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復興は平和の礎(曽野綾子氏と石原慎太郎氏)

2011330

宇佐美 保

 

 普段は曽野綾子氏(作家)からの発信を殆ど無視して来ました。

しかし、今回は、たまたま、氏の『週刊ポスト(2011.4.1号):「千年に一度の災害に」(「安心して暮らせる老後」という言葉はもともと詐欺なのだ)』を読み驚愕して、これは反論しなくてはならないと存じました。

 

 

 そこで、その記述の全文を以下に掲載させて頂きます。

(何しろ、全文でないと、“前置きがあったのだ!”とかで、「津波は天罰」発言をされた石原慎太郎氏のような方も居られますので)

 

 

 二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に起きた地震が、近年落ち込んでいると言われる日本の凋落に、決定的な追い打ちをかけるか、それとも、長い間の物心両面の沈滞を打破するきっかけになるか、というと、私は後者に望みを託したいと感じている。

 理由は、日本人がそれに耐えうる国民だからだ。長い間の教育(人格形成の部分では、日教組的な思考の影響をかなり受けて荒廃したが)と、一九四五年以来疑いた続いた平和のおかげで、日本には地道な国力もついているからである。

 

 

 この「人格形成の部分では、日教組的な思考の影響をかなり受けて荒廃した」との解釈は、御自身並び財界人政党人なども含めての意味なのでしょうか?

 

 

 被災地で略奪も放火も、支援物資の横流れもなかったことに対しては、諸外国が素早く反応を示して賛辞を述べている。これは世界中で、先進国でもありえないすばらしいことだからである。十六年前の阪神・淡路大震災の時にも略奪放火はなかった。部分的なコソ泥はあったろうが、被災民その他が、暴徒化する気配も全く示さなかった。

 その理由の八割は、日本人の受けて来た教育と資質だと私は信じている。もっともそればかりというのもいささか甘いのであって、今回は略奪する店一軒現場には残されていなかったこともあろうし、日本人にはまだ政府が何とか最低限の水と食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうという確固とした信頼があるからではないかと思う

 

 

 私が、今回反論を書かなくてはならないと思った第1の点は、ここでの「被災民その他が、暴徒化する気配も全く示さなかった……の理由の8割以外(2割:筆者注)が」上記の赤字の部分と言うのです。

 

改めて、その部分を以下に掲げます。

 

今回は略奪する店一軒現場には残されていなかったこともあろうし、日本人にはまだ政府が何とか最低限の水と食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうという確固とした信頼があるからではないかと思う

 

 

 このような見解は、石原氏の「津波天罰」発言同様に、被災者の方々への礼を失していると存じます

 

曽野氏は、『週刊ポスト(2011.4.8号)現場の磁力:78年前の〈昭和三陸大津波〉「見よ!希望の光に輝きつつ」』をご覧になったらいかがでしょうか?!

そこには次のような記述があります。

 

 

『岩手懸昭和震災誌』は叙説にこう綴った。

……

 人々は絶望から立ち直り、希望の光を見出す。

 県が救護本部を設置し、救助物資の配給を始め、陸軍の救援隊、医療救護班も到る。

 陸は孤絶している。横須賀などを発した艦隊が海から衣類、食糧を満載してきた。

 驚くべきは、この絶望にあって奪う者はなく互いに分けあい、一致団結する者しかいないと続ける。

 現在とは比べものにならない経済状況である。この津波の10か月前の新聞は、ワラビの根しか食えない、凶作で「農漁村の欠食児童が20万人を突破」と報じた。

 2年前から「満州事変」に突入している。そういう時代だった。

 

 

 此処は私の推測ですが、当時の社会情勢からして、被災者の方々は、「救助物資の配給」を期待してはいなかったでしょう。

でも「奪う者はなく互いに分けあい」だったのです。

 

 そして曽野氏は次のように記述しているのです。

 

 私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はない。

 

 

 おかしいではありませんか、小説家(作家)は、作品を書くに当たっては念入りな取材調査を行うのではありませんか!?

