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恩人(菅直人氏)を叩き出した私達

2011910

宇佐美 保

 

 東電は、“福島原発の大事故は、想定外の津波による電源喪失の結果”との見解を押し通していますが、ところが、「電源がなくても作動する、非常時にはいちばん大事な役割を果たすはずだった冷却システムである『蒸気凝縮系機能』が設計時に存在していたのに、勝俣現会長(当時取締役社長)が申請して撤去してしまった」と『週刊文春(2011.6.9号)』に於いて、佐賀大学元学長の上原春男氏が「東電(勝俣氏)の重大責任」を追及して居られます。(この記事の一部を文末に掲載させて頂きます)

 

 更には、東電の「想定外の津波」は、東電自身が「想定を超える津波がくる確率を「五〇年以内に約一〇%」と予測し、〇六年に国際会議で発表していた」(『週刊金曜日 2011715号』との記事の一部は文末に掲げます)と言うのに何故、この重大犯罪が見逃されているのでしょうか!?

 

 このような重大なミス(「人道に対する犯罪」とでも言うべき)を行ってきた「東電(勝俣氏)」は、殆ど全く非難されることなく、菅直人首相(当時)ただ一人が、マスコミの音頭取りの結果(?)「全国民的な大バッシング」を浴びせられて、辞任に追い込まれてしまいました。

 

 今回の「菅バッシング」は、200610月、原発再稼働に反対し続けていた当時の福島県知事の佐藤栄佐久氏が政治献金問題に逮捕され(事実上は無罪)件を思い起こさせます。

(この件は、拙文≪復興は平和の礎(東京電力、マスコミと検察)≫をご参照ください)

 

 菅氏が追い出された首相の座に上った野田佳彦氏は、案の定、早々に“原発の再稼働”を口にしております。

(この件は、拙文≪菅降ろしに原発推進派の影≫もご参照ください)

 

 とても残念で堪りません。

何しろ菅直人氏は少なくとも私には「恩人」であり「救世主」でもあったのですから!

(この件は、拙文≪復興は平和の礎(民主党とマスコミ)≫、≪菅直人氏は私達の恩人では≫、≪菅首相こそが私達の救世主≫をご参照ください)

 

 しかし、次の「週刊金曜日:201192号」、「東京新聞(201196日:菅前首相への独占インタビュー)」の記事をご覧頂けましたら、菅直人氏が、私のみならず、私達の「恩人」であり「救世主」でもあった事に御納得頂けると存じます。

 

 先ずは、八月一四日、浅野健一教授(同志社)らが、下村健一内閣広報室審議官から菅直人前首相の情報発信を担当した10カ月を聞いた「週刊金曜日」の記事です。

 

 

 

 菅バッシング手段の一つに“菅は、首相の座から去りたくない為、思い付きで、「脱原発」、「再生エネルギー」等とほざいている”がありましたが、この件に対し下村氏は次のように発言されます。

 

 菅さんは初当選のときの選挙のパンフレットに、すでに「原発には危険が付きまとう。再生可能エネルギーの開発促進を」と書いていた。そのもっと前、一九七八年の社民連の結成大会資料の中には「福島一・二号炉は廃炉処分に」という名指しの記述まである。思いつきでなく、その原点に戻ったのだ

 後世の日本人は、「原発事故が起きたとき、首相は脱原発への転換を鮮明に主張したが、世論は彼を徹底批判して辞任に追い込んだ。その理由は、唐突で手順が悪くて部下に迷惑をかけたからだった」と歴史で学んだ時、どう思うだろうか。

 

 

 私は、この下村氏の悲憤に共感します。

 

菅バッシングの第2弾は、“情報を政府が隠蔽していた”です。

この件に関しては次のように下村氏は発言されておられます。

 

 

……政府が「何か隠している」と疑われる理由の根深い本質があるのだが。

 二日目朝に首相と一緒にヘリで現地を見たが、とにかく桁違いに大きな災害で、原発も本当に何が起きているか訳がわからなかった。いまだに、福島の四つの炉の中で何が起きているかを実際に見た者はいないのだから。

 東京電力や原子力安全・保安院、原子力委員会からも精鋭の人たちが官邸に集まったはずだが、ほとんど判断ができない。どの情報が確実なのか、誰にもわからない状態が延々と続いた。日本という名の安全システムがガラガラと崩れてゆくのを目の当たりにするような危機感だった。

