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衣食足りて礼節を忘れた日本人
2005年5月5日
宇佐美
私は朝日新聞の世論調査記事(2005年4月27日)を見て吃驚しました。
朝日新聞社が韓国の東亜日報社、中国社会科学院と共同で実施した世論調査(面接)によると、韓国で63%、中国で64%が日本を「嫌い」と答え、日本でも両国を「嫌い」だとする割合が増えた。小泉首相の靖国神社参拝をめぐっては、韓中で9割の人が反対し、日本の国連安全保障理事会の常任理事国入りについても、両国でともに8割以上が反対だと答え、対日観の厳しさが際立つ結果となった。
…… 小泉首相の靖国神社参拝への賛否を聞いたところ、韓国は「反対」92%、中国は「反対」91%だった。日本は「反対」28%、「賛成」54%だった。 意識の違いの背景には「靖国」像の落差がありそうだ。「靖国神社はどんな存在か」と聞くと、韓中では「軍国主義の象徴」が6割で、日本では7割が「戦死者を追悼する所」だと答えた。
…… |
韓国・中国が小泉首相の靖国神社参拝に反対するのは兎も角、日本人の54%が賛成しているのには驚愕しました。
少し前までは、日本国内で“「靖国神社」は「軍国主義の象徴」”と言われ、日本の首相の靖国神社参拝に対しては、反対の声が高かったはずです。
ですから、私は、”小泉首相の提灯持ち“と思っていた田原総一朗氏が「靖国参拝は国内の問題」と、週刊朝日(2005.5.6.13号)のコラムに書いているのを見て安堵しました。
なにしろ、田原氏は、小泉首相への助言メッセージのごとく、次のように発言していたのですから。
日本では、どんな罪人でも、死ねばみな仏となり、生前の罪は許される。 首相は、戦争で犠牲になられた方々の前で、不戦の誓いを行う為に、靖国に参拝しているのだ。 |
そして、小泉首相は田原助言(?)通りに繰り返し、このように発言していたのです。
しかし、今回の中国デモの発生を鑑みて、田原氏は反省したのかと思ったのです。
ところが、読み進むにつれて、力が抜けてきました。
彼の言い分を、一部抜粋させていただきます。
……日本は民主主義の国で、言論は自由である。 中国の″欠陥″のマネをして中国たたきに精を出すべきではない。こういうときにこそ、言論の自由を示すためにも、あえて正論を主張すべきだと思いつ。 批判を恐れずに記す。 …… だが、靖国問題は対中問題ではない。私たち国民が中国の干渉などに関係なく、真摯に考えなければならない問題である。 靖国神社には、約246万体の戦死者の霊が祭られている。 私の従兄も2人、靖国神社に祭られていて、私自身、伯父や伯母と一緒に何度も参っている。 だが、靖国神社に祭られでいる遺族たちの多くは、何とも複雑な思いでいるはずだ。 ほとんどの遺族たちの夫や父、兄弟たちは、いわゆる赤紙(召集令状)で軍隊に取られて戦死した兵士たちだ。私の従兄は2人とも〃赤紙組″で、国会議員にも、父親や兄弟が赤紙で召集されて戦死した例が少なからずある。彼らは戦争の犠牲者たちの遺族である。 それに対して、靖国神社に合祀されているA級戦犯たちは、赤紙を出した側である。太平洋戦争では、戦争に国民の多くを引き込んで戦死させた。〃赤紙組″からみれば、加害者という言葉は慎むが、甚だありがたくない人間たちなのである。 その意味では、〃赤紙組″の遺族の多くは、靖国神社にA級戦犯と一般の戦死者が合祀されているのを歓迎しておらず、本音では分祀されるのが願わしいと思っているのではないだろうか。 …… 念のために記しておく。 私は、中国の外圧によってA級戦犯を分祀するのは反対である。小泉首相が靖国参拝をやめる必要もないと思う。 …… |
失礼ながら、田原総一朗氏に対しては、“一体このおっさんナンナンや!”と怒鳴りたくなりました。
一寸前までは、“どんな罪人でも、死ねばみな仏となり、生前の罪は許される”と発言しておきながら、今になって、
“〃赤紙組″の遺族の多くは、靖国神社にA級戦犯と一般の戦死者が合祀されているのを歓迎しておらず、本音では分祀されるのが願わしいと思っているのではないだろうか” |
などと書くとは、何事ですか!?