この78年前の〈昭和三陸大津波〉を同業の吉村昭氏が『三陸海岸大津波』(文春文庫)として書き上げる際には十分な取材調査をされた筈です。

 

 

 

 私は地震の時、神奈川県の海辺のうちにいた。地震と共に電気が止まった。この停電は県下で百二十七万戸にも及び、翌朝まで復旧しなかった。

 もちろん家がつぶれなかったからでもあるが、私は全く慌てなかった。蝋燭もある。電池の予備を入れると五百時間以上は保つはずのランタンもあり、いぎという時、飲料水の煮沸をできるだけの、普段はすき焼きをする時に使っていたガス・コンロに、予備の燃料ボンベも十本以上持っていた。水は屋外タンクに二百リッターは貯水してあるシステムだった。

 東京の家に帰ると、私の普段からの準備はさらに完全だった。水はペットボトルに二百本以上の備蓄がある。一人一個ずつの寝袋も、食料の備蓄もあった。

 

 

 曽野氏は、「私の普段からの準備はさらに完全だった」と書かれておられますが、それらが津波にさらわれない保証がありますか!?

津波でなくても、地震で御自宅が倒壊したり、延焼したりしませんか!?

それでも準備は完全だったと言えますか!?

 

それに、曽野氏が書かれているような「屋外タンクに二百リッター」を準備する事が出来る人がどれだけ居られるのでしょうか!?

御自宅に「ペットボトルに二百本以上の備蓄」が可能なスペースをお持ちの方がどれだけ居られるのでしょうか?!

 

私は、科学に携わってもいますが、「ペットボトル」を手にするたびに“良くまあ!こんなにも丈夫で美しく透明な容器が出来るものだ!”と感心して、捨てるのはもったいないので、水道水を入れて食器棚の上などに保管(?)していますが、10本程度でもうスペースが無くなってしまいます。

そして、今回の地震の際にはそれらの何本かが床に落下してしまいました。

 

 

 大東亜戦争中の空爆や貧困が私を訓練した第一の機会であった。そこで私たちはどんな急激な運命の変化にも危険にも耐えるように心身を訓練されたのだ、と異口同音に私と同じ世代は言う。

 

 

 大東亜戦争中お亡くなりになった方々も沢山おられます。

そんな訓練が又必要と思いなのですか!?

 

 

 私にとっての第二の教育の機会だったのは、サハラ縦断行だった。もう五十歳を過ぎていたが、そこで私は原始で暮らすこと、原始を謙虚に受け入れる姿勢を習った

 

 

 その時は、サポートされる方はなく、曽野氏が、お1人で行かれたのでしょうか?

 

 

 もう古い本だが、スイスの連邦法務警察省発行の『民間防衛』という本が、国民皆兵で常に近隣国からの侵略を意識している国家の日常生活を教えてくれたこともある。国民は常に備蓄の義務を持っていた。

「乾パン、チーズ、ビスケット、肉、魚や果物の缶詰、干肉、チョコレート、インスタント・コーヒー、紅茶、一人当たり一日二リットルの飲料水、雑用のための水一日二リットルなど」

「着替え、放射能よけ手袋、毛布寝袋、懐中電灯と電池、裁縫用具、紐、安全ピン、蝋燭、マッチ、キャンプ用飯食、ナイフ、水筒、ラジオと予備電池など」

 その他一人当たりの必要物資として、「砂糖二キロ、食用油二キロ、米一キロ、めん類一キロ」

 補足的な必要物資として、「小麦粉、片栗粉、豆類、ココア、インスタント・スープ、石鹸、洗剤、燃料など」

 

 

 曽野氏は、「スイスの……。国民は常に備蓄の義務を持っていた」と書かれておられますが、それらの備蓄品は、先に書かれたアフリカでの「原始の暮らし」でも得られるのですか!?

そんな高級品(?)は、近代社会の恩恵ではありませんか!?