「政府は隠しごとを全部言え」「真実を政府は掌握し、隠している」などと批判されるたび、隠せるぐらい真実が見えているならどんなにいいか、誰か教えてくれと思った

 

 

 下村氏のここでの「政府が「何か隠している」と疑われる」との発言の他に、朝日ニュースターの番組で、“菅首相は、私に対して、「何事も包み隠さず発表する様に、但し、不確実な事実の発表は控えるように」と指示された”と、そして“この「不確実な事実の発表は控えるように」が「何か隠している」につながったのではないか?”と発言されておられました。

 

 

菅バッシングの第3弾は、“水素爆発の原因は、菅がパフォーマンスの為に福島原発に飛んだためにベントが遅れ為だ”でしたが、下村氏の発言をご参照ください。

 

 

 原発事故をめぐり、官邸がもっとも緊迫したのはいつか。

下村 何場面かあるが、一つはやはり、最初の水素爆発のとき。テレビが明らかに爆発現象を映しているのに、第一原発の現場に電話しても「今、確認に行っている」などと言うばかりで、官邸に確定情報が入ったのは、テレビの生中継映像より大幅に遅かった。本当にジリジリした

──米専門機関、あるいは国内のどこか、たとえば東電などには真実がわかっていたことが官邸になかなか届かなかったのでは。

下村 それは本当に事故調査・検証委員会(事故調)に究明してほしい。

菅さんも「私は被告″(事故調で質問される立場という意味)になってもいいからきちんと調べてほしい」と言っている。悪者探しが目的ではなく、再発防止のために。

 当初の遅滞ぶりを間近で見ていた個人的印象としては、東電は相当に官僚的な体質で、情報一つでも現場から順々に上げていかないと、現場の判断でどこかにポーンと飛ばして繋がることは許されにくい組織なのではないか。それがもたつきの原因の一つなのでは、とも感じるが、それも推測だから、事故調の究明を待ちたい

 ただ一つ、事故調以前に断言できること。「ここまで有事の対応ができないのだったら、原発なんて、まだ造るなよ」と、本当にかつて原発建造に見切り発車し、それを安全神話で継承してきた歴代の為政者たちに対して、怒りに震えた。第一ボタンの掛け違えの上に築かれた依存の現実から、どう脱していくか。

 

 

 この下村氏 第一原発の現場に電話しても「今、確認に行っている」などと言うばかりで、官邸に確定情報が入ったのは、テレビの生中継映像より大幅に遅かった の発言と同様な発言を『東京新聞』のインタビュー記事に見ることが出来ます。

 

 

−第一原発が大変なことになると、最初に感じたのはいつか。

 「最初の最初だ。電源が喪失し、冷却ができない。それが何を意味するか分かっているから、『こりゃ大変なことだ』と思った」

 「まず電源というんで、電源車を持って行けと。はじめはヘリコプターで運ぼうと思って、重さとか寸法を測ったらどうしても運べない。陸路でかき集めた電源車を持っていき、つなごうと思ったらつながらない。ポンプで水を入れようと思ったらホースが届かない。ずーつと、そういう状況に追われていた」

−その中で、なかなか正確な情報を把握できない。

「きちんとした報告が入ってこない。水素爆発もそうだ。『格納容器内は窒素で満たされているから、水素爆発なんてあり得ない』と、原子力安全委員会は言っていた。それがドーンとなった」

−ヘリで現地に行ったのは、そういうじれったい状況を何とか打開したかったから?

 「原子炉の状況を一番分かっているのは、東京電力だ。だが、東電は現場と本店でツークッションになっていて、ベント(排気)が始まらない理由が正確に伝わってこないそれで現場の責任者ときちんと話をしようと考えた

 

 

 この“ベント(排気)が始まらない理由が正確に伝わってこないそれで現場の責任者ときちんと話をしようと考えた”との思いで、指揮官が官邸を不在にすると、後で批判される」と秘書官らの引き留めにも拘らず福島へ飛んだ菅さんの行為を「パフォーマンス」と非難される方々は、「虎穴に入った」ことも「虎穴に入ろう思った」こともない安全地帯に立ち続ける傍観者に思えてなりません。

 

 この件に関する東京新聞の記事は次のようです。

 

−第一原発が大変なことになると、最初に感じたのはいつか。

 「最初の最初だ。電源が喪失し、冷却ができない。それが何を意味するか分かっているから、『こりゃ大変なことだ』と思った」

 「まず電源というんで、電源車を持って行けと。はじめはヘリコプターで運ぼうと思って、重さとか寸法を測ったらどうしても運べない。陸路でかき集めた電源車を持っていき、つなごうと思ったらつながらない。ポンプで水を入れようと思ったらホースが届かない。ずーつと、そういう状況に追われていた」

−その中で、なかなか正確な情報を把握できない。

「きちんとした報告が入ってこない。水素爆発もそうだ。『格納容器内は窒素で満たされているから、水素爆発なんてあり得ない』と、原子力安全委員会は言っていた。それがドーンとなった」

−ヘリで現地に行ったのは、そういうじれったい状況を何とか打開したかったから?

