目次へ戻る


小泉首相の靖国参拝

(お蔭様を忘れずに)

2001年8月12〜15日

宇佐美 保

 8月15日の小泉首相の靖国参拝に対して、野党は勿論、中国韓国などからも反対の声が上がっています。

しかし、自民党の旧守派と言われる人たちは、次のような濁声をあげています。

1.)国の為に命を捧げた人達の霊に手を合わせることは当然だ。

2.)外国がとやかく言うのは内政干渉だ、外国からとやかく言われて、国(首相)の方針が変わってしまうのでは、独立国とは言えない。

3.)小泉首相は、「自分がやると言った事は、どんな困難があろうと遣り遂げる。」と言っているのだから、今回靖国に行かないなら、構造改革なんて出来っこない。

 

 これらの濁声のどれをとっても私には納得がゆきません。

(以下、これらの各項に反論します)

 

1.)項「国の為に命を捧げた人達の霊に手を合わせることは当然だ」への反論

靖国神社自体は、明治維新以降、近代天皇制国家が作り出した一種の国教制度である「国家神道」の下につくられ、1930年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には戦争遂行の精神的支柱の役割を演じた。即ち,靖国神社は、国家が戦争による死を〈国家隆昌〉をになったものとして意義づけて〈靖国の神〉となし,死者によせる遺族の心情を国家に収斂(しゆうれん)する場であったともいえよう。その意味では,日本の軍国主義と密接な関係をもった神社とみることができる。一方戦死者の遺家族には,肉親が〈靖国の神〉となることによって〈靖国の家〉という優越感を抱き,誇りとするむきもあった。

(以上は、平凡社百科辞典を参照しました)

小泉首相は、今回の不幸な戦争での犠牲者の霊に手を合わせる場は、この靖国神社の歴史的役割を考えるなら、更に又、神道に則って祭られている英霊を神道に則ることなく参拝するなどと言う単なる遺族会への義理立てとも解釈されかねないので、靖国ではなく、同日武道館で行われる政府主催の戦死者のみならず戦争での民間の犠牲者への追悼の式典こそが、相応しいのではないでしょうか?

何しろ、国家神道の支柱であった昭和天皇は、今回の戦争に反対されて居られたのでしょうから。(補足:1「天皇は戦争反対だった」)

そして、昭和天皇は、靖国神社へのご親拝を、昭和50年11月21日の皇后陛下との行啓を最後に、ご崩御になるまで行わず、武道館で行われる政府主催の戦没者追悼式へ御参列されて居られたのです。

なのに、依然として「靖国」「英霊」に拘泥する方々は、天皇のご真意に反して戦争に走ってしまった戦前の人々と全く同じではないでしょうか?

矛盾を感じないのでしょうか?

(補足:2「天皇と現在の靖国神社との矛盾した関係」参照)

 

2.)項「外国がとやかく言うのは内政干渉だ、外国からとやかく言われて、国(首相)の方針が変わってしまうのでは、独立国とは言えない」への反論

 

 今の日本の繁栄と平和は、日本独自の力で築き上げたのでしょうか?

私は、サンフランシスコ平和条約の席上でのセイロン(現スリランカ)大統領の発言を以前NHK教育テレビで知って感激しました。

そして、発言をしっかり胸にとどめようとして、その発言を紹介している本を探していましたが、今まで見つけることが出来ませんでしたが、最近、愛国顕彰ホームページに紹介されているのを見ることが出来て感激を新たにしました。

その一部を参照させて頂きます。

昭和26年9月、サンフランシスコで開かれた対日講和会議で、米国の対日講和構想に対してアジア・太平洋諸国は、軍事制限条項が盛り込まれなかったことこと、賠償請求権が否定されたことに強く反発した際に、スリランカ民主社会主義共和国(当時セイロン)のジュニアス・リチャード・ジャヤワルデス前大統領は、日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示した。

ジャヤワルデス前大統領は、この講和会議の演説にブッダの言葉を引用した。

人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる

人は憎しみによっては憎しみを越えられない

「実にこの世においては怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの恩むことがない。怨みをすててこそ恩む、これは永遠の真理である。」

ジャヤワルデス前大統領は、講和会議出席各国代表に向って、日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時・セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言した。

 ジャヤワルデス前大統領、そして、彼の影響下で賠償請求を放棄するとのアジア・太平洋諸国の「愛」無くしては、今の日本の平和と反映はなかったのではないでしょうか?