今までの、小泉首相も含めて田原氏らの見解では、「A級戦犯」の方々も生前の罪は許されているのですから、彼らの霊も〃赤紙″で心ならずも命を落とされた方々の霊もご一緒に祀られて当然ではありませんか?!
(但し、「仏」となったのに「神」として祀られるのは如何なのかしら?と私は疑問に思います。)
たとえ、田原氏は文頭で“日本は民主主義の国で、言論は自由である……批判を恐れずに記す”と断り書きを掲げたとて、『サンデープロジェクト』、『朝まで生テレビ』と影響力の強い2本の番組を牛耳るジャーナリストしては、その発言が自ずと国論を左右する力を有していることを自覚し、今回のごとき支離滅裂な論を吐く事は慎むべきです。
現に、文頭に掲げた、日本人の首相の靖国参拝への賛成者の増大には、田原氏の様な方々の発言が大きく寄与していると常々私は思っております!
(改憲論者の増大も然りです。
今のように、テレビで何度も「改憲問題」を取り上げていけば、やがて、国論は「改憲」に傾いてゆくでしょう。)
4月17日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』に於いても、同席されていた野田毅氏(自民党衆議院議員・日中協会会長)の発言をさえぎって、中川昭一氏(産業経済大臣)に向かって、
“小泉首相は、靖国神社で不戦の誓いをする為に12月8日(開戦の日)ではなく、8月15日(終戦の日)に参拝しているのですよね〜〜〜!” |
と擦り寄っていました。
何故、日本の首相が不戦の誓いを「軍国主義の象徴」と日本国でも言われていた「靖国神社」でするのですか!?
もっと適切な場所があるでしょう!
何故、田原氏は、中川氏のような支離滅裂な人物に擦り寄るのでしょうか?
中川氏は、今回の中国国内のデモで、日本の方々に損害を与えた件に関して、テレビでは次のように息巻いていました。
“相手に迷惑をかけた場合には、謝罪し、その際の損害を補償するのが、一般社会の通念なのに、何故中国は謝りも賠償もしないのか!?” |
私は、この発言を聞き、中川氏はアルコール中毒で、頭が破壊されているのかしら?と思いました。
だってそうではありませんか!?
謝って、賠償するのは、先ず日本が行うべきではありませんか!?
ところが、中国は、その「賠償請求を放棄」しているのです。
この件の経緯を拙文『文系の方々も「理」の心を(4)(靖国神社について)』の一部を掲げます。
中国がA級戦犯が合祀されている靖国神社への公式参拝に対して反対している根拠は、拙文《小泉首相の靖国参拝(お蔭様を忘れずに)》にも引用させて頂きましたが、文芸春秋:2001年9月特別号に古山高麗雄氏の書かれた「万年一等兵の靖国神社」と私は思います。
(以下に再度引用させて頂きます。)
……元中国大使の中江要介君は……、六月末の「東京新聞」にその理由を書いていた。 その要旨を簡単に言うと、一九七二年、当時の首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、当時の中国の首相周恩来は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」と言って、賠償請求を放棄した。だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争青任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民を納得させられない、というのである。 だから、中曽根首相は、A級戦犯合祀の再検討が困難になると、以後参拝をやめた。ところが橋本首相は、国のために一命を捧げた霊を弔って何がいけないのか、と参拝を復活させた。小泉首相も同様である。私も、橋本首相や小泉首相とはいささか違うが、靖国に首相が参拝して何が悪いと思っていたのである。日中の事情を知らなかったのである。新聞が中江君のような説明をしてくれたら、ああそういうことだったのか、それなら首相は行かない方がいいな、大事なことは見せることではない。弔う心を持つことだ。ならば官邸内で祈ればいいではないか、と思う。 首相ともなれば、知らなかったでは怠慢になるが、知っていてなお強行するとなれば、これは中国に対する非礼である。礼節はまもりましょうや。 |
(それにしても、何故、日本は、このような外交等での交渉経緯が克明に文書化されていないのでしょうか?……)
私達日本人は、中国への不満を垂れ零す前に、周恩来首相(当時)の大英断に感謝すべきではありませんか!?
