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チンピラの発想の小泉首相

2005年8月10日

宇佐美 保

 

 86日、朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」にて、元参議院議員の平野貞夫氏は、次のように語っていました。

 

 一寸小泉さんの性格分析させて頂けませんか?

……

小泉さんは私の質問を嫌がった。何故かと言いますと、私は(小泉首相を)普通の人と思っていないのですよ、総理大臣と思っていないのですよ。

小泉さんの精神構造は私の分析ですと、178歳のチンピラの発想なんです。……

チンピラ、178歳の高校生なんか、口喧嘩うまいですよ!……

そして、そんな点が国民に受けて人気があるのですよ。……

大人になり切れて居ないでここまで来た。……

 

 この平野氏の小泉評が見事に的中している事が、『週刊現代(2005.8.13)』のジャーナリスト松田賢弥氏による「小泉首相「私は靖国参拝する」全肉声」の記述の中にはっきりと確認できます。

 

 小泉純一郎首相(63歳)が固執する靖国神社への公式参拝。小泉のこの行為は、極めて個人的な思い込み、ナルシシズムによるものだった。その会話がなされたのは、7月下旬のことである──。

 東京都内の料理店で食事を終えた小泉は、青い半袖のワイシャツを着て、くつろいだ様子でソファに深く腰掛けていた。シャツは沖縄で「かりゆし」と呼ばれるアロハシャツに似たものだ。

 小泉は日本茶をすすりながら、20年来の知人と語り合っていた。何気ない会話を交わす中で、知人はふと小泉が靖国神社に参拝することに、なぜこだわっているのか聞いてみたくなった。知人は、思い切って小泉に尋ねた。

──総理は、今年も靖国神社に参拝するのですか

 「このままいけば、行くことになるんじゃないの

 知人はこの言葉から、小泉によほど心境の変化がない限り、中国をはじめ周辺諸国の激しい非難を無視して、終戦記念日の815日に参拝する意志を感じたという。

──そもそも総理はなぜ、靖国神社に行くんですか。そこまでこだわるのは、何か理由があるんですか。

 「知覧だよ

 ──チラン?

「太平洋戦争の際、特攻隊の基地があった鹿児島の知覧だよ。総理になる直前、知覧特攻平和会館に行ったんだ。あそこで、日本を守るために死んでいった若い特攻隊員の遺書を見て、胸にグッと込み上げるものがあったんだ

……

 特攻隊の話をしながら、小泉はソファから身を乗り出し、饒舌になったという。

「彼ら特攻隊の指揮官の一人に、海軍中将の大西瀧治郎がいた。大西は特攻隊員らに、『自分も必ず後から行く。靖国で会おう』と行って送り出したのだが、終戦の翌日に割腹自殺するんだ。はらわたを出し、のたうち回りながら苦しんで死んでいったんだ

 大西は、「神風特攻隊」の名付け親として知られる。小泉は続けた。

 「大西は、国の指示に逆らうことなんてできなかったんだ。大西は特攻隊員らを死なせたことを悔やみ、苦しんだ挙げ句の自決だった……。もう、あのような人たちを出しちゃならない。自然の発露だ。だから、オレは『(靖国に参拝するのは)不戦の誓いや戦没者への哀悼の念』と説明しているだろう。参拝の理由はそういうことなんだ」

 小泉の言葉は、熱の込もったものだったが、知人は靖国神社参拝の理由は、それだけではないと感じたようだ。知人はこんな質問までした。

 ──靖国参拝は、日本遺族会との約束があるからではないかと言われていますが。

「そんなことじゃない。遺族会との関係からじゃない。特攻隊を慰霊するのは当然のことじゃないか

 

 更には次のようにも書かれています。

 

実は首相就任直後にも、小泉の靖国参拝を憂慮し、諌めた人物もいた。小泉の盟友だった加藤紘一元自民党幹事長である。

 小泉は、首相に就任した’01年に、「公約」通りではなかったが813日に靖国参拝を強行した。その2日前の811日、加藤、そして山崎幹事長(当時)が小泉と会食した。YKKが結集したわけだ。

