目次へ戻る

 

 

田原総一朗氏の変節

2004年2月3日

宇佐美 保

 

 田原総一朗氏の近著『聞き出す力:カナリア書房』には次のような記述があります。

 

 ジャーナリストっていうのは、本来はウォッチヤーなんだよ。自民党のここが良くない、民主党はここが間違っている、そういうのをウォッチして、批判するのがジャーナリストの役割なんだ、本来は。

 でも僕はいつからか、批判だけではどうもダメだと思うようになってきた。だから僕は本当の意味でのジャーナリストじゃない、ちょっとずれてる。それは自覚しているつもりだ。

 高度成長が終わるまでは、日本の政府はとっても強かった。その頃の僕には自信満々に映っていた。実際僕らが批判すればするほど、政府はその批判に応えて新しいアイデアをどんどん出してきた。ところがいまは、いくら批判してもアイデアなんて出てこない。それどころか、強く批判すると倒れてしまう。これではやっぱり、批判するだけではダメだなと思うようになった。批判するのは楽だし、安全なんだけど、そんな安全な安易なことだけやっているのはダメだと思うようになった。批判するのならば、対案を用意すべきだと思うようになった

 

 この様な記述の背景は、同じ著作の中で、次のように記述と思います。

 

 テレビで本気になったYKKが竹下傀儡政権を倒した

 ボクの番組が原因で、現役の総理大臣が何人も退陣している。

 一人目は海部俊樹さん。……

 政治改革をやると言ってできなかった宮沢喜一

 二人目は宮沢喜一さん。……

 カメラの前で迷走した橋本龍太郎

 三人目が橋本龍太郎さん。……

 

 田原氏の番組の影響で、この3人の首相が倒れた事実(私には、田原氏の番組の影響か否かは、はっきりとは判りませんが)を田原氏は困った事態と思っているのでしょうか?

若し、困った事実を引き起こしてしまったと思われているなら、番組として、又、田原さんご自身が、“度を超した(他の番組、司会者ではとても行わない)質問を3人の首相に浴びせた為に、大事な彼等を倒してしまい申し訳ありませんでした”と日本国民に謝罪すべきではありませんか?!

 

 謝罪されましたか?!

 

 田原氏も、番組も、謝罪されていないと言うことは、3人の首相を倒したことは良かったことと認識されているのではありませんか!?

(私も、倒したことで良かったのだと思っております。)

 

 だとしたら、田原氏が、批判だけではどうもダメだと思う必要は無い筈です。

否!少なくとも、今まで通り、権力に立ち向かうべきではありませんか!?

(「対案」を打ち出すか否かは別としても)

僕は本当の意味でのジャーナリストじゃない」と田原氏が思う必要は皆無ではありませんか!?

そして、従来のジャーナリストの枠を超えたジャーナリストを目指すとの決意を固めるべきと私は願っているのです。

 

しかし、私の願いとは逆に、最近の田原氏は、次のように不可解な記述をしています。

 

 たとえばここはもう政権交替しかないというときでも、ジャーナリストだったら、政権交替があったほうがいいなんてことは言わない。でも僕はテレビで、自民党の賞味期限は終わったと平気で言っている。終わっているのに小泉さんが構造改革を打ち出してなんとか延命させているなんてことも言う。国民の多くは、本心は政権交代を望んでいる。だが、民主党に政権を運営するカがあるのか、政権を担う責任感があるのか、どうも国民受けのすることばかり言っていて、いま一つ信用できない。こんなことをあえて言ってしまおうとしている。

 

 この田原氏の不可解さは「政権交替しかないというときでも、ジャーナリストだったら、政権交替があったほうがいいなんてことは言わない。でも僕はテレビで、自民党の賞味期限は終わったと平気で言っている」と記述されていることです。

何故この記述で不可解かと申しますと、田原氏ご自身もはっきりと「政権交替しかない」と書いていないのです。

そして、「自民党の賞味期限は終わった」と、曖昧な言葉を吐いているに過ぎないのです。

(食品類は、賞味期間が過ぎても、未だ十分に食べることは出来るのです。)

最近の田原氏は「政権交替しかない!」とはっきり言い切れないのです。

 

 次の記述も、又、不可解なのです。

 

