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石原慎太郎氏よ、テロは国民の思いの代弁か?

2003914

宇佐美 保

 今回の暴言で、石原氏は当然失脚するものと私は思いました。

なにしろ、彼は、自民党総裁選候補の亀井静香前政調会長の応援演説にて、次なる「爆弾を仕掛けられて当たり前」発言をしたのですから。

(以下、朝日新聞の記事を引用させて頂きます。) 

外務省の田中均外務審議官の自宅で発火物とみられる不審物が見つかった事件について、石原慎太郎東京都知事は10日午後、「爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ。いるか、いないかわからないミスターXと交渉したと言って、向こう(北朝鮮)の言いなりになる」と発言した。

 そして、石原氏自身もこの発言は余りにも暴論とでも思えたのでしょうか、この暴論を若干でも修正しようと試みて、彼は次のように、又、おかしな論理(依然として「テロ容認論」)を展開しました。

 

 11日の石原都知事の発言の要旨は以下の通り。

 私は、この男(田中外務審議官)が爆弾仕掛けられて当然だと言いました。それにはですね、私は爆弾仕掛けることがいいことだとは思っていません。いいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか。

 起こっちゃいけないああいう一種のテロ行為がですね、未然に防がれたかもしれないけれど、起こって当たり前のような今までの責任の不履行というのが外務省にあったじゃないか。国民に向かってうそをついていた。だれのための外務省かわからないことをずっとやってきた。

 だから国民が怒って、その怒りがつまってつまって、高まってああいう形になる。これはね、私は否めないと思いますよ。私は何もね、あの男が殺されて当たり前だなんて言っているわけじゃない。国民は本当、怒ってる。政府は何をしてるんだ。外務省は何をしてるんだ。日本人が150人も連れて行かれて、ほとんど殺されて、それで抗議もしない。

 このような滅茶苦茶発言をした石原氏は都知事を辞し、政界からは完全に姿を消し、なまじ変な応援をされた亀井氏は大苦境に立たされたのかと思いきや、次なる記事となっているのです。

……自民党の亀井静香前政調会長は12日午前、「田中はけしからんということをああいう言い方で言っているわけで、爆弾を仕掛けていいなんて思うわけない」と改めて擁護。石原発言が党総裁選に与える影響について「石原の応援は大変いい影響が生まれてきている。国民はむしろ(田中氏が)けしからんということで受け止めているのではないか」と述べた。


 そして、亀井氏の強がりを裏付けるかのように、「
都庁に声779件、賛否ほぼ同数」との記事があります。

 石原知事の発言について、「都民の声」を受け付ける東京都生活文化局には、11日朝から12日午後5時までに計779件の意見が寄せられた。「賛成」は396件、「反対」は383件だった。他部局に寄せられた抗議などの電話は集計に入れていない。……

何故都民(国民)の半数は、石原氏に「YES」と電話するのですか!?

石原氏は“国民が怒って、その怒りがつまってつまって、高まってああいう形になる”と発言しているのです。

即ち、石原氏は、「爆弾犯は、国民の代行者」そして「テロは国民を代弁する」と認識しているのです

とんでもない事です!?

 

 何故、我が日本国民は「石原氏に、NOと言える国民」ではないのですか!?

 

 確かに、私達国民は簡単に為政者に丸め込まれてしまいます。

(この点は、先の拙文《私が60年安保闘争で学んだ事》にも記述しました)