江沢民元国家主席と親交がある加藤は3時間にわたり、小泉に靖国参拝を思い止まらせるべく説得にあたった。加藤の話を基に、当時の会話を再現しょう。

加藤
靖国参拝を中止することはできないのか

小泉
遺族会と約束したことだからな

加藤
「中国側から、終戦記念日の
815日に靖国参拝をしたら、日中関係は大変な事態になると言ってきている」

小泉
「中国から非難されて中曽根さんは屈したが、私は動じない。屈したくない」

 前述した通り、中曽根は’85年の終戦記念日に靖国を参拝したが、中国の猛烈な抗議を受け、翌年からは参拝を取りやめた経緯がある。

加藤
なぜ、そうまで靖国にこだわるのか

小泉
20代前半の青年が特攻隊となって、国のため、家族のために命を落とす。彼らが母に寄せた遺書を見て感動しない人間がいたら、その人間のほうがおかしいだろう。彼らの遺書は知覧に行けばいくらでも見られるんだから。靖国神社の展示館にだってある。見たことあるか?

加藤
「日本政府はサンフランシスコ講和条約を結ぶことで、極東軍事裁判(東京裁判)の判断を受け入れたことになる。
A級戦犯が合祀されている靖国を参拝することは、首相として条約に反することになるのが分かっているのか」

小泉
「オレは平和を願っているんだ。軍国主義者でありうるわけがない。どうしてオレの気持ちを分かってくれないのか。どうして分かろうとしないのか」

 

 この記述に見る小泉氏は、平野氏評通りの178歳のチンピラです。

全く、戦争映画を見て感激しているような軍国少年です。

又、戦場で命を落とした英雄達の霊を自らの城(ワルハラ城)へ招じ入れている神々の長:オータンが活躍するヒトラーがこよなく愛したワグナーのオペラ(楽劇)の『ニューベルングの指輪』を見て感激しているオペラ大好き少年のようです。

とても、一国の首相とは思えません。

 

 小泉氏は、特攻隊員の遺書に感涙しておられるようですが、拙文《文系の方々も「理」の心を(4)(靖国神社について)》にも抜粋させて頂きましたが、山中恒著《靖国の問題:小学館発行》の次の記述を再掲させて頂きます。

 

……靖国神社の祭神も激増しました。戦争が長引さ、激しさを増すと。靖国神社が果たす役割はさらに重要になりました。太平洋戦争が始まる頃には、出征兵士たちは「天皇陛下のために戦って、名誉の戦死を遂げてまいります。靖国神社でまた会おう」と、挨拶するようになったからです。

 

一九四五年から日本は、敗戦への道をひた走りに走り、しまいには日本中が神がかり状態になりました。神風特攻隊員は、戦死する前から、靖国の神の如くに振る舞うように求められました。

新聞雑誌は、特攻隊員は生前から靖国の神のようだと書き立てました。靖国神社に祀られることを前提とした遺書のひな形があらかじめ用意されていました。特攻隊員は、それを参考にして、故郷への思いや、家族への別れの言葉を書き加えて、遺書にしました。江田島出身で最後の特攻隊員だった信太正道さんは、そのことを新聞に書いて明らかにしました。つまりやらせだったのです。信太さんは、そんな遺書を見て「感動した」と涙ながらにいう小泉純一郎さんは、変だといっていました。そんな遺書を書かされて、片道だけの燃料を搭載した特攻機で、死にに行かされた若者の本当の気持ちを理解していない。はっきりいってほめ称えてほしくないというのです。

私も本当にその通りだと思います。

 

 このように“江田島出身で最後の特攻隊員だった信太正道さんは、そんな遺書を見て「感動した」と涙ながらにいう小泉純一郎さんは、変だといっていました。”と書かれているのです。

小泉氏は、この遺書の雛形の存在を知らないのでしょうか?