その大英断部分をもう一度掲げます。
“「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない” |
ところが、無頼漢のごとき平沢勝栄自民党議員(松原ナンとかと言う民主党議員も)等は、次のような発言をして憚りません。
日本は中国には今まで、3兆円ものODA援助(有償無償合わせて)をしてきた、その上、何度も謝ってきたではないか!! これから先、何度謝ったらよいのと言うのだ! |
しかし、野田氏は、先の番組中で次のように発言されていました。
“日清戦争以来、日本が中国に与えた損害は、数百兆円にもなるだろう。……” |
“損害を補償するのが、一般の社会の通念”と宣う中川氏は、「数百兆円の損害」に対して「3兆円のODA」支援で補償完了と思って居るのでしょうか?
(但し、人によっては、サンフランシスコ平和会議に於いて、戦勝国は賠償金の請求権を放棄しているのだから、中国も放棄して当然と言われます。
しかし、中国は、その会議に招かれていませんし、他の戦勝国と違い長年日本軍に蹂躙され続けていたのですから、賠償金の意味合いが他の戦勝国とは違うはずと存じます。)
イラクでの湾岸戦争の際には、日本は、100億ドル(当時で1兆3千億円位)を支払いました。
そして、今回も、5,500億円(或いはそれ以上)支払い、人道復興支援の掛け声の下自衛隊まで派遣しています。
理不尽な米国のイラク攻撃に対しする失費と、隣国への迷惑量がほぼ同じとは、おかしくはありませんか?!
当時と今では、物価や為替レートが違うと申しましても、銀行への公的資金の投入量は「30兆円以上」ではなかったでしょうか?!
4月30日の朝日ニュースターの番組『パックインジャーナル』では、司会の愛川欽也氏が、“国鉄の民営化の際には、国からは28兆3000億円が支出された”と発言していました。
それに、今度の郵政民営化の際には「2兆円」の失費なのですから。
これらの支出から考えて、中国への3兆円のODAが、数百兆円の損害に対する補償に見合った額と中川氏、平沢氏は考えておられるのでしょうか?
周恩来首相(当時)による
“「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない” |
との大英断は、中国側から日本側へのある種の贈り物であって、それを受け取る日本側としては、それなりの誠意(お金の件のみならず)を示すのが人間の道ではありませんか!?
ですから、次の朝日新聞(2005年4月28日)の記事には尚更驚かされるのです。
小泉首相は27日夜、中国の王毅(ワンイー)駐日大使が靖国神社参拝に関する「紳士協定」が日中両政府間にあったと自民党外交調査会の講演で指摘したことについて「大使がどういう趣旨で言ったのかわからないが、紳士協定とか、靖国参拝において密約とか、そういうことは全くない」と強く否定した。首相官邸で記者団に語った。 …… 中国政府関係者はこの「紳士協定」について、首相、外相、官房長官の3人は参拝しないとの内容だとしている。 |
周恩来首相(当時)の見解を理解すれば、密約があろうがなかろうが、小泉首相は、靖国参拝を控えるべきです。
若し、周恩来首相(当時)の見解を知らないのだとしたら、何故日本は中国に対して賠償責任を果たしていないのか?と疑問に思い、その為の交渉をしていなくてはなりません。
(中川氏でも、そう思うべきです。)
小泉首相にしろ、中曽根元首相(“中曽根元首相が「靖国協定」否定 中国大使館に抗議”朝日新聞(2005年4月29日))にしろ、中国の賠償請求を放棄した理由も知らずに、中国に対して何ら賠償せずとも良いのだと認識し続けてきていたのなら、中国人の誰もが怒るでしょう。
そして、日本は世界から爪弾きされます。
日本人は、「礼節を重んじてきた民族」だったはずです。
戦後、多くの方々のご努力によって、今の日本は、「十分に衣食が足りて居ります」。
従って、私達は“衣食足りて礼節を知る”を、もっと心に刻み込むべきです。
ところが、小泉氏らの言動や、それを支持する人々の多きを知る今
“衣食足りて礼節を忘れた日本人” |
の念を強く持たざるを得ません。
中川氏はじめ多くの自民党の方々は、“中国政府は、中国人の不満の捌け口を日本に向けることで、中国政府への不満のガス抜きを図っている”と今回のデモを非難されていますが、小泉首相の靖国参拝とて、ご自身への票固めの一端として行っているのではありませんか?