 「原子炉の状況を一番分かっているのは、東京電力だ。だが、東電は現場と本店でツークッションになっていて、ベント(排気)が始まらない理由が性格に伝わってこないそれで現場の責任者ときちんと話をしようと考えた

 

 

 更には、拙文≪菅直人氏は私達の恩人では≫の一部を再掲させて頂きます。

 

 

 秘書官らの心配は、その後のマスコミ等での菅バッシングで明確となります。

 

 

 では、東京新聞の記事です。

 

 三月十二日午前、この建屋の暗闇をライトで照らしながら、まさに「決死隊」が悪戦苦闘していた。

 原子炉を覆う格納容器内の圧力がぐんぐん上がっていた。設計上の最高圧力は五二八`パスカル
それが十二日午前二時半時点で八四〇`パスカルに上がっている

 パンパンの風船に空気を入れ続けているようなものだった。いずれ破裂し、そうなれば大量の放射性物質が外部に放出される。

……

 圧力上昇はこの日未明には官邸に報告されていた。首相の菅直人(64)は、経産相の海江田万里(62)や内閣府原子力安全委員長の班目春樹(62)らと協議し、「ベントしかない」と結論。海江田は午前一時半、東電にべントを指示する。

 だが、いつまでもベント開始の連絡が入らない。海江田は、一時間おきに東電に電話し 「どうしてできないんだ」とせかした。午前六時五十分には、東電へのベント指示を法令に基づく命令へと格上げする

 危機感を抱く菅と班目、首相補佐官の寺田学(34)は午前六時十四分、ヘリで第一原発へと向かった

 「一分遅れたら、それだけ事態は深刻化します」

 班目は機中でも、一刻も早いベントを進言する。

 第一原発に降り立った菅は、東電副社長の武藤栄(60にべント遅れの理由を問いただした。武藤は「電動で開けるベント弁の復旧には四時間かかる」などと言い、煮え切らない

 「手動でもいいから早く開けてください」。いら立つ菅が強い口調で迫ると、所長の吉田昌郎(58)が「すぐやります」と応じた。

 「手動でやれ」という首相の指示。それは被ばくの危険がある中、命懸けでやれという意味だった。

 結局、弁が開くのは海江田の指示から十時間以上かかった。一刻を争うベントは、なぜ遅れたのか。

一つの理由は、東電が電源復旧を優先したことだ。電源が通じていれば、弁は簡単に開けられる。だが電源は戻らなかった。

 暗闇と高い放射線量も妨げとなる。東電は手動でのベントを想定しておらず、当直長らは、そのための訓練も受けていなかった。

 ……

 

 

 そして、菅首相(当時)が、先に記述しました福島県知事(当時)佐藤栄佐久氏と同じ立場(東電、それを支える官僚、マスコミ等と対峙関係)になったのは、次の件からでしょう。

 

 

十五日に東電本店に乗り込むのは、第一原発から退避するという話が一番の原因か

 「十五日の午前三時ごろ、海江田万里経相(当時)から『東電が撤退したいという意向を示している』と。

第二原発は二十`圏です。十基の原発と十一個の(核燃料)プールを放置したら、何時間か何十時間の間に原子炉やプールの水は空になり(炉心は)どんどんメルトダウン(炉心溶融)し、放射性物質が放出される。それで清水(正孝)社長(当時)を呼んで聞いたら、はっきりしたことを言わない。それで本店に統合本部をつくった」

 「撤退なんてあり得ない。撤退したら今ごろ、このあたり人っ子一人いなくなっていたかもしれない。まさに日本が国家として、成り立つかどうかの瀬戸際だった。(旧ソ連)チェルノブイリ事故の何倍、何十倍の放射性物質が出ていたかもしれないんだから」