 

 更には、小泉氏は、次の田中康夫長野県知事の『日刊ゲンダイ(2005728)』の記述をどう思われるのでしょうか?

http://gendai.net/contents.asp?c=025&id=20699

……  では、以下は、何処(どこ)の平和主義者が行った発言でありましょうか?
「安倍晋三に会った時、こう言った。『貴方と僕とでは全く相容れない問題が有る。靖国参拝がそれだ』と。みんな軍隊の事を知らないからさ。それに勝つ見込み無しに開戦し、敗戦必至となっても本土決戦を決定し、無数の国民を死に至らしめた軍と政治家の責任は否めない。あの軍というそのもののね、野蛮さ、暴虐さを許せない
「僕は軍隊に入ってから、毎朝毎晩ぶん殴られ、蹴飛ばされ。理由なんて何も無くて、皮のスリッパでダーン、バーンと頬をひっぱたいた。連隊長が連隊全員を集めて立たせて、そこで、私的制裁は軍は禁止しておる。しかし、公的制裁はいいのだ、どんどん公的制裁をしろ、と演説する。公的制裁の名の下にボコボコやる」
「この間、僕は政治家達に話したけど、NHKラジオで特攻隊の番組をやった兵士は明日、行くぞと。その前の晩に録音したもので、みんな号泣ですよ。うわーっと泣いて。戦時中、よくこんな録音を放送出来たと思う。勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけれど、殆(ほとん)どウソです。だから、僕はそういう焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無いと考えている。犠牲になった兵士は別だ。これは社の会議でも絶えず言ってます。君達は判らんかも知れんが、オレはそういう体験をしたので許せないんだ」
 これらは驚く勿(なか)れ、改憲を掲げる讀賣新聞社の渡邉恒雄氏が、田原総一朗氏責任編集の雑誌「オフレコ!」創刊号で発言した内容です。歴史を実体験した者の科白は、立場を超えて傾聴に値するのだとの感懐を僕は抱きました。

 

 ナベツネ氏は、この件を小泉氏に話さなかったのでしょうか?

(田中氏はナベツネ発言に感心していますが、私は異論を挟まねばなりません。

ナベツネ氏が酷い目にあった軍隊は日本軍の特殊性では無いのです。

 

この世の中に人間味溢れる軍隊が存在しますか!?

 

人殺し集団と化さなくてはならない軍隊で、尋常の人間性を維持出来る方が居られたとしたら、その方は逆に尋常の人間では無いのだと思います。

従って、人間性を剥奪する集団たる軍隊の存在を肯定する改憲論には私は断固反対するのです。

米国海兵隊員としてベトナム戦争の前線で戦ったアフリカ系アメリカ人アレン・ネルソン氏の著作『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?(講談社:発行)』には、戦争の残忍性がえぐり出されています。

 拙文《政治も外交も社会通念が基本》に一部引用させて頂いていますので、ご一読下さい。)

 

 更には、《あゝ同期の桜(海軍飛行予備学生第十四期会編:光人社発行)》より、終戦の4ヶ月前、昭和二十年四月十二日、南西諸島方面にて特攻戦士されたHIさんの死の数日前に書かれた検閲を受けていない書簡(「この手紙、梅野にことづけて渡してもらうの記述より)の一部を掲げさせて頂きます。

 

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでゆくのが、つらいです

 私は至らぬものですが、私は母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さい、ということは、とてもできません。けど、あまりこんなことは言いますまい。

……

 私は、お母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りは、いつも神様はみそなわして下さいますから。

 この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね

やっぱりですからね。もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。

いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。

 

 この手紙には、天皇万歳も靖国神社も登場してきません。

他にも、《あゝ同期の桜》に、このような手紙手記が掲載されています。

(拙文《文系の方々も「理」の心を(4)(靖国神社について)》にも抜粋させて頂いております。)

 

これらの記述を見ても、戦国少年小泉氏は“知覧特攻平和会館に展示されている 若い特攻隊員の遺書が全て特攻隊の真意と感じているのでしょうか?”

