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自衛隊と軍隊 どっちが分かり易い?

2003112

宇佐美

 

 小泉首相は、本年520日の参院有事法制特別委で、自衛隊について次の如く答弁した旨、朝日新聞記載されていました。

 

私は、自衛隊が我が国の平和と独立を守る軍隊であることが正々堂々と言えるように将来、憲法改正が望ましいという気持ちをもっているが、いまだにその機運には至っていない。

外国の侵略に対して戦う集団となれば、外国からみれば軍隊と見られても当然でしょう。日本では憲法上の規定がある。自衛隊を軍隊とは呼んでいない。そこが不自然だから、憲法を見直そうじやないかという議論がいま出ている。

私は実質的に自衛隊は軍隊であろうと。しかしそれを言ってはならないということは不自然だと思う。いずれ憲法でも自衛隊を軍隊と認めて、違憲だ合憲だという不毛な議論をすることなしに、日本の国を守る、日本の独立を守る戦闘組織に対して、しかるべき名誉と地位を与える時期が来ると確信している。

 

 この発言からして、やっぱり小泉首相は、我が国の首相と言うより、「アメリカのポチ」の念が強くなります。

外国が「自衛隊」を「軍隊」と見ようが、我が国にとっては、「軍隊」ではなくて「自衛隊」なのです。

そして、自衛隊を軍隊と定義つけなくても、自衛隊はしかるべき名誉と地位を得ているのです。

 

 更に、先日、ラジオから、次のような小泉発言が飛び込んできました。

 

 今のままでは、「自衛隊」は、「軍隊」だかなんだか判らない。

小中学生にも判るように、もっとはっきりとすべきである。

 

 このような発言(或いは、先の国会答弁)に対しては、多くの方々は「小泉首相のおっしゃるのも尤もだ」と思ってしまうかもしれません。

でも、待って下さい。

「軍隊」は、小中学生にとって、判りやすい存在ですか?!

 

 「軍隊」とはなにか?

私にはよく判りません。

そこで、『広辞苑』をひいてみました。

軍隊:一定の組織で編成されている、軍人の集団

「軍人」とは何でしょう?

軍人:いくさびと。軍士。兵士。……

では、「いくさびと」とは?

いくさびと【軍人】:いくさをする人。武人。将兵……

では、「いくさ」とは?

いくさ:軍隊と軍隊が戦うこと。戦い。戦争。……

では、「戦争」とは?

戦争:@たたかい。いくさ。合戦。A武力による国家間の闘争

武力による国家間の闘争」が「戦争」だとしたら、その武力とは何ですか?

武力:武勇の力。軍隊の力。兵力。

 

 これでは堂々巡りではありませんか!?

土台「軍隊」だの「戦争」だのは、不条理そのものなので、「広辞苑」の編纂者も、これらの定義付けが出来なかったのだと思います。

 

 若し、小中学生が「自衛隊」よりも「軍隊」の方が理解し易いと言ったら、それは彼等の「軍隊」への理解は、テレビや映画からの情報によるものでしょう。

でも、直ぐに小中学生から質問が飛んでくるでしょう。

 

 何故「軍隊」だと人殺しが許されるのですか?

何故、他国の人と仲良くしないで、殺し合いをしなければならないのですか?

何故、「戦争」だと言えば「他国の多くの人命を爆弾投下などで奪って良いのですか?
(しかも、確たる証拠も、裁判もなくて)」

 

 小泉首相よ!これらの質問には、どのように答えられるのですか?

 

 小泉首相は、特攻隊に感激の声をあげたというそうですが、『桜花』をご存じでしょうか?

『指揮官達の特攻』(城山三郎著:新潮社発行)によりますと、操縦桿と小さなガラス窓付で、その搭乗員がミサイルのコンピュータ並び自動操縦装置の代替をする、尾びれのようなもののついた大きな砲弾(1.2d爆弾)そのものであるそうです。
これが母機(飛行機)に金具で吊されて出撃し、母機から発進する際は、その金具を炸裂させ真っ逆さまにして落ちるようにして、猛スピードで的に体当たりする「人間爆弾」或いは「人間棺桶」と言われた兵器です。


 その上、城山氏は次のようにも記述しています。

 

……すでに人間爆弾「桜花」(一一型)は出撃していたが、さらに、これを一式陸攻以上に高速の「銀河」に搭載するため改良された「桜花」(二二型)や、さらに丘などの高地からカタパルトで射ち出す「桜花」(四三乙型)もつくられていた。

