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世界平和を望まれる天皇陛下と靖国に拘る奸臣たち

2005年7月9日

宇佐美 保

 今回の天皇、皇后両陛下のサイパン島訪問には、いたく心を動かされた。

特に <おきなわの塔>、そして事前に公表されなかった<太平洋韓国人追念平和塔>拝礼はさすがだと思った。

 ……

 日本政府の醜態、文字通り醜い顔が右往左往する時期に、一陣の涼風に触れた想いというほかない。

 

 以上は、小林信彦氏のコラム『本音を申せば:週刊文春2005.7.14』から抜粋させて頂きました。

 

私も、天皇陛下のご出発前のテレビで拝見させて頂いたご挨拶に感動しました。

しかし残念ながら、その際の天皇陛下のご挨拶を詳しく掲載してくれた新聞記事を私は見る事が出来ませんでした。

でも、東京新聞(628日)には、次の記述があります。

 

 天皇、皇后両陛下が二十七日、太平洋戦争の激戦地・サイパン島を訪問された。両陛下の強い意向で実現した海外への「慰霊の旅」。天皇陛下が出発を前に東京・羽田空港で述べたあいさつは、生涯をかけてすべての戦争犠牲者に心を寄せていくという姿勢を際だたせた。あいさつにはどのような思いが込められ、現地ではどう受け止められたのか。

……

 その中で天皇陛下は「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」と述べている。

 

 ここに込められたのは、サイパンにとどまらず、日本人にとどまらず、戦闘員、非戦闘員にとどまらず、戦禍の犠牲になったあらゆる人々への鎮魂の思いであり、戦後六十年を迎えた今の率直な気持ちの吐露だろう。

 

この先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」との天皇陛下の思いは、又、私達の思いでもあると存じます。

ところが、中曽根元首相は、この様な天皇陛下のお心から全く乖離した発言をしているのです。

朝日新聞(6月26日)には、次の記事が掲載されています。

 

 中曽根元首相は26日のフジテレビの報道番組で、靖国問題の打開策として浮上している新たな国立の追悼施設について首相や天皇陛下がそちらにばかりお参りして靖国神社がさびれ、つぶれる危険もないとは言えない」と述べ、反対の立場を明確にした。小泉首相の靖国神社参拝については「国益に反し、(A級戦犯の)分祀(ぶんし)ができないなら、休んだ方がいい」と、改めて中止を求めた。

 中曽根氏は「東京裁判は認めない。A級戦犯が犯罪者という考えは毛頭ない」と強調。「そういう意味では、分祀する必要はないが、首相や天皇陛下がお参りできるようにするには、分祀ができれば一番いい」と述べた。

 

 中曽根元首相は、まるで、天皇陛下のお心を無視して「戦争犠牲者の追悼よりも靖国神社の発展こそが重要なのだ」と考えているようです。

中曽根氏は「A級戦犯を分祀ができれば天皇陛下がお参りできる」と考えられているのでしょうか?

更に、19858月、中曽根氏は、

さもなくしてだれが国に命をささげるか

といって靖国神社に公式参拝をしたそうですから、中曽根氏にとっての靖国神社は、戦前と同様に国民を懐柔して命を捧げるべく戦場に送り出す為の機関としての存在なのだと存じます。

 

 しかし、私は、この中曽根氏の見解には反対です。

昭和天皇が、1946(昭和23)年1月1日

“……私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない……

と「天皇の人間宣言」された時点で、神であられた天皇が戦死者を「軍神」として祀られた靖国神社は、その本来の役割を終えたのだと、私は存じます。

 

ですから、私は、A級戦犯」の合祀、分祀の問題以前に、「神ではない人間の天皇陛下」が、「神として祭られている戦死者」を参拝されるのは如何なものか?との疑問を抱いているのです。

 

 更には、1946年2月に宗教法人令が改正され、靖国神社が他の一般神社と同様な一宗教法人となっているのですから!