 

 そして、この小泉軍国少年に関して、先のジャーナリスト松田賢弥氏によって次のように記述されています。

 

加藤は小泉の頑なさに、昔見たある光景を思い出していた。’86(昭和61)年。当時、防衛庁長官だった加藤は、横須賀の防衛大学校の卒業式に出席した。式には、地元出身の代議士である小泉も参列していた。

「よく来られるんですか」

 と尋ねた加藤に、小泉は、

オレは防衛大の卒業式が好きなんだ。式は11秒の狂いもなくスケジュールが進んでいく。見事なもんだ。様式美の極致だね。最後に卒業生全員で帽子を放り投げる、その姿に非常に感動する」

 加藤はこのエピソードを紹介しながら、私にこう言った。

「いまの靖国参拝問題を彷彿とさせませんか。小泉さんは政治家というより、個人の情緒や感傷で突っ走る人なんです。非常に危険なことです

 ……

 私には加藤の言葉が、いまの靖国参拝の問題の本質を言い当てている気がしてならない。小泉はそもそも戦没者の慰霊などに興味などなかった。ただ、戦中の軍国少年のように、ただひたすらに軍神たちの神話を崇め、日本遺族会の顔色を見ながら靖国参拝をしているだけだ。そこには、一国の為政者として戦争を憎み、身を挺して国民の命を守ろうという気概など微塵も感じられない。……

 

 この記述からは拙文《キーワードは軍産複合体》に引用しました86日の朝日ニュースターの“パックインジャーナル”にて元参議院議員の平野貞夫氏の、

“日本は、民主主義国家ではなく北朝鮮同様の独裁国家”

 

発言を思い起こします。

即ち、

 小泉首相は日本にいるよりも独裁国家北朝鮮に行き金正日の横に席を取り、
一糸乱れず執り行なわれるマスゲームに拍手を送り続けていれば良いのです。

 

 ただ怖いことは時代がずれていたりしたら、

 ヒトラーと仲良くワグナーの楽劇に“ブラボー、ブラボー、ブラービ〜〜〜!”
と声を張り上げていたかもしれません。

 

 そして、更に悲しいことは、当初の平野貞夫氏発言の、“178歳のチンピラもどきだからこそ、小泉氏が日本国民の支持を受けている”に戻ってしまうのです。

 

 私は、今回の「郵政民営化法案」に関するゴタゴタで、小泉政権は国民から見放されてしまうのだろうと思いましたが、次に掲げる朝日新聞の記事を見てびっくりしました。

 

小泉解散「賛成」48% 本社世論調査

 郵政民営化法案が参院本会議で否決され、小泉首相が衆院の解散・総選挙に踏み切った直後の8日夜から9日にかけて、朝日新聞社は緊急の全国世論調査を実施した。今回、首相が解散したことに48%が賛成し、反対の34%を上回った。廃案に終わったものの、首相の郵政民営化への取り組みを55%が「評価する」とし、53%が「今後も民営化を目指すべきだ」と答えた。9月11日の投票を控え、望む政権の形では、「自民中心」(38%)が「民主中心」(28%)を上回った。

 内閣支持率は46%で、前回7月調査の41%から上がった。

 解散を断行した首相の政治手法について、自民党内には「強権的」との見方があるが、自民支持層の60%は解散に賛成と回答。民主支持層(51%)など他党の支持層より多く、首相の行動に理解を示した形だ。

 首相の郵政民営化への取り組みについて、「評価する」と答えた人は自民支持層が最も多く82%。「今後も民営化を目指すべきだ」との答えも自民支持層で71%と、一番多かった。

 

 事実、テレビの街頭インタビューで、年配の女性が“終始変わらず、自説を貫き通す小泉首相は立派だと思います。どうか小泉さん頑張ってください、応援しています”と語っていたのですから!