 

 

 

 地震と同時に私の中で古い怒りを増加させたのは、政治家が、「皆さまが、安心して暮らせる生活」を保証すると選挙の時に恥ずかしげもなく大声を張り上げ、それを聞いている選挙民もまた、いい年をした経験豊かな老世代まで、「安心して暮らせる老後」などというあり得ないものを期待したことであった。

 あの言葉はもともと詐欺なのである。

何十年も生きて来て「安心して暮らせる生活などない」ことをどうして日本人は気づかなかったのか

 

 

 では、曽野氏は老後をどのようにして生き抜くのでしょうか!?

確か御主人と一緒に何処かの週刊誌などでその方法を書かれていたようでしたが、今その週刊誌を見つけようとしましたが、読まずに処分してしまったようです。

「巨額な個人資産」を蓄えて居られるのでしょうか!?
その曽野氏の資産は曽野氏の書籍購入料金として読者から得たのではありませんか
アフリカの方々のような肉体的労働の成果ではない筈です!?

 

 

 

 また私は前原元国交相の取った八ツ場ダム建設中断の判断にも改めて怒りを覚えた。あの時、誰がどう言ったかは私の手元には記録がないけれど、つまりあんなダムは、差し当たって必要ない、ということであった。近年の日本の経済が縮み加減であることを見ても電気の必要量は減りつつあるし、何百年に一度の干ばつや出水のための考慮をすることはない、という論理であった。

 しかし今回の地震後二日で「千年に一度」という言葉が災害の言い訳に使われ始めた。こんなに早く千年に一度の機会に、私は自分が遭遇するとは思わなかった。私はもう老年だから、千年に一度の体験などせずに死んで行けるつもりであった。こんなに早くその時が来るなら、それは「十年に一度」くらいと言うべきだったろう。

 別に前原大臣だけが特に浅慮だったわけではないだろう。ただ人は誰でもそれほどに、未来を見抜く力がないものなのだ。その共通の運命を、大臣も若い世代も思い上がって自覚しなかっただけなのだろうと思う。

 

 

 曽野氏は、このような千年に一度と言う言葉を安易に受け入れる前に「作家」ならしっかり取材調査して「千年に一度」の欺瞞性を暴くべきです。

先に引用させて頂いた〈昭和三陸大津波〉の件は、78年前の不幸です。

決して、今回の災害が千年に一度の災害ではないと曽野氏は声を上げるべきです。

 

 その上、読売新聞(2011330日)に次の記事を見ます。

 

 

 東日本巨大地震が起きた震源域内では、約1100年前にも巨大地震が起き、宮城―福島県沿岸部を中心に「貞観(じょうがん)津波」と呼ばれる大津波をもたらしたことが、産業技術総合研究所などの調査で判明している。

 

 福島第一原発を襲った今回の津波について、東京電力は「想定外」(清水正孝社長)としているが、研究者は2009年、同原発の想定津波の高さについて貞観津波の高さを反映して見直すよう迫っていた。しかし、東電と原子力安全・保安院は見直しを先送りした。

 

 869年の貞観津波が痕跡を残した堆積層が見つかったのは、宮城県石巻市から福島県浪江町にかけて。海岸線から内陸3〜4キロまで浸水していたことが分かった。貞観津波の450年前に大津波が起きたことも判明。貞観津波クラスが、450〜800年間隔で起きていた可能性がある産総研活断層・地震研究センターの岡村行信センター長は同原発の想定津波の見直しを迫ったが、聞き入れられなかったという

 

 

 

 この記事から分かりますように、

約1100年前に宮城―福島県沿岸部を中心に「貞観(じょうがん)津波」と呼ばれる大津波が襲っているのですから、
今年に
その大津波が丁度1000年ぶりに襲ってきても当然と言えば当然なのです。

千年に一度」は、逆に今回の大災害は、発生確立100%の状態なのに、
それに対する対策を怠った「人災」だ!と曽野氏は大声を上げるべきなのです。

 

 

 なのに何故曽野氏は、「八ツ場ダム建設中断の判断」に異議を唱えるのですか!?