 

 そして、靖国神社の「A級戦犯分祀」問題に関して、吉田望氏のホームページから多くを教えて頂きましたので、一部を抜粋させて頂きたく存じます。

http://www.nozomu.net/cgi-bin/webnote/thinking/26_index_msg.html

 

 先ずは、靖国神社に祀られている方々に関する次なる抜粋文をお読み下さい。

 

……

また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は排除されています
 またいわずもがなのことですが、太平洋戦争の最大の犠牲者というべき沖縄戦や空襲、原爆で死んだ民間人は祀られていません。要するに天皇による「軍神」の神社ということができます。

……

これ以外の戦没者に関する重要な設備として、千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。靖国神社に祭られる戦没者は、基本的に遺骨を遺族に引き渡せるものに限られるのに対し、この墓苑は、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために国が設けた施設です。現在、約34万8,000柱の御遺骨が納骨されています。

……

全国戦没者追悼式が(今は)毎年開かれています。これは日中戦争以降の戦争による310万にもおよぶ死没者を広くー軍人軍属、準軍属、外地において非命に倒れた者、内地における戦災死没者、公務中の死亡の者あるいは平和条約による拘禁中の死亡者を包括的に全国戦没者という全体概念でとらえ、追悼しています。この追悼式は一回目は昭和27年に新宿御苑で開かれたのですが、その後昭和38年になってようやく制度化されました。この式は宗教的儀式を伴わない形で行われ、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官、遺族代表、国会議員などが列席いたします。
……

 これ以外に国家により追悼されるべきのは一般戦災死没者です。東京空襲は判明しているだけでも669回ありました。こういった空襲、艦砲射撃、機銃掃射等により死亡した日本人は約50万人以上と言われています。一般戦災死没者の追悼のため、ようやく昭和52年以降、8月15日の全国戦没者追悼式へのわずかな遺族代表の参列(昨年は160人)措置がとられるようになりました。国家の設備はありません。……

8月15日の慰霊式には、ときおり総務大臣や総務政務官が、参列しているようです。

……

 

 以上の記述を見れば、靖国神社に祀られている方々は、戦争被害者の極く一部の方々でしかない事が明白に判ります。

従って、戦没者に心からの追悼の誠をささげる”又“不戦を誓う”ために、中国韓国など他国の抗議を無視してまでも、小泉首相が参拝する場所としては、靖国神社は不適切な場所である事が明らかです。

 

そして、拙文《政治も外交も社会通念が基本》にも抜粋させて頂きましたように、小泉氏の靖国神社への参拝は、私達国民に対してではなく、「日本遺族会」への公約を実行する為でしかないのです。

http://hayawasa.tripod.com/japan02c.htm)より

 

自民党総裁選挙告示前の4月13日に「神の国」総裁自民党森善郎派番頭小泉純一郎は日本遺族会事務局を突然訪ねた

前遺族会会長は総裁選を争う橋本龍太郎である。

小泉は「橋本は8月15日に靖国神社に参拝しないがおれは必ず行く。」と遺族会に公約した

遺族会の中井会長にも電話で伝えた。(8月7日夕刊)

 

そして、吉田氏のホームページに戻り、この小泉氏の靖国参拝に対しての記述を抜粋させて頂きます。

 

 梅原猛国際日本文化研究センタ−顧問は、次のように靖国のイデオロギーを鋭く批判しています。「靖国神社は今でも戦争について何の反省もしていないところを見ると、その霊性は昔の超国家主義を棄ててはいないのだろう。」「してみると、昭和53年、ここに東条首相などの霊が合祀された時、靖国の霊たちはその霊を喜んで迎え、東条首相の霊を首霊にしたに違いない。おそらく靖国神社には今でも東条首相の「鬼畜米英一億玉砕」という甲高い絶叫が響いているのであろう。こういう神社に参って、小泉首相が「もう二度と戦争は起こしません」といえば、東条首相らの霊は「何をいってる、この臆病者めが」と一喝するに違いない。」



 この梅原氏の見解を待つまでもなく、靖国神社が「不戦を誓う場所」ではないことは明らかです。

 

更には、天皇陛下の「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」とのお気持ちを理解すれば、中曽根氏は、「靖国神社がさびれ、つぶれる危険」があろうがなかろうが、国立の追悼施設」を支持すべきと存じます。

では、何故、中曽根氏らは、天皇陛下の御意思を無視して靖国神社に拘るのでしょうか!?