靖国神社のホームページを訪ねますと、「靖国神社崇敬奉賛会」の存在に気付きます。
そして、そこには次のようにも書かれています。
……戦後五十年を経た今日、世情は変容し、これまで神社を支えてきた御遺族、戦友の方々の高齢化により、今後参拝者の減少が予想され、悠久の神社護持の前途に懸念の兆しが窺えます。更に、戦後世代の戦歿者英霊に対する崇敬の意識は希薄であり、散華された英霊の御心を思えば憂慮を禁じ得ません。…… |
このような状況下では、なんとしても、小泉首相の参拝によって、靖国神社の先細りを防ごうと言う思いは理解出来ます。
そして、その圧力(選挙票目当て)で、小泉首相が靖国神社に参拝しているのなら、中国のガス抜き対策を非難できるのでしょうか?!
それどころか、沖縄県在住の作家:目取真俊氏の「昨年の8月15日、初めて靖国神社に行った」に始まる寄稿文(朝日新聞2005年4月22日)を読みますと、靖国神社の存在が日本人全員の為の存在であることに疑いを抱きます。
本殿から遊就館へと足を運んだ……遊就館では日本の近代以降の戦争についてさまざまな遺品や写真などが展示され、沖縄戦についても触れられている。しかしそこでは、皇軍兵士たちが沖縄で行った住民虐待や食料強奪、壕追い出しなどについいては記されてはいない。傷ついて歩けない兵士たちに青酸カリ入りのミルクを渡し、置き去りにして敗走していった日本軍の姿も伝えられず、また敗残兵となった日本兵に住民が抱いた恐怖も記されない。 そういう事実からは目をそむけることによって、死んだ皇軍兵士たちは「英霊」とたたえられる。逆に言えば、「英霊」のイメージを壊す沖縄戦の実相は、靖国神社では触れてはいけないタブーなのだろう。 それは沖縄戦だけではない。日本が植民地とし、戦場としたアジア諸地域の戦争の実相もそうだ。私には靖国神社や遊就館が、皇軍兵士による住民虐殺や略奪と暴行など、侵略と加害の歴史を忘却させ、侵略者としての皇軍兵士の死を殉国美談の物語に仕立て上げる巨大な装置としか思えなかった。 …… 沖縄人の大多数の宗教観は祖先崇拝だ。もともと神道の影響の少ない沖縄で、慰霊祭で手を合わせながら靖国神社にまで思いをはせる人はわずかだろう。国の追悼施設などなくても、大方の沖縄人は別に困りはしない。むしろ、首相の靖国参拝に沖縄からも違憲訴訟が起こされたり、肉親が勝手にまつられていることに異議を唱える声の方が目立つ。 …… 私の祖父や父は日本兵に殺されかけた体験を話していたが、その記憶を私も忘れはしない。 韓国や中国の「反日」デモについて、日本のメディアは「愛国主義教育」の影響を喧伝するが、私には「口伝え」に伝えられる「記憶」や「歴史」の力について認識が弱いように思える。 日本人がいくら目をそむけても、日本が行った侵略と虐殺、略奪の歴史を消せはしな い。そのことに真撃に向き合わない限り、日本はアジアでさらに孤立していくだろう。 靖国神社にかわって新たな国の追悼施設を作ろうが作るまいが、歴史の過ちを反省する姿勢が日本人の中にない限り、アジア諸国の民衆から理解は得られまい。 |
小泉首相は、沖縄での「皇軍兵士による住民虐殺や略奪と暴行など」に関して、どのような思いを抱いて、靖国神社で参拝されているのでしょうか?!