しかし、国民はともかく、マスコミは石原氏の暴論を厳しく切り崩さなくてはいけないのです。


 ところが、朝日新聞の「石原発言――テロをあおるのか」との社説以外には、マスコミからの抗議の声を殆ど聞く事が出来ません。

 発言が物議をかもすことでは人後に落ちない石原東京都知事だが、これはあまりにも度を超えている。……

 爆弾を仕掛けられて当然だ、というのは、テロを容認し、あおるに等しい。……

 石原氏の発言の背景には、田中氏が深くかかわってきた北朝鮮問題がある。この日の街頭演説でも、石原氏は田中氏が北朝鮮の言いなりになっていると強く批判した。……

 石原氏は北朝鮮とは戦争も辞さないと言ってきた人である。気に入らないものはどんな手段でたたいてもいい、という点では、今回の発言も似ている。

 気がかりなのは、こうした石原氏の発言を受け入れてしまうような空気が広がっているのではないかということだ。……

 石原氏は誤りを認めて謝罪すべきだ。


 
14日放映のテレビ朝日「サンデープロジェクト」では、田原総一朗氏が、次のように嘆いていました。

 石原発言に対して、マスコミの反応は極めて弱い、格好だけは「反対だ」と言っているけど、それも体裁だけである。

又、小泉内閣の閣僚達も、ただ批判しているだけで、本音は反対する事を怖がっている。

 
 更には、都民の反応の半分(以上)が、石原発言に賛成している現状をどう思うのかとの田原氏の問いかけに対して、
3候補は何とも情けない反応しか示せませんでした。

特に、亀井氏は「外務省に対する国民の気持ちをああいう言い方で表現しただけであって、表現の仕方だけを問題にしていたら駄目」と嘯きました。

亀井氏は別の機会には「石原氏は作家なので、ああいう表現もする」と言った発言をしてもいました。

冗談ではありません。

石原氏が作家であるなら、言葉の使用方法に対しては、常日頃、最大限の注意を払っているはずです。

(その一つの(おかしな)表れとして、石原氏は、どんなに中国が嫌がっていても、頑なに「中国」を「シナ」と呼び続けていたではありませんか!)

 

 何故、マスコミは石原氏に抗議の声をあげないのですか?

 

 2003年5月1日の日刊ゲンダイに於いて「霍見芳浩のニッポンを斬る」のコラムで次のように書かれていました。

……東京都知事選挙で、石原慎太郎知事が300万票で再選された。彼はスタンドプレーだけで都民寄りを装っているが、実態は土建屋行政の「ヒトラー」である。これを聞いて、知日派知識人の間では「東京都民とニューヨーク市民のどちらがガリブル(騙されやすい)か」との比較がなされている。結論はニューヨーク市民の半分が騙されてブッシュを支持したのと比べ、300万票も石原再選に投じた東京都民の方がガリブルだという。ブッシュは少なくとも民主主義者の演技をしなければならないが、シンタローは旧帝国日本の思考停止のまま軍国主義者の地を出しさえすればよいからでもある

そして、ニューヨーク市立大教授の霍見芳浩氏は、これ以降、日刊ゲンダイでのコラムから姿を消しました。

 

更に又、先の拙文《亀井静香氏よ静かにしてくれ》にて記述しましたが、かって、テレビ東京の番組「WBS」中で、霍見氏は、番組出演中の亀井氏に、直接“腐り切った政治家”との言葉を叩き付けました。そして、その後不思議なこと?いや当然な事に?霍見氏を、テレビ画面でお目にかかる事が出来なくなりました。

(私は大変残念に思っております。)

 

 なのに、藤井候補は、“「北朝鮮という独裁国家相手には、弱腰外交ではならない」との、国民の思いの表れである”旨の発言を繰り返すのみでした。

高村氏に到っては、“マスコミは、石原さんとか、小泉さんとか、人気のある人には弱いんですよ”と人事のようにはなすのみで、自らが石原発言、そして都民(国民)の反応を抗議する事も、どう思うかも表明しませんでした。

こんな高村氏が本当にポスト小泉と言われている人なのですか!?

 

 田原氏が問題視しているのは、単に石原氏だけの問題ではないのです。

(高村氏の認識の“人気のある石原氏には、マスコミはNO!と言えない”ではないのです。)

石原氏の対北朝鮮(拉致問題に関する)への(テロも容認する)過激発言に対して、閣僚も、マスコミもNO!と言えない今の日本の風潮を問題視しているのです。

 なにしろ、今回の「田中外務審議官の対北朝鮮外交はテロに値する」との石原氏発言の延長線上には、田中氏に賛意を示すようなマスコミ、又、発言者はテロの対象となりかねないと宣言しているようなものですから、或る意味の言論弾圧ではありませんか!?