(中曽根氏の場合は特に「(戦前と同様に)国民を懐柔して戦場に送り出す為の機関としての靖国神社」)

次に掲げさせて頂く抜粋文で合点が行くのです。

 

 注目すべきなのはこの中の「合祀基準」です。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取ってきました。本来靖国神社のなりたちからいって、合祀の基準をかえるためには、天皇の了解を取り付けなければならなかったのですしかし戦後、その了解は限りなくあいまいになります

 

 1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けました。しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家や宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3−10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。

 青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。

 

 この松平永芳は幕末の福井藩主、松平春獄の孫にあたる軍人でした。彼の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。……

人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐、昭和天皇が終戦の聖断に逆うとも君側の奸をとり除くことは立派な忠義であるとて、阿南さんの説得につとめた場面を、私は今でもなお記憶している。……

 

しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。

 

 この吉田氏の「天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。」との見解こそが、中曽根氏等の心の底を暴露しているのではないでしょうか?

そして、吉田氏の「平泉澄東大教授からの影響」による天皇観「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」との記述を見て、田原総一朗氏の著作『日本の戦争:小学館発行』の次なる一説が思い浮んで来ました。

 

開戦回避論者であるはずの天皇はなぜ反対しなかったのか

木戸幸一は「(あのとき、戦争を抑えたら)内乱になつたろうね。それでおそらく秩父宮あたりをね、担ぐ分子ができて、皇室の一大危機になつたろうな」(『決断した男 木戸幸一の昭和』)と述懐している。

そして天皇は「私がもし開戦の決定に対して『ベトー』(ラテン語のveto=君主が大権をもって拒否または拒絶すること)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」(『独自録』)と語っている。また、戦後(一九四五年九月二七日)天皇が初めてダグラス・マッカーサーに会ったとき、天皇は「自分はこれを防止したいと思った」といい、マッカーサーが、「もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことが出来なかったのか」とたずねると、天皇は次のように答えている。

「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう(ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』)

 

 “天皇陛下万歳!”との声を上げつつ亡くなって行った方々は、このような昭和天皇の胸の内やお立場、ましてや、その昭和天皇を操ってしまう陰の力をご存知だったのでしょうか!?

このような「不確かな昭和天皇のお立場」を知っていたら、戦死者の方々は、“天皇のために死んで靖国で会おう”と戦場に出かけ、“天皇陛下万歳!”と叫んで戦死されたでしょうか?!

私は、田原氏の著作を読むまでは知りませんでした。

そして、この様に昭和天皇の胸の内お立場を全く無視する具体的事実がA級戦犯の靖国神社への合祀であることを、吉田氏は教えてくれます。

 

1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行きます。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき「相当の憂慮」を表明しました。特におかしいと思われたのは病気でなくなった、永野修身、松岡洋右らの合祀です。しかし松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまいました。徳川らの側近たちの不満は天皇の意を汲んでなされたことは、間違いありません。 「昭和天皇独白録」は戦時指導者に関する辛口評で読者を驚かせましたが、なかでも松岡については「恐らくはヒトラーにでも買収されたのではないか」とまで酷評を加えています。そもそも松岡は戦死ではなく裁判中に病死した人間ですが、これまで退官後の病死者が合祀されることはありませんでした。恣意もここにきわまれりということだと思います。

合祀にかんする「ご内意」を伝えられても、松平はA級合祀を強行します。平泉史観の面目躍如です。この強行は高価な代償を神社にもたらしました。強い違和感、不快感をもたれた昭和天皇はその後、靖国神社にいかないことを決めました1975年11月を最後に中断、今日まで30年間、天皇による参拝は再開されませんでした。

 

 「A級戦犯」に対する靖国神社側の見解を、次の記事(朝日新聞:6月10日)に見ることが出来ます。

 

 神社本庁は9日、小泉首相の靖国神社参拝の継続を求め、A級戦犯などの分祀(ぶんし)については「神社祭祀(さいし)の本義からあり得ない」とする「基本見解」を発表した。

 見解は靖国神社を「日本における戦没者慰霊の中心的施設」と位置づけたうえで、首相の参拝を要求。日本政府がサンフランシスコ平和条約で、A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)を受諾していることに関してはわが国が裁判の正当性をも承認したことを意味するものではない」としている。

 

 勿論、一宗教法人である靖国神社が、昭和天皇の御意思を無視して「A級戦犯合祀」しようが、それは、私達がとやかく言う問題では無いのでしょう。

しかし、又、逆に、天皇陛下が、そのような靖国神社に(たとえ、「A級戦犯」を分祀しようが)参拝する理由は無いのです。

 

 それでも、最近は、

 