 なにはともあれ与党をやっつけなければという野党の姿勢を、僕は「野党癖」、「野党慣れ」ないしは「野党呆け」と呼んでいる。

 今度の選挙でも、民主党が政権与党になろうと本気で思うのなら、「俺たちが政権握ったら、日本はこんなによくなるぞ」ということを、もっときちんとわかりやすく言わなきゃいけなかった。なによりも、国民が一番関心を持っているのは経済問題で、民主党は常日頃から小泉首相の経済政策を失政と決めつけているのだから、民主党になれば経済政策はこう変わる、こうして景気をよくしてみせる、とマニフエストで宣言すべきだった。それを完全に逃げた。僕の番組に出ても、やっぱり自民党に対する批判、野党癖が抜けていない。まあこれは、いまの時代、この国に、大きな物語を描くのは難しいということでもあるんだろうけどね。

 

 なにしろ、この記述は矛盾だらけです。

田原氏は、「国民の多くは、本心は政権交代を望んでいる」と書いているのです。

(事実、私達国民はそう思っています。)

だとしたら、田原氏は、「なにはともあれ与党をやっつけなければという野党の姿勢」を「野党呆け」と非難するのではなく、「自民党の賞味期限は終わった」とその場で、野党に手を貸してしかるべきではないでしょうか?!

 

 その上、最近、田原氏はテレビで、何回か次のように語っていました。

 

 “この失われた10年で、私達は貴重な教訓、即ち、「政府の経済政策は、景気対策に何ら寄与しない」との教訓を得た。

小泉首相に期待しても、いつまで経っても何もしてくれない。

そこで、賢明なる企業は工夫して、努力して自らの力で復活してきている。

「政府に何かしてくれ!などと期待するのは間違いで、自分達で解決すべきなのだ」という貴重な教訓を得たのだ。”

 

 なのに、田原氏は、他のジャーナリストと同様に「民主党になれば経済政策はこう変わる、こうして景気をよくしてみせる、とマニフエストで宣言すべきだ」と民主党を非難しているのです。

 

拙文《いつも偉そうで弱腰な筑紫さん》にも抜粋させて頂きましたが、週刊「アエラ」(2003.11.10)には、“『京セラ稲盛の仕掛け 関西発「政権交代」 総選挙』の記事で、「政権交代が可能な国をつくろう!!」大見出しでそううたった意見広告が10月16日、朝日、読売、日経の朝刊に載った”と紹介されていました。

(是非、上記の拙文を御参照して下さい)

 

 その「アエラ」記事中では、京セラ稲盛名誉会長は、次のようにはっきりと自己の見解を披露されています。

 

「今度の選挙で、政権交代が行われることが、日本にとって必要だと私は考えています。天地がひっくり返ることではない。政権を担う政党が代わるだけです。しかし実現すれば、主権者である国民が自分たちが政権を選んだ、と実感できる。政治への関心を高め、政界に緊張感を与える唯一現実的な方法だと思っています」……

 

 ジャーナリストの一人である下村満子氏もこの意見広告の賛同者に名を連ねて居られます。

何故、田原氏も一緒に名を連ねなかったのでしょうか?

 

 更に又、次なる記述は、石原氏が都知事の地位から脱落しないようにとの、田原氏の心遣いの表れなのでしょうか?

 

石原慎太郎は危機が好き

 その石原慎太郎だけど、僕はやっぱり彼は、政治家である以上に作家なんだと思う。……

彼は作家として既成の価値、常識をいかに叩き壊すかに専念してきた。いまでも変わっていないと思う。政治家になっても、彼は作家をやっているのだと思う

 だから彼にしてみれば、「あんな奴爆弾仕掛けられて当然だ」みたいな表現は日常茶飯事なわけね。この前も、北朝鮮による拉致被害者、曽我ひとみさんのお母さんのことを「殺されたんでしょ、その場で」とやって問題になった。これはあとで彼、陳謝したけどね。

 とにかく彼は作家。常に世の中の既成の秩序に挑戦してきた作家なんだ。社会に言葉の弾丸を打ち込むのが作家石原慎太郎だった。そしてその作家石原慎太郎を、いま多くの国民が評価している。無茶なこと言っても許容されるのは、彼が作家だから、みなそう思ってるからなんだ