 

 178歳のチンピラもどき人物を日本の首相として喜んで戴いている事は、日本人の民度にふさわしい現象であって、日本人の誰もが文句を言う必要は無いのかもしれません。

しかし、こんな民度の低い首相を支持する国の隣国は堪ったものではありません!

遠く離れた国である米国は兎も角!

 

(補足)

 小泉首相は、靖国神社の参拝理由を、先に掲げましたように、次のように述べていました。

 

 「大西は、国の指示に逆らうことなんてできなかったんだ。大西は特攻隊員らを死なせたことを悔やみ、苦しんだ挙げ句の自決だった……。もう、あのような人たちを出しちゃならない。自然の発露だ。だから、オレは『(靖国に参拝するのは)不戦の誓いや戦没者への哀悼の念』と説明しているだろう。参拝の理由はそういうことなんだ」

 

先ず気になるのは、「大西は、国の指示に逆らうことなんてできなかったんだ」との発言です。

 

拙文《私が60年安保闘争で学んだ事》にも書きましたが、周囲が“鬼畜米英を倒す為に、われら日本人は天皇陛下に命を捧げて戦うぞ!”と叫んでいると、自分自身もそうでなくてはいけない気持ちになってしまうものです。

ですから、大西氏には「国の指示に逆らう」気持ちは無かったかもしれないと私は解釈します。

本気で、特攻隊を編成して、少しでも鬼畜米英に損害を与えようと思っていたのでしょう。

 

若し、大西氏に「国の指示に逆らう」気持ちがあったのなら、特攻隊を組織する前に自害されているべきだったと思います。

 

それに、小泉氏は、日本国の首相でありながら「」とは何であるか?をしっかり認識しておられないようです。

」は、「地球」とか「太陽」とかの実態のある存在では無いのです。

「日本国」であったら「日本国民」と「日本国土」等から成り立っており、その舵取りの筆頭者が首相である小泉氏なのです。

極言すれば「国」とは「小泉首相」でもあるわけです。

その「国」でもある「小泉氏」が、

国の指示に逆らうことなんてできなかった大西のような人たちを出しちゃならないから靖国神社に参拝して不戦の誓いや戦没者への哀悼の念の示すのだ」

ではいけないのです。

国の責任者としたら、もっと具体的に、戦わない為にはどうするのかを示すべきなのです。

ところが、小泉氏が靖国神社に参拝する事(本来は日本国内から反対の声が上がって然るべきなのに!)で、アジアの国々(特に中国、韓国)に不快感、不信感を与え、争いごとの基を撒き散らしているのです。

 

  更には、小泉首相は、“終戦の翌日に割腹自殺するんだ。はらわたを出し、のたうち回りながら苦しんで死んでいったんだ”との大西氏に感激しているようですが、切腹の作法を百科事典(平凡社)を見ますと、次のように記述されています。

 

 自殺の方法としては平安時代に始まり,源平争乱のころから一般化し,武士(男子)はもっぱらこれによるべきものとされ,中世,近世を通じてひろく行われた。短刀を腹の左に突き立て,右に回して引き抜き,つぎに胸の下に突っ込み,下へ押し下げて十文字に切りさらにのどを突くのが正式であった。腹を切るのは苦痛も多く,致死も困難であるが,自分の真心を人に示すという観念,および戦場や人の面前で自殺するのにはもっとも目につきやすく,勇壮であるというところから,この部位が選ばれたのであろう。……

 

 この記述にあるように、切腹は腹だけを切るのではなくて、死を早める為にも「のどを突く」のです。

そして、更に、死を確実にする為に、(映画でおなじみのように)「介錯人」が首を切り落とすのです。

(そこで、この点も百科事典を引用させて頂きます。)

 

 刑罰としては中世末から行われたが,江戸時代に幕府・藩が採用し,武士のうち侍と呼ばれた上級武士に対する特別の死刑となった。……

受刑者が肩衣(かたぎぬ)をはね,三方に手をかけようとする瞬間正介錯人は刀を振るってその首を切り,副介錯人が首を取って横顔を検使に見せると,検使は始終を見届けた旨を述べて執行を終わる。……