この記事からも分かりますように、より差し迫った危機に対処すべく、福島原発などの津波対策にそれらの費用を振り向けるべきだったのでしょう。

繰り返しますが、

今回の原発事故は「千年に一度」と言いつつも、確実に予想されていた「人災」だったのです。

又、間近に迫っている大津波対策として、より高い堤防(津波対策)の建設に差し向けているべきだったかもしれません。

八ツ場ダム建設」より優先されて然るべきだったのです。

 

水と電気がある稀有のぜいたく

 

 水と電気はどれほどの力を持つものか、日本人は理解していなかった。世界でもトップと言っていい組織的なインフラの力を持つ日本社会では、それらは当然のように安定して供給され続けていたから、それが稀有のぜいたくだなどと思う人はほとんどいなかった。

 私はそのことを、子供時代には戦争から、近年はアフリカから教えられ続けて生きていた。アフリカの田舎は恒常的に「星あかり」で暮らす生活である。しかし都市部で薄暗い電気のあるところでも、停電はつきものだった。

 突如として電気が止まり、瞼の裏に貼りつくような真の闇に襲われた時、やっと日本人はカバンの中に懐中電灯があることを思いだす。

しかし旅先の暗闇で荷物から懐中電灯を見付け出すことはほとんど不可能なのだ。

 

 

 先の拙文≪復興は平和の礎(民主党とマスコミの続き)≫にも書きましたが、原発が「原発ジプシー」と言われる悲惨な扱いを受けて居られる方の働きのお陰で稼働している事を知り愕然としました。

曽野氏は、「原発ジプシー」の件を御存知でしたか?!

 

 

 

 清潔な飲める水を得ることもまた、通常は望めない賛沢な暮らしといえる。今回も日本の救援組織は、かなり素早くペットボトル入りの水を被災者に配ったと思われる。しかしもしそれがなければ、すぐにコレラ、チフスなどの細菌性の感染症は蔓延する。その時、患者全員に輪液が可能でなければ、今でも人は簡単に死ぬのである。

 過去の戦争と、文明から遠く離れた荒野と、現代社会から取り残された貧しい暮らしに訓練され続けて生きて来たから、私は東日本大震災までの日本を、天国だと言い続けて来た。しかしそのような日本を、格差のひどい社会だと言った政治家や学者が現にいたのもほんとうだ。

 

 

 この「日本を、格差のひどい社会だと言った政治家や学者が現にいたのもほんとうだ」との曽野氏の非難も先の「原発ジプシー」の方々の存在を知って居られての御見解なのでしょうか?!

それに、「コレラ、チフスなどの細菌性の感染症」への対応は、多くの先人たちの努力の賜物なのです。

その恩恵を受けるのが当然との間隔で、感謝せずに甘受していて曽野氏は心が痛まないのですか!?

 

 

 たった一回の地震で、日本の誇るあらゆる施設も物自体もそして当然その結果としての制度や産業も、部分的にだが消失した。どんな事故も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない。私たちは千年に一度の災害を体験し、その現実を教えられたのである。

 

 

 曽野氏は、広島、長崎をお忘れですか!?

 

 

 今回(我が家もその一例だが)、あちこちで古い建物は微細な変化もなく済み、プレハブ住宅には亀裂や狂いが生じた事実が出ている。

業界はそれを重く見なければならない。われわれの祖先である仕事師たちは、自然と相対しながら自然に学び、手を抜かず、自ら働いて自然の脅威と妥協する手段を学んだ。

 

 

 神戸の地震の際に倒壊した古い家屋の多くの屋根は祖先から受け継いできた「瓦屋根」ではありませんか?!

そして、筋交い、火打ちの適用を制定した建築法の改正前の家屋が多かったのではありませんか?