また、特攻目的で大型爆弾を搭載するジェット攻撃機「橘花」もつくられていたし、桜花」に似るが、木製で松根油を燃料とする「梅花」も試作に入っていた。

 そして、それ以上に量産され、大量の要員即ち人命を必要としていたのが、水上・水中特攻兵器である。

 人間魚雷「回天」に加えて、モーター・ボートに爆装した「震洋」もすでに出撃して居り、特殊潜航艇の流れを汲み、さらに大型化した乗員五人の「蛟寵」もまた、この四月ごろから量産に入っていた。

 また、頭部に六〇〇キロ爆弾を詰め、水中翼を持つ二人乗り潜水艦「海龍」もまた、四月ごろから量産体制に入っていた。

 まさに特攻兵器のオンパレード

 そして、これらはまだ兵器らしかったが、さらに多量の特攻隊員を必要としたのは、伏龍である

 

(注:カタパルトを広辞苑で引きますと「軍艦の甲板のような狭い所から火薬・高圧蒸気などの力などで力で飛行機を射出する装置。射出機」とありました。)

 

 そして、伏龍については、城山氏は次のように書かれています。

 

……一万五千を超す少年兵が再多数振り向けられそうになったのは、「伏龍」部隊である。

 隣りの分隊が「油壷送り」と知って、私たちに言葉を失わせたその油壷を中心に展開している特攻隊で、機雷を棒の先につけて持ち、潜水服を着て、海底に縦横五〇メートル間隔で配置される

 敵艦船が来たら、その棒を敵艦の艦底に突き上げて、爆発させる

 もちろん、当人も、周辺に配置された隊員たちの命も、一挙に吹っとぶ

 かつての村上水軍にそれに似た戦法があったというが、実戦の記録は無く、それを三、四百年後、少年たちを使って実行しょうというわけで、「桜花」以来の人間爆弾、人間魚雷などの最終篇である

 少年兵の命など花びらよりも紙きれよりも安しとする日本海軍ならではの発想である。

 そういえば私たちは、「きさまらの、代わりは一銭五厘(当時の葉書の値段)で、いくらでも来る」

 と、幾度聞かされたであろうか。

 

 この悲惨さは「テロ」とどのように違うのだと、小泉首相は、小中学生に教えるのですか?

小泉首相は、“日本軍は、敵の軍隊に攻撃しただけで、民間人へは攻撃しなかった”とでも言うのですか?

では、アメリカ本土へと飛ばした風船爆弾は、どうなのですか?

無差別攻撃ではありませんか!

若し日本軍が原爆をより早く開発していたら、その風船爆弾に原爆を登載したかもしれない!?

 

 そして、アメリカがもっと近く、朝鮮半島位の距離位、或いは陸続きだったら、『桜花』等の特攻兵器で、アメリカ市民に対して無差別に攻撃を仕掛けていたかもしれないではありませんか?!

 

 更には、本土最終防衛組織とかの名目で、もんぺ割烹着姿で竹槍の訓練をさせられていた母親達は「竹花」特攻隊とかの名前を付けられて、(陸続きの)アメリカ市民へ攻撃を掛け、相手国の乳飲み子を胸に抱いた母親を、子供もろともに竹槍で刺し殺していたかもしれません。

 

 こんなのも「軍隊」であり「戦争」であると、小泉首相は小中学生に教えるべきではありませんか!?

 
 そして、「いざとなったらあなた方、小中学生は、葉書一枚の価値となってしますのです」とも教えるべきではありませんか?!

 それでも、小中学生は「自衛隊」はやっぱり「軍隊」となるべきだと答えるでしょうか?

 

 (最近、何故か評論家の田原総一朗氏は“私は、子供の頃は愛国少年であって、大きくなったら軍人になろうと思っていた”と、度々テレビを通して発言されていますが、憧れの海軍で、このような「桜花」「橘花」「梅花」「回天」「震洋」「蛟寵」それに「伏龍」などの任務に就くと判っていても、軍人になろうと思ったでしょうか?)

 

 

 迷彩服に身を包み、近代兵器を操るだけが軍隊ではなく。

それに、「北朝鮮がミサイルを撃ち込んできたら、日本はこのようなミサイル防衛システムを稼働させ、相手のミサイルを完全に打ち落とすのだ!」とか言っているだけが、戦争ではない筈です。

 

 戦争なんかすると、制裁の為に、世界中の国から経済封鎖されるかもしれません。

北朝鮮も日本も、お互い、自国の資源が乏しい為、最終的には、竹槍持ってのゲリラ戦になるかもしれません。

 

 そして、男は最初の段階で倒れて、最後には、お母さん方が竹槍持って、戦うのです。

そして相手国の乳飲み子も突き殺すのです。

こんな馬鹿げて悲惨で惨めな行為が戦争ではありませんか!?

