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変人達の論理破綻

2005年11月20日

宇佐美 保

 「構造改革」を叫ぶ小泉首相は、日本人の頭と心の「構造改革」を企てているのでしょうか?

だとしたら、その「構造改革」はかなりの程度成功を収めているようです。

何しろ、小泉首相が靖国神社に参拝しても、日本国内からの反対の声は弱々しく、中国韓国からの反対の声に対しては、「内政干渉だ」の大合唱をしています。

 

 大阪高裁で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に違憲判断を下されるや、小泉氏は私的を装い靖国神社に10月17日参拝しました。

この件に関して、朝日新聞(当日の夕刊)に、次の記事が載っていました。

 

 首相は公用車で靖国神社を訪れ、参拝した。これまで玉串料の代わりに払ってきた献花料は払わなかった。参拝直後、記者団の質問には答えなかった。参拝後の同日昼に開かれた政府・与党連絡会議で首相は「総理大臣小泉純一郎としてではなく、一人の国民として参拝した。二度と戦争を起こしてはならないという不戦の決意で祈った。今日の日本があるのは、心ならずも戦争に行かれた方々のお陰である。アジア諸国との関係を重視し、未来志向で進めたい」と語ったという。

 

 このような談話を発する小泉氏は、頭も心のない方と私は感じました。

まずは頭の件について言及します。

 

 小泉氏は、“憲法20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する”を盾にして“一人の国民として参拝した”と主張していましたが、小泉氏を長とする自民党の新憲法草案には次の記述があります。

 

国民の責務 第12条

この憲法が国民に保証する自由および権利は、国民の不断の努力によって、保持しなくてはならない。国民はこれを乱用してはならないのであって、自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責任を負う

 

 従って、小泉氏は「信教の自由」の権利を「公益に反しないように行使する責任を負う」のですから、国民の一人である小泉氏も当然、この権利を「乱用してはならない」のです。

 

 そして、イラクでの人質事件の際は、人質になられた方々に、「自己責任」の声を上げ、「損害補償」を被害者に負わそうと計った経緯からすれば、小泉氏の靖国参拝の結果、日本の経済界(国民)が被った損害に対して、小泉氏は、賠償責任を負ってしかるべきです。

 

 当時の新聞記事(毎日新聞2004年4月16日夕刊)を次に引用させて頂きます。

 

 退避勧告の問題をめぐっては中川昭一経済産業相が「人によってはまた行きたいと言っている。万一のときは自己責任を負ってください政府、関係者、(北海)道庁、外国、イラクの方々に迷惑をかけないで自己完結でやっていただきたい」と、被害者らがこれ以上イラクに入らないようけん制。・・・

 

 更に、「信教の自由」のもとに、小泉氏が靖国神社へ参拝したとしても可笑しな事になります。
 靖国神社はお寺ではなく神社なのですから、靖国神社は亡くなった方々を(又、A級戦犯の方々も)当然神として祀られているのです。

 従って、靖国神社に参拝する限りにおいては、小泉氏の“日本では亡くなった方々は、全て仏となり、生前の罪は許される”との屁理屈はその根拠を失い、A級戦犯の方々も神として認識し、崇め奉る事になるのです。

 

 ですから、中国韓国側が異議を唱えるのは尤もと存じます。

そして、日本人自身が、又、ご遺族の方々が異議を唱えないのが不思議でたまりません。

A級戦犯の方々が、墓地に葬られておられ、そこへ小泉氏が墓参するのであれば、小泉氏の理屈に私は異議を唱えるつもりはありません。

更に、A級戦犯の方々は、東京国際裁判で勝手に戦犯とされたのであって、彼らに責任がないとの見解を持たれるなら、真の責任者を日本独自ででも裁くべきです。

更に又、先の戦争では、日本人の誰にも戦争責任がないと言うのなら、今後、日本がどんな戦争を始めようと、誰もその責任を負わない事となるのですから、無責任極まりません。

「戦争オタクの政治家」にとっては、「戦争はヤリドク」となってしまいます。

せめて日本は、「国際刑事裁判所の設立条約を米国の思惑に同調せずに、早急に批准すべきです。)

http://homepage3.nifty.com/wfmj/icc/ICC.htm(参照)

国際刑事裁判所
目的
国際刑事裁判所とは、ジェノサイド(特定の民族や集団に危害を加える集団殺害)や、紛争の起きている地域で拷問や虐殺を行った人など、戦争犯罪を犯した個人の責任を裁く裁判所で歴史上初めてできる常設の国際法廷です。


 

 次に、小泉氏の心の問題に触れてみます。

 

二度と戦争を起こしてはならないという不戦の決意で祈った”と言うのならば、先ず、その戦争で迷惑をかけた他国の犠牲者へ手を合わせるのが人の道ではないのでしょうか?