 

 

 

 同じようにもし謙虚に今回の危機に学んで、浮わついた生活から離れ、忍耐と技術を学ぶ世代が出れば、日本はさらに伸びるだろう

冒頭で述べたように、日本人は、本来は忍耐心も研究心も充分にある民族なのだ。

地震が近年眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされた精神を揺り動かしてくれれば、多くの死者たちの霊も少しは慰められるかと思うのである

                                      

 

 

この最後の件(くだり)は、石原慎太郎氏の「津波は天罰」発言との類似性を感じます。

 

 

 その上、曽野氏は『週刊ポスト(2011.4.8号)昼寝するお化け』では、次のように書かれておられます。

 

 

 民主主義しか体験していない世代は、外から見ていて、この異常事態にかなり無様で硬直した反応を見せた。彼らは戦後の新しい教育を受けて来た人たちで、この世には運の部分があることも理解できなかったのだ。津波に襲われた町では、一メートルだけ高みにいた人、一秒だけ早く走り出せた人が生きた。一メートルだけ偶然低地にいて波に攫われた人、高齢で一秒だけ早く走り出せなかった人は死んだ。

これは運が左右したのである。生きた人の心がけがよかったのでもなく、死んだ人が悪いことをしていたのでもない。

 もちろん運がすべてではなかった。

私はかねがね人生は運半分、努力(学習)半分だと思っている。しかし運などというものの存在を、日教組的教育は教えなかったのだろう。何しろ皆がいい子で、平等と公平を何より大切だというような思考では、現実を正視する勇気も教えなかっただろうから。平等と公平は現世における我々の悲願ではあるが、決して現実ではないのである。

 私たちはもちろん運よりも努力を信じて生きたい。

しかし人間の生涯の成功は、決して努力だけで達成できるものでもない、という謙虚さも教えるべきなのだ。

 想定できる数字で計算すると八ッ場ダムは要らないと合理的に判断され、原発の構造も防潮堤の高さも想定される限りの危険を踏まえて設計された。しかし現実には、先祖代々その土地に住む人たちも、現場で働いていた関係者たちもこぞって言うように、今回の地震と津波は「千年に一度」の規模だったのである

 

 

 

                                                                                                        

 

被災した方々を運が悪かったと片付ける曽野氏の神経は石原氏と同類なのかしら? 
 
 それに、今回の地震並び津波は、先に掲げた「貞観(じょうがん)津波」或いは、先の拙文≪
復興は平和の礎(東京電力、マスコミと検察)≫に引用しましたように、1896年(明治29年)615日に発生した巨大地震(M8.28.5)による「日本の本州で観測された津波では最も高い波高38.2mを記録した明治三陸大津波、又、1960年(昭和35年)のチリ地震での、「地震発生地のチリ沿岸部18mの津波」を考慮した対策(堤防等)が取られていれば、多くの方々が助かっていたかもしれない天災だったのです。

 

運の問題ではないのです。

高齢者施設、病院、公共施設等を、これらの津波を考慮して高地に建設していたら……

 

決して、今回の地震津波は「日本人の怠惰で甘やかされた精神」を揺り起こす為に発生したのではありません。

そして、「多くの死者たちの霊」を慰めるのは、ご遺族の方々への温かい支援ではありませんか!?



 それに、私が通っているスポーツクラブのトレーナーは日々一生懸命トレーニング方法を学習され努力されておられます、(簿記の2級試験も通っています)でも正社員ではありません、今回の影響で、スポーツクラブが破たんしたら、彼は路頭に投げ出されます、これも運でしょうか?!

 

 

更に先の引用文は次のように続いています。

 

 

 前の戦争を知っていた私たちの世代は、今回の地震に遭ってもあまり慌てていない。戦争中は非常時だったから、今までの生活環境がすべて壊れる現実の経過を、目のあたりにして育ったからである。

 人間はなかなか死なないものだ、ということも知った。しかし濡れて寝たり、夜通し空爆や余震で浸られないとどんなに疲れるものであるかもわかった。貧しい暮らしをすると、人間性がむき出しになって、自分の中のややましな部分も卑しい部分も、むき出しになる怖さも見た。だから自分が嫌な奴だと他人から思われないためにも、できるだけこういう非常事態がおきないでいてほしい、と願い続けて来たのだ。

 

 