“極東国際軍事裁判に於ける「欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものであると訴え全被告を無罪」とのインドのラダ・ビノード・パール判事の主張から、且つ、米国等による経済封鎖などの制裁から逃れる為の止むを得ない自衛の為の戦争だったのだから、極東国際軍事裁判並びA級戦犯の判決は無効なのだ”

と唱える方が多いようです

 

 確かに、日本に対する厳しい経済封鎖を実施した米英などに対する(中国、韓国対してではない)戦争は「自衛の戦争」だったかもしれません。

しかし、パール判事は、日本側の被告に対して「全被告を無罪」を主張する前段階で、

欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものである

と訴えているのです。

従って、日本が米英などに仕掛けた「自衛(?)の戦争」(太平洋戦争)の前に、韓国、中国に対して行った戦闘行為は「自衛の戦争」ではなく「欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為」と全く同じ行為なのです。

即ち、日本は「中国、韓国」に対しては、「侵略戦争」を行ったのです。

 

 重要なことは、私達は、「中国、韓国」に対しては、「侵略戦争」と、米英などに仕掛けた「自衛(?)の戦争」とをはっきりと分離して考え反省し責任を取らなくてはいけないのです。

 

 ここで、竹村健一氏のコラム『対独戦勝記念式典で指摘された「戦争責任」』(週間ポスト:2005.7.8)を抜粋させて頂きます。

 

 解決の糸口が見つからない日本と近隣諸国の歴史問題について、英『フィナンシヤルタイムズ』紙が、日本と同じく第二次大戦の敗戦国であるドイツの事情を伝えている。

 59日にモスクワで対独戦勝伽周年記念式典が行なわれ、小泉首相を含めた世界50か国以上の首脳が参加した。同紙は、この記念行事に際して世界中のメディアがドイツ人の過去の残虐行為に再注目しているとし、ドイツは“負の遺産”を改めて認識すベきという。

……

 同紙は、この事情は日本も同様と指摘歴史問題について中韓両国や多くの識者は「日本はドイツを見習うべき」と評論するが、同紙も日本に対して厳しく提言する

……

 巷に流れる日独を比較しての見解に、反発する日本人もいる。ある若手国会議員は、ドイツが日本より容易に歴史に対処できた理由を、同紙にこう説明したという。

(皆さんは何でもヒトラーのせいにすることができたが、一方日本は、アメリカが望んだために、天皇を存続させなければならなかった)これらの日本で頻出する意見に対して、同紙はドイツの立場から反論する。

(この<ナチに責任を押しつける>という考えは、若い世代が親たちにドイツの戦争責任を取ることを要求した1968年の学生運動のころから揺らぎ始めている

 以来40年近くにわたり、ドイツではヴェーアマハト(ドイツ国防軍)に所属した軍人や何百万もの強制労働者を従事させた産業、アウシュビッツの囚人に人体実験をすることを熱望した科学者たちの責任を問う熱い議論が盛んという.歴史問題そのものが(ドイツの抱く強迫観念)となって、ドイツ社会を今なお苦しませているというのだ。

その上で、ドイツは歴史を反省し近隣諸国と良い関係を築くことに腐心していると同紙は強調する。

……

 

 確かに“ある若手国会議員の、ドイツが日本より容易に歴史に対処できた理由を、ドイツは何でもヒトラーのせいにすることができたが、……”との意見は、多くの日本人も抱いています。

テレビの画面からもこのような見解が頻繁に流されてきます。

しかし、「この<ナチに責任を押しつける>という考えは、若い世代が親たちにドイツの戦争責任を取ることを要求した1968年の学生運動のころから揺らぎ始めている」とのドイツ動きを誰が紹介してくれたでしょうか!?

 

 このドイツの動きを参考に日本人の若い世代は、〈A級戦犯に責任を押し付ける〉だけでなく、〈親たちにドイツの戦争責任を取ることを要求〉すべきではありませんか!?

それこそ、他国に言われるからではなく、このような動きの中から、日本の戦争責任を自ら厳しく問い質すべきではありませんか!?

