのです。

 

 戦争、軍隊、武器では、平和は得られない。

従って、世界中から、戦争、軍隊、武器をなくすべきである事は、全世界の国民も納得し、武器、軍隊を捨てたいと思っている。

だからと云って、自分達が武器、軍隊を捨てたら、他国民から襲われてしまう心配から、軍隊は捨てられない。

(この状態は、今の米国の銃社会に極似しています。

銃は危険だから捨てたくても我が身の安全を考えたら銃は捨てられない。)

これでは、いつまで経っても、この地球上から軍隊が無くなる日は来ない。

(米国社会からも銃は無くならない。)

 

 勿論、我ら日本国民も、全世界の各国民同様に、軍隊を捨てた後の他国からの侵略についての懸念が皆無とは申しません、でも、何処か一国でも軍隊を捨てる行動を起さなければ、軍隊はこの地上に永遠に残存してしまいます。

この手詰まり状態を打破する為に、我が日本国は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼すると唱える事によって、なんとかその心配を振り切って、真っ先に軍隊を捨てる事を決意したのです。

(日本独自で決意したのではなくて、米国から押し付けられたと言っても、それは構いません。

少なくとも、この50年以上、「平和憲法」を、曲がりなりにも維持し続けてきたのです。)

 

 そして、この決意をする事自体、又、この決意を実践する事、更には。この決意を世界に広める今後の行為の過程に於いて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と、この前文は世界にアナウンスしているのです。

 

 文芸評論家、東大大学院教授の小森 陽一氏は、次のように述べました。

 

アフガンからイラク攻撃までの流れを見れば、アメリカのような武力行使をして、実際何か解決したかと言えば何も解決してないではないですか!泥沼に突っ込んで行くだけ。つまり武力を使っても火を消すのではなくて付けまくっている。

新たな犠牲者を出しまくっている。

改めて、日本が今まで守ってきた人権に基づく、軍隊を持たない戦争はしないというこの可能性を、成果の中に(成果を上げつつ(の意味?))どう構築して行くかという議論を、日本が最先頭に立って国際世論の中に造って行く事が必要

 

 この小森氏の提案に対して、田原氏は次のように反論しました。

 

それくらい日本の憲法が素晴らしければ世界で日本の憲法を真似する国が沢山出てくる。(なのに)出てこない

 

 でも田原さん可笑しくはありませんか?!

 

この文の冒頭近くで引用させて頂きましたが、田原氏の著作『聞き出す力』にての次の記述をお忘れになったのですか?

 

 僕はいまの憲法は、とってもすばらしいと思っている。……もしアメリカが押し付けなかったら、主権在民なんていうのは憲法に入らなかった。基本的人権もたぶん入らなかったと思う。

 

そして、田原氏はここにもう一点、即ち、「平和憲法」を(故意に?)書き落としているのです。

自分達が作る憲法に「平和を愛する諸国民を信頼してこの憲法を作る」と記すだけで、戦争や、軍隊の放棄を敢えて謳う国が何処にありますか?

あくまでも、日本の平和憲法は、ある意味で、押し付けられた憲法であったからこそ、この世に存在する事になったのではありませんか!

押し付けられなかったら、世界中、何処を探しても、こんな憲法を作る国はないでしょう。

日本に平和憲法が生まれたのはある意味では奇跡です。

ですからこそ、日本の平和憲法は「奇跡の憲法」でもあるのです。

そして、この荷の重い「奇跡の憲法」を真っ先に背負う名誉を私達日本人が授かったのです。

いつの日か、世界の何処かの国が、そして、世界中の国が、この「奇跡の憲法」を見習う事を信じて(夢見て?)。

(この件は拙文《平和憲法は奇跡の憲法》をも御参照下さい。)

 

 この点、雑誌『週間金曜日(2003.4.25』にての、佐高信氏の司会での憲法座談会「戦争と平和」に於いて、樋口陽一氏は、次のように語っています。

 

 憲法九条ができたときに元東大学長の南原繁さんが若い研究者に、「これは日本の国民にとっては過大な負担だな。これを維持していくための倫理性、道義性を日本国民が持っているとは思えないあなたたちの世代がよほどきちんとすることによって、それを維持していかなくてはいけないんだ」と言ったというけれど、まさにその通りです。

 

 ですから、日本の「平和憲法」は、工藤雪江氏らが非難するような

“自分達は何もせずに、他人任せの平和を実現しようとしている”

等というチャランポランの平和憲法ではないのです。

宮崎 哲弥(評論家)氏も、このような表現を番組中で使用していたと、私は記憶していますが。

 

 更には、次なる前文の第3項をも、多くの方々は曲解するのです。

 

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 

 この前文の意味は“「自国のことのみに専念して他国を無視して侵略戦争などを仕掛けてはいけない!”と歌い上げているのです。

この憲法の前文は、九条第一項の前文でもあるのです。)

 

 従って、拙文《憲法の前文を理解出来ないポチ小泉》でも、記述しましたが、次の小泉首相の発言は、この前文「自国のことのみに専念して……」をねじ曲げているのです。(朝日新聞(2003年12月10日)より)

 

憲法の前文を引用し、「日本のことだけ考えていればよいのではない。自衛隊派遣は、イラク国民にとっても、国際社会の安定にとっても重要だ」と指摘。

 

 逆に、この「自国のことのみに専念して……」の意味は、小泉氏のような「国益」主義者を戒める意味もあるのでしょう。

(自国の「国益」を優先して、他国の「国益」を等閑にするな!)