 

更に、昭和24年の革命により中華民国から中華人民共和国に変わった為に、条約の対象国とはならなかった中国とは、日中両国の国交を正常化し、外交関係を樹立する「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」調印式が1972年(昭和47年)9月29日、北京の人民大会堂で行われ、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」を表明し、中国は、その戦争責任を日本国民全体などに押し広げずに、A級戦犯にとどめてたと言われています。

更に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の 請求を放棄することを宣言する。」と表明されています。(補足:3「中国とA級戦犯」参照)

 

これら、アジア各国の日本への思いやりを当然と受け取ってしまっては、「日本国民は傲慢な人間」と彼らに映るのではないでしょうか?


私には、今の日本の繁栄と平和は、これらアジア各国の日本へ、日本国民への「愛」なくしては不可能だったと思います。

そして、私は、「お蔭様で」との感謝の言葉をアジアの方々に述べたいと思います。

 

 

3.)項「小泉首相は、「自分がやると言った事は、どんな困難があろうと遣り遂げる。」と言っているのだから、今回靖国に行かないなら、構造改革なんて出来っこない」への反論

 

 小泉首相は靖国参拝を明言した後、予想以上の反対の声を考慮し、「靖国参拝は熟慮の上に決定する。」と発言しているのに対して、“「自分がやると言った事は、どんな困難があろうと遣り遂げる。」と言っているのだから、今回靖国に行かないなら、構造改革なんて出来っこない。”等という全く理不尽な論理は、負けると思っていた戦争、国民に多大な犠牲を与えるとわかっていた戦争、昭和天皇も反対された戦争へと、突き進んでいった旧日本軍に合い通じるものを感じます。

 

 自らが一度決心しても、周囲の意見を聞いて、自らの過ちを正すのは、当然ではないですか?

ボタンの掛け違いは出来るだけ早く改めるべきです。

遅くなればなるほど大変な事態に陥ってしまいます。

日露戦争、満州事変、シナ事変との続く各時点でのボタンの掛け違いをいつまでも放置しておいて、大戦間際に慌てて修正しても、手におえなくなって、負けるとわかっていた太平洋戦争へと落ち込んでしまったのを忘れてしまったのですか。

 

 自らの過ちを正すことなく、あくまでも利権に取り付き国民に多大な犠牲を押し付けようとしている自民党議員の頭は、心はどうなっているのでしょうか?

 

 更に驚いてしまうことは、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」なる番組に於いては、キャスターの愛川欽也氏も、その番組の構成者の横尾氏なる人物も、自民党の頭の古い議員と同じく、“私は、首相の参拝すること自体には反対だが、「自分がやると言った事は、どんな困難があろうと遣り遂げる。」と小泉首相は言ったのだから、今回は、靖国神社に参拝に行くべきだ。”ととんでもない発言をしていました。

こんなことで、アジアの方々の心を踏みにじってよいものでしょうか?

 

 「日本は日本、他国の口出しは一切無用!」と言う傲慢な態度は、いかなる時代においても、日本国が地球の一角に存在していると言う現実があるからには許されないと思います。

天然資源を何ら持たない日本が、どんなに自分たち日本国民は優秀だとほざいても、他国の存在なしでやってゆけるのですか?

他国から、天然資源を輸入し、加工して他国へ輸出することで、今の日本の反映があるのではないですか。

 この大事な天然資源を断たれた為に、日本は太平洋戦争に突入してしまったのではないですか。

 

そして、その天然資源の断絶、そして、開戦に至ってしまうほどの、日米間の断絶は、折々で、ボタンの掛け違いを速やかに修正していたならば防げたの筈です。

 

又、先の「愛国顕彰ホームページ」には、次のように記されています。

ククリット/タイ首相

日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。今日われわれが米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは日本という母親がいたからである。母親は難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育っている。昭和20年12月8日は身を殺して仁を成した母親が一大決心をした日である。われわれはこの日を決して忘れることは無い。

仮令、先の日本の戦争行為に対して、このようなアジアの国からのメッセージがあっても、先の戦争が、アジアの植民地主義からの開放の為であるなら、当然、アジア各国と前もって相談していた筈です。