 

 この戦争の馬鹿らしさ、くだらなさを、ジョン・レノンは、「戦争になったら兵隊全員ズボンをおろして戦ってみなよ。どんなにくだらないことかわかるだろう」と表現しています。

(週刊文春(2003.10.2)説教名人:齋藤孝:参照)

 

 私達は、日頃「軍隊」や、「戦争」を余りに他人事に、又、映画、テレビ、ドラマ、更には、テレビゲーム感覚で、(格好良く)捉えすぎていると思います。

 

 新聞記事などには、一般的な記事の中で、戦争用語が無造作に使われすぎていると思います。

特に酷いのは、スポーツ記事です。

 その用語の例を思い付く儘に挙げますと、次のようです。

先兵、切り込み隊長、核弾頭、機関銃打線、ミサイル打線、バズーカ砲、大砲、等々。

 

 何故この様な用語を使うのですか!?

私には理解に苦しみます。

こんな用語を突破口として、「軍隊」「戦争」を気安く感じてはいけないのだと思います。

 

 「軍隊」「戦争」などは、一言で表現出来る代物ではないのだと思います。

実に理解に苦しむ存在なのだと思います。

ですから、本来なら辞書から抹殺すべきものなのだとも思います。

 

 そして、「軍隊」の方が「自衛隊」よりずっと意味不明な存在なのです。

 

 それでも、「自衛隊」は、理解に苦しむ存在です。

そこを、今回小泉首相に国会議員からの引退を余儀なくさせられた宮沢喜一氏の含蓄溢れる「護憲への思い」として、朝日新聞(2003.10.28「戦争と憲法を見続けた2人」)では、早野徹氏は次のように記述してくれています。

 

……

 その宮沢氏の引退会見での憲法についての話は含蓄を感じた。「憲法はいじれないものだということではない、異論があれば改正するんだということは大体まあみんなが納得している話だ」と前置きして、こう述べた。

 「あちこち不都合なところはあるかもしれないが、全体として屋台骨を崩すようなことが果たして現実的なのかという思いはしますねえ。ですから、抽象的な課題として考えると、悪いところは直したらいいという答えはでるんですけれど、さてどこをどう直すのかというような話はとてもとても難しい話になるだろうと。私は簡単な話だとは思いませんねえ」

 「静かなる護憲」というべきか、保守の知恵というべきか、宮沢氏には憲法改正はさほど力むべきものでもないし近々の具体的課題とも映っていないらしい。

 敗戦の8月15日、大蔵省の事務官として戦争保険の支払いの仕事をしていた宮沢氏はラジオで終戦の詔勅を聴きながら、まず思ったのは「今晩から電灯がつくんだなあ」ということだった。こんどの引退会見で、ハト派の代表としてこうも語った。

 「外国において武力行使してはいけないということが基本の原則ですね。そのことが第2次世界大戦がわれわれに残した教訓であったと思うんですね」

 アフガニスタン戦争、イラク戦争と日本の参加が求められる今日、よくよくかみしめたい一線である。 ……

 

 この宮沢氏の外国において武力行使してはいけないということが基本の原則ですね」の原則を守った自衛隊なら、小中学生にとっては、「自衛隊」の方が「軍隊」よりもずっと判りやすい存在になるのではありませんか?!
なにしろ「自衛隊」は、他国が攻めてきたら止むを得ず他国民を殺害してしまうかもしれませんが、「軍隊」のように、わざわざ他国へ出掛けていって、他国民を殺害することはないのですか。

 残念ながら、今の日本人には「平和憲法(第九条)」の完全実施は重荷で、宮沢氏のお話のように、色々の遣り繰りが必要となっているのが現状なのかもしれません。


 従って、「憲法九条」の完全実施までは、一気に、到達出来ないので、ひとまずその途中段階として、「自衛隊」と言う、「仮城(文末の補足を参照下さい)」を設けているのが現状と認識すべきなのかもしれません。

 

憲法第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

 

 しかしながら、私達に与えられた「平和憲法」を世界に認知させるべく日々の努力を積み重ねて行くのが、私達の使命ではないでしょうか?