 

 そして、又、小泉首相同様に、前文のこの部分を曲解して、多くの人が「国際貢献!」「国際貢献!」と喚き出し、イラクへの自衛隊派遣を支持しています。

そして、この「国際貢献」を全うする為には、日本も国連軍、多国籍軍に参加出来るように憲法を改正すべきであると喚いています。

 

 なぜ、こんな事になってしまったのでしょうか?

 

田原氏は次のように発言していました。

 

国際情勢が変わったと云うのは、簡単で一般的に言えば湾岸戦争ですよ、湾岸戦争前はアメリカからも他国からも、自衛隊が助けに来いなどとは言われなかった

湾岸戦争で言われて、日本の世論が変わった、学者も変わった、これからどうするかと?決定的なのは9.11ですよ。ブッシュは民主主義の敵だと云ったその敵に対して民主主義の国々はこの敵に対応しなくてはならない。そこで日本もそう思った。これが国際情勢の変化ですよ。

 

 確かのこの田原氏の見解は、日本の世論(特に外務省)の変化の根元を的確に指摘しています。

でも、可笑しいではありませんか!?

なぜ湾岸戦争に自衛隊を派遣する必要があったのですか?!

なぜ湾岸戦争に自衛隊を派遣しなかったからといって、日本が非難を受けなくてはならないのですか?!

 

 そもそも、拙文《暴君はフセインですか?アメリカではありませんか!》にも書きましたが、「ナイラ」による「保育器の報道」という情報操作など(文末の「注:1」を御参照下さい)が無ければ、米国市民は、クウェートへの米軍の派遣は反対だったはずです。

ですから、湾岸戦争自体もなかったわけです。

 若し、「ナイラによる情報操作」等(文末の(注:1)を御参照下さい)が無ければ「湾岸戦争」は起こらず、フセインは王族達に寡占されている石油の恩恵を一般国民に分け与えた英雄とクウェート国民から崇められていたかもしれません。

 

 この様なインチキな「湾岸戦争」を契機として、平和憲法が様変わりしてよいのですか?!

こんなインチキな「湾岸戦争」が国際情勢の変化の原因となって良いのですか?!

 

 そして、情けない外務省の内幕が、前レバノン大使天木直人氏の著作『さらば外務省!(講談社発行)』に次のように記されています。

 

 二〇〇三年の大使会議には、さらに驚かされた。米国の対イラク攻撃が迫っている中で大使が東京に一斉に帰ることは非難を呼ぶとして、われわれはアラブ首長国連邦のドバイに集められた。

 その席上、相星孝一中東二課長が聞き捨てならない科白を口にした。

今度こそ、日本として湾岸戦争の二の舞を踏まないように、すかさず目に見える貢献をすることで検討が進められている、しかしそれがなんであるかは官邸から口止めされており、大使会議でも明らかにできない」

 というのである。大使にさえも話せないというのである。なんのための大使会議なのか。それがイージス艦の派遣であることは容易に推測がついた。

 

 更に、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》の一部をここに転記します。

 

2001年10月20日のテレビ番組「スクープ」を見ていたら、次の事実が紹介されていました。

 

先の湾岸戦争の際に、駐在の外交官の子供達は学校で、日本が湾岸にお金だけ出して兵力を送らなかった事で苛められ、外務省の役人達には辛い思いをしたといって、なんとしても、自衛隊をアフガニスタンへ向けて派遣しようと焦った。

 
 とんでもない事です。

……

 可笑しいではありませんか!

外務省こそが、日本の平和憲法を世界中に知らしめる役目を担っているのではありませんか!?

(その紹介の為にこそ、豊富な外交機密費を使えばよいではありませんか!)

そして、その役目の為には数々の辛い試練を経なければならないのは当たり前ではありませんか!

外務省の方々は、どのような心を抱いて入省したのですか?

日本の平和憲法を世界に広める為にこそ外務省に入ったのではないのですか!

駐在の外交官の子供達が学校で、日本が湾岸にお金だけ出して兵力を送らなかったと言って苛められたら、駐在の外交官は、自分の子供に日本の役割をじっくり教えるべきではありませんか!

更には、以前にも書きましたが、日本の平和憲法の精神を、何故駐在員たちは、その国の方々に紹介して来なかったのでしょうか?

 何故外務省はこの憲法の成り立ち、その内容を広く世界に訴え続けてこなかったのでしょうか?

駐米(いや各国に駐在)の外交官がパーティーを開くならば、(己の食費の捻出などに精を出さずに、)アメリカ市民を公邸に招き、真珠湾奇襲の真相、そして、平和憲法への思いを彼らに訴えて来なかったのでしょうか?