 同時に、石原慎太郎の限界はそこにあるんだと思う。

 作家はね、ギリギリの状況が好きなの。危機的状況が。彼の作品、全部そうでしょ。つまりね、作家石原慎太郎は、日本を危機的状況に持っていきたいと思っている。危機的状況で、さあ自分になにができるかと。彼にとってはまさに危機が迫っている状況のほうが望ましいんだ。安定なんて大嫌いなはずだよ。

 でも彼の場合それだけというわけでもない。政治手腕もなかなかのものだ。だってそうじゃなかったら、これだけ高い支持率は保てるはずがない

……

 

 私は、『太陽の季節』を初めとして石原氏の小説を1本も読んでいません。

多分石原氏に投票した、又、支持している、都民の大多数も石原氏の小説を読んでいないと思います

 そして、石原氏を作家であると認識していないと思います。

少なくとも「石原氏が作家である」との理由から、石原氏に投票したのではない筈です。

更に、石原都知事に対して「作家石原慎太郎の発言、政治」などを望んではいないのです。

 石原氏が暴言をまき散らすのは、彼が作家だからではなく、彼には心が欠けているからだと存じます。(この件に関しては拙文《石原慎太郎氏よ、テロは国民の思いの代弁か?》又《何故石原慎太郎都知事を放置するのか?》をも御参照下さい)

 

 同じく作家でもある、田中康夫長野県知事に、石原氏同様な「作家的」と云われる発言があるでしょうか?

(常々、作家石原氏は、作家田中氏を“格が違う”と云った感じで見下した態度を取っているように見受けられますが、私は、田中氏の作品を読んでいませんので、この件に関しては口を噤みます。

しかし、若し政治的発言の中に(田原氏など評論家達一般が言われているように)作家的発言を混在させてしまうことが事実なら、私は石原氏の「人間としての格」を疑います。)

 

 そして、石原氏の支持率の高さに関して、田原氏は「政治手腕もなかなかのものだ。だってそうじゃなかったら、これだけ高い支持率は保てるはずがない」と記述していますが、小泉首相の高い支持率も、小泉氏の政治手腕に起因しているとお考えですか?!

日本国民は、小泉氏の“自民党をぶっ壊す!”の発言に、シビレタだけではありませんか!?

(「この様な発言をする小泉氏なら、何かをやってくれる」との思いで私達は支持し、或いは支持してしまったのではありませんか?!)

石原氏の人気も、「発言と同様に政治手腕に対しても、その過激性を発揮し、政治に対する閉塞感を一掃してくれることを、都民が期待し、期待し続けている」からではありませんか?!

 

 石原氏や小泉氏への過激な政治手腕への期待感だけで、彼等の過激発言を容認していると、いつの日か彼等がヒトラーに変貌する懸念もありますし、そして、そうなってしまったら手遅れなのです

今こそ彼等に異議を唱えるべきなのです。

なのに、何故田原氏は、彼等を黙認するのでしょうか!?

 

 更に、最近の田原氏は不思議な言動を披露します。

拙文《心を理解出来ない田原氏と森氏》にも引用させて頂きましたが、1月5日放送のTBSのnews23「テレビのここが駄目」との題目による、司会の筑紫氏に加えて評論家の田原総一朗氏、桜井よしこ氏との鼎談に於いて、田原氏は「高速道路問題」について次のような呆れた発言をしていました。

 

 「道路これから造らないのかという問題に於いては、評判は大変悪いのだけれど今は辞めた宮崎県の江藤さんは道路を造れと云っている、あの人の言い分は判るのですよ。何で、九州の西側は、福岡から鹿児島まで道路が出来ているのに、東側は大分から南は出来ていない、何で俺たちは無いんだ!それから青木さんの言い分も判る、山陽は出来ているのに日本海側は出来ていないではないかと云うのだから」

 

 西側が出来ているからと云って、東側も造っていたら、その次は真ん中も造れと云う事になるではありませんか!

 何年か前、高速道路問題が始めにクローズアップされた時点では、田原氏は何度も次なる発言していました。

 

高速道路網の9342km等というのは、田中角栄の高度成長路線の継承にすぎず、今の時代に不適当、現に、高速道路の出来た四国にしろ、長野にしろ日帰り客ばかりになって地元の発展には寄与していない

 

 今の借金ドブ浸かりの日本に、無駄な高速道路を造る余裕があるのですか!