目取真俊氏のような沖縄からの方の見解の紹介が、今まで少な過ぎたのではないでしょうか!?
否!沖縄の方々からの発信を、小泉首相はじめ無視し続けてきているのではないでしょうか!?
私達は、沖縄の方々の声にもっと耳を傾けるべきだと私は思います。
更には、靖国神社を支えて来られた御遺族、戦友の方々も、沖縄の犠牲者の方々の思いを汲み、靖国神社が、その佇まい同様に、自然に、静かな存在に落ち着くことに任せては如何なものでしょうか?
ところが、今まで何度も紹介されてきたような一般的とも見られる見解を、宮崎哲弥氏(評論家)は、同じ朝日新聞の紙面で次のよう語っています。
戦後の「靖国問題」のポイントは、制度的には一宗教法人に過ぎない靖国神社に、国家的な慰霊・追悼の機能を持たせようとした「無理」にある。 …… 私は「多宗教の国家的な追悼施設」をつくるべきだと答える。 …… 国家的な施設とすることによって、「だれをどのように処遇するか」を国民的に議論する前提ができる。「A級戦犯の合祀は妥当か」という国民的議論も有効になる。 その際、「国家によるあらゆる追悼行為は認められない」との立場を私は採らない。現にどの国でも行われおり、日本だけが行ってはらない理由はないと考える。 |
しかし、子安宣邦氏(大阪大名誉教授)は「主役は国家でなく市民」の題目で次のように書かれていました。
第2次大戦は、戦争当事国の軍人ばかりでなく、周辺国も含む多数の非戦闘員、一般市民に死をもたらし、国家や戦争についての根本的な反省を、人類全体に迫った。 戦後の日本は、その反省のもと、優れた国家原理を打ち立てた。憲法9条に定められた戦争放棄と、憲法20条に定められた国家は宗教祭祀とかかわらないという政教分離の原則だ。私はこの二つは深く結びついていると考える。日本は戦わないし、まつらない、ということだ。逆に言えば、英霊をまつる国家は戦う国家ということになる。 |
私は、目取真俊氏の思いに胸を打たれ、子安宣邦氏の主張に賛同致します。
田原氏は、
“靖国神社に祭られでいる遺族たちの多くは、……ほとんどの遺族たちの夫や父、兄弟たちは、いわゆる赤紙(召集令状)で軍隊に取られて戦死した兵士たちだ……彼らは戦争の犠牲者たちの遺族である……” |
と書かれています。
私は、この部分の田原氏の文章になんら異論を感じません。
田原氏の見解通りなのでしょう。
だとしたら、おかしくありませんか!?
当時の日本国を代表する方々である「A級戦犯」による犠牲者の方々が、小泉首相(「A級戦犯」に罪はないと信じている)をはじめとする今の日本国の代表者達によって「英霊」として参拝されることを快く思われるのでしょうか?
(欺瞞ではありませんか!?)
宮崎氏は次のようにも述べておられます。
“私自身、仮に国による侵略を受けた際、自発的民兵として戦う用意がないわけではない。ただし仏教者である私は、常住不変の霊魂の存在を信じない。だから戦死した場合に、靖国神社に神道式で合杷されることには耐え難い苦痛を覚える。” |
“自発的民兵として戦う用意がないわけではない”との思いから、「自発的に戦う方々」は、死後の処遇の如何を問題視されるのですか?
「国家による追悼行為」を期待されて戦地に赴くのですか?