 

 此処で、私達日本人に、今も尚、愛されている西郷隆盛の自決の様相を「西郷隆盛のホームページ」は、次のように記述しております。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/)

 

 西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部らは、本営の洞窟前に整列 し、「前へ進んで死のう」と決意を固め、前線の土塁に 向けて歩き始めました。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交うなか、西郷らは城山を降りて行ったのです。西郷に付き従った 人々 は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきました。そして、とうとう西郷にも流れ弾が当たり、西郷は肩と右太ももを貫かれて、がっくりと膝を落としました。西郷にはもう歩く力はありません。西郷は自分の傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に、「晋どん、もうここいらでよか・・・」と言いました。別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ〜」と大きく叫んで、西郷の首を落としました。西郷隆盛、49歳の生涯の幕切れでした。

 

 西郷隆盛は、介錯人の手で首を落とされているのです。

 

 従いまして、大西氏は、喉を突くか、介添え人を頼むかして自らの死を早めるべきだったのだと思います。

しかし、

 大西氏は、自らの決断で特攻隊員を死にやったことへの償いとして、故意に自らの死を遅らせ、苦しみつつ死なれたのかもしれません

だとしたら、小泉氏の表現は間違っています!大西氏は「のたうち回りながら苦しんで死んでいったんだ」ではいけないのです。

大西氏は、その苦しみに長時間、じっと耐えて、亡くなった

でなくてはいけなかった筈です。

 この点(日本人の美学)が理解出来ない小泉氏では、大西氏の死をとやかく言う資格は無いのだと私は思います。

 

 そして、何故小泉氏は、特攻隊員の方々だけではなく、一般市民の犠牲者(沖縄の方々等)の苦しみに心を砕かれないのでしょうか?

私は、不思議でたまりません。
大西氏の「死様」よりも一般市民の悲惨さに胸が締め付けられます。

従いまして、

 小泉氏は靖国神社に参拝するのではなく、
戦争の犠牲者全てを追悼する施設を速やかに建設して、
その場で、「不戦の誓いと追悼」を行うべき

なのだと存じます。

 

 東京新聞の特集記事「戦後60年 沖縄戦」には、次のようなの記事(6報)が掲載されています。

http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/index.html

 

ギュッと閉じたまぶたに六十年前の光景が浮かぶ。母を殺さざるを得なかった苦しさを、ためらいながらも伝えようとする七十六歳の牧師の顔がゆがんだ。

 沖縄本島西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷島に米軍が上陸したのは一九四五年三月二十七日のことだった。

 降り注ぐ砲弾と豪雨。深夜。特攻のための秘密部隊「海上挺進(ていしん)第三戦隊」の陣地に近い島北部の谷間に集められた六百−八百人の島民の中に、当時十六歳の金城重明さんもいた。

 「米兵に捕まれば惨殺される。天皇のために死ぬのが大切だと教えられてきた時代でした」

 友軍と運命をともにするという死の連帯感が体中に満ちるのを感じた。一週間ほど前、軍が島民に手りゅう弾を配った時、沖縄戦のむごさを象徴する「集団自決」の引き金に、指はかけられていた。

 「天皇陛下万歳」。翌朝、村長の三唱を合図に、家族が一緒になって次々と手りゅう弾を爆発させた。不発で死にきれなかった家族はさらに悲惨だった。自らの手で家族に手をかけていったのだ。

 金城さんの目前で、へし折った小木を手にした男性が妻子をめった打ちにし始めた驚きにすくんだが、「これがやるべき死に方なんだ」と悟った。

 自分たちを殺してくれるはずの父とは、前夜の逃避行で離れ離れになっていた。二つ年上の兄と二人で、最初に母に手をかけた。泣き叫びながら、石を持った両手を打ち下ろす。母も泣いた。気が付くと声が聞こえなくなり、母の体は動かなくなっていた。次に九歳の妹と、六歳の弟の命を絶った。どうやって手にかけたのか記憶はない。……