そして、その戦争を韓国、中国への植民地政策侵略戦争と、自衛(?)の戦争であった米国などとの戦争を分けて(勿論歴史的繋がりはあるとしても)考えるべきです。

 

 特に、韓国、中国への侵略戦争に関しては、“歴史認識は国によって異なる”との従来からの建前論を小泉首相のようにしたり顔で嘯くことなく、「被害者(被害国)の立場に立った歴史認識」を心掛けるべきです。

中国がA級戦犯が合祀されている靖国神社への公式参拝に対して反対している根拠は、拙文《小泉首相の靖国参拝(お蔭様を忘れずに)》にも引用させて頂きましたが、文芸春秋:20019月特別号に古山高麗雄氏の書かれた「万年一等兵の靖国神社」に紹介されている周恩来首相(当時)の見解と存じます。

(以下に再度引用させて頂きます。)

 ……一九七二年、当時の首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、当時の中国の首相周恩来は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」と言って、賠償請求を放棄した。だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争青任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民を納得させられない、というのである。 ……

 

 従って、この故周恩来氏(即ち、中国)の日本の戦争責任に関する見解は、ある意味では妥協の産物であって、A級戦犯は、単なる日本の戦争責任の象徴に過ぎないのだと存じます。

勿論、東京国際裁判におけるA級戦犯への判決も含めて、日本独自に(更には、隣国の見解も取り入れて)戦争の責任をうやむやにせず(日本独特の行為)、はっきりと検証すべきと存じます。

 

 戦争を被害者側の立場から検証することによって、戦争の残虐性非人間性が明確化されるのです。

その結果、“靖国神社に参拝して不戦を誓うのだ”との小泉氏の欺瞞性も曝け出されます。

そして、天皇陛下の「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたい」との御意思を、又、私達の思いを実現される為などには、「限定された戦死者が祀られた」靖国神社ではなく、全ての戦死者、全ての(民間人の)戦争犠牲者を追悼できる場所(例えば国立の追悼施設)が必要であることは明らかです。

 

 そして、「世界の平和を祈る」と同時に、またその前に、「若い世代が親たちにドイツの戦争責任を取ることを要求した」との事実が、今、或いは、いつの世代か、日本に於いても「若い世代が親たちに日本の戦争責任を取ることを要求した」との事態に陥る前に、そして、世界中に於いて「若い世代が親たちに世界戦争責任を取ることを要求した」との事態に陥る前に、戦争反対を訴え、戦争を回避する努力こそが重要なのですから、私達は、戦死者、戦争犠牲者を追悼する前に、戦争に反対して、特高警察の拷問などによって、命を落とされた方々を真っ先に追悼すべきと存じます。

(例えば、『蟹工船』(1929)などの作品で有名な作家小林多喜二は、1931年共産党に入党し、33年2月20日逮捕され、特高警察の拷問でその日のうちに29歳と4カ月の若さで虐殺されたのです。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kobayasitakiji.htm)を参照させて頂きました。

特高警察について、日本共産党のホームページを見ますと次のような記述があります。

http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990308_faq.html

 

特高警察とは特別高等警察の略称で、当時の天皇制政府に反対する思想や言論、行動を取り締まることを専門にした秘密警察のことです。……

 ……とくに民主主義の実現と侵略戦争反対をかかげる日本共産党の創立(二二年)以後は日本共産党を主な標的にしつつ、いっさいの民主的な思想や運動の破壊に狂奔しました。……

 たとえば日本共産党員やその支持者を逮捕すると残虐な拷問をおこない、党を裏切ってスパイになることを強要。屈しない者は、拷問で殺してしまうことがしばしばでした。……

 

ところが、数週間前のテレビ朝日の番組『サンデープロジェクト』にて、司会の田原総一朗氏は、出席されていた共産党の方に“共産党は戦死者を追悼しないのか!?”と非難されました。

しかし、田原氏は、共産党を非難する前に、戦争反対を訴えて亡くなった方々への追悼の念と尊敬の念を抱くべきです。

私達にとって、又、将来の方々へ対する責任としても、天皇陛下のお言葉の“世界の平和”が最大の課題であるべきです。

なのに、田原氏に限らず、(共産党の方も!)どなたも「戦争反対を訴えて亡くなった方々への追悼」への声を上げません。

何故でしょうか?

共産党はソ連との関係があり過ぎた為としても、共産党員以外で戦争反対を訴えての犠牲者は?