 

 更には、財界トップの人までが外務省の役人同様なのです。

拙文《お粗末な財界トップ高坂節三氏》から、次を転記致します。

 

 経済同友会憲法問題懇談会委員長の高坂節三氏は、雑誌《論座:2003年7月号》で“憲法を改め、ウソの文化と決別せよ”と、又、《諸君:2003年9月号》で“平和と繁栄は、金では守れない”と息巻いていますが、私には高坂氏の「人間の格」に疑問を感じるのです。

……

高坂氏は次のように書かれているのです。

 

 私の安全保障観に決定的な影響を与えたのは九〇年八月、イラクがクウェートに侵攻した「湾岸危機」の際、たまたま米・コロンビア大学で、エグゼクティブ向けのセミナーを受けていたときのことでした。

 先代ブッシュ大統領がフセイン政権非難のテレビ演鋭を行った翌日、予定されていた講義のプログラムはすべて中止となり、我々受講生は大きな階段教室に集まって、この歴史的事件について、意見を述べ合うことになりました。

 そのセミナーは、アメリカ以外からの参加者が約半数を占めていましたが、各々、説明するなか、日本人たる私は、いったい何を語ったらいいのか、ひとり途方に暮れていました。憲法第九条の制約のなかで、果して何ができるのか。日頃、考える機会がほとんどなかったからです

 思えば、日本は石油使用量の九割近くを中東からの輸入に頼っている。その重要な地域の秩序が、目前で破壊されようとしているのに、どのような態度をとればいいのかも判然としないのです。

 

 更には次のようにも語っておられます。

 

……日本は海洋国家で資源を年間八億トン輸入して、製品を一億トン輸出している、そういう体質です。湾岸戦争のとき、私はアメリカにいました。当時、アメリカの人はどう言ったかというと、湾岸戦争で軍隊を派遣したら、ペルシャ湾を航海している船の大半は日本向けのタンカーで、我々は日本の利益を守るために戦っているようなものだ、と

そういう意識をアメリカ人は持っているわけです。

軍隊を持たずに九条の精神で平和を愛して、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼していけば、それだけでよいと、皆さんが考えるのならそれは一つの選択だが、現実はそうじゃない。

 

 本当に高坂氏は日本の一流企業のトップとなる人材だったのでしょうか?

先ず「憲法第九条の制約のなかで、果して何ができるのか」との発想自体が、おかしくはありませんか?

憲法第九条」は「制約」でも「足枷」でもないのです。

私達日本人の守ってゆく「理想と目的」なのです。

そして、悪戦苦闘しながらも、私達日本人は何とかそれを守り維持してゆこうとしているのです。

 高坂氏が「ひとり途方に暮れる」といった愚か者でなかったら、この「憲法第九条」の意味合いを、アメリカ人、そして世界の人達に高らかに歌い上げていたはずです。

たとえ、同席の方々の同意を得られず、袋叩きに合おうともそれはそれで良いではありませんか!

 

 私の感じでは小者ほど外国の非難に対して、怯えバタバタするようです。

 

 それに引き替え、寺島実郎(日本総合研究所理事長)氏は、『週刊金曜日(2003.4.25)“21世紀はルールと協調の世界”』にて、次のように語っています。

 

 湾岸戦争のころ僕は米国にいて、「日本は血も金も出さないのか」という論理に対し、日本のような理念を持っている国があっていいじゃないかということを「説得力」を持って話した。その時「卑怯者の国だ」と言われたためしははありません。いま問われているのは、「説得力」と「信念体系」なのです。

 

 更に付け加えますと、同志社大学助教授の村田 晃嗣氏の

 

古川さん湾岸戦争は大義がある戦争だったか?

 

との質問に対して、民主党・衆議院議員の古川 元久氏は、

“大義はあった。”

 

と答えていました。

何と情けない国会議員なのでしょうか?

文末の(注:1)にも抜粋させて頂いていますが、ラムゼー・クラーク氏(1961〜68:米国法務省次官、長官)の著した『湾岸戦争』(地湧社発行)を熟読して頂きたいものです。

(私は、民主党の若手議員の多くが、“日米同盟だけを大事にして行けば、日本は子々孫々までの平和と安全が保障される”が持論の岡崎久彦氏(元タイ大使)が顧問を務められる「松下政経塾」出身である事に危惧を抱いています。

「松下政経塾」のホームページを訪ねますと、(古川氏は、塾の卒業生ではないようですが、)国会議員にはこの塾の卒業生が、民主党議員として20名(自民党議員は8名)も占めています。)

 

 ここで、先の田原氏の発言に戻りますが、9.11だって、その真相は未だわかっていないではありませんか?

本当にテロが米国に多大な犠牲を負わせようと企んだのなら、何故、2機の飛行機は貿易センタービルに突っ込んだのですか?

(もう1機は国防省に)

拙文《911の同時多発テロを今思うと》にも書きましたが、貿易センタービルが2棟とも完全に崩壊するとは世界中の誰もが予測出来なかった筈です。

(誰もが、飛行機が飛び込んだ階(或いはそれ近くの階も含めて)での災難と判断したのではないでしょうか?)

勿論、テロ犯達も。

 

テロ犯が大量殺人を目論んだとしたら、何故、原子力発電所に突っ込まなかったのですか?

9・11事件には、何か裏があるように思えないでしょうか?)

それに、テロは民主主義の敵とだとしても、戦争は民主主義の敵ではないのですか?

 

 村田氏は、次の暴論を述べていました。

 戦争は20世紀になって起こったのではなく、一定な集団を構成した時に武力を持たない可能性がどのくらいある。これは人間性の理解に関わる問題。

 

 それなら、村田氏は、次の毎日新聞(2003年11月25日付け)の記事をどう思うのでしょうか?