 

 私は、特攻隊の方々の遺書や、大西氏の死様よりも、沖縄の方々の悲惨な思いに胸を痛めます。

 

そして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記述されています。

 

 日本側には「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があり、またかつて中国戦線で日本軍が中国人に対して行った虐待行為などの経験から、捕虜になっても虐待されるという恐怖心が生まれ、敢えて投降せずに「集団死」を選ぶ壕もあった。また、投降する者は軍人・民間人を問わず射殺せよという命令が出ていたとされており、投降できずに殺されたケースもあった。

 

 更には次のようにも記述されています。

 

沖縄戦おきなわせん)は第二次大戦における、日本国内で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。また、民間人の犠牲者が、戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。日本側の死者・行方不明者は、沖縄県援護課の調査によると18万8136人で、うち12万0228人が民間人(戦闘に協力した民間人を含む)。負傷者数は不明。アメリカ軍の死者・行方不明者は1万2千人で、負傷者7万2千。ただし、日本側の死者数は戸籍の焼失などにより全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。現在は、死者20万人を超えており、いまだ数多くの遺骨は見つかっていない。

当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており、少なくとも県民の4人に1人は死亡した

 

 更には、次の記述です。

 

守備軍と住民が最終的に追い詰められた沖縄本島南部では、特に多数の一般住民の死者が出た。これは主に、安全な自然壕が軍により占拠されており、住民が安全な避難場所を確保できなかったことや、戦闘員と一般住民が同じ壕に避難していたため、アメリカ軍の攻撃により両者ともに全滅したことなどによる。戦闘末期、日本兵が一般住民に偽装して特攻することがしばしばあり、アメリカ軍は民間人か戦闘員かにかかわらず動くものをすべて銃撃するようになったことも原因の1つに挙げられる。

日本兵の多くは沖縄住民を戦闘の邪魔になる連中と見なしており、保護すべき民間人という認識は皆無だった。日本兵自身が安全な壕内に避難したいがために、「我々はお国のために闘っているのだ」との口実で、先に防空壕に避難していた住民を追い出した。また、ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害したり、スパイ活動を警戒して住民に方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民は有無を言わさず殺害するなど、非人道的な行為を数多く行った。……

 

久米島では米軍の上陸はなかったが、日本軍軍属の鹿山正部隊長(兵曹長)の疑心暗鬼により、住民や朝鮮人がスパイ容疑その他で虐殺される事件(鹿山事件)がおこった

これ以外の諸島では大規模な戦闘は行われなかったが、空爆は恒常的に行われた。島によって異なるが、大規模な空爆はおよそ3月から6月いっぱいまで続いた。宮古島、八重山諸島(石垣島、西表島)では、日本軍が戦闘の妨害になるという理由で住民全員をマラリア発生地帯に避難させ、多数の住民がマラリアで死亡した。

 

 同じく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』での、サイパンについての記述を引用させて頂きます。

 

 第二次世界大戦中は、日本軍司令部があったこともあり、米軍上陸の際には住民を巻き込んでの激しい戦闘で多数の犠牲者を出し、米軍への投降を望まなかった住民らが「天皇陛下万歳!」と言って、崖から自決したことから名づけられたバンザイクリフ(Banzai Cliff)やスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺の崖)など島のあちこちに戦争の名残が残っている。この戦いで島に残っていた日本人住民1万人が死亡した。

 

 

 このように

“米兵に捕まれば惨殺される。天皇のために死ぬのが大切だと教えられてきた時代でした”
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があり

と、一般市民を無惨な死に追いやった無情な教えを刷込んだのも「国」なのです。

 

 この一般市民への「国」の責任を小泉氏は同様に考えられているのでしょうか?!

何故小泉氏は、これらの一般市民の犠牲者も追悼する施設を建設しないのでしょうか?!

 

                                                
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