−統合本部の設置が分岐点だったと。

 「本部を立ち上げ、海江田大臣と細野豪志首相補佐官(当時)を張り付けたことでグリップが効きはじめた。

 米国との関係もそれからうまくいくようになった。心配してくれたが、こちらにも情報がないから伝えられない。それで、隠しているんじゃないかと疑念を持たれた。統合本部に米国の専門家にも来てもらい、不信感がなくなった」

……

 

 

 この菅氏の思い行動を高く評価されたのは、田岡俊次氏(元朝日新聞)位です。

氏は、朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」中で、次のように発言されました。

 

“「東電が撤退したい」と言ってきたら、今までの首相だったら「ハイそうですか」で終わっていたのに、菅さんは違っていた、この点はもっと評価されるべきだ”

と。

私も同感です。

 

 

更に、東京新聞の記事を抜粋します。

 

−一番危機感を持った時期は?

 「最初の一週間だ。

東京に人っ子一人いなくなる情景が頭に浮かんで、本当に背筋が寒くなる思いだった」

−そういう経験を踏まえでの脱原発依存宣言だったと。

 「3l1前は、安全性をしっかり確認して原子力を活用していくスタンス。私自身『日本の技術なら大丈夫』と思っていたが、311を経験し、考えを変えた。円を百`、二百`と広げる中に人が住めないとなったら、日本は成り立たない。十万、二十万人の避難だってすごく大変だが、三千万人となれば避難どころではない。そのリスクをカバーできる安全性は何か、と考えた。それは、原発に依存しないことだと

 

 

 このような、菅さんの危機感を共有しつつ、マスコミ又私達は「菅バッシング」を行ったのでしょうか!?

 

 

 更に、次の発言も御参考にして下さい。

 

 

 −中部電力浜岡原発だけ、運転停止を要請したのはなぜか。

 「浜岡は特に地震の可能性が高いとの研究結果が出ている。ほかの原発も3.11前と同じような基準でいいとは思わないが、浜岡は特別だと考えた」


−九州電力玄海原発の再稼働直前に安全検査の導入を打ち出したのはなぜ。


 「経産省原子力安全・保安院は、私の知らないところで、保安院だけで判断するという従来のやり方を取ろうとした。私は『それでは国民の理解は得られない』と言った。経産省はかなり意図的にやっていたと思う」


−核燃料サイクルや高速増殖炉もんじゅについての考えは。

 「根本から再検討する段階に来ている。徹底した議論をやって結論を出すしかない」


 

−もう少し見届けたかったのでは?

 「与えられた条件の中で、やるべきことはやった。特に原発事故については、かなり進んだと思っている。再生可能エネルギー特措法案や原子力安全庁もできたし、そういう意味では311以降の課題の大きなところはスタートが切れた」


−福島県の人たちにはどんな気持ちを。


 「本当に申し訳ないと思っている。『(汚染された廃棄物を一時保管する)中間貯蔵施設を福島県内に』との方針は、三月十一日に首相だったものの責任として言った」

 

 

(参考資料:1

 

『週刊文春(2011.6.9号)』

“福島原発非常時冷却システムを撤去した勝俣会長”の抜粋

 

……

「なぜあれほど簡単にメルトダウンしてしまったのか。私は福島第1原発の事故以来、ずっと不思議に思っていました」

 こう語るのは佐賀大学元学長の上原春男氏である。

上原氏は福島第一原発の復水器の設計に携わった経験を持つ。事故後、政府の招きで東電本店を訪れていた上原氏は、ある重大な事実に気がついたという。

 

福島原発の設計時には、『蒸気凝縮系機能』という最後の砦となる冷却システムが存在していました。それはどうなったのかと東電に聞くと、『(そのシステムは)ない』というのです」

 蒸気凝縮系機能というのは、原子炉から出る蒸気を配管に通し、「熱交換器」で冷やして水に戻し、再び原子炉に注水するという冷却システムのことだ。注水により炉心を冷やし、かつ原子炉内の圧力を下げる機能があるとされている。

「このシステムはECCS(緊急炉心冷却装置)の一系統なのです。通常の場合は原子炉を止めても、高圧炉心スプレーと低圧炉心スプレーなどの系統で冷却が出来る。しかし、これらの系統は電源がないと動かない。蒸気凝縮系機能は、電源がなくても作動する。ある意味、震災などの非常時にはいちばん大事な役割を果たすはずだった冷却システムなのです」(同前)

 五月十二日、東電は三月十二日に福島第一原発の一号機がメルトダウンしていた事実を認め、24日には2号機、3号機もメルトダウンしている可能性が高いと発表した。原子炉が停止した時にはECCSという非常用冷却システムが作動するはずだった。だが、そこには″最後の砦″となる機能が存在しなかった。

