ケネディ大統領の話し合いによる平和(1)
2016年2月28日
宇佐美 保
NHKのBS世界のドキュメンタリー「ケネディの悲劇から50年」を見ると、その冒頭から驚かされます。
1960年代初頭、アメリカ人の多くはソ連がアメリカに核の先制攻撃を仕掛けてくるのではないと恐れていました。
ところが、
1961年7月20日の会議で 統合参謀本部長官を含む政府高官は J.F.ケネディ大統領に核の先制攻撃案を提示、 会議は極秘で、1993年までは一切公表されていない。
(この議事録は欠席したジョンソン副大統領の為のメモでした)。 |
1993年に機密扱いから解除された内容には、 “ソ連が核軍備競争で我々に追い付く前に 先制核攻撃で打って出ることが最善の策である” とのアメリカ軍幹部の提案が存在している。先制攻撃計画は、1963年後半に実施予定で、 全面核戦争になれば、死者は3億人と計算されており、 生き残っても、がんや白血病、死の灰による子孫への影響も甚大。 |
ケネディは、軍幹部とは違った未来像を描いていた。
そして、 |
(本当に恐ろしいことです!ケネディ以外の人物が大統領に選出されていたら、私達は現在この世に生きていたでしょうか!?)
大統領は“我々は核という〝ダモクレスの剣〟の下で暮らしています。
その剣を吊るす細い糸は、事故や誤算や狂気でいつ切れるともかぎりません。
我々が滅びる前に核を廃絶するべきです。”と演説します。 |
43歳で、第35代米国大統領に選ばれたデネディは大統領就任式の前日の1961年1月19日にアイゼンハワー大統領と膝を交え踏み込んだ会話をした。
アイゼンハワーの “フルシチョフは野蛮で予測が付かず態度をころころと変えてくる人物と心得ておくように”との忠告に、 ケネディは “アイゼンハワーがソ連を交渉相手というより、手なずけるべき野獣と感じている”ことに衝撃を受けた |
。
1961年1月20日の大統領就任演説には“恐怖心から交渉してはなりませんが、交渉を恐れてはならないのです”とのケネディの言葉があります。
(そしてこの言葉をケネディが実行して行くのを番組から見て取れます)
フルシチョフも、捕えていたパイロットの釈放等、米ソの緊張関係打破へのメッセージを送っていた。
フルシチョフの息子の談話。
“父は改革者だった。それに、2つの世界大戦を体験しており、当時の辛い体験が蘇ってくるため、戦争映画を見ることが出来なかったくらい”の父は、アメリカに対する新しい気持ちを示そうとしていた。
しかし、一方では、フルシチョフは第3世界でアメリカへの戦いを挑んだ演説も行っていた。
これを受けてケネディは初めての一般教書演説で、ミサイルと潜水艦の建造を加速させると発表した。
ケネディは、ベルリン問題の為に、強硬派中の強硬派であるディーン・アチソンを呼び戻す。
その後数週間たたないうちにピッグス湾事件が起こる。
これより2年前、キューバではカストロ率いる革命軍が、抑圧的な独裁政権を打倒、
アメリカはカストロ政権に対する金融政策を発動し、
キューバはソ連に支援を求めた |
。
ケネディは、1960年当時には、カストロはキューバ市民の大多数の願いを体現する革命指導者として見做していており、前のアイゼンハワーの時代にカストロをうまく扱って居れば、カストロはソ連を頼りにしなかったと考えてはいた。
CIAが亡命キューバ人からなる軍隊をキューバへ侵攻させて カストロ政権を転覆させる計画(アイゼンハワー時代から引き継いだ方針)を進めていた。
この作戦(アメリカ軍の直接関与もない前提)は成功するだろうとケネディは説明を受けていた
しかし、特に軍事顧問、又、CIAも、 |
亡命キューバ人部隊は上陸したものの作戦は大失敗。
軍や情報機関の幹部は米軍の介入を許可するように大統領に繰り返し迫ったが、ケネディは拒否した。
ピッグス湾への侵攻へのアメリカの介入がクッキリ残るようになれば、
フルシチョフはそれを口実にベルリンで行動を起こすだろうというのが当時のケネディの主張だった。