 

 ここで、私の大好きな言葉“人類はみな兄弟”を唱えておられた故笹川良一氏の『巣鴨日記:中央公論社発行』から、次の記述を抜粋させて頂きます。

 

 拝啓 愈々御健勝の段大賀至極に存じ奉ります。扱て日本は敗戦の結果軍備を全廃されたる為永久に戦禍より免る事になりましたが軍備を有する各国は戦禍を蒙る事明白にして原子爆弾その他新兵器の出現により将来の戦争は勉大なる犠牲を出す事は必定でありまして小生は日本国民のみが戦禍より免かるるを以て満足なす者ではありません。

天地間最大の惨毒は殺裁にしてその尤も大なるものは戦争であります。故に故ワシントン閣下も米国三大規則の第一に戦争を止むと訓ておられます。亦古より戦争防止に尽力したる人多数ありたるも天地開て今に至る迄戦争の絶間なし

犠牲者の幾千幾億万人なるやその数を知りません。この尊き犠牲者は戦争を根絶し人類を戦禍より永遠に救済せん事を冀求して已まぎるも語に口なきを奈(いかん)せん犠牲者の冥福を祈る真の供養は世界恒久の平和を確立して四方の人人等しく兄弟の如く相和す地上を建設する事であります

その目的を達成いたしますには全世界軍備の全廃と衣食住の配分の断行が絶体唯一の策でありまして百千の国際聯合の結成よりも遥に効果甚大なるを確信いたします。……

 

この笹川氏の“犠牲者の冥福を祈る真の供養は世界恒久の平和を確立して……”との御見解は実に素晴らしく的確ではありませんか!?

そして、“その目的を達成いたしますには全世界軍備の全廃と衣食住の配分の断行”とのご指摘も実に的確です。

最近日本国中を席巻している“国益”重視主義をこの笹川氏の見解を待つまでもなく恥と感じるべきです。

(政治家達は、国防、軍備に関しては、“家族に危害を加える強盗が押し入ってきたら、男は(武器を持ってまでも)その強盗に立ち向かう。この点は国と国の場合も同じなのだ”と盛んに嘯きます。

では、国と国が「国益」を主張し合うのなら、家族間でも「家族益」を主張し合うのでしょうか?ひいては、個人間で「個人益」を主張し合うのでしょうか?

こんな馬鹿げた話はありません。)

世界の国々が互いに国益を主張し合っていては、互いの国益は衝突するのが当然なのですから、いつまでたっても世界の平和は訪れません!

(「国益」=「平和」を心理とするなら別ですが……)

 

更に、笹川氏は、「東京国際裁判」に関しては、 “勝てば官軍的な裁判の不当性を訴える”見解も次のような披露しています。

 

 お願ひの

第一は食糧問題でありまして……一粒の米にても多く速に輸入御許可の程伏て懇願いたします。

第二はインフレ対策問題でありまして……誠に恐縮でありますが日本国民を生活苦のドン底より救済なす為速に占領費の免除を百拝懇願いたします。

第三は裁判問題でありまして……仮へルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭が厳粛を協議決定したといたしましても世界及び人類は三巨頭の私有物では断てありません。然に勝者なるが故に自らは責を負わず敗戦国民のみを厳罰に処するが如きは正に復讐裁判にして天人を恐れぎる残虐行為として正義人道を尊ぶ米国歴史に美汚点を画し後生まで攻撃を受くる事明白であります。……罪なく共人の為世の為とあらば喜んで如何なる犠牲をも甘受する者であります。

 

そして、笹川氏は、「世界恒久平和確立の為」には命を捧げると次のように記述されています。

 

以上の三項目と更に世界恒久平和確立の為世界軍備の全廃と衣食住の再配分とを断行して下さるなれば三文の価値なき笹川良一の身命ではありますが御礼報謝の為世界平和確立の紀念祝典の供物として差上ぐる事を御誓ひ申上げます。この事もマツカーサー元帥へ懇願済みでありますが閣下に置せられましても日本国民を始め全人類救済の為愚願を御採用あらん事を百拝懇願いたします。

 尚尊敬する閣下並に国務省の各閣下を始め親愛なる米国兄姉諸賢の御多幸を天下八百万神に千祈万祷奉ります。巣鴨の獄舎に於て

                                    恐惶謹言

                            戦争犯罪容疑者 笹川良一

  トルーマン大統領閣下

 昭和二十一年四月十五日

 

 しかし、戦争責任は兎も角、戦争を遂行して来た人物に対しては、次のような記述もあります。

 

 食事が不足してきたとて喧しい事。……大人物が真っ先に連(ママ)れ、食が無くなると困ると云ふので順位の前に割り込む。いやしいものである。こうした連中が今日まで日本を支配してゐたから敗けたのだ。高橋君はトマトは食えないと云って予にくれた。予はそれに報ゆるに大きな自分の好きな梨を与へた。これが人間楽しである。