天災を、「日本人の怠惰で甘やかされた精神を……」に関連付け、又、多くの方がお亡くなりになられているのに「前の戦争を知っていた私たちの世代は、今回の地震に遭ってもあまり慌てていない」、「人間はなかなか死なないものだ、ということも知った」と書かれる作家曽野綾子氏は、被災者の方々への心配りが欠如した(元作家?の)石原氏的感覚の持ち主と思えてなりません。

 

 

 

何しろ曽野氏は『週刊ポスト(2011.2.25号):「他者への奉仕」が育む「ほんとうの自由」』には次のように書かれておられます。

 

 

 二〇〇〇年の夏、私は教育改革国民会議のメンバーとして、主に人間性を討議する第一分科会に属して働いていた。その答申の報告前文は、……

 ……小学校と中学校では二週間、高校では一カ月間を奉仕活動の期間として適用する。これは、既に社会に出て働いている同年代の青年たちを含めた国民すべてに適用する。そして農作業や森林の整備、高齢者介護などの人道的作業に当たらせる。指導には各業種の熟練者、青年海外協力隊貝のOB、青少年活動指導者の参加を求める。これは一定の試験期間をおいてできるだけ速やかに、満一年間の奉仕期間として義務付ける」

 

 

 

 又、同じ『週刊ポスト』に、

石原氏は「徴兵制もしくは奉仕労働で若者を叩き直せ」と息巻いておら得ます。

 

 作家である御両人は、「若者が会社に入ると「全く有無を言わせずの奉仕労働的な仕事」に従事される」事を御存知ですか!?

ですから、「社畜」等との言葉もあったではありませんか!?

 

 私も何年もその苦役に耐えてきましたよ。

 

 そして、「社畜」、「働き蜂」と言われる方々のお陰で、今の日本があり、御両人も大層ご立派な生活を営む事が出来ているのではありませんか!?

 

 

 曽野氏や石原氏のように作家の肩書きで意見を述べる前に、否!実社会で御活躍されてから、作家となるべきではないでしょうか!?

 

 私は、大学の恩師から、大学に残る前に、実社会での経験を積むべきだと諭されました。

(しかし、実社会に何年も留まりはしましたが、脱出して、イタリアの世界第1のテノールとして活躍されたマリオ・デル・モナコ先生のお宅に居候してしまいました)

 

 

 曽野氏の大好きなアフリカの生活で、作家がどうやって暮らして行くのでしょうか?

日本では、曽野氏のエッセイが「好評連載ESSAY」と銘打たれ『週刊ポスト』に掲載されたりし(何故好評なのかは私には分かりません、しかし、御同業の林真理子氏も『週刊文春』でコラムの連載を続けています)又、本も売れたりして収入が入ってきますが、その読者への「お陰さま」のお気持ちが無いのでしょうか?!

読者あっての作家ではないのでしょうか?!

 

 

 曽野氏は、「私はかねがね人生は運半分、努力(学習)半分だと思っている」と書かれておられますが、
曽野氏には「お陰さま」の心が欠如しているように思えてなりません。

 

 先に掲げましたように、曽野氏の非常用の備蓄品もどなたかが作られたものです。

(私が、感嘆する「ペットボトル」も)

 それに、曽野氏の視野が余りに「近視眼的」に思えてならないので、「曽野綾子 近視」で検索しましたら、次の頁を見る事となりました。

 

 

 

月刊「聖母の騎士」 3.連載・生活のただ中の神[16

 

 そして、次のような記述を見ました。

 

 

 

 もう少しで五十歳になろうとする数年間に、私はやっかいな眼の病気にかかった。

 もともと私は生れつきの強度の近視で、乱視もあり、眼鏡で一応は矯正できてはいたが、生れてこの方ものを鮮明に見たという記憶がない。人の顔をほとんど覚えられず、他人に会うと、この方に見覚えはないのだが、過去にいつお会いしていたのだろう、と申しわけなさで緊張していた。だから接客業だけにはつきたくない、家でこっそり一人でできる仕事がいいと思って作家になった、という感じもある。