ところが、日本が勝手に自らのアジア支配を正当化する為の造語である「大東亜共栄圏」の下に、アジアの多くの人々に多大の苦しみも押し付けてきたのです。

ですから、一部の日本人に盛り上がって来ている太平洋戦争の正当化の動き(補足:4「戦争を美化し幻影をおうのは危険」参照)を排除して、95年8月の村山富市首相(当時)の談話、そして、今回813日の小泉首相の談話の如くに、侵略戦争であったことを率直に認めるべきです。

そして、セイロンのジャヤワルデス前大統領、そしてタイのククリット首相へ、「お蔭様で」と頭を垂れるのが、人の道ではないでしょうか?

 

 更には、アジアの国々の意見も尊重して、共に平和の道を辿る事こそが、「真の大東亜共栄圏」と言えるのではないでしょうか?

 

(補足:1)「天皇は戦争反対だった」(田原総一朗著:「日本の戦争」からの抜粋)

明治天皇は日露戦争に反対だった

 当時、日本の人口はロシアの約三分の一であり、鋼の生産はロシアが一五〇万トンだったのに対して日本は数万トン。陸軍はロシアは予備役を加えると三五〇万人。対する日本は、三人万人。

海軍の総保有トン数は、ロシアが八〇万トン、日本約二六万トン(岡崎久彦『小村寿太郎とその時代』)で、国力に大幅に差があった。……

 各新聞はそれぞれ大見出しで「ロシアを撃て」と報じ、ごく一部の社会主義者、そしてキリスト教信者たちを除いては、国を挙げて開戦ムードがみなぎつていたが、その中で、最も戦争を嫌悪していた一人が明治天皇だった。全ての会議が終わって最終的に、桂首相に開戦を裁可するときにも、なおも天皇は、「これまでの交渉は政府間に限られていた。この上は、みずからロシア皇帝に親電を送って疎通の道を開き、両国の生霊を戦禍より救いたいと思うが……⊥と粘り、桂が「すでにそのような状況ではない」と答えると、「開戦を望まぬが、事ここにいたってしまった。いかんともしがたいが、もし敗北した場合にどのように祖先に詫び、国民に対することができようか」と、涙を流して嘆息したということだ(三好徹『史伝伊藤博文』)。

 そして開戦直前の御前会議で、

「四方の海 みな同胞と 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」

 と詠んだ。後に日本が太平洋戦争突入を決定した御前会議(一九四一年〈昭和一六〉九月六日で、昭和天皇が詠み上げたのが、この歌だ。どのように解釈しても、平和を希求している歌意である。明治天皇も昭和天皇も戦争を忌避し、平和を想う心は同じだったということか。

 

昭和天皇は太平洋戦争に反対だった

 九月六日、午前一〇時から宮中で御前会議が開催された。後からみると、文字通り日本の命運を決めた御前会議であった。永野、杉山が「要領」を説明すると、枢密院議長原嘉道が質問した。……

天皇はさらに永野、杉山両統帥部長からの説明を求めていたようだが、統帥部長は答えず、すると天皇は従来のパターンを破って発言した。

「両統帥部長がなんら答えないのははなはだ遺憾である」

 そして、懐から紙片を取り出し、

 「四方の海 みな同胞と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」

 と、明治天皇が日露戦争開戦を決める御前会議で詠んだ歌を読み上げて、「朕は常にこの御製を拝誦して大帝の平和愛好の精神を紹述せんと努めている」のだと述べた。満座は粛然として、暫くは誰も何もいえなかった。やがて、両統帥部長が、「統帥部に対するお咎めは恐懼にたえません」と詫び、海相の答えと全く同意見であることを述べた。これで御前会議は終わった。近衛は何も発言しなかった。陸海軍がつくった「要領」は、結局原案のまま通ったのである。御前会議の後、天皇はきわめて不機嫌で、木戸を呼び、統帥部に外交工作に協力させよと求めた。

 天皇は、あくまで開戦に反対だったのである。

 

 

 

 

(補足:2)「天皇と現在の靖国神社との矛盾した関係」

 