更に、“今日の日本があるのは、心ならずも戦争に行かれた方々のお陰である”の談話は詭弁です。

今日の日本があるのは”戦勝国側(中国韓国も含めて)が多額の賠償金を請求しなかったお陰、領土割譲を請求しなかったお陰と第一に認識すべきではありませんか?

(そして、戦後の多くの方の努力のお陰と)

 

 そして、“心ならずも戦争に行かれ(命を落とされ)た方々”は、自衛隊を軍隊に変貌させようと計っている小泉氏の参拝を快く感じられるのでしょうか?

更に、“二度と戦争を起こしてはならないという不戦の決意で祈った”との小泉発言を信じられるでしょうか?

 

 それなのに、多くの方々が小泉氏に洗脳されているようです。

小泉参拝の翌日、私は、ライオンズクラブ等で活躍されておられる近所のご年配の方とバスに乗り合わせました。

新聞片手にその方は、

“小泉首相の靖国参拝に中国韓国が反対するのは内政干渉でけしからん!”

と憤慨されました。

そこで、私は、先の拙文《世界平和を望まれる天皇陛下と靖国に拘る奸臣たち》や、小泉首相の靖国参拝(お蔭様を忘れずに)》にも引用させて頂きました、文芸春秋:2001年9月特別号に古山高麗雄氏の書かれた「万年一等兵の靖国神社」に紹介されている周恩来首相(当時)の見解を披露させて頂きました。

(以下に再度引用させて頂きます。)

 

 ……一九七二年、当時の首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、当時の中国の首相周恩来は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」と言って、賠償請求を放棄した。だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争青任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民を納得させられない、というのである。……

 

 そして、その方は

“そうか!そんな事があったのか!知らなかったよ、だったら中国の反対は尤もだ”

と納得されました。

でも、又

“それにしても、東京国際裁判は不当だよな、
戦勝国が勝手に敗戦国に戦争責任を一方的に押し付けるなんて!”

と憤慨されました。

 

 ですから、これ又、拙文《政治も外交も社会通念が基本》にも書きましたが、以下の点を話しました。

 

 第一次世界大戦で負けたドイツは、敗戦国ドイツに対して1320億金マルク当時のドイツの国家予算の17年分)という苛酷な損害賠償(日本の国家予算は約80兆円ですから、その17倍は1360兆円)を請求され、領土も割譲された。

東京裁判が不当と言うなら、従来の戦争の常識である賠償金(ドイツに習って1000兆円以上)と領土の割譲を行うのですか?

 

 このような点を話しましたら、その方は、

“成る程、そうですか!
今までそんな情報、見解は全く知らされていなかった”

とおっしゃいました。

 

 こんなわけですから、先の朝日新聞には、小泉首相に洗脳された方(?)の次の談話も載っていました。

 

 都内に住む20代の女性も、朝のニュースで小泉首相が来ると聞き、初めて靖国神社を参拝した。

「日本を守るために亡くなった方に経緯を表するのがどこが悪いんでしょう。正直言って内政干渉ってうざい」と話した。

 

 でも、この女性は失礼ながら、靖国神社の成り立ち、更には、日本が中国韓国に多大な迷惑をかけた過去をご存知なのでしょうか?

又、A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝に反対する中国側の思いをご存知なのでしょうか?

 

 朝日ニュースターの11月5日放映の「パックインジャーナル」にて、松下政経塾出身で、政策、広報戦略、世論調査に関するコンサルティングを行う会社の代表であり、且つ、東洋大学非常勤講師の横江公美氏は、次のように発言して番組出席者そして私を驚かしました。

 

 小泉首相の小さな政府、強い日本と言う理論を持った自民党を作りたいと言うのが普通の人には理解されやすいし、又、私は、その小泉さんのスタンスは良いと思っています

 

 小泉首相の靖国参拝については、私の身近にないもので、勉強していないから分からないから、賛成反対ははっきりしていないのですが、ただ、中国や韓国に謝る必要はない

今までの謝罪外交は続ける必要はない。

戦争を知らない私からみれば頭を下げている外交に見える。

中国韓国との(戦後の謝罪)関係は終わっているODAの問題で解決と語ろうとしていたのを、他の方の発言で中断されました。)。

 

 何故、松下政経塾を出て、東洋大学非常勤講師として、若い人々を教える立場の人が、“靖国問題を身近な問題でないから勉強していない”で済むのでしょうか!?