 私の視力はいつも問題だった。昔なら重い分厚い眼鏡をかけなければならなかったので、その眼鏡はいつも鼻の上でずり落ち、厳密な意味で度が合わない状態であった。だから一つには視力が出ない。しかしやがて発達したコンタクト・レンズのおかげで、私の眼はどうやら少し使い物になるようになった。それでも異物を眼に入れるというのは、辛いこともあった。少し埃っぽい場所に行けばすぐ眼は充血する。少し風が吹けばレンズがなくなることも始終だった。

 

 

 

 確かに、曽野氏ご自身は「近視」でご苦労されたようです。

しかし、不自由ながら「コンタクト・レンズ」が役だったら、コンタクト・レンズを今の状態までに発展させて来られた多くの方々への感謝の気持ちがあって当然と私は思うのです。

(曽野氏が、アフリカでの生活を引き合いに出して「水と電気はどれほどの力を持つものか、日本人は理解していなかった」と書かれるなら、「コンタクト・レンズ」の力も御認識すべきです)

 

 

……

 白内障など今では、当日病院へ行って手術を受けて、その日に帰れる病気である。しかし一概にそうも言えないケースもある。私のように強度近視の眼は、硝子体がねばねばしたものではなく、水のようになっているので、超音波を利用した手術を行う場合にも脱出(ヘルニア)を起し易い。術後の視力を保証できないのも、一つにはそういう理由からであった。

 

 

 「白内障など今では、当日病院へ行って手術を受けて、その日に帰れる病気である」の件も、多くのお医者さんの努力と、又、時には、失敗された患者さんの犠牲による手術方法の改善、進歩の賜物の筈です。

 

 

 検査が続く内に、私の視力はどんどん悪くなった。私は読み書きができなくなり、数本の連載をすべて休載するために、一日、複数の出版社をお詫びに歩いた。……

 結果だけを簡単に述べると、私の眼の手術は信じられないほどうまく行ったのである。ドクターの腕がよかったので、硝子体の脱出もなく、もともと生れつきの強度の近視の眼の構造が幸いして、私の眼は眼内レンズもなしで網膜の上に焦点が結ぶようになった。つまり単玉カメラの焦点が合ったようになったのである。五十年間、眼鏡なしではほとんど見えなかった人間が、突然、世の中のすべてが透明に見えるようになったのである

 見えない人生から、見える人生になるなどということを、私は想像したこともなかった。人間の体の機能は、生れつきより悪くなることはあっても、よくなることはめったにないものだ。皆肉体を使い減らして、老年になれば、あちこち不都合だらけで生きている。それでも、命のある間だけ保てばいいとしているのだ。

 

 

 何故、この時も、先と同様に多くの方々への感謝の思いを抱かれなかったのが私には不思議ではなりません。

でもその不思議は、次の不思議へと続くのです。

 

 

 ……

 しかし純粋に医学的な統計の上で「四万人に一人の成功例」ということになる視力を頂いた時から、もしかすると神さまは、私のことを覚えておられるのではないか、と思うようになった。つまりたくさんの友人が私の名前を「連呼」してくださった結果かな、選挙と同じかな、と私も態度の悪いことを考えた。……

 眼の回復だけではない。私はすべてを、努力せずに神から受けた。だからこそ、パウロが用意してくれたこの感謝の言葉がすべてを言い尽していると思ったのである。私は何か神にお返しをしたいとも思った。しかし知人のシスターによれば、神にお返しをするなどというのは一種の思い上がりなのだそうだ。天の「パパ」がくれたものは、ただ喜んでもらっておけばいいと言うのである

 

 

四万人に一人の成功例」とはいえ、それは御医者様のお陰であり、又、その成功に至るまでの多くの方々のご尽力のおかげではありませんか!?

(又、3999人の失敗例があったからこそ、4万人目の曽野氏の手術が成功したとは思われないのでしょうか!?)

 

眼の回復だけではない。私はすべてを、努力せずに神から受けた」と書かれるのなら、
今の日本人への苦言を呈するのはお止めになるべきです。



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