……

 人に先んじやうとして老大家のはしるすがた、全くみにくい限りである。

……

 高橋君は予が足袋の洗濯をしてゐるのを見て自分にさせと承知せぬ。予日く洗濯を取り合ふ、是れが同胞愛である。この心があれば天下泰平である。

世界皆同胞なるに敵味〔方〕と区別つけるが戦の原因

 我等より誠を取らば獣なり

……

これが良い事をやつておるなら氏名を記して記念の本にすればよいが我鬼(ママ)に落ちてゐる最大の欠点を書かねばならぬからその人の名誉の為将来そうした人の子孫の為に氏名は書かぬ。鳴呼、いやな事である。

……

近日沢山俘虜虐待組が釆た。皆異口同音に貴台は何故朗かなんですか。予日く良心に恥ずる処なきが為なり。君等は良心に恥ずる行為しながら如何にして助かろうかと常に心を労するが為不明朗なり。年貢を納むる決心をせよ。楽になる。

……

 金びかも鉄やに入れば只の人 食いけばかりの我鬼(ママ)畜生

鳴呼いやだ我鬼(ママ)畜生の食取りは

 

 斯くも立派な記述を残された故笹川良一氏を、私は尊敬せざるを得ません。

ところが、作家の新田次郎を父に持つ数学者(お茶の水女子大学理学部教授藤原 正彦氏は『日本の国柄を破壊する小泉流「構造改革」』(雑誌:月刊 日本 2005.7)にて、次のように発言されています。

 

 冷戦が終わるまでは、共産主義に共同して対処しなければならないために、アメリカは日本を大目に見ていました。しかし冷戦終結を境に、日本は外交と防衛ではアメリカの盟友でありながら、経済分野では主敵になってしまった。

 90年代初めには、CIA長官が「今後はCIA予算の4倍を経済戦争に向ける」、ジェームズ・ベーカー国務長官も「日本を冷戦後の戦勝国にさせない」と発言しました。当時は日本が経済的に一人勝ちでしたから、要は日米間の経済戦争ということになります。そしてアメリカ政府は多くの学者を集めて、日本を倒す秘策を練った。それが規制緩和、株主中心主義、新会計基準、金融ビッグバン、そしてBIS(自己資本比率)規制──。これらの制度を矢継ぎ早に日本に押し付けてきたわけです。その流れで郵政民営化が強行されつつあるのです

 アメリカは日本の郵政サービスにはまったく興味がありません。

主眼はあくまでも合わせて350兆円になる郵貯・簡保です

……小泉政権は日本をアメリカの経済的属国にして、完全に利益がアメリカに吸い上げられる体制にしようとしているのです。トヨタなど日本の誇る製造業が高収益を上げてもいいが、どこが儲かっても、その利益はいずれ銀行や保険、証券に回る、それを全部アメリカが握るシステム、寝ていても儲かるシステムをアメリカは築きつつあるのです

……

 

 このように、新田氏は、アメリカの対日政策を実に的確に分析されておられます。

更に、現在の日本国民に対する新田氏の分析は次の通りです。

 

……いちばん悪いのは政治家でも官僚でもない、国民です。国民がこぞって国を崩壊させつつある。今や国民世論とはマスコミとイコールなのです。これこそ立法・司法・行政の3権の上に立つ、日本における第1権力です。3権はマスコミ=世論の顔色を伺わなければ何もできなくなってしまった。小泉首相のポピユリズム政治もまさに国民の顔色を伺う以外の何ものでもない。司法まで国民の顔色をうかがっています。これは日本に民主主義が根付いていないことを示しています。

……

国民が成熟していない場合、民主主義を曲がりなりにも実現させるためには、少なくとも真のエリートがいなければなりませんね。ところが日本には真のエリートもいない。

……

 私の考える真のエリートとは、第1に文学・芸術・思想・歴史など、一見何の役にも立たない教養をしっかりと身につけ、それを背景に庶民とは比較にもならないほど、圧倒的な総合的判断力を持っていること。

 第2にいざとなったら国家・国民のために命を投げ出すことができること。この2つを兼ね備えた人のことです。これを目指す人がいなくなりました。真のエリートが1万人いれば、どうにか日本は維持できるのです。

……

 

 このように優れた考察をされる新田氏は、次の記述のように何故中曽根氏を素晴らしいと感じるのでしょうか?