更に、“戦争を知らない私からみれば頭を下げている外交に見える”で許されるのでしょうか?

知らなかったら勉強すべきではありませんか!?

 

 横江氏のような日本のオピニオンリーダー的な方が、「靖国を知らない」「戦争を知らない」で済ましてしまって良いのでしょうか?

同席者の田岡俊次氏(朝日ニュースターコメンテーター)は“知った後に、認識が可能”と発言されていました。

(至言と存じます)

少なくとも知らないのだったら、横江氏のように影響力を持つ方は“謝罪外交はやめろ!”とか“中国韓国との(戦後の謝罪)関係は終わっている”の類いの発言を控えるべきと存じます。

 

 そして、川村晃司氏(テレビ朝日コメンテーター)の

“謝罪外交は今までやっていない”

藤井裕久氏(民主党・前衆院議員)の

“満州事変、日支事変以降は日本の侵略戦争”

との発言に同感です。

 

 更に、横江氏は

“米国のイラクへの攻撃は、私は当初反対の立場でしたが、行ってしまった今は・・・”

と、行ってしまった米国へは同盟国の日本は従わざるを得ない的発言をされました。

 

 当然ながら、

“それでは、初め天皇も反対していたが、行ってしまったからにはしょうがないと、更なる既成事実を積み上げて、あげくの果ては泥沼に入り込んでしまった日中戦争なんかと同じになってしまう。”

との田岡氏の反発を食らっていました。

この「行ってしまったら反対出来ない風潮」は、「イラクへの自衛隊派遣」においてもそうです。

イラクへの自衛隊派遣を反対するのは、
イラクの地で命がけで働いている自衛隊員の方へ失礼だ!”

との発言が、「イラク自衛隊派遣反対の声」を押さえ込んでしまったのです。

 

 このような押さえ込みは、「靖国参拝」でも然りです。

“靖国反対は、国の為に命を落とした「英霊」に対して失礼だ!”

的な発言です。

この類いの発言に対して、次のような反論を誰が口に出来ますか?

でも、私が戦死者として靖国神社に祀られたら次のような声をあげるでしょう。

私は、国の為に戦ったのではない、赤紙が来てやむを得ず戦場に引き出されたのだ!

私は、国の為に戦ったのではない、家族や恋人や大事な人の為に戦ったのだ!

私は、「英霊」なんかではない!単なる「戦争被害者」だ!

「英霊」などと言葉だけで持ち上げるな!
 私は「神道」など信じていないから「軍神」などに祀られるのは真っ平御免蒙る!

私達を、「英霊」「軍神」と祀りあげることで、新たな「戦争被害者」が生み出されるのは本意ではない!
それに、一般人である私が戦地で死んだということで神に祀られてよいのかしら?なんだか、神様に申し訳ない気持ちがします。(文末の「補足:1」をご参照下さい)

戦地へ私を引きずり出し、戦地で私をいじめ抜いた上官達と一緒に祀られるのはまっぴらだ!・・・

私は、人を殺したのです。敵国の方とはいえ、戦争とはいえ、人を殺した私を「英霊」などと崇められては、私の心は穏やかではありません。

どうか、私が殺めた人たちの霊をこそ慰めてください。(文末の「補足:2」をご参照下さい)

 私は、韓国人(中国人)です、でも日本軍に徴用されて、私は同国人である同胞達を殺したのです。

こんな苦しみを参拝に来られる方々は分ってくださるのですか?・・・

 

 日本人の方は、自国の戦死者には、今もって「英霊」と崇めておられながら、中国韓国の方々には“日本の戦争責任を、いつまで、謝れというのだ!いい加減にしろ!” と非難していますが、おかしくありませんか?

「謝る期間」は「崇める期間」と、同等ないしは長くて然るべきではありませんか?!・・・

でも、残念ながら、

死人に口無しです。

私が、どんなにもがき苦しもうと、誰も私の声を耳にする事は出来ないのです。

 

 ですから、私は、今現在靖国神社に祀られておられる方々の中には、私の思いと同じような方々もおられるのではないかと憶測推測して、その方々に代わって以上を記述したのでもあります。

 

 “小泉首相の小さな政府、強い日本と言う理論を持った自民党を作りたいと言うのが普通の人には理解されやすいし、又、私は、その小泉さんのスタンスは良いと思っています。”と発言した横江氏に対して、司会の愛川欽也氏は“横江氏さんは、今テレビで小泉首相を支持している若い人、お母さん達と全く同じ発想です”旨と発言し、“日本が強くなると何故良いのですか?”等と色々横江氏に疑問を投げかけていました。

 

 そして、

“他国に頭を下げる日本が許せない”

と言う横江氏は、(勿論、小泉氏も)「強さ」を誤解しているのではないでしょうか?

