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何故石原慎太郎都知事を放置するのか?

2003927

宇佐美 保

 石原慎太郎氏の危険性に関しては拙文《石原慎太郎氏よ、テロは国民の思いの代弁か?》に書いたばかりですが、彼の凶暴性に一層の危機感を感じました。

 先の「外務省の田中均外務審議官への暴言」を謝罪することなく、またまた、暴言なのですから。

9月26日付けの毎日新聞には次の記事が掲載されました。

 東京都の石原慎太郎知事は25日の都議会本会議で、北朝鮮による拉致事件について触れ「まさに誘拐。袋詰めにされ、十文字にしばられて、さらってみたら片方は年寄りだから、曽我(ひとみ)さんのお母さんなんか殺されたんでしょ。その場で」などと述べながら「血の涙を流してきた家族に対して報いているっていえますか」と外務省を批判した。

 田中均・外務審議官宅の不審物事件を受け、「爆弾が仕掛けられて当たり前」と発言した問題について答弁する中で、述べた。


 今回の発言に関しては、次の記事が続き流石の石原氏も
陳謝せざるを得なかったようです。

 石原知事は同日の都議会本会議で一般質問の答弁に先立ち、「国内外の多くの専門家の意見を聞き、事件の厳しい状況から私なりに解釈しての発言でありましたが、配慮に欠けたものであったと反省しております」と述べた。そのうえで、「一日千秋の思いで肉親の帰りを待ち望んでらっしゃる曽我さんや家族の方々の切実な願いを心ならずも傷つけてしまったことは痛恨の極み」と謝罪した。

 このような、他人の心への配慮が全く欠けている石原氏は、マスコミから総すかんを食らっているのかと思いきや、TBS「サンデーモーニング」にての“もし、石原新党ということになったら、私たちは危ないですよね。”との関口宏氏の発言に対して『週刊文春(2003.10.2)』の「清野徹のドッキリTV語録」には、次のような反論が掲載されていました。

こういう雰囲気だけの発言の方がよはど危ない

……

 俄か知識人となった関口宏が問題にしているのは、例の石原都知事の発言。「田中均外務審議官邸が何者かに爆弾か何かを仕掛けられた」ことに対し、石原氏が「仕掛けられて当然」といったニュアンスのコメントをし、物議をかもしたことに関連してのものなのだ。

 まあ、ある意味、石原さんの魅力は、こういった無防備この上ない暴言(?)もどきの発言にあるのだが、関口宏は、こういう石原氏を「文字通り」にとってしまうお坊ちゃまなのだ。

 もし、あくまでも「もし」なのだが、石原氏が新党を作ろうが、自民党に復党して総理大臣になろうが、日本をテロ容認国家にすることは出来はしないと私は見る。それほど日本はマスコミを中心とする第四の権力が肥大し、一人のナショナリストではどうにも太刀打ちできないところに来ていることを、少しは気づきなさいよ。


 この清野氏が如何なる人物かは知りませんが、拙文《石原慎太郎氏よ、テロは国民の思いの代弁か?》にも引用させて頂きましたが、以下に、再掲載させて頂きます。

 14日放映のテレビ朝日「サンデープロジェクト」では、田原総一朗氏が、次のように憂いていました。

  石原発言に対して、マスコミの反応は極めて弱い、格好だけは「反対だ」と言っているけど、それも体裁だけである。

又、小泉内閣の閣僚達も、ただ批判しているだけで、本音は反対する事を怖がっている

 

 清野氏は、この田原氏の“マスコミは本音は反対する事を怖がっている”との見解をどう感じるのでしょうか?

 

拉致問題に関してさえも、色々な議論がなされて然るべきである筈です。

ところが、拉致議連側などからの「日本国民は一枚岩で北朝鮮に立ち向かうべき」との意向を汲んでか、マスコミからは拉致議連側と異なる見解を聞かされた事はありません。

おかしくはありませんか?

(曾我ひとみさんは、最近では“日本で家族の帰りを待つ”と発言されておられるようですが、以前は、曾我さんの思いは拉致議連の方々とは若干異なるのではなかろうか?と感じて、拙文《曽我ひとみさんをご家族のもとへ帰して》を書きました。)

 

 清野氏は“マスコミは第4の権力”と解釈されておられるようですが、「911テロ」、「イラク戦争」に於いて、アメリカのマスコミはブッシュ方針に対して「NO!」の声をあげましたか?

ブッシュ政権側の捏造を、平気で垂れ流していたのではありませんか?

 

 第2次大戦に於ける、日本のマスコミは?

清野氏は、“最近のマスコミは、以前よりは格段の権力を有している” と認識されているのでしょうか?