 

 したがって、80歳以上の人には政界財界問わず、すばらしい人がいます。中曽根康弘元首相や塩川正十郎元財務大臣、あるいは陸軍幼年学校卒の山本卓眞・富士通名誉会長など、それ以下の世代とは人間力がまったく違います

 

 しかし、次なる記述には納得せざるを得ない点が悲しいことです。

 

 教養の意義は、大局観、長期的視野がこれから生まれることにあります。どんなに頭がよくても、教養を持っていなければ決して大局観は持てないのです。今80歳代の優秀な人は十数年前にすベて引退してしまった。それはちょうど日本が下り坂になったのと軌を一にしています。

 私もさまぎまな審議会にメンバーとして出席してきましたが、日本の知性の代表といわれる人々の議論を聞いていて、これはだめだと思いました。改革に必要な政財界トップの能力すら劣化している。官も学も同様です。真のエリートを失ったということは本当に困ったことです。やはり次世代の教育に力を入れざるを得ない

 

 このように新田氏の指摘される「改革に必要な政財界トップの能力すら劣化している」状態ですから、文頭に掲げた小林氏の「日本政府の醜態、文字通り醜い顔が右往左往する時期」との記述状態に日本が陥ってしまったのでしょう。

 

 しかしながら、新田氏のここでの提案である「次世代の教育に力を入れざるを得ない」には全面的に賛成できないのです。

何しろ、素晴らしく尊敬に値する『巣鴨日記』を残された故笹川良一氏の最終学歴は、「尋常高等小学校高等科卒業」なのですから!

 

 そして、新田氏は先の発言の最後を次のように結んでおられます。

 

 日本には武士道精神からくる「倫理」「道徳」「かたち」によって、江戸時代から世界一穏やかな社会を築いてきたのです。それを忘れて、弱肉強食の放縦な欧米社会を模倣してきましたが、日本人にはまったく相応しくない。美しい情緒と倫理、そして「かたち」でやってきたことを今の日本人は忘れてしまった。

 できることなら私も日本中を回って、国民一人ひとりに説得したい。そして世界の人々に、論理や合理や理性だけで人間はやっていけない、美しい情緒やかたちが人類を救うのだ、ということを教えたいと思います。

 

 この新田発言で気になるのは、尊敬されておられる新渡戸稲造氏の著作『武士道』を、精読されて居られる筈なのに、何故軍国主義に傾く中曽根氏を新田氏は評価されるのでしょうか?

(以下の『武士道』に関しては、拙文《武士道と自衛隊と勝海舟》をもご参照下さい)

 

新渡戸稲造氏の『武士道』には次の記述があります。

血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。

 

この面からも、私は、中曽根氏を否定して、「全世界軍備の全廃」を訴えられた故笹川氏を評価するのです。

 

 そして、新田発言の「真のエリートとは……いざとなったら国家・国民のために命を投げ出すことができること」とは、武士道に於ける「血を見ない勝利こそ最善の勝利」に関しての発言として捉えたいのです。

 

 更には、このようなエリートは、次の『武士道』には次の記述にあるように、学校教育ではなくて、家庭が、世間が育むのです。

 

人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくはないのか」などという言葉は過ちをおかした少年の振舞いを正す最後の切札であった。子が母の胎内にいる間に、その心があたかも名誉によってはぐくまれたかのように、この名誉に訴えるやり方は子供の心の琴線にふれたのである。なぜなら、名誉は強い家族意識と結びついているので、真の意味では出生以前から影響を受けている、といえるのである。

……

 まことに廉恥心は人類の道徳意識の出発点だ

 

 そして、次のような記述にあるような結果、若者達は真のエリートへと育って行くのです。

 

「若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、名誉である。」

名誉は「境遇から生じるものではなく」て、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ

 

 ところが今の日本には、これらの若者を育むべき筈の「家庭」が、更に「世間」が崩壊しているのです。

そして、これらの崩壊に大きな力を発揮しているのが“楽しくなくてはテレビでない!”という「視聴率至上主義」のテレビなのです。

更には、スポンサーの顔色を、又、認可制の為に政治権力の顔色を伺わなくてはならないテレビなのです。

私達は、先ずこんなテレビに“さよなら”を云うべきと存じます。

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