 

かつて、神様仏様稲尾様と崇められ西鉄ライオンズを何度もプロ野球の王座へと導いた稲尾和久投手の言動を私は忘れる事が出来ません。

“私は、父親から言われている言葉

稲穂(稲尾)は、実れば実るほどに頭を垂れる

を心掛けている。”と稲尾投手は常々語って、そのように行動されていたのです。

 

 最近の日本人は「強さ」を全く誤解しているようです。

迷惑をかけた人々、迷惑をかけた国々に頭を下げる事こそが、立派な事ではありませんか!?

弱虫ほど、意地を張って謝る事を拒否するのではありませんか?!

一度謝れば、次から次へと謝罪を要求される事が不安となって謝ろうとしない弱虫が沢山居るのではありませんか!?

そして、そんな弱虫を「強い男」「筋を曲げない男」と勘違いする方々が大勢居るのでは?!

 

 ところが、日本人の多くが「強い男」と認識している小泉氏は、先の「日米首脳共同記者会見」で次のように発言しているのです。

(朝日新聞 11月16日付け)

 

 首相 二国間問題、国際社会での日米関係の重要性、世界の中の日米同盟という視点から話した。日米関係が良ければ中韓はじめ世界各国と良好な関係が築けるというのが基本だ。日本が国際社会の平和と安定に役割を果たすため日米関係は重要だ。国連改革でも協力していきたい。米国は日本の国連常任理事国入りを強く支持している。

 

 この発言から、小泉氏は

「虎の威を借りる狐」

でしかないと感じました。

かくのごとき小泉氏が「強い男」と思えますか?

 

 このような小泉首相の登場以来、日本は従来あった大事なものを失いつつあるようです。

(いや!失ってしまったようです。)

「勝ち組」「負け組」に日本は二分割されて行きつつあります。

私は、「勝ち組」「負け組」に分かれてしまう事は、或る面、当然とは思います。

又、そうあって然るべきとも存じます。

 子供たちの運動会で、誰もが平等と言う事で、皆で手をつないでゴールに入るのは異常です。

(運動会がそうなら、東大へも手をつないで勉強が出来る子出来ない子も平等に入学すべきです。

給料も皆平等であるべきです。)

ですから、運動能力の優れた体の強い子は、当然の権利として徒競走での優勝の栄冠に浴するべきなのです。

そして、その子は体の弱い子を守ってきました。

 

 言うまでもなく、優れた人、優れた企業が「勝ち組」となるのは当然と思います。

そうあって然るべきです。

競争社会に於いては、「勝ち組」と「負け組」に色分けされるのは、必然です。

でも、大事な事は、「勝ち組(強者)」は「負け組(弱者)」を助けるべきなのです。

(「負け組(弱者)」が「勝ち組(強者)」となるべく手助けすべきです。)

ところが、最近は事情が違うのです。

税制面を例にとっても、「勝ち組」が優遇されて、弱者であるサラリーマン、低所得者に皺寄せされるのです。

 

 拙文《ミーハー族の郵政民営化論》にも抜粋させて頂きましたが、

8月26日の「朝まで生テレビ!」で、荻原 博子氏(経済ジャーナリスト)が、次のように発言していました。

 

  小渕内閣の時、景気対策として、

法人税率を、34.5%から30%へ

個人所得の最高税率を、50%から37%へ、

それとサラリーマン減税を行った。

しかし、不景気になると、サラリーマン減税だけが元に戻され

法人税率、個人所得の最高税率は低減されたままだ、この点は早急に元の税率に戻すべき。

 

 と訴えておられました。

 更に、田中康夫長野県知事は次のように記述しておられます

http://gendai.net/contents.asp?c=025&id=21925

 

 畏友・森永卓郎氏の言葉を借りれば「日本は世界の中でも貧乏人から最も沢山の税金を取っている国」なのです。事実、6月に提出された政府税制調査会は、「日本は先進国の中で最も課税最低限が低い」と明言しているのです。

 言わずもがなの解説を加えれば課税最低限とは、一定の収入以下の世帯には課税しない限度額を示します。夫婦に子供2人の家庭の場合、日本は325万円。他方、ドイツは500万円、フランス403万円、アメリカ358万円、イギリス359万円。いやはや、一目瞭然。物価が最も高い日本が、最も低所得者層に国税ならぬ酷税国家なのです。

・・・

今や日本はアメリカと並ぶ金持ち優遇国なのです。日本に於(お)ける所得税の最高税率は、80年代には70%でした。現在は37%と半減しています。

 

 財務省のホームページを見ますと、課税所得と税率の関係は次のように記されています。


課税所得 税率
330万円 10%
900万円迄 20%
1,800万円迄 30%
1800万円以上 37%


 なぜ税率が37%で頭打ちになっているのでしょうか?