 

米カンザス州にある人口210人の町ギューダスプリングスで、全世帯に銃と弾薬の所持を義務付ける条例が可決された。米憲法修正2条の「銃所持の権利」を根拠に、住民の自衛策として町議会が3対2の多数決で導入したものだが、町当局は「治安対策には逆効果」として撤回を求めている。

 地元紙ウィチタ・イーグルによると、この種の条例は21年前にジョージア州ケネソーで可決されたことがあるが、カンザス州では初めて。身体障害者や生活保護世帯は除外されるが、従わない場合には10ドルの罰金を科せられる。

 条例はまだ発効していないが、町を管轄するサムナー郡の保安官事務所は「各世帯が銃で武装すれば、職員の安全が守れなくなる」と重大な懸念を表明。条例の撤回を求める町当局の意向で、町議会は来月1日に再度会合を開くことを決めた。しかし、銃所持を主張する議員らは強硬で、町を二分した論争に発展しそうだ。

 米中央部にあるカンザス州は保守的な白人が多数を占め、銃規制への反発が強い

 

 この様に米国一般市民は「一定な集団を構成した時」以外でも、全員ででも武力を持とうとします。

だからといって、米国人全てが武器を持つ事に賛成しているわけではありません。

日本一般市民は、誰も武器を持ちません。

 

更に、田原氏は、次のようにも述べました。

 

 ベトナムがアメリカを追い出せたのは、ベトナムに軍隊があったから。ベトナムが非武装でアメリカを受け入れたら、アメリカになった。(軍隊があったから)だから戦うのですよ。ベトナムの連中は今の自爆テロのようなことをどんどんやって人を殺している。

 

しかし、逆にベトナムに軍隊が無かったら、アメリカは攻め込みますか?

軍隊の無い国へ軍事大国アメリカが攻め込むのですか!?余りに卑怯ではありませんか!?

そして、今回のイラク侵略も余りに卑怯ではありませんか!?

大量破壊兵器の破棄を名目にイラク軍を丸裸状態にしてから、侵略するとは大国の横暴そのものではありませんか!?

 

 このイラクの件に関しては先の拙文お粗末な財界トップ高坂節三氏》にて引用させて頂いた、木村三浩氏(新右翼団体「一水会」代表)の論評“イラク侵略戦争に見るアメリカの真の狙い”(雑誌《NIPPON 2003.6》)に深く感動しています。

その一部を又、ここに転記致します。

 

……イラクは昨年11月から査察を受け入れ、抜き打ち調査は勿論のこと、ヘリコプターやU2偵察機を使った査察にまで応じている3月1日からはミサイルの廃棄作業も進めていた。

 それなのに、なぜイラクは攻撃されなければならなかったのか。

いずれにせよ攻撃を受けるのなら、武装解除を促す「査察」など、受け入れないほうがマシだったのだ。「査察」を通じて機密情報を洗いざらい開示させ、ミサイルを廃棄させ、挙げ句の果てに攻撃とは、これはあまりに卑劣な「騙し討ち」に近いではないか。アメリカは、査察を受け入れたイラクの誠意を踏みにじったのである。

 

この様なアメリカの尻馬に(「国益」「国益」と唱えながら)乗っている日本人は恥ずかしくないのですか?!

 

こんな恥ずかしい世界がいつまでも続くのでしょうか?

 

改憲論者の多くは、次のような論を張っています。

 

自衛隊を国連多国籍軍(国連軍)として派遣して「国際貢献」が出来るように、改憲すべき!

又、集団的自衛権を発揮して、自衛隊派遣に認めるべき!

 

しかし、日本共産党・参議院議員の小泉 親司氏は次のように訴えていました。

 

……集団的自衛権がどのように行使されてきたかを調べた事がある。これまで100回紛争があった。集団的自衛権との国連憲章51条を活用してやったのは8回しかない。そのうち一つは、アメリカのベトナム戦争、それから旧ソ連のアフガン、イギリスのイエメン介入、こういう一連の8つしかない。そして、それが全部大国の侵略戦争。ここが一番大きな問題で、侵略戦争を反対するということを明確にするという改正論もあるけれど、こっちの集団的自衛権容認論というのは、明確に大国と一緒になって侵略戦争をやるというこれはね解釈改憲ではダメなんです。

 

 国連軍、多国籍軍の派遣云々の前に、大国のエゴを放逐する事が重要ではありませんか!?

少なくも、日本が大国のエゴ(今回の米国によるイラク侵略など)の片棒を担ぐ事は、断じて許される事ではないはずです。

 

 戦争で、紛争が解決しますか!?

 

 ジャーナリストのばばこういち氏は次のように語っていました。

 

白か黒かで考えない方法だって知恵としてある気がする。
例えば、こういう状況になったから改憲をして自衛隊を認める。
或いは、自衛隊は憲法違反だからなくすという論争ではなくて、もう一つの選択肢があると思う。
つまり、国際貢献という事から考えれば、それから自衛隊というものをそのまま存続させて行く前提に立てば、自衛隊の中身を変える。基本的に行って戦争の問題だけでなく、世界を取り巻く危険はものすごくある。
公害の問題を初め、空気水が汚染され、医療で健康が害される、いろんな災害が起こる、そういう時のノーハウを世界一持っている組織に変えちゃう
そうすれば派兵でなく派遣と言うことでドンドン世界に行く組織に自衛隊はなりうる。
国際貢献隊みたいな形で

 

山本 一太(自民党・参議院議員)氏:PKOは入るんですか?