だとしたら、拙文《亀井静香氏よ静かにしてくれ》にも書きましたが、テレビ東京の番組「WBS」中で、番組出演中の亀井氏に、直接 “腐り切った政治家”との言葉を叩き付けたニューヨーク市立大教授の霍見氏を、何故、その後、テレビ画面でお目にかかる事が出来なくなったのでしょうか?

 

 更に、いざとなった際の、マスコミと最大の権力者の力関係は明かです。

その例は、千田善氏著《ユーゴ紛争(講談社発行)》に於ける、「マスコミと情報操作」の項にも的確に書かれております。

マスコミと情報操作

 旧ユーゴではかなり前から各共和国の利害、主張が対立していたが、テレビやラジオの全国放送はなかった。全国紙は一紙だけ。各地の方言・言語で印刷され、内容もバラバラの」六共和国二自治州の新聞全部を読まないと「本当のユーゴは分からない」といわれたが、わたしは四紙がやっとだった。

ユーゴ紛争は八○年代後半、民族主義をあおったこれらのマスコミが準備した。戦時下でも、軍隊並かそれ以上に戦局を大きく左右した。各当局にとって、マスコミは国民を戦争に動員し、国際世論に訴える重要な武器だった。

 マスコミは相手側を「ウスタシャ」「チェトニク」「イスラム原理主義」と、黒一色に塗り潰し、自分の民族は共通して「被害者」「自分たちの権利を守っているだけ」と、天使・

聖人のごとく描いた。テレビは死体の映像も、これでもかとばかりにたれ流す。ベオグラードでは一時期「ニュースを見ない運動」が呼びかけられた。

 どれも「大本営発表」だ。「敵軍隊が停戦合意を無視したので、反撃を余儀なくされた」という一方の報道を聞いたら、「敵部隊が迫撃砲で攻撃してきたが、挑発にはのらなかった」という他方の報道も聞く必要がある。慣れると「強力に反撃した」などの表現で「激戦があった」とわかる。しかし、どちらが優勢かなどは、早くても数日後、多くの場合は永久にわからない。

 テレビは、現代「情報戦争」の主力兵器として、各派ともとくに重視した。

 クロアチアでは、トゥジマン政権発足後すぐに、テレビ・ラジオ、新聞などマスコミの幹部を丸ごと入れ替え、与党(HDZ)幹部で固めた。ローカル放送局も中央の直轄下に置いた。国営テレビのブルドリャク社長は、与党の国会議員候補リストで大統領、国会議長、首相に次ぐ四番日の序列にあり、五輪委委員長など多くの役職も兼任する。

連邦軍側との本格的戦闘前の九一年夏、クロアチア国営テレビは社長の陣頭指揮のもと、完全な「戦時態勢」を敷いた。……

……

 さらにトゥジマン政権は、わずかに残っていた、当局に批判的な雑誌、新聞も壊滅させた。週刊『ダナス(今旦)誌は編集部を解散させた後、政府系誌として「復刊」した。日刊『スロボドナ・ダルマチア(自由ダルマチア)』紙の自主管理企業は国営化した。……クロアチアでは、報道の自由は組織的に圧殺されている

 セルビアでも、最も重要なテレビ・ラジオは、ミロシェビツチ大統領がガッチリ握る。……

 民族主義に批判的だった中立系テレビ「エーテル」は、元ベオグラード放送キャスターのゴランミリッチ(クロアチア人)を中心に人気があったが、右翼セルビア民族主義者に襲撃され、本拠をサラエボに移した(ボスニア戦争開始直後に閉局する)。……

ミロシェビツチは九三年七月、クロアチアに倣うかのように、新聞・雑誌の「引き締め」に乗り出した

 

 斯くも簡単にマスコミが権力者の支配下に完全に押さえ込められてしまうのは、戦時下だけではないのです。

 

 なにしろその如実な例を、最近私達は実感したのですから。

それは、原監督の辞任劇の際、「一マスコミの全組織が、一人の(「ナベツネ」なる)人物に完全に支配されてしまっている事実」を誰もが実感したのです。

 

 読売グループの中の誰一人として、「ナベツネ」氏に異を唱える事は不可能なようです。

石原氏が「ナベツネ氏同様の存在」にならないと誰が言えますか?

マスコミは、石原氏がヒトラー的存在になる前に異を唱え続けていなくてはならないのです。

たとえ、石原氏が独裁者に到達せずとも、彼の度重なる暴言を私達が聞き慣れ、免疫性を有してしまった時には、取り返しがつかない事態になっているかもしれないのです。

 

 なにしろ、以前は、「改憲」、「核保有」等は、少なくとも日本の政治家達のタブーであった筈なのに、今では、誰もが口にするような時勢になってしまっているのですから。


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