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ケネディ大統領の話し合いによる平和(3)

201631
宇佐美 保



 先の拙文《ケネディ大統領の話し合いによる平和(2》の続きとして、NHKBS世界のドキュメンタリー「ケネディの悲劇から50年」(ケネディ大統領への背信)後編:キューバ危機そして反転攻勢へ、を引き継ぎます。

 

 ケネディは、キューバミサイル危機を経て、フルシチョフと新たな関係を築き、核実験禁止に向けて話し合いをしようとする

 

サタデー・デビュー紙の編集長で、核軍縮運動家のソーマン・カズンズがソ連を訪問すると知り、フルシチョフにあてた手紙を託した。

 

 

 ここでも、ケネディは武器ではなく「話し合い」を選択します。

 

 1963426日、帰国したカズンズは“フルシチョフは交渉に関心を持っているが、一部の強硬派がアメリカを非難する構えである。”

その後カズンズは “共産党中央委員会が開かれる6月頃に、ソ連の人々への親しみや、戦争を生き延びたことへの理解を盛り込んだ、誰もが驚くような演説をするよう”にと手紙で進言し、あのアメリカン大学での有名な演説へとつながったのです。

 

 

 

あまりにも無知がはびこり、真実が理解されていない。

世界で最も重要なテーマは「平和」です

 

我々はどんな平和を求めているか?

アメリカの兵器がもたらすアメリカ支配による平和ではありません。

 

 墓場の平穏でもなければ、奴隷の安全でもないのです。

私が言いたいのは、「真の平和」

価値ある生活を実現する平和です。

 

 戦争に絶望し、平和到来を願う思慮深い市民一人一人が、
平和の可能性、ソ連冷戦の経緯、
自国の自由と平和に対する自分の態度を見つめなおすことから始めるべきです。

 

 先ず、平和に対する態度です。

多くの人が平和の実現は不可能だと考えています

それは危険な敗者の考えです

そこから導かれるのは、戦争は避けがたく、
人類は破滅する運命にあり、我々は力に支配されるという結論です。

 

 しかし、人間が生み出した問題は、人間の手で解決できるのです

 

 

 

 そして、この感動的な演説は、「ソ連との核実験禁止」へと続きます。

 

 

 

 我々の誠意と崇高な決意を明らかにする為に、私は宣言します。

 

 他国が追随する限りアメリカは、大気圏内での核実験は行いません。

我々は最初に実験を再開しません。

これは宣言にすぎませんが、条約締結の助けになることを望みます。

 

 

 

 セルゲイ・フルシチョフ(フルシチョフの息子)の談話。

父のケネディへの敬意は、キューバ危機を通して大きくなっていた

父は繰り返し云っていました。

我々には守るべき体制を初め違いがある。だが共通点が一つある。

それは戦争を防ぎたいという思いだ

だから、私はケネディ大統領と話し合える。”

 

 

 フルシチョフも、ケネディ同様に“それは戦争を防ぎたいという思い”からの「話し合い」を重要視していたことが分かります。

 

 

 

 「大気圏、宇宙、水中に於ける核実験禁止条約」

多くの人は“部分的核実験禁止条約”は、
ケネディが大統領として果たした最大の功績であると述べているが、
若し、ケネディが生き続け他の外交課題も解決したら、
これが第1番目の評価になっていたかは分かりません。

 

 

 その一つの期待される例は、ベトナム戦争の解決であったかもしれません。

 

 

 

196310月ケネディ大統領は、
軍事顧問としてベトナムに駐留する米兵を段階的に撤退する決断をした

“国家安全保障行動覚書263号”は政策上の決定事項を記した文章です。

そこには、ケネディが17千人余りの米兵の撤退を許可したと書かれている。

 

 1963年末までに、1000人撤退、残りは1965年末までには撤退する予定でした

 

 これは正式な大統領の決定であり、彼が亡くなった日にも、アメリカの政策として存在していた。

 

 

 このようなケネディの決断に「軍産複合体」が唯々諾々と従うでしょうか!?

 

 

 

 

ケネディは銃弾に倒れる前日、
国家安全保障会議メンバーで東南アジア問題を担当していた
マイケル・フォレスタルと交わした会話。

 

 ケネディはベトナムに対するアメリカの政策を洗いざらい再検討したい

アメリカがそもそも介入すべきかどうかも含めてと述べていた。

 

 

 「軍産複合体」が、このようなケネディの意向を知れば、それをなんとか阻止する行動に出ると、誰しも思うのではないでしょうか!?

 

 

 

 

更に、ケネディはカストロとの対話を試みようとしてい