 近頃は、〈靖国の神〉とか〈軍神〉などが祭られているとの言葉はマスコミなどにさえも登場せずに、〈英霊〉が靖国神社に祀られているとの表現が目立ちます。

それでも、靖国神社ホームページには、次のように記されています。

そもそも神社というのは、きちんと御祭神というものがあるわけです。日本には千数百年の歴史をもった、少なくとも十世紀からの千年余りの歴史をもった神社がたくさんあるわけですが、みんな御祭神ははっきりしている。ただ、靖國神社だけは、たまたま二百四十六万余の御祭神をもっており、御祭神の数が飛躍的に多いというだけなのです。

しかし、ただ多くの霊を誰だか分からないけれども漠然とまつっているのではない。二百四十六万に達する御祭神は、一柱一柱きちんと名票が確認されているわけですね。それが霊璽簿(れいじぼ)です。

そういうものですから、いわゆる無名戦士の霊をおまつりできるというわけではない。

 ですから、今もって、靖国神社では、戦死された方々は〈神〉なのです。

(勿論、「英霊を祀る」との「祀る」の意味は、広辞苑によれば「神としてあがめ一定の場所に鎮め奉る」とあるのですから、やはり〈英霊たち〉は、依然として、〈靖国の神〉〈軍神〉として崇められているのです。

しかし、今回の戦争で〈英霊たち〉は、その今際の時に「天皇陛下万歳」と心からの言葉を発して現人神(あらひとがみ)であられた天皇に殉じた事実によって、〈靖国の神〉〈軍神〉として祀られたのです。

ところが、その天皇陛下は、1946年(昭和21年)11日、みずから現人神(あらひとがみ)であることを否定されているのです。

そして、この天皇の人間宣言)の後、その年の2月から1954年(昭和29年)8月まで、天皇は主として遺家族、海外からの引揚者、戦災者の遺族を見舞って、励ましの言葉をかけられ全国の各都道府県を巡幸されたそうです。

 なのに、〈英霊たち〉が、今もって〈靖国の神〉〈軍神〉として祀られている事実は、私には矛盾していると思えます。

 

 それとも、首相の靖国神社への参拝に固執する方々は、天皇を「現人神」と信奉されているのでしょうか?

天皇を「現人神」と信奉されていないのなら、「靖国神社」、「合祀」等が矛盾に満ちた存在となります。

 

 

 

 

 

(補足:3)「中国とA級戦犯」

中国が日本の首相がA級戦犯の合祀されている靖国神社に反対する背景をもっとも的確に述べているのは、以下に抜粋します、文芸春秋:2001年9月特別号に古山高麗雄氏の書かれた「万年一等兵の靖国神社」と私は思います。

……

 つまり、首相の靖国神社参拝、かまわんじゃないか、と思つていた。ところが、良友、元中国大使の中江要介君は反対だと、人伝に聞いた。ありゃ、どうして?近く会う機会があるから、そのわけを聞かせてもらおうと思っていた。しかし、会う機会を待つまでもなかった。中江君は、六月末の「東京新聞」にその理由を書いていた。

 その要旨を簡単に言うと、一九七二年、当時の首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、当時の中国の首相周恩来は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」と言って、賠償請求を放棄した。だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争青任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民を納得させられない、というのである。

 だから、中曽根首相は、A級戦犯合祀の再検討が困難になると、以後参拝をやめた。ところが橋本首相は、国のために一命を捧げた霊を弔って何がいけないのか、と参拝を復活させた。小泉首相も同様である。私も、橋本首相や小泉首相とはいささか違うが、靖国に首相が参拝して何が悪いと思っていたのである。日中の事情を知らなかったのである。新聞が中江君のような説明をしてくれたら、ああそういうことだったのか、それなら首相は行かない方がいいな、大事なことは見せることではない。弔う心を持つことだ。ならば官邸内で祈ればいいではないか、と思う。

 首相ともなれば、知らなかったでは怠慢になるが、知っていてなお強行するとなれば、これは中国に対する非礼である。礼節はまもりましょうや。

 何故この中国のA級戦犯に対するこだわりに対して、元中国大使の中江要介氏が六月末の「東京新聞」に書かれた内容が他の新聞には紹介されていないのでしょうか?