1800万円以上、何億、何十億円でも税の負担率は同じなのは何故でしょうか?

多くの税を負担出来る事は、人生の大きな幸せではないのでしょうか?

(しかし、その税金が有効に使われず、無駄使いばかりでは、納税意欲もそがれるでしょうが。)

年収が500万円以上になった記憶がない私には、年収を何千万円、何億円も稼ぐ方は、そのお金を何に使うのか想像出来ません?
或いは、政府に使わすと無駄使いばかりするから、自分で世の中の為になるようにとお金を使われるのでしょうか?

(高額納税者の方々には、税務者等から、高額納税手帳とか、証書とか、賞状などが発行されているのでしょうか?)

 

「しんぶん赤旗」(9月17日) には次の記述があります。

日本経団連(会長・奥田碩トヨタ自動車会長)は十六日、消費税増税と大企業減税の継続・拡充を柱とする二〇〇六年度税制「改正」に関する提言をまとめました。

 提言では今後の歳入確保策として「消費税の拡充を中心に据えるべきである」として、二〇〇七年度をめどに「消費税率(地方消費税を含む)を10%まで引き上げ、その後も、段階的に引き上げてゆく必要がある」としています。

 一方、法人課税については研究開発・IT(情報技術)投資促進減税の継続・拡充を求めるとともに、〇七年度をめどとする税体系の「抜本的見直し」の一環として、「法人実効税率の引き下げを断行すべきである」と提言しています。

 

 こんなに「勝ち組」だけが優遇されていたら「負け組」はどうなるのですか?

「負け組」企業が、脱落するのはやむを得ません。

しかし、その企業に属せざるを得ない人たち、また、そこから弾き出された方々は、どうなるのですか?

「勝ち組」は税金を多額に払う事で、
これらの「敗け組」の方々に手を差し伸べるべきではありませんか?

(「勝ち組」が、“「負け組」に手を差し伸べていたら、自分たちも「負け組」になってしまう。もっと余裕ができてから「負け組」を助ける”と言うのならば、“高速道路の赤字が解消されたら、無料にする”と言っていたのと同じです。)

 

 更には、「障害者自立支援法」が来年4月から施行されようとしています。

週刊金曜日(2005.10.21号)には次のように記述されています。

 

 自立支援法案では、身体・知的・精神障害を一元化して福祉サービスを提供する。福祉サービスは「介護給付」「訓練等給付」「自立支援医療」「補装具」と、市町村が行なう移動介護などの「地域生活支援事業」だ。

 この法案の特徴は、福祉サービスを国の義務的経費とする一方で、利用料を所得に応じる「応能負担(利用する側の支払い力にじて負担:筆者注)」から、利用したサービス量に応じる「応益負担(利用する側の利量にじて負担:筆者注)」(一割負担)に切り替えたことだ。加えて施設での食費、日用品費、光熱費、個室費、医療費などが全額自己負担となる。グループホームと適所施設を利用する知的障害者で月額八万円以上となる試算だ。

・・

 障害者福祉に「応益負担」が持ち込まれた背景には、現行の支援費制度の財政破綻がある。障害者自らがサービスの内容を決め、事業者と直接契約する支援費制度(応能負担)は二〇〇三年度に導入されたが、実施初年度から一二八億円の予算不足が生じた。自立支援法案は障害者本位の施策をどう立てるかではなく、財政問題をどう解決するかの視点だ

「応益負担」は将来の介護保険との統合を見据えたものでもある。

 障害者本人だけでなく、家族にまで「一受益者負担」を求めるのは福祉の公的責任を否定するものだ。自立支援法とは「自立支援」という名の障害者「自己責任」法といえる

・・

 精神障害者政策は、社会防衛・治安対策として差別や偏見を助長してきた。したがって、身体・知的障害者対策と比べて整備されてこなかった。

・・・

 だが、障害者本人の思いは別だ。

なぜなら「精神障害者通院公費負担制度」で五%の自己負担だった医療費が、一割負担となるからだ。低所得者に対する上限額は定めているが、対象を市町村民税非課税世帯とし、

統合失調症や狭義の躁うつ病などの「重度かつ継続」して医療を必要とする障害者に範囲を限定した。対象外は、医療保険(三割負担)となる。

 

 何故このように、弱者(失礼な表現かもしれませんが)に対して過酷な政策をとるのでしょうか?