 

そこで、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》の最後の部分を掲げさせて頂きます。

 最後にもう一度繰り返させていただきます。

今の時代、どこの国でもこの「平和憲法」を制定したくても絶対に出来ない憲法なのです。私達の「平和憲法」は「奇跡の憲法」なのです。

この「奇跡の憲法」の氏素性は全く関係ないのです。

氏素性を問題にする事こそ「下賎な行為」と言う事です。

 私達が戦後の荒廃から、ここまで発展して来られたのは、私達日本人だけの力では決してありません。

アメリカなどからの援助もありました。

迷惑をかけた国からの暖かい気持ちも頂いてきました。

そして、更には、戦争で犠牲になった多くの方々の霊を慰めるべく、この「奇跡の憲法」を担い、幾多の苦しみをも乗り越え、私達が、この「奇跡の憲法」授かった名誉を胸に秘め、恒久の平和を念願し、やがて来る崇高な理想の世界へと、この「奇跡の憲法」を継承してゆくのが、私達の使命なのだと思います。

 

 そして、スペイン、カタロニア地方の鳥のように、私達は「平和(スペイン語では、パース)」「平和(パース)」と訴え続けてゆこうではありませんか。

 

是非とも《平和憲法は奇跡の憲法》を御参照下さい。

 

 


(補足)法華経の教えの「仮城」とは、次の喩えの「都城」であります。

(法華経:仮城喩品 第七を、『大乗仏典』(中村元編:筑摩書房発行)より抜粋させて頂きます。)

 

 たとえば、ここに広さ五百ヨージャナの、人跡未踏の恐ろしい険難悪道があったとしよう。この道を、多くの人たちが通過して珍しい宝のある場所に至ろうとするのに、一人の聡明で智慧あり、地理に明るく、よく険道の状態を知っている指導者がいるとしよう。かれが多くの人たちを率い導いてこの難所を通過しょうとしたところ、率いられた人々の方

は中途で疲れ果てて指導者にこう言った――

『われらは疲れ果て、恐れおののいている。もう進むことはできない。前途はなお遠い。今から引き返そう』と。この指導者は多くの方便を知っていて、こう思った――

『なんというあわれなことだ。大いなる珍しい宝を捨てて、どうして引き返そうなどと思うのか』と。こう思って、方便力によって、この険道の中に、三百ヨージャナを過ぎたところに都城を神通力で作り出しておいて、人々に告げた −

『諸君、怖れてはならない。引き返したりしてはならない。今、この大きな町の中にとどまって、したいことをするがいい。この町に入ったら快く、安穏になれるだろう。もしまた進んで宝のある所に至ろうという気になったら、ここを去ればよい』と。

 このとき、疲れ果てていた人々は、心に大いに歓喜して、未曽有のことと感歎し、『われらは今、この悪道から抜け出して、快く安穏になることができたのだ』と言った。そこで、人々は進んで幻の町の中に入り、すでに険道は越えたと思い、安穏の思いを生じた。そのとき指導者は、この人々がすでに休息することができ、疲れもなくなったのを知って、幻の城を消して人々にこう言った――

『諸君、いざ、宝のあるところは近い。さきの大きな町は、諸君を休息させるために神通力で作り出したのだ』と

 もろもろの比丘よ、如来もまたこのようである。今、おまえたちのために大導師となって、もろもろの生死流転や煩悩などという悪道は険難であり長遠であるが、そこを去るべきであり、越えるべきであることを知っている。ところが、もし、生ける者たちがただ唯一の仏の立場のみを聞いたならば、仏を見ようともせず、近づこうともせず、こう思うであろらう――

『仏道は長遠であるから、久しいあいだ苦しい思いをしなければ完成することなどできないのであろう』と。

 仏は、生ける者たちの心が卑怯であり、柔弱であり、下劣であるのを知って、方便力によって、中途で休息させるために、二つの平安を説くのだ。もし生ける者たちが、二つの平安の境地に安住したならば、如来はそのとき、かれらのためにこう説くのだ――

『おまえたちはまだなすべきことを知っていない。おまえたちの住している境地はたしかに仏の智慧に近い。しかし、よく観察し、よく思いめぐらして見るがいい。おまえたちの得ている平安は真実の平安ではない。

それはただ、如来が方便の力によって、一なる仏の立場において分別して三と説いただけのことである』と。

 それはちょうど、かの指導者が、休息のために大きな都城を神通力によって作り出し、すでに休息し終ったと知って、人々に『宝のあるところは近い。この町は実際の町ではなく、わたしが神通力によって作り出したにすぎない』と言ったのと同じである。」

 

 

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