ばば氏:やっていることは似ているが絶対に人は殺さない。

田原氏:何故殺してはいけない?

ばば氏:僕は殺したくない。

田原氏:他のあらゆる国が軍隊を持っている。取り敢えず先進国は持っている何故日本は持って行けない?

ばば氏:ぼくは、殺せと云う教育を受けてきて、それが終わった時に、ああもう絶対に人を殺したくないと思った。

田原氏:悪いけどそれはばばさんにしか通用しないと思うよ。それを一般的に言えるかな

(ばば氏:涙ぐむ)

 

 私は、田原氏の見解と異なり、ばば氏に賛同します。

 

そして、このばば氏、小森氏に近い見解、提案を、カタログハウス社長の斎藤駿氏は、雑誌『世界(2003.12)“攻められたら、こうする。イラク派兵と憲法九条”』に於いて、次のように記述しています。

 

戦争やテロはある日突然やってくるものではないのだから、これまでの年間軍事予算四兆九〇〇〇円とODA予算一兆一〇〇〇億円の合計六兆円〔平成十五年度〕を国際平和貫献予算にして、「どこの国から.も攻められない国」をつくっていくのが」もっとも有効な国防政策だ。

九条とは?予防による国防の思想なのだ。軍隊を持っても国の安全は図れないから、九条が有効なのだ。

 「ニッポンって」どんな国?」

 「国をあげて、貧困や戦争や病気や災害で苦しんでいる各国の人たちをせっせと助けている東洋の国だよ」

こんな〃国のイメージ〃が世界中に定着すれば、侵略もテロも心配しないですむのだ。
それじゃ、自衛隊はどうするの。

「現行の日米安保体制を段階的に解消すると同時に、軍隊としての自衛隊を国境警備隊・国際緊急援助隊などに改組する」(市民グループ『盟約5』の盟約その1

ある日突然の強盗集団に備える組繊と、予防的国防として機能する平和貢献組織の二つに変えていく。

ということで、私の最終回答はこうなる。

攻められたら、どうするかって?どうもしない

 

 更に、先に引用させて頂いた、雑誌『週間金曜日(2003.4.25』にての憲法座談会「戦争と平和」での佐高信氏の発言を引用させて頂きます。

 

 通産次官をやった佐橋滋さんが樋口さんの言う、攻められたら平和国家のモデルとして滅亡していいじゃないかという論文を書いて、財界人から総スカンを食った。

 

 私は、佐橋氏に敬意を抱き続けています。

私は、大賛成です。

しかし、私は、今一気に、「佐橋滋氏説」まで行かずとも、上述の「ばば氏案」、「斎藤駿氏案」と一歩一歩歩みを進めても良いと思っています。又、「斎藤駿氏案」は「佐橋滋氏説」をより現実的にする方策であるとも存じます。

 

 この様に書くと、田原氏は、小森氏に散々「自衛隊は違憲か?」と詰問していた調子で、次の質問が飛んでくるでしょう。

 

 「ばば氏案」、「斎藤駿氏案」は、現行の憲法に対して違反しているのではないか?

違反しているのなら改憲すべきではないか!

 

 しかし、憲法を変えた処で、小泉首相のような人物に掛かっては「憲法の文字面」なんていくらでも曲解されてしまいます。

 

慶応大学教授の小林 節氏は、次のように発言していました。

 

今のままではいくらでも政策的に誤用出来る。私なら間違っても二度と侵略は致しません、露骨に書いてしまう。しかし、独立国家として必要なら自衛は致しますよ。この条件の下に私は国防軍を持ちます。更に国際社会への責任として、国防軍を国連の正式な手続きのくだす場合もあります。良心的兵役拒否も認めます、と、矛盾曖昧さをなくす

 

しかし、如何に具体的に憲法を書こうと、小泉書証と同じような人物が次々出てくるでしょう。

ですから、次の小森氏の発言は傾聴に値すると思います。

 

どのように九条を変えるかを議論しているが、これだけ解釈改憲をやってきて、その事に対して、政権党も野党も一切責任を取っていない
歴史的な総括もしていない、その中で条文をどう変えるかと言ってるのだから、今度憲法をどんなものを造ったって国民が憲法を守るという最大のポイント自体を政治家自身が崩していて、それが憲法論議だと言っているのは私は不届きだと思います

大事なことは、憲法98条や99条で総理大臣は憲法を守らなくてはいけないと云われている人が、国会であからさまに憲法を踏みにじっているにも拘わらず、国会もそれに制御をかけられない。

日本はある意味では、超法規的な権力によって牛耳られている状態になっている

 

宮崎氏:小森さんに同感なのは、憲法を変えても解釈改憲していれば同じ事。

憲法解釈が違憲か否かを決めるのは、小林さん裁判所でしょ?

小林氏:いや国民です。

古川氏:ドイツには憲法裁判所があるでしょう。

田原氏:(古川氏を遮る)

 

 NHKテレビの語学講座(?)で、米国人(?)が次のように語っていました。

 

英語には“切ない”と言う気持ちを表現する適切な言葉がない!

 

東京大学教授の姜 中氏は、次のように語っていました。

 

自衛隊は、英語で「the Self-Defense Forces」でしょ?