少なくとも、西側があるから東側もと云う発想は止めて欲しいものです。

こんな田原氏の言い分は大反対です。

鼎談相手の桜井氏が主張していたように、必要な道路の建設は、国会ではっきりと審議して決めるべきだと思います。

 少なくとも、西側に高速道路が出来て、西側が驚くほどの発展をしたというデータの下に、では東側もその様な驚異的な発展が出来るのだろうかと審議するのなら判ります。

単に、「西側があるから東側も」では小学生以下の発想です。

田原氏ご自身も、こんな発想は馬鹿げているとお気付きの筈です。

 

 そして、評判の悪い道路公団の民営化案、又、猪瀬直樹氏の行動、小泉氏の政治姿勢を弁護するが如く、田原氏は次のように発言しています。

 

 「今回の高速道路の民営化問題に於いて、なんだかんだ言っても、道路公団への天下り、道路族の実体などが暴き出された、即ち、パンドラの箱の蓋を開けたことで十分の価値があった」

 

 しかし、田原氏は氏の著作での日産ゴーン社長に関する項で次のように記述しているのです。

 

 日本の経営のいちばんの問題は、経営者が責任をとらないところにあるんだ。たとえば銀行なんかは、あれだけ不良債権を抱えても、経営陣が一切責任をとろうとしない。ところがゴーンは、自分がすべて責任をとると言い切った。ここがやっぱり経営者として、ゴーンの優れているところだと思う。

 

責任を取らなければいけないのは経営者だけでは無い筈です。

この高速道路に於いてだけでなく、年金積立金の悪用運用ミス(この件は拙文《インチキ評論家が年金は黒字と嘘を言う》を御参照下さい)、そして、国の財政をガタガタにしてしまった責任を、政治家も役人もとるべきです。

この役人政治家達の責任を、田原氏は何故問わないのですか!?

 

 田原氏は、何故この様に変節してしまったのでしょうか?

 

 この点に関して、私は、一昨年来、大変気になっていることがあります。

それは田原氏の著作中の次なる記述に関連することです。

 

 ひとつだけ、ちょっと申し訳なかったなと思うのは、高市早苗さんに対してね。『サンデープロジェクト』(特集「激論! 靖国問題、国立基地建設の是非」〇二・八)の中で、彼女が「昭和の戦争は自存自衛の戦争だった」って言ったから、僕は「冗談じゃない、そんなことはないよ」と言って、その勢いで「あなた下品だ」とやっちゃったのね。これはだから謝りましたよ、次の週の番組で。下品っていうのは、失礼千万な言い方だ。われながら恥ずかしい限りです。

 ただ僕らの世代としてはやっぱり、満州事変、日中戦争、あれが自衛の戦争だっていうのはどうしても認めるわけにいかないということがあったのね。……

『日本の戦争』(小学館刊)を書いた。その本を書くとき世話になった人の中に、日大の秦郁彦教授がいて、彼は僕にこう言った。満州事変は八対二で日本が悪い。日中戦争は七対三で日本が悪い。太平洋戦争は六対四で日本が悪い。それで僕は「秦さん、太平洋戦争は五分五分じゃないんですか」って言ったんだ。そうしたら、負けた分だけ一点減点だって言うわけ。

 僕はこの秦さんの説明が、自分の感覚、思いといちばん近い。満州事変は少なくとも自存自衛の戦争じゃない。……

 高市さんの発言がきっかけで、民族派の人々と二度、長時間の討論をやった。徹底討論だね。考え方は平行線だったけど、気持ちはお互いに通じて、最後は握手、握手でした

 

 この件に関する私の見解を書く前に、《倫理的体力》との題目で佐高信氏の次の記述(素晴らしいので『週間金曜日』のホームページから全文を転載させて頂きます)を御一読頂きたく存じます。

http://www.kinyobi.co.jp/pages/vol435/fusokukei)

 

 先日、読者からもらった手紙に「なるほど」と思った。私の司馬遼太郎批判には共感するところが多いのだが、司馬はこんな指摘もしているというのである。

 たとえば、『街道をゆく』(朝日文庫)の第20巻では「(中国を)侵略した、ということは、事実なのである。その事実を受け容れるだけの精神的あるいは倫理的体力を後代の日本人は持つべきで、もし、後代の日本人が言葉のすりかえを教えられることによって事実に目を昏まされ、諸事、事実をそういう知的視力でしか見られないような人間があふれるようになれば、日本社会はつかのまに衰弱してしまう」と書いている。