ピッグス湾事件で露呈したのは、政権の中枢がケネディ本人が指名した人々ではなかったということだった。
前の政権から残ったCIAや軍の幹部たちは ケネディにあれこれ指図できると決め込んでいた。 |
この「ピッグス湾作戦」が前の政権からの継続であるということは、
離任演説で「軍産複合体の危険性と警戒心」を米国民に訴えた前大統領の
アイゼンハワー自身も「軍産複合体の大統領を無視した暴走」を制御できなかったのかもしれません。
従って、ケネディ以外の人物が大統領でいたら、「CIAや軍の幹部たち」の言うがままに、ピッグス湾に米軍を派遣し、
結果的に、米ソの核戦争が勃発していたかもしれません。
ケネディは、このピッグス湾の失敗は、的確な質問をしなかった自分の失敗と見做し、 “全責任は自分にある”と演説し、逆に支持率は90%と跳ね上がった。 |
ピッグス湾事件の後、ケネディは“CIAを粉々に叩き潰したい”と語っており、CIA長官アレン・ダレスと秘密工作の責任者のビッセルを更迭した。
その後、これまでの武力対決ではなく、フルシチョフとの首脳会談を行いたいとの意向から、国務省の正式ルートでは遅々として進まない為、非公式ルートで6月に開催可能となった。
“東ドイツと平和条約を締結する決定は取り消せない”とのフルシチョフの主張は、ケネディにとって思いもよらなかった。
といった具合に直接的な成果は得られず、フルシチョフの強圧的な態度から、かえって核戦争の危険性を感じざるを得なかった。
1961年夏、状況は大きな懸念をはらんでいた。
ケネディ大統領は顧問たちを集め、ベルリンについての態度を検討する会議を重ねていた。
一方はベルリン問題への強硬派、その筆頭がディーン・アチソン、
アチソンは大統領に対して国家非常事態の宣言、 |
ところが、ケネディは次の様な演説を行います。
“ベルリンは共産主義者の言う“戦争の火種”ではありません。ベルリンには平和があります。 緊張の源はベルリンではないのです。 戦争が始まるとすれば、ベルリンではなくモスクワです。 我々は西ベルリンの自由市民に対する約束を果たし、我々の権利と彼らの安全を守り、 われわれの言葉と決意で、他の自由な人民の信頼を維持して行かねばなりません。 我々は利益を守る構えである一方、 公式非公式を問わず平和を模索する準備を進めるでしょう。 東西いずれの意見であれ軍事的支配をしようとは思いません。” |
ケネディはフルシチョフが考えているより遥かに手ごわい相手だった。
当時のベルリン問題に対するケネディの態度は理解できます。
彼が危惧していたのは、 |
「ディーン・アチソンらの強硬派」の言うがままに、ベルリンに米軍を派遣し、
結果的に、米ソの核戦争が勃発していたかもしれません。
ケネディの演説から数日後、フルシチョフは東ドイツによるベルリンの壁の構築を許可する。
ケネディ政権内では、自分たちの路線を推進しようとする人々がケネディに不満を抱いて、 仲間内でケネディをこき下ろしていた。
最も重要な政策設計にかかわる人物であるディーン・アチソンは
そして、アチソンは、
国民の目には、ケネディの初期の外交は素人さながらに映った。
大統領は何をするかわからないと危ぶんでいた。 |
ケネディがベルリンの壁を黙認したことで、
フルシチョフには、ケネディが優柔不断で弱弱しい指導者に映った
そこで、ソ連は大気圏核実験を再開し、ケネディも渋々アメリカの核実験を再開。
しかし、フルシチョフのケネディへの評価は変化して行きます。
この件は、次の「ケネディの悲劇から50年」(後編)にて明らかとなります。
それにしましても、アイゼンハワーが離任演説で訴えた「軍産複合体」の脅威を痛感します。
何しろ、ケネディは志半ばで、何者かの銃弾で倒されてしまうのですから!
ケネディ後のジョンソンはどうだったでしょうか?
更に、その後の大統領たちは?
「軍産複合体」の脅威、影響力は当然、米国内だけにはとどまらないでしょう。
(勿論、日本にも!?)。
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