 

 石原発言前でも、マスコミは、「拉致議連」関係の方々の見解への反論を掲げた事があるでしょうか?

(何しろ、彼らは、日本の国論(?)が分裂してはならない、日本は一枚岩でなくてはならない!と言い続けているのですから。)

 

 私は、曽我ひとみさんを一度北朝鮮のご家族の元へ帰してあげれば良いのにと思い、先に拙文《曽我ひとみさんをご家族のもとへ帰して》を書きました。

(でも最近は、曽我ひとみさんは一人日本に残る決心されたようでもありますが?)

そして、私は、又、拉致被害者家族会の代表でもあられる横田滋さんは、お孫さん(めぐみさんのお子さん)に会いに行けたら良いのにとも思っております。)

 

 アメリカの銃に拠る事件を問題視した「ボウリング・フォー・コロンバイン」で長編ドキュメンタリー賞を受け、「ブッシュよ、恥を知れ」とのスピーチで会場を騒がせたマイケル・ムーア監督は、その後の記者会見で、“あなたの言動はハリウッドを暗澹(あんたん)とさせることになるのでは”との問いに、“その逆だ。米国はなんて自由にものが言えるのかを示したつもりだ”と答えていました。

 

 今の日本にマイケル・ムーア監督の語る自由がありますか?

今マスコミは、石原氏やそれに付随する動きにNO!の声をあげないと、都民(国民)の石原発言支持は50%から60、70、80%とどんどん上がって行き、日本は石原慎太郎:ヒトラーによる独裁国家と変貌してしまうかもしれません。

尚、横田滋さんは「田中さんの行ったことは確かに功罪はある。言葉で批判することは大いに結構なことだと思うが、テロを認めるような発言は問題だ」と石原テロ発言を否定されておられます。

 

 

更に、付け加えさせて頂きますなら、金解禁・軍縮を成し遂げた浜口雄幸首相に関する城山三郎氏の著作『男子の本懐』の中では、右翼結社の一員の凶弾を浴びた浜口首相の言葉として次のように書かれています。

「自分はもはや仕方がないが、この先出てくる総理大臣のために、こんなことは決してくり返させてはならない」

 後に浜口は『随感録』に書く。

「若し首相としての余の存在が君国の為有害若しくは不利であるといふ確信がある憤らば、宜しく正々堂々合法的の手段に依つてその目的を達すべきである。然るに事こゝに出でずして、国法を犯し公安を紊すが如き暴挙を敢へてするは、動機の如何に拘はらず断じて容すべからぎる所である」

 と。

 

 石原氏は、少なくとも小泉首相と直接、論を交わせる立場に居られる方ではありませんか!?

田中外交に異論があるなら、街頭でアジ演説を行う前に、小泉首相、田中氏に直接疑問をぶっつけるべきではありませんか?



 

(補足)

 今まで書きました拙文の中から石原慎太郎氏に関する部分を以下に抜粋致します。

 

1.)《私は、田中康夫氏を支持します》から

 石原氏は、中国人の嫌がっているのに“シナは英語のChinaから来ているのだから、シナと言っても不自然なことではない。”といって、中国のことを盛んに「シナ(支那)」と呼んでいました。

確かに、「支那(シナ)」は、語源的には、「秦(シン)」に由来しているのでしょうが、中国人にとっては、戦前戦時中、日本人から支那支那と侮蔑的にいわれ続けた屈辱がぬぐいきれないのだと思います。

たぶん日本人の心の奥には、「支那」の「支」は、「枝葉」との意味合いを感じていたでしょうし、「那」は「邦」を感じさせ、「幹」である日本から見て「中国」は、「枝葉の国」との意味合いを感じていたでしょう。

ですから、殊更に中国人は、日本人に「支那」(シナ)と呼ばれるの拒否するのでしょう。

 もう何年も前に、日本の要人が、(どなただったか、又、詳しいことも忘れてしまいましたが)アメリカで記者から、“日本人をジャップと呼んでもかまわないか。”と質問されて、“別に、かまわないのでは?”と答えて、特に、日系アメリカ人から大顰蹙を買ったことがありました。彼は “ジャップ、ジャップ”と呼ばれて侮蔑されてきた日系人たちの過去に無知だったのです。そして、彼等が努力を重ねてやっとアメリカ人たちに“ジャップ”と言わせないだけの地位を築き上げてきた苦難の歴史に無頓着だったのです。

この件に関して、石原氏は、“ジャップとは、JamsをJimと、又、ThomasをTomと言うように、JapaneseJapと呼んでも良いではないか!”と言えるのですか?