 

 ところが、小泉首相の提灯持ちに成り下がってしまった(?)評論家田原総一朗氏は、民主党の前原誠司代表が行った衆院本会議での代表質問(928日)に関して、次のように記述していました。

(週刊朝日(2005.10.14号)のコラム「ギロン堂」)

 

 前原代表は「真の改革を競い合いたい」と力説したが、「真の改革」とはいったいどういうことなのか。小泉自民党は「構造改革」を一枚看板に掲げ、小さな政府を目指している800兆円という超膨大な借金を抑えるためだが、それでも借金は膨張し続けている。

 民主党の「真の改革」とは、たとえばこの借金を「自民党とは違って確実に減らす」ということなのか。

 借金が増え続けている要因の一つは、社会保障関係費が歳出の43にも達したことだ」しかも、毎年1兆円も膨らみ続けている。民主党ならば、社会保障関係費を思い切って減らすことができるのか公務員の人件費(給与と人数)を自民党以上に削減できるのか。先送りにすればするほど悪化する国民に対する増税を、もたついている自民党より早く敢行するということなのだろうか。

 

 「疑惑の総合商社」とバッシングを受け、斡旋収賄罪などで懲役2年(控訴中)の判決を受けた鈴木宗男議員は

政治は弱い立場の人の為にあるもの

(週刊文春2005.11.24号)と語っています。

 

 なのに、何故、田原氏は“社会保障関係費を思い切って減らすことができるのか”との声を上げるのでしょうか?!

 

 日本人の多くは、老後(年金等)に不安を抱いています。

田原氏の言のごとく“小泉自民党は「構造改革」を一枚看板に掲げ、小さな政府を目指している”との事なら、給与等が税金から捻出されていない郵政を民営化するのではなく、他の役所の民営化を図るべきではありませんか!?

国会議員の定員削減だけではなく、議員の民営化を図ってはいかがですか?!

(以前、

田原氏は、“議員の活動費は、1億円かかるのは当然”と議員達の提灯持ちをしていました。

一体全体、1億円でいかなる議員活動をしていると言うのでしょうか?

議員活動費の明細書を公開して貰いたいものです。

どの道、悲しい事に選挙の事前運動費が大半なのでしょう。

数ヶ月前、年金問題がテレビで盛んに報じられていた頃、「議員年金は意思問題」に絡んで、江藤隆美前議員の、次のような発言が画面から流れてきました。

“俺は、議員年金が廃止になる事はかまわないよ。

しかし、自分が払った分だけは、元を取らしてもらうよ。

俺なんか毎月5〜60万は慶弔費を払っているのだからな〜〜!”

 

 このような戯言が、何故無批判にテレビから流れ出てきてしまうのでしょうか?

自分が払った分だけは、元を取らしてもらうよ”とおっしゃいますが、江藤氏が払った年金積立金は、結局は私達の税金からでています。

(ですから、逆に、私は江藤氏に、私達が払った税金分だけ仕事をされたのか!?と問いかけたいのです。

地元への利益誘導ではない、日本の政治家としての仕事!をです。)

そして、毎月5〜60万の慶弔費は、江藤氏は“議員時代に世話になった方々へ・・・”と語っていたようでしたが、

江藤氏の選挙地盤を息子さんの江藤拓議員が、引き継いでいるのですから、
その慶弔費は、江藤拓議員の選挙事前運動費ではありませんか!?

いわんや、事前運動費ではなくとも、引退された国会議員が慶弔費を月々5〜60万支払うのは異常です。

その為に、私達の税金を投入して貰いたくありません!

 

 何週間か前のパックインジャーナルにて、二木啓孝氏(日刊ゲンダイニュース編集部部長)は、次のような話を披露されました。

 

 或る財界人が、小泉首相に靖国参拝に対して苦言を呈したら、
“政治は経済とは違うのだ!”と大声を上げ財界人の口を封じてしまった。

 

 小泉氏は「政治」には、特殊な才能が必要と感じているようですが、私には逆に今の政治家達は「変人集団」のように感じてなりません!