そして、Force は軍隊ではないですか!

 

 言葉(文言)で全てが表記出来るというのは妄想ではありませんか?

この点では、ばば氏の次なる発言を傾聴すべきと存じます。

 

私は敗戦の時中学生だった、815日まで軍事教練をやっていた。軍国少年だったけど。
その時に何と教えられたかというと“とにかく、アメリカ兵が上陸したら一人一殺で殺せ、つまり今日米同盟になっている相手を、
1万人の中学生が殺せば1万人殺せるという教育をされ、軍事教練をやっていた。

それで実際には東京では210日の空襲で逃げまどった。焼夷弾の雨の中。
こういう中、
815日の天皇のお言葉を聞いて、敗戦になって青空が見えた気持ちを今でも鮮烈に覚えている。その原点をどうしても忘れることは出来ない。

憲法の前文だって皆さん方が色々討論をして、人間が造ったものだから人間が変える事は出来ると思います。
 解釈問題が出ていたが、憲法は何の為にあるかというと、統治権者をどのように制御するかにある。

しかし、制御出来なかった、それは同時に国民であり政治家なんだよ。
前文の中でもし変えるのであるなら、絶対に解釈を広げられないものに変えるべきだ。

私は、戦後、法律がどうのと云うことより、71歳になるまで平和と人権とを大事にし、自分が殺されても人を殺さない、外国行って人を殺さないと云う決意で生きてきた。この気持ちを議論する時の前提にして欲しい

 

高木 陽介氏(公明党・衆議院議員):人を殺さないというの部分

小森氏:それ情の部分なんですか?その国民が国家の為に、人を殺さないと明記しているのがこの国の憲法なんです。ところがあなた高木さんは、人を殺す憲法に変えると言うことですよ。

 

 小森氏はチョッカイを出していますが、私は高木氏の補足的発言の「人を殺さないというの部分」が一番大切なのだと思います。

ばば氏が妥協して憲法の文言をいくら変えた処で、「人を殺さないというの部分」が欠落した人物が政権を取れば、大義なき戦争だってナンダってしでかします。

 

 現に、拙文《ブッシュ氏とその政権の危険性(1)》から転記致します。

 

 ……ブッシュ氏は、他人の命には無頓着な方のようなのです。

と申しますのは、ブッシュ氏はテキサス州の州知事時代には、135人も死刑を執行しています(12月21日放映のテレビ朝日「サンデープロジェクト」)。

 

何故このように、多くの人達に死刑を執行したかに関しては、マイケル・ムーア監督のDVD作品『アホでマヌケなアメリカ白人』の中で、ブッシュ氏のテキサス州に於いては、「公設弁護人制度も、まともな控訴手続きもない」と紹介していますし、更に、ブッシュ氏の“私は、えん罪など無いと信じています。死刑になった者は全員有罪の筈です。”との発言が画面から飛び出してくるのには、腰を抜かすほど驚きました。

 

無実の人を何人殺そうが、一人の悪人を死刑に追いやれば、社会の平和が保てるとの信条なのでしょうから。

 

 こんなブッシュ氏ですから、大義なき戦争で、イラク市民を1万人以上(?)殺して、イラク国土を破壊した後に、“フセインがいなくなってイラクは良くなった。”と平然と宣うのです。

 

 何の罪もなく亡くなった市民の方々は、本当に「死人に口なし」ですから、ブッシュ氏の蛮行に一言も抗議が出来ません。

 

 イラクで、ブッシュ氏親子の為に命を失った方々以上に、先の米国等との大戦で、日本の大勢の方々が尊い命を奪われておられます。

この方々(又、生きておられればこの世に生を受けていたであろう御子孫)だって、私達同様に「経済的繁栄と平和」を享受する権利を有していたはずです。

 

 なのに、生き残った私達だけが、「国益」「国益」の旗を振りながら、「人間の命の尊厳を無視する」ブッシュ氏の率いる米国に隷属して、(他国に如何なる災いをもたらそうと)いわゆる安易な「経済的繁栄と平和」を、貪る事が許されるのですか?

 

 最近の日本のこの様な動向に危惧を抱き日本遺族会会長である前自民党幹事長の古賀誠氏は、自衛隊イラク派遣承認案件の衆院本会議採決(21日)の際に、棄権されたのではないでしょうか?

 

 (そして、元自民党幹事長加藤紘一氏も棄権されました。

だったら、戦争の悲惨さを子供達に伝えて残して行くとの決意をされ、議員を引退された野中広務氏は、「加藤の乱」の際、加藤降ろしを画策せずに、加藤氏を首相の座につけるように策動すれば良かったのにと思います。)

 

 この様に国連も憲法も蔑ろにして他国の方々の命を奪って行くブッシュ氏や小泉氏の動きを束縛する事が期待されるのは、「国際刑事裁判所(下記の2003年7月2日付け朝日参照)」であるべきなのです。

 ところが、ブッシュ氏はクリントン政権時代の署名を、2002年5月に撤回してしまっているのです。

 そして、日本は調印していますが、批准は未だ行っておりません。

2003930日現在で、国際刑事裁判所設立条約批准国92カ国、署名国:138カ国)

 

 集団虐殺や人道に対する罪を裁くためオランダ・ハーグに創設された国際刑事裁判所(ICC)が設立条約の発効から1日で満1年を迎え、活動態勢を整えた。カナダ人のフィリップ・キルシュ所長は「公正で信頼される裁判所を築くことで責任を果たしたい」との声明を発表した。

 

 尚、この国際刑事裁判所の件については、長くなりますので別文《国際刑事裁判所に背を向ける日米》に記述したいと存じます。

 

 それに又、国際刑事裁判所の力を借りる前に、私達日本人はもっと「」の部分を大事にすべきではないでしょうか!?