 他人の嫌がることに無頓着な石原氏に政治家の資格があると言えるのでしょうか?

何故マスコミはこの点を突かないのですか?

 石原氏は、北朝鮮に拉致された人たちを救うためには、日本国は、北朝鮮へ戦艦を差し向けてでも、拉致された方々を救出すべきと語っています。

もし、そこで交渉が拗れて、戦艦が発砲して戦争になっても、北朝鮮の方々や、或いは拉致された方々が人質として砲弾の楯とされ、終いには殺されてもかまわないと思われているのでしょうか?

 私は、戦艦を送り込むよりも、よど号事件の際に乗客の身代わりの人質として、北朝鮮へ行った(当時の)山村新治郎運輸政務次官のように、石原氏は単身北朝鮮に乗り込んで身を賭して、拉致された人の救出に励むべきと存じます。

 

 戦争はいつも、戦争を仕掛ける人が安全なところに納まり、戦争の意味も分からない人たちが、前線に送られて命を落とすのです。

戦争を口にする方は、「石原氏をはじめとして、戦争を仕掛ける人たちが率先して前線に身を投じなければいけない」とでもいう国際条約をどうか締結してください。

 

 

2.)《平和憲法は奇跡の憲法》から

 ……石原氏は、田原総一郎氏との対談「勝つ日本:文芸春秋発行」において、次のように、麻雀的戦略戦術を語っています。(将棋ではありませんが)

 相対感覚というのは、「オレはこれをもっている」「あれは持っていない」というように、自分のことを良く知る事だ。

最適な例が麻雀で、┄┄さまざまな戦術、戦略がとれる。

 戦後から今日までの日本を見ると、この麻雀的感覚がない。┄┄いまの日本人は自分のことを知らない。複合的な発想がなぜかあまりできない。すぐに思いつくのは猪突猛進。だから一億玉砕、そして次には手のひらを返したような一億総懺悔になってします。┄┄

元朝日新聞編集委員の田岡俊二氏は常々“一般的に、文官は戦争に積極的でも、武官は戦争に消極的である”と発言されておられます。

その背景は、ここに私が述べた事実を裏付けているのだと思います。

何しろ、いざ戦争となれば、武官は(場合によっては、自ら先頭に立って)自分の部下を戦地へ(死へ)送り込まなければ、ならないのですから。

一方、文官は、自宅で高枕を決め込めるのですから。

何しろ、今回のイラク攻撃を声高に叫んでいる米国の最高幹部のブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官らは、ベトナムへの兵役を逃れていたのです。

 

 石原慎太郎都知事は、“北朝鮮に拉致された方々の救出には戦艦を北朝鮮に向けるべきだ!”と発言したり、“今の憲法では、それが不可能なら、この憲法を変えればよいではないか!”との類の談話を頻繁に発せられます。

(石原氏ご自身が、北朝鮮へ単独ででも乗り込んだら良いのにと思います。)

  しかも、石原氏は、先に引用した「勝つ日本:文芸春秋発行」において次のように語っています。

 

弱い軍事力しかなければ、国際政治の世界では低い地位にしか見られない、と言う原理だ。

この力学に背を向けるのは勝手だが、その影響から逃れることなど出来はしない。だから、相手を無視して、こちらは諸手を挙げて武器を持たない、軍備はしません、と言っても、そんな能天気な心構えがいかなる相手にも通じるかどうか考えてみたらいい。


  ところがこの石原氏は法華経を信奉されておられるのです。


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