 

サンデー毎日(2005.11.27)の佐高信氏のコラム「政経外科」には、次のような呆れ返る事実(?)が紹介されています。

 

 十月二十九日に岐阜県弁護士会の主催で、護憲の私と改憲の小林節に弁護士の宮尾耕二が加わって「憲法改正是か非か」というシンポジウムが開かれた。その折、配られた資料に改憲派国会議員のナマナマしい発言が載っている。・・・

「憲法とは何かと言えば、やはり愛国心の一番の発露なのではないか。そして、その根底にあるのは何かと言えば、家族だ」

「戦後、日本民族弱体化政策、バラバラにして、二度と一致結束して立ち上がることがないようなことを主眼においた憲法の影響結果がいま現れているのではないか。それを払拭するような、公共のために、国のためにという奉仕もするし、国を守るために義務・責任を負うんだということをはっきり書いてもらいたい

神道は宗教なんですか。宗教じゃないように思う。天皇の権威というものは世界最高だと思う

・・・


 そして、佐高氏は次のように記述しています。

 

 戦争ほど人権をないがしろにするものはないが、
この案をつくつた者たちは、自分は戦争に行かなくてすむ特権の立場に立っている
。・・・

 

 やはり国会議員達は、佐高氏の言の「特権的立場」よりも「変人集団」であると思わざるを得ません。

 

 “憲法とは何かと言えば、やはり愛国心の一番の発露なのではないか。そして、その根底にあるのは何かと言えば、家族だ”と宣うなら、何故「国益」などと言う言葉が、“「国益」通れば「道理引っ込む」” が如きに!大手を振るって歩き出すのですか?

「国」の根底に「家族」があるというなら、「家族間」、に対する論理は「国家間」に於ける論理と同じであるべきです。

「家族益」などを振り回して「他家」の利益を蹂躙(じゅうりん)する事は許されません。

近所付き合いのない「家族」は「家族」と言えますか?!

そして、近所付き合い即ち、

「家族間」の根本原理は「汝の隣人を愛せよ!

ではありませんか!?

 

 ところが、この「汝の隣人を愛せよ!」こそが、文字面では簡単なようですが、実行するのは大変困難なのです。

 距離が離れていれば、互いの利害が大きく衝突することは少ないのですが、隣同士となると、挨拶の仕方が気に入らない!隣の木の葉が庭を汚す!隣の子供が五月蝿い!隣の犬がキャンキャン泣いて五月蝿い!などなど、色々な点が気になり、癪の種にもなり衝突します。

しかし、この簡単なようで難しい問題(でも、本質的には簡単な問題)を解決する事によって、隣人から隣人へとの輪が広がり、その輪が世界へと広がって行くのではありませんか?!

 

 このキリストのお言葉(「汝の隣人を愛せよ!」)は、お釈迦様のお言葉(母が自分の子を守るように、一切の生きとし生きるものに対しても、大きな慈しみの心を起こすべし)と同義になります。

 

 このようなお言葉が、政治にしろ経済にしろ、全ての人間社会の根本原理ではありませんか!?

(この根本原理を置き去りにして、「国益」等と言う言葉をのさばらせるから、世界は進歩しないのではありませんか?

個人個人(しっかりした個を有する「個人」))の付き合いにおいて、国籍が異なっても、「国益」(国籍)などを振りかざしません。)

 

 他人に対して慈しみの心を持たず、隣国の関係よりも遠く離れた米国との関係を重要視する人物に政治を委ねていて良いのでしょうか?!

 

 こういう方々に税金を投入するより、田原氏は 小泉自民党は「構造改革」を一枚看板に掲げ、小さな政府を目指している”と小泉氏を持ち上がるのなら、小泉氏や国会議員達には、政治の場から降りて頂いて、民間(ボランティア)の方にお願いしては如何なものでしょうか?!

そうです、政治は全て非政府組織NGO; Non-Governmental Organizations)としては如何なものでしょうか?!と思わざるを得なくなります。

 
 

 道路公団問題に於ける(族議員等から横槍を入れられる前の)猪瀬直樹氏のように・・・

更に、伊藤忠会長の丹羽宇一郎氏に首相を務めて頂けたらと思わずに入られません。

そして、政治家達、官庁関係に支払っていた分を社会保障関係費にまわしたら如何でしょうか?