 

 しかし、」と言うと、岡崎氏は、次のような変な情を振りかざします。

 

 世界中何処の国でも、ひとたび兵隊を外国へ派遣したらその出兵の是非は問わず、全国民が派遣された兵隊を支援するのが常識である。

 

 でもこんな情を振りかざしたら、誤って起した戦争をどうやって止めるのですか!?

 

 ベトナム戦争から米国が、撤退したのは米国国内での反戦運動の成果ではないのですか!?

更に、岡崎氏は、次のようにも言っていたと記憶しているのですが?

 

 米国が、イラクから撤退するか否かは、米国の世論次第

でも、今は、米国世論は、完全にイラク派兵を支持している。

 

 では、米国の世論だけは、外国に派兵中でも、その支持を止めても良いという論理なのですか?

岡崎氏の論は滅茶苦茶です。

 

 こんな岡崎氏の滅茶苦茶な」は論外として、ばば氏の語る「自分が殺されても人を殺さない」という「」を大事にすべきではないでしょうか!?

 

 ばば氏は、改憲も止むなしの姿勢であるようですが、私は反対です。

小森氏の発言の通り、いくら改憲しても、結局は小泉氏のように憲法の文面を曲解してやりたい放題やる事になるだけです。

 

 今の日本の政治では、公明党がキャスティング・ボートを握っている筈です。

なのに何故公明党は、イラクへの自衛隊派遣に賛成したのですか?

何故、改憲を打ち出すようになってきたのですか?

 

 公明党の支持母体は、創価学会ではないのですか?

創価学会は「法華経」を信奉されているのではありませんか?

 

 「法華経」の中には「仮城」なる優れた喩えがあるではありませんか!?

 

 仮城(日本国語大辞典:小学館)

法華経に説く七喩の一つ

大乗の究極の悟りを宝所にたとえて、そこに達する途中の遠くけわしい道で、人々が脱落しないよう一行の導師が城郭を仮作して人々を休ませ、疲労の去った後、更に目的の宝所に導いたというたとえ

大乗の涅槃に達する前段階としての小乗の方便の涅槃をいう。

 

 私達の「目的の宝所」は、武器軍隊の放棄です。

でも、私達には、今すぐその目的までには一気に行き着けなくてモガイテいます。

この様な私達にとっては、「自衛隊」と云うのが、この「仮城」の一つではありませんか?!

 

(この「仮城」の件については拙文《自衛隊と軍隊 どっちが分かり易い?》をも御参照下さい。)

 

 更には、神崎武法代表が、自衛隊派遣先保イラク南部サマワを数時間査察した結果で、「自衛隊のイラク派遣」に、何故賛成してしまうのですか?!

 

 神崎氏は、イラクのサマワに数時間滞在しただけでなく

米国そして、世界各国を行脚して廻るべきではないでしょうか?

そして先に引用させて頂いた寺島氏のように「日本は血も金も出さないのか」という論理に対し、日本の「平和憲法の精神」を説いて廻るべきではないでしょうか?!

恰も、「常不軽菩薩のように、“私達日本は、軍備は持ちません。そして、あなた方の国も、又、世界のどの国も平和になります(武器、軍備を持たないようになります)。”と世界中を説いて廻るべきではありませんか!?

 

 その結果、世界が“日本は卑怯者の国だ”と非難して来ようと、繰り返し繰り返し、“私達日本は、軍備は持ちません。そして、あなた方世界も平和になります。”と世界中を説いて廻り、世界に「平和憲法の精神」を説き続けるべきではありませんか!?

 

 勿論、神崎氏のみならず、私達日本人全員が

 

 

 法華経:常不軽菩薩品 第二十

 

この菩薩は僧であれ、一般の人であれ、いかなる人に向っても、ていねいに礼拝し、常々

「私はあなたたちを尊敬します。決して軽んじはしません。なぜなら、あなたたちはやがて菩薩の道を行じて、必ず仏になるからです。」と言うだけなのです。

 

そして「あなたを軽んじません。あなたは仏になるのですから」と言うばかりなので、大勢の中には心が不浄なる者がおり、腹を立て、

 「いったいこの僧はどこから来たんだ、われらが仏になるなんて、大きなお世話だ、そんないいかげんな保証など信ずるもか。」

 とののしります。

 

 更には、人々は腹を立てて杖で打ったり、石や瓦を投げつけたりするのです。すると菩薩は遠くに走って逃げ、更に大声で「私はあなた方を軽んずることはしません。必ず仏となる方達ですから」と唱えるのです。

 いつも変らない「あなた方を軽んじません」と同じ事をいいつづけますので、人々は「常不軽」というあだ名をつけたのです。

 