 

この内容がもっと一般的に知れ渡っていたら、同じ「文芸春秋」に坪内祐三氏によって「歪められた815日公式参拝」と題して、次のような頓珍漢な記述もなされなかったでしょう。

 田中外相に一つアドバイスしておきたい。日中国交回復を実現したご尊父田中角栄はしかし、先にも書いたように、首相在職時に春秋の例大祭にきちんと靖国神社を「公式参拝」していたのである。

田中首相の在職期間は、1972.7.77〜74.12.9であって、「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのは、彼の退陣後の1978年(昭和53)年10月(翌1979419日に判明)。

従って、田中首相は「A級戦犯」が合祀されていない靖国神社に参拝していたのです。

 

 

 

(補足:4)「戦争を美化し幻影をおうのは危険」

 新聞記事によりますと、

 今年29日、小泉氏は鹿児島県知覧町の「知覧特攻平和会館」を訪ねた。
 「桜花と散り 九段(靖国神社)に還るを夢に見つ 鉄艦屠らん 我は征くなり」──。青年飛行兵が兄にあてた辞世の歌の前で、小泉氏は展示ケースに両手をついたまま声を押し殺して泣き続けた。

 

 又、インターネットを探りますと、次のようなページをも目にします。

靖国神社に参拝して

衆議院議員 二階俊博

靖国神社の社頭に幾多の戦没者の方々が、死に赴く寸前に書き綴った家族の方々への手紙が掲示されています。

このお手紙を拝見する度に如何にも肉親、恩愛の絆を断つことの切ない心情があふれており、拝読させて頂きながら、つい涙を禁じ得ないことがしばしばあります。

死に直面して、絞り出すような恩愛の吐露は、その一語一語が、立派な詩人や作家も及ばないようで、それ以上の境地に至っているものと思われるのです。

「最後の筆」「短い髪と爪を送ります」「愛しき妻へ」「あとをたのむ」「死の予感」「戦地より愛児へ」「妻子にあてた最後の便り」「子供の教育を頼む」「柿の木を大切に育てて下さい」「かあちゃんよ」…… タイトルだけ記してみても、何を言われようとしているのかが私たちに強く迫って参ります。

 

 しかし、8月14日のTBSの番組「ニュース23」に於いて、「不戦兵士市民の会」の3人の元兵士の方々が、“手紙は全て検閲されていて、軍の意向に沿った内容以外では、突き返されてしまうので、最終的には自分も、自分の本心とは異なる、いわゆる現在の日本人がそして小泉首相が感涙する特攻隊の遺書の類を書いた。”旨を語っておられました。

 そして、15日には、元参議院議員で、あと数日戦争が長引いていたら特攻隊員として命を落とす運命であった田英夫氏は、“同僚の特攻隊員は出撃を前にして「今度は、靖国で会おう」などとは決して言わなかった。なのに、「知覧特攻平和会館」に展示された特攻隊員の遺書に落涙し、国の為に命を落とすことを煽るがごとき発言をする小泉首相に、危険さを感じて、敢えて今回の選挙に打って出たと語っておられました。

 

更には、 “「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する” (株式会社ビジネス社発行)に於いて、快刀乱麻を断つがごとく筆を振るわれる矢沢永一氏といえども、この著書の中で、次の様に書いています。

真珠湾攻撃にて米太平洋艦隊を完膚なきまで叩いていたら、或いはミッドウェー海戦で日本戦艦隊が日本艦隊の先頭に立ち、ミッドウェー島を艦砲射撃していたら、

または、若し山口少将の具申が通り機動部隊の爆装を雷装に取り替えることなく爆装のまま攻撃隊を発信させていれば、大東亜戦争の帰趨は、すっかり違ったものとなっていたでしょう。

 勿論、矢沢氏の書かれる「若し」が現実化されていたら、事態は日本軍に格段に有利な展開となっていたことでしょう。

しかし、日米の戦いは、日中の戦い同様、或いはそれ以上に泥沼化して、長期化して、日本全土には、原子爆弾があたかも焼夷弾の如く落とされていたかもしれません。

或いは又、ソ連軍が日本全土を占領し、且つ、日本の人的資源を有効活用して国力を高め、今もって、ソ連は日本を占領下においたまま経済的にも反映し、アメリカと冷戦状態を維持しているかもしれません。

(更に、その場合には、靖国神社はとっくに破壊されて、私たちの自由も人権も奪われた状態を押し付けられて居るかもしれません。)

 

 
目次へ戻る