(補足)

下記のホームページ(平安神宮、その特異性)を訪ねて、神社に対する認識を新たにする事が出来ました。

http://kyopics.jp/uta/archives/000503.html

その一部を抜粋させて頂きます。

 

平安神宮の祭神は桓武天皇です。現代人の感覚としては、京都に都を開いた功労者としてお祀りされているのだなということで、なんの不思議も感じないかもしれませんが、これは明治より前にはありえなかったこと。天皇も含めて人が神様として祀られることは異例なのです。

菅原道真をお祀りする北野天満宮や早良親王をお祀りする上御霊神社天皇はどうかと聞かれるかもしれませんが、いずれもその人をお祀りしたと言うよりは、怨みを持って亡くなったその人が変化した怨霊をお祀りしたというのが正確なところです。桓武天皇はなにかに怨みを持って亡くなったとか、怨霊になったという話は全くありません。ここはとても大切なポイントです。

 

 

(補足:2)

『仏教の教え 人生の知恵(河出書房新社:発行)』に掲載されている、今は亡き中村元先生が記述された「靖国問題と宗教」の一部を抜粋させて頂きます。

 

戦争についての日本の伝統的精神は、戦後には敵味方すべての冥福を祈るということであった。これを「怨親平等」(おんしんびょうどう)という。

 この精神は神道においても実践されていた。その一例として、

「慈悲の眼に憎しと思ふものあらじ

     とがある者をなほもあはれめ」

 というこの古歌は佐賀藩の『葉隠」には、神詠として引用言及されている。もとは修験道の歌であるとも言われている。

 この歌は武士たる者の理想の心境として掲げられ、しかも神道の権威のもとに説かれていたことに意味があると思う。

「慈悲」ということは、もとは仏教の説いた理想的な徳であるが、神道によっても採用し説かれるに至った。どの宗教が説いたかということが問題なのではなくて、「善いことは善い」のである。宗教や道徳体系の差異を超越している。

 さらにこの理想を武士が奉じていたということは注目すべきである。武士は戦場では斬り合いをする。命のやりとりで、逡巡は許されない。しかし戦が終ると、一切の怨みを忘れて敵を弔う。二人の武士が向い会って果たし合いをしたときに、勝者は敗者の屍骸に合掌して立ち去るのが常であった。

 戦争のあとでも同様であった。武将は味方の将士の亡魂を弔ったばかりでなく、敵軍の将士の冥福をも祈っている。

「怨親平等」の精神によるのである。生きて、敵味方に分れて戦っているときには対立があるが、死んでしまえば対立を超えるのである。元寇のあとの法要では、わが軍の将士の霊を弔うのみならず、元軍の将士の霊の冥福を祈っている。島原の乱のあとでは、殺された切支丹側の人々の冥福をさえも念じて、怨親平等の法要が行われている。

 われわれの祖先は、国と国との対立を超え、異なった宗教の間の相克を超えて、敵味方の冥福を祈ったのである。

 この崇高な、和(やわらぎ)をいとしむ日本の伝統的精袖が明治維新のころから失われたのではないかと思う。明治の政府が靖国御社を設立したときには、官軍の兵士の冥福のみを祈り、幕府側の戦後者を除外している。それから百年以上を経過した今日ともなれば、もはや薩長と幕府とを対立させるのは無意義ではなかろうか。

 そうしてこういう態度が、現在の靖国神社問題にも尾を引いている。国のために身命をなげうった人々に敬意を表し、冥福を祈るのは当然であるが、敵に廻った人々のことを考えるという日本の伝統的精神が失われてしまった。

 明治の指導者たちは、偏狭なナショナリズムに支配されすぎていたと思う。それはやがて軍国主義に通ずる道を開くことになつた。

 こういう伝統をわれわれは反省すべきではなかろうか。

 これは日本だけの問題ではない。西ドイツでも公に戦死者を追悼するということが行われているが、その際には、戦争によって亡くなった一切の人々を、敵味方を通じて追悼し、冥福を祈る。ただヒットラーだけを除く、という。

 

 私は、中村先生を敬愛して居り、実に素晴らしいお言葉と感服しますが、「ただヒットラーだけを除く」に関しては、私は疑問を抱きます。

ヒットラー」は決して「特異人物」ではない筈です。

私達の誰もが、まかり間違えば「ヒットラー」になりうるのです。

なにしろ私達の身近に大衆を意のままに扇動する能力を有し、「自衛隊」を「軍隊」に変えようとして、風向き次第では、直ちに「ヒットラー」と変貌する人物がいるではありませんか!?

 

 従って、「ヒットラー」を「特異人物」(特別な悪者)と看做す事は却って危険な事と存じます。

私は、「ヒットラー」も、又、A級戦犯ら戦争を遂行した人達の愚かさを悼み、彼らの犠牲となった戦死者、戦争被害者の霊を慰める事が必要であって、その場所は「英霊」を崇めるという靖国神社でなく、別の追悼の場で行われるべきです。

そして、その場でこそ、「戦争の愚を再認識」して「不戦の誓い」を新たにすべきと存じます。


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