宮崎氏のように「自発的に戦う方々」は、死後を考えず、その時の已むに已まれぬ想いから戦地へ赴くのではありませんか?!
となりますと、結局は田原氏の記述のように「赤紙(召集令状)で軍隊に取られて戦死した兵士たち……戦争の犠牲者たち」決して英霊になることを望まなかった方々を追悼することになります。
だとしたら、戦争して、犠牲者を出し、その方々を追悼するのではなく、気の毒な犠牲者を出さないように為政者は戦争を回避するように最大限の努力すべきではありませんか!?
私達は、戦争で犠牲になった方々を「英霊」として祀るのではなく、“今後、私達は戦争をいたしません”と誓い、追悼すべきではありませんか!?
更に、がっかりしたのは、先にも掲げた宮崎氏の次の発言です。
「国家によるあらゆる追悼行為は認められない」との立場を私は採らない。現にどの国でも行われおり、日本だけが行ってはらない理由はないと考える。 |
日頃、鋭い見解を発する宮崎氏が、こんなありきたりの愚論を吐かれるのでしょうか!?
「どこの国も行っているから、日本も行う」的論法では、日本の戦争放棄、武力放棄などは、逆に、「どこの国も、戦争放棄、武力放棄も行っていない。因って、日本の平和憲法は破棄すべし」となってしまうのです。
(現に、「普通の国」などこのおかしな合言葉の下、平和憲法は葬られんとしています。
日本に普通の国になる必要性があるのですか。)
宮崎論法では、発明も発見も存在しません。
(発明発見は、今まで誰も思いつかなかった、誰も行っていなかった事を切り拓いて行くのです。
私が今苦闘し執筆中の『コロンブスの電磁気学』も然りです。)
更に付け加えますと、最近私のメールボックスに次のようなメールが送られてきました。
平和憲法とか言われているアメリカ製の日本国憲法がなぜ、改正されようとしているのか、分かりますか。 それは、この現在の日本国憲法が日本人によって作られたものではないからです。 ですから、日本人は守ろうとはしないのです。 やはり、一国の憲法はその国の国民が作るべきでしょう。 日本の憲法は日本国民が作ってこそ、真の憲法となり、憲法が現実に生かされていくでしょう。 この私の意見がおかしいと思われるならば、ご返事下さい |
多分改憲論者の多くは、この方の主旨と大同小異と存じます。
何故アメリカ製(?)の憲法でいけないのですか?
しかし、「第九条の戦争放棄条文」に関しては、次のホームページから引用させて頂きます。
(http://www.omt.gr.jp/sensouhouki_h120324.htm)
又殊に昨今の右寄りの風潮につけ込み、便乗組連中の如何にも愛国者ぶった誘い言葉を聞くことが屡々(しばしば)だ。 曰く「現憲法はマッカーサーの押し付け憲法だ。日本が将来、経済的に復興し得ても決して戦争出来ないよう軍備を無くしたのだ」と、もっともらしく伝わってくる。ここで当時の現憲法成立に至る経過を論議する暇はないが、日本側の作った改正案─宮沢東大教授、河村九大教授、清宮東北大教授等のそうそうたる当時の憲法学者の改正案は準備されたが結局だめで、─元来が当時の内閣の大臣の多くは改正反対─たしかにマッカーサーのスタッフの一人、法律顧問ホイットニー准将や、ケーディス大佐等に依る改正案が出されたが、当時強い一貫した信念のある平和主義者幣原喜重郎総理の彼一人の平和への情熱をもって、寧ろ終にマッカーサーの反対を粘り強く説得して漸く此の第九条の戦争放棄条文を採用させた、といわれている。 全く天与の奇跡が起こったとしか考えられない。だから押し付けられたのでは決してない。 |
私も、奇跡だと思います。
(ですから、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》を書きました。ご参照してください。)
そもそも物事を独自で考えたら、ベストのものが生まれると言うのは錯覚です。
今の憲法調査会の面々、各政党間の思惑等で妥協の産物になりかねません。
私などは、何度も書いていますように、小泉首相誕生の際は、万歳!万歳!と叫びたいほど喜んだものです。
青島幸男氏にも都知事選の際は、票を投じました。
(石原慎太郎氏の時は?忘れました。)
もっと前には、拙文《私が60年安保闘争で学んだ事》に書きましたように、安保の「あ」の字も知らずに、今、中国で発生している「反日デモ」の参加者のごとくに、“安保反対!”と大声を上げていました。
更には、私たち、日本人の生活で、日本独自の文化がありますか?
音楽だって、映画だって、それに食生活だって。
今の時代、石油なくして生きてゆけますか?!
でも、石油は輸入品です。
電気なくして、生きてゆけますか?!
でも、電気の理論は、ファラデ、マクスウェル等によって確立され、技術はエジソンらの外国人の力に負っています。
パソコンだって、インターネットだってそうではありませんか!?
日常生活で、畳に座っている時間などありません。
今も、椅子に腰掛けてキーボードを打っています。
打っている字だって、漢字です。
(一部は漢字から変化した、日本固有のひらがなは使ってはいますが)
それに、小泉首相などが盛んに唱える“日本では、どんな罪人でも、死ねばみな仏となり、生前の罪は許される”は仏教の思想です。
仏教は、本来は外来宗教だから、前森首相の発言のように「日本は神の国」に戻るというのですか?
キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、多くの国々で信奉されていますが、これらの宗教は、それらの国々で生まれた宗教ではありません。
そして、
「天皇陛下」は、誰が何と言っても「天皇陛下」です。 選挙で選出するのでも、国民投票で、信任不信任を決めるのでもありません。 「天皇陛下」は、私達の意思に無関係に『天皇陛下』 |
なのです。
それに、私達の国土は、日本人の意志で決めた国土でもありません。
日本の国土は日本の国土です、今の場所より米国の方がよいと言っても叶えられないのです。
それに、私達自身が「日本国民」だと言っても、私達自身が決めたのではありません。
何年も前から私達の祖先が偶々日本人だったからです。
何年も前から私達の祖先が全て米国に移民していたら私達は米国人だったかもしれません。
言ってみれば、私達は、
「在日日本人」 |
でしかありません。
ただ日本人として誇りに思うことは、伊藤忠の丹羽会長の経営モットー(人生哲学)でもある
『清く、正しく、美しく』 |
を私達の祖先の心の中に育んで来た、と言うことではありませんか?!
(今の日本人は、悲しい事に『清く、正しく、美しく』の根幹たる、「礼節」を忘れているようですが!)
そんな日本が、その経済力に任せて近隣諸国が持てない強力な軍隊を持とうとするのは、私達の人生哲学に合致するのでしょうか?
「金さえすれば、財力に任せて、幾らでも強大な軍備を持てる」 |
と言うのは、『清く、正しく、美しく』の私達日本人の人生哲学から逸脱しませんか?!
従って、帯刀の時代から、
武器を持たないで戦う、身を守る武術:『空手』、『柔術』 |
を育んで来た日本に一番似つかわしいのは「武器を持たない憲法=平和憲法」ではありませんか?!。
奇跡は何度も起こるものではありません。
我が国の憲法は『奇跡の憲法』なのです。
何も、『奇跡の憲法』の製作者が私達である必要は全くありません。
そして、このような『奇跡の憲法』を守り抜こうとする事こそ日本人らしいではありませんか!
従って、小泉氏が、「不戦を誓う」のなら、「靖国神社」ではなく、「国連」などの場で(或いは、中国や韓国に出向き)、戦争で犠牲になった方々のみならず、世界の人々にも不戦を誓い、日本の『平和憲法』を胸を張って世界中に広めるべきではありませんか?!
更には、中川昭一氏(産業経済大臣)の先に掲げた発言を逆手にとるならば、『国益』などは、一般社会通念では「個人の利益」です。
こんな「国益」第一主義ではなく、一般社会通念として「相手の心を思いやる事が人との付き合いの基本」であるように、他国の人々の気持ちを (国としても国民としても) 日本は汲み取る努力をすべきではありませんか?!
私達は、同じ日本人でありながら、沖縄の方々の気持ち(前掲の沖縄県在住の作家:目取真俊氏のご指摘)ですら満足に汲み取る事が出来ていない事を反省しつつ。
そして、私は、笹川良平氏がいかなる人物であったかは知りませんが、彼の言葉
「人類みな兄弟」 |
が大好きです。
(補足:1)
先の田原氏の “念のために記しておく。 私は、中国の外圧によってA級戦犯を分祀するのは反対である。” との見解は、換言すれば「日本は、他国からの進言などに耳を傾けない!」と言うことになります。
(そしてこの見解は、「日本の憲法は日本人の手で」的発想に結び付いて行きます。)
私達の進歩は、他人の意見忠告にどれだけ耳を傾けるかに掛かっています。
日本は、中国を中華思想に凝り固まっていると非難しますが、これでは、日本自身が中華思想の権化ではありませんか!?
でも、変ですよね。
BSE問題に於いては、日本人の意向を無視して、簡単に米国からのご意見に耳を傾けようとしているのですから。
(“「牛丼」は日本の食生活の要”などとほざいている人達がいるようですが、「牛丼」が日本の伝統食ですか?!
「牛丼」なんて私には不味くて、食べる時はいつも紅生姜を一杯載せて食べていましたから、「牛丼」ならず「紅生姜丼」でした。)
(補足:2)
私は、次のメールも頂きました。
下記の提案を広くアピールしてください。
対中国ODAの一部を在日中国人留学生の学費及び住居費に充当する。
所得の低い中国から世界一物価の高い日本に来て苦学している多くの若者がいます。
この様なことを日本が実行することが是非必要な事ではないでしょうか。
以前、私は、中国人留学生の方から“アパートを借りたいけれど誰も保証人になってくれない。だから、(貴方には一度しかお会いしていないけど)是非保証人になって欲しい”と電話で頼まれました。
で、住む所さえ思うに任せない留学生に同情して“判りました”と返事した後、その留学生の担当教官に、“何故、貴方ご自身が保証人にならないの?”との疑問をぶっつけました。
(結局は、担当教官が保証人になりました。)
日中の民間人同士が互いの心を理解しあう事が、政府の高官同士の交流と共に、又、それ以上に大事なことと存じます。
中国(勿論、韓国など)からの留学生は(事情はともあれ)、立派な民間大使です。
誠意を持って、寓し、互いの理解を深める事が大事ではありませんか!?
そして、最後に「李秀賢顕彰奨学会」のホームページの一部をコピーさせて頂きます。
(http://www.ijec.or.jp/learner/isuhyon.html)
不幸な事故は2001年1月26日、新大久保駅で起きた
JR山手線新大久保駅のホームから、誤って線路に転落した見知らぬ人を助けようと、自らの危険を顧みず、二人の男性がとっさに線路に飛び込み、帰らぬ人となりました。そのうちの一人が李秀賢さん。韓国から日本と日本語を勉強するため、日本語学校に通う就学生でした。日本語学校での授業を終え、新大久保駅ホームに立っていて、線路に落ちる乗客を目撃したのでした。見て見ぬふりをする人が多い中、彼の行動に多くの人たちが感動しました。 |
李さんの父親の決意と奨学会設立
李さんのご両親の元には、日韓両国をはじめ世界中から数多くの見舞金が寄せられました。李さんの父親である李盛大さんが、見舞金一千万円を寄贈、日本で学ぼうとしていた李秀賢さんの遺志を顕彰し、就学生を支援する奨学会を設立する運びとなりました。 |
振り込み先 |
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三井住友銀行 東京営業部 普通預金 口座番号 2576905 口座名 李秀賢顕彰奨学会 |
東京中央郵便局 振替口座 00180-2-95093 口座名 李秀賢顕彰奨学会 |