 常不軽菩薩が年老いて、臨終の時、威音王如来がお説きになった「法華経」を澄んだ心の中に、信受されたのです。その功徳によって眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清浄になり、寿命を延ばすこと二百万億那由陀歳となり、広く人々に法華経を説いたのです。

 このとき、常不軽とあだ名を付けて軽蔑した人々も法華経を聞いて信伏し、常不軽菩薩に従うようになったのです。

……

 この常不軽菩薩こそ実は私(釈尊)の前身である、と説かれます。

 

(以上は、次のホームページのお話を引用させて頂きました。)

http://www.hokkeshu.com/yasasii_kyogaku/013.htm)

 

 

 

 

 

 

 

 (注:1)「保育器の報道」など

 

 一九九〇年十月十日、人権に関する議会コーカスにおいて「ナイラ」とのみ紹介された十五才の少女は、イラク兵士が嬰児を保育器から取り出して、「冷たい床の上に置き去りにして死なせる」のを目撃したと主張した。この話は、戦争に向けて突き進むブッシュ政権によってすぐさま利用された。ブッシュはこの話をいくつものスピーチで繰り返し引用し、このようにして三百十二人の赤ん坊が死んだと訴えた。

(ラムぜー・クラーク氏(1961〜68:米国法務省次官、長官)の著した『湾岸戦争』(地湧社発行)からの引用)

 

 しかし、この件は、自由クウェート市民との団体が、アメリカの大手広告代理店「ヒルトン&ノートン」に依頼して、「駐米クウェート大使の娘」をその素性を隠し「ナイラ」とのみ名乗らせて作成した「宣伝工作」であったとテレビで報じていました。

 

 更に、ラムぜー・クラーク氏は、著作の中で、イラクのクウェート侵攻はアメリカによって仕掛けられた罠であった事を示してくれます。

 

その罠は、イラン・イラク戦争で疲弊し復興を図るイラクに対して、(アメリカの差し金で)クウェートは石油の過剰な増産を企て国際的な石油価格の暴落を図り、イラクの石油からの利益を削減させた上、イラク油田の盗掘等を行いイラクを徹底的に痛みつけ、イラクがクウェートに善処を請うと、イラク、クウェート、サウジアラビア、UAEによる四ヵ国の石油相会議の席上では、クウェートのサバハ外相は“(イラクに)対応するつもりはない。(中略)気に入らないことがあるなら、イラクはクウェートの領土を勝手に占領すればいい。(中略)我々は米国を引き入れる”

との発言もしています。


との発言もしています。

 

更に、

 

「ニューヨーク・タイムズ」は、首長国のクウェートを「国家というより国旗を掲げた一族経営の石油会社に近い」と評している。クウェートは、石油の豊富なイラクに影響力を行使するため、英国植民地省が第一次世界大戦後に勝手にこしらえた国家である。

一九一八年、英国の戦時占領に対しイラクでは民族主義的抵抗の嵐が吹き荒れた。英国は、史上初の組織的な空爆を行い、反乱を鎮圧した。一九三二年、おさまらない反乱に手を焼いた英国はイラクに名目的な独立を与えた。この結果、英国指名の君主が王座におさまり イラクの油田は、英国、米国、フランスの企業コンソーシアム、イラク石油会社に永続的に帰属するとされた。一方、英海軍の基地があり、王族が英国によって選ばれたクウェートは、石油資源に対する西側の所有権がイラクにより脅かされることがないよう英国の保護領のままとされた。

……

 イラクの一部として残りたいと望んだクウェート人は英国軍により弾圧された。英国の外交官、アンソニー・パーソンズ卿は後日、次のように認めている。

 「イラク人の心の底には、バスラ地方の一部であったクウェートが残忍な英国によって取り上げられたという思いがある。我々は共同の戦略的利益をかなりうまく守ったが、その過程で、そこに住む人々に配慮することがほとんどなかった。人々が不当に扱われてい

ると感じる状況をつくってしまったのだ」。

 

(是非とも、ラムぜー・クラーク氏『湾岸戦争』(地湧社発行)を御一読下さい。

拙文《暴君はフセインですか?アメリカではありませんか!》では、かなりの部分引用させて頂いております。)

 

 更には、拙文《戦争とマスコミ》にも引用させて頂きましたが、中日新聞(1990年9月14日付け)には次のような「イラクとクウェートの国境紛争のようなアラブ国家間の問題にはわれわれは介入しない」と駐イラク米大使が騙したような記事があります。

 

イラク軍のクウェート侵攻の直前、フセイン・イラク大統領と会談した駐イラク米大使(女性)が、クウェートに対する軍事行動を示唆する大統領に、反論しないばかりか、黙認するかのような態度をとっていたことが13日、明るみに出た。ホワイトハウスは直ちに「米政府が侵攻を認めるような態度をとったことはない」と否定したが、会談の内容については認めている。
会談の記録全文を入手したとするワシントンポスト紙が13日付で報じたもので、それによると、フセイン大統領がエイブリル・グラスピー米大使とバグダッドの大統領官邸で会談したのは7月25日。……

グラスピー大使は「イラクが戦後再建のため資金を必要としているのは分かっている。イラクとクウェートの国境紛争のようなアラブ国家間の問題にはわれわれは介入しないと述べ、さらに「米大統領はイラクとの友好増進を望んでいる。彼は知的な人間で(議会が進めようとする)対イラク経済制裁には反対だ」と答えた。……




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