 まさに、司馬をかつぐ藤岡信勝らに向けて放ったような言葉だろう。

 また『ロシアについて』(文春文庫)では、シベリア出兵について、こうも言っている、と教示された。

理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか

 これを読んで私は、いまは亡き弁護士の遠藤誠と、山口組組長の渡辺勝則とのやりとりを思い出した。

 暴力団対策法の弁護を遠藤に頼んだら、左翼の遠藤では山口組が左傾してしまうと、よけいな知恵を渡辺につける人間が現れた。

 それで、渡辺が遠藤に尋ねる。

「いま、左と右を分けるポイントは何なんですか

 そう問われて遠藤は、

中国との戦争を侵略と認めるかどうかでしょう

 と答えた。すると渡辺は、

そりゃ、他人の縄張りに入るのは侵略ですよ

 と明快に返し、それで山口組が左と言われるなら言われてもいい、と言ったとか。

 これを小林よしのりや、この間、「サンデープロジェクト」で田原総一朗に“下品”と痛罵された高市早苗はどう考えるのか

 どうせ、ヤクザの親分の発言じゃないか、と切り捨てるのだろうか。

 下品発言で、田原はいま、いわゆる右筋の抗議を受けている。街宣車が田原の住むマンションや、テレビ朝日に何度も押しかけたらしいが、小林や高市を含む彼らには、前記の司馬発言を繰り返し読むことを勧めたい。

「倫理的体力」とはいい言葉である。

 それは過ちを過ちとして認め、それを克服する努力をすることで養われる。私には、小林らの主張は、日本は過ちをおかさなかったと強弁しているように聞こえるが、もし、過ったとしたら、日本を愛せなくなるのか。

 私は、過ちをおかしたとしても、その過ちを含めて日本を愛する。倫理的体力に基づく愛国心とはそういうものだと思うが、どうだろうか。

 

 ここでの「満州事変は八対二で日本が悪い。日中戦争は七対三で日本が悪い。太平洋戦争は六対四で日本が悪い」との秦教授の見解よりも、司馬遼太郎氏の「理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか」の見識を私は支持致します。
(何故なら、日本側の分を幾分かを捻り出す秦教授の見解では、「盗人にも3分の理あり」の諺を思えば、盗人の分を勘定しているようなに感じます。

 

そして、ここでの佐高氏の「下品発言で、田原はいま、いわゆる右筋の抗議を受けている。街宣車が田原の住むマンションや、テレビ朝日に何度も押しかけたらしい」との記述は、田原氏の「高市さんの発言がきっかけで、民族派の人々と二度、長時間の討論をやった。徹底討論だね。考え方は平行線だったけど、気持ちはお互いに通じて、最後は握手、握手でした」との記述に対応するのだと思います。

 

更に、ここでの佐高氏と田原氏の記述は食い違っているように感じるのです。

田原氏は著書の中では、「苦情を言う相手には、田原氏自身が直ちに対処する」姿勢が随所に記されています。

なのに、佐高氏の記述では「街宣車が……何度も押しかけたらしい」となっています。

直ちに対処する田原氏が、何故、何度も押しかけられたのでしょうか?!

 又、気になるのは、田原氏は「民族派」と記述されていますが、この言葉は「右翼」とは別の意味なのでしょうか?!

それとも「右翼」と云う言葉はタブーなのでしょうか?

しかし、田原氏の著作中には〃右翼、原発……タブーへの挑戦は続く〃との項目があり、次のように記述されています。

 

タブーに挑む、これくらいスリリングなことはない、これって命を張ることだからね。

 

 又、残念ながら、佐高氏も「右翼」と書かずに「右筋」と記述しています。

 

 ですから、下種の私は田原氏の「徹底討論だね。考え方は平行線だったけど、気持ちはお互いに通じて、最後は握手、握手でした」との記述は、実は「考え方は平行線だったけど、(この間色々ありまして)気持ちはお互いに通じて最後は握手、握手でした」となるのではないかと思ってしまうのです。

 

 そして、この私が勝手に邪推した「(この間色々ありまして)」の部分が大変気になるのです。

そして、この部分が、最近の田原氏の言動を左右しているのではないかと、邪推しているのです。


目次へ戻る