 いったいどういうことなのか──。

 ここにある内部文書がある。〇三年二月十七日に開催された「第十回 原子力安全委員会定例会議」の議事録だ。

……

議題に上がつていたのは〈(福島第一原発二〜六号機の)蒸気凝縮系を削除する〉という設置変更について、

つまり最後の砦″の蒸気凝縮系機能の撤去が検討されていたのだ。

…… 中電の動きに追随するかのように東電も「蒸気凝縮系削除」の申請を進めた。

前出文書によると申請者は(東京電力株式会社 取締役社長 勝俣恒久)となっている。勝俣現会長だ

 ……

 五月二十九日、東電本店で行われた会見で、私は「蒸気凝縮系」を削除して問題はなかったのかと質問した。すると東電の担当者はこう答えたのだ。

「現実問題としてこれまで一度も使ったことがなく、水位の制御が極めて難しい。浜岡原発で水素ガスが爆発した事故もあり、撤去したということです」

 だがそもそも原発の安全は多重防護により築かれていたはずである。なぜあえて多重防護システムの一つを削ったのか。前出の上原氏もこう訝しがる。

「蒸気凝縮系は、最悪の場合≠ノ使う冷却システムです。それを使ったことがないからと撤去してしまうのは、安全神話ありきの発想だったとしか思えません」

……

 だが、東電が福島第一原発から蒸気凝縮系機能を撤去しょうとしていた平成十五年は、まさに小泉政権時代だ。電力会社と二人三脚で原発を推進してきたのは自民党政権そのものだった。当時の経産大臣は原発推進派で知られる平沼赳夫氏(当時自民党、現たちあがれ日本)である。

……

 上原元学長はこう語る。

「結果としてメルトダウンをしている訳ですから、安全性に問題があったのは明らか。なぜ撤去したのか、東電には納得のいく説明を求めたいですね。ECCSは全ての原発に使われているシステムですから、福島第一だけの問題に止まらない可能性もあるのです」

 あまりに杜撰な安全意識の上に、福島第一原発は存在していたのだ。

 

(参考資料:2

週刊金曜日 2011715855号)

23年前から予想されていた大津波 東電社内で消された危険信号」の一部

添田孝史(科学ジャーナリスト)

 

……東電は、福島第一の設計段階で、最大で高さ約三・一メートルの津波しか想定していなかった。

一九六〇年のチリ地震津波で観測された数値をもとにしているが、東日本大震災では当初想定した約四倍、高さ約一三メートルの津波がきた。

 国の安全審査を受けるために、東電が提出した福島第一の設置許可申請書(一九六六年) に、津波についての記述はほとんどない。岩手、宮城に比べて近年は大きな津波が少なかったので甘くみていたのだろう。

一方、東北電力は、福島第一の約一一〇キロ北にある女川原発(宮城県女川町)の設置許可申請書(一九七〇年)で、貞観津波以降の六一の津波の記録を洗い出している。それらをもとに、女川原発が想定した津波は九・一メートル。東日本大震災では高さ約一三メートルの津波が襲い、予測を超えたが、深刻な被害はまぬがれた

……

 貞観津波について、東北電力は八〇年代から詳しく研究していた。その影響は福島第一にも及ぶのに、東電はなぜ対策を取らないのか。監督官庁ならその不作為に早く気づくべきだったろう。保安院がそれを公開の場で指摘したのは、二〇〇九年が初めてだった。

 そしてもっとも責任が重いのは、やはり東電自身だ。

 東電は、福島第一に想定(五・七メートル)を超える津波がくる確率を「五〇年以内に約一〇%」と予測し、〇六年に国際会議で発表していた。その報告書は「津波について知識が限られていることや、地震のような自然現象にはばらつきがある」ことを理由に「想定を超える可能性が依然としてある」と結んでいた。

 原発を襲う「揺れ」では、想定超えが五〇年で〇・五%以下になるようにという目安がある。福島第一の津波で想定外が起きる確率「五〇年で一〇%」は、この目安より二〇倍も高い。想定は明らかに小さすぎた。

 地震学者や津波の研究者まで社員としてかかえている東電が、福島第一の危うさに気づいていなかったはずはない。「想定外」が起きる確率がとても高いことまで計算していたのだから。社内で発せられた危険信号はどこかでかき消されたのだろう。

 この「腐った部分」が解消できない限り、東電に原発をまかせるのは怖すぎる。

 

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