ケネディ大統領の話し合いによる平和(2)
2016年2月28日
宇佐美 保
先の拙文《ケネディ大統領の話し合いによる平和(1)》の続きとして、NHKのBS世界のドキュメンタリー「ケネディの悲劇から50年」(ケネディ大統領への背信)後編:キューバ危機そして反転攻勢へ、の一部を紹介させて頂きます。
1961年の秋、南ベトナムでは、共産勢力の支援を受けて反政府ゲリラが勢力を増し、 反共のゴ・ディン・ジエム政権を揺るがしていた。 米軍と情報機関の幹部は、反政府勢力を打ち倒せると考え、 しかし、フランスによる植民地維持の戦争が失敗したことをよく知る人々は、大きな懸念を抱いていた。 ケネディも、フランスの植民地時代にベトナムを訪れた経験がある為、 従って、ケネディはアメリカの戦闘部隊を投入する気はなかった。 |
アメリカを東南アジアの戦争から遠ざけるというケネディの基本姿勢に対する難題が1961年に降りかかってきた。 軍や情報機関の上層部の意見は一致していた。 ジェム大統領を援助して南ベトナムを北ベトナムから守るのは、われわれの道義的義務である。 統合本部は、南ベトナムで軍事的に勝利できるという見解を示していた。 こうした見解は、1961年11月に戦闘部隊の投入を進めるテイラー・ロストン報告の中で出されていた。 |
これではまるで、統合本部等のお偉いさん達は、兵士は人間ではなく、将棋の駒と勘違いしていると思えてなりません。
「われわれの道義的義務」と「人道上の義務」とでは、どちらを優先すべきでしょうか!?
戦争を遂行しようというのは、人道に反するのではありませんか!?
戦争など行うべきではありません!
ケネディは安全保障の担当官たちに、“我々は、軍事介入するつもりはない。 ベトナムで得た私の個人的知識から見ても、旨く行く筈はないし、 戦争に踏み切ることはアメリカの国益にならない”と語っていた。 |
本当に私もそう思います。
それは軍事介入という極めて重大な勧告に、きっぱりNO!を突き付けた決定的な瞬間だった。 しかし、ケネディは政治的な立場を考えると、勧告を無視できないと感じた。 そこで、アメリカから、何千人もの顧問団を派遣するとの要求に応じて手を打った。 大半は、軍事的な任務に就き、経済援助に携わる人も相当数いた。 しかし、ケネディ大統領は、助言や訓練には、あらゆる力を尽くすが、 |
ケネディ政権2年目の1962年にさらに大きな難題が、若き大統領を襲った。 大統領の指導力に疑いを抱き、ケネディと意見を異にする勢力の目論見が、 1962年初頭、ルメイ空軍参謀総長は、 ルメイ等は、最終的にキューバへの侵攻が必要と考え、詳細な計画を練り上げた。 そして侵攻作戦を発動すべきと大統領に正式な形で進言した。 同じころ、フルシチョフはアメリカのキューバ侵攻を危惧していた。 カストロも、アメリカが進行を再び試みると確信していた。 フルシチョフはなんとしても、キューバを救うと決めていた。 そこで、第2のピックス湾への対応として、 このソ連の中距離ミサイル配備は、 |
このキューバ危機に対するアメリカ空軍参謀総長カーチス・ルメイの恐るべき提案
(ソ連への核攻撃)と、
その後の展開に関しては、先の拙文《戦争は人類を滅ぼす
尚、キューバ危機を解決できたのは、ケネディが画策しての対話を通して
心が通じ合っていたケネディとフルシチョフとの個人的な書簡のやり取りでもあったのです。
その頃、南ベトナムでは、顧問団が命令に反して、戦闘に参加しようとしていた。 北ベトナムは当時脆弱で、アメリカの介入を避けたかった。 彼らは、南ベトナムとの話し合いによる何らかの合意や解決策の必要性を論じ始めていた。 そのような情報はケネディがインド大使に任命した 1962年4月ガルブレイスは、 “話し合いや交渉は弱さではなく強さだ”との就任演説を行っているケネディは明確に賛成しました。 しかし、国務省にアイゼンハワー政権から留まっている者が、大半を占め、 それを知ったケネディは官僚機構を動かすために、 ところが、その後、ハリマンはケネディの意見に同調する立場から、 ハリマンが寝返ったことをケネディが十分理解していたとは思えません。 ケネディ大統領は、 ところが、ハリマンは、大統領が相互の段階的縮小に触れている原稿の個所を、鉛筆で荒々しく削除した。 その上ハリマンは、電信機の上に座り込み、 |
なんと酷い裏切りでしょうか!
ハリマンは「軍産複合体」の圧力に負けたのでしょうか!?
それでも、ケネディ大統領は、キューバとのミサイル危機を経て(この件は先の拙文《戦争は人類を滅ぼす 》をご参照下さい)フルシチョフと新たな関係を築く為に、核実験禁止に向けての話し合いを、更には、カストロとも話し合おうと図りますが、今回は長くなりましたので、次の≪ケネディ大統領の話し合いによる平和(3)≫に移らせて頂きます。
(追記)
ハリマンのような裏切り行為が、普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」と公約していた鳩山総理(当時)に対して、外務省官僚が行っております。
(以下は、岩上安身が鳩山由紀夫・元総理にインタビュー!真相に迫る!2016/02/16
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/287473#more-287473)
から抜粋させて頂きます。。
普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」と公約していた鳩山元総理は、具体的には移設先の候補地として鹿児島県の徳之島を想定していた。 ところが、問題の「普天間移設問題に関する米側からの説明」と題された、「極秘」のスタンプが押してある文書には、 その文書には、沖縄から徳之島までの距離が遠く、「恒常的に訓練を行なうための拠点との間の距離に関する基準」として その上、外務省はこの文書の存在を確認できないとし、外務省の「極秘文書の管理簿」にも記載されていなかったと回答したという。 「最低でも県外」の公約を翻す苦渋の決断によって、鳩山元総理は、マスコミから大きなバッシングを浴び、 今回のIWJのインタビューは、この疑惑についての初めての詳細な記録となる。ぜひ全編ご確認いただきたい。 (岩上安身) |
この件は朝日新聞(2016年2月23日)にも記載されておりますし、
「マスコミ九条の会、日本ジャーナリスト会議主催の講演会(2016/2/4)でも鳩山氏は講演されておられます。
次は≪ケネディ大統領の話し合いによる平和(3)≫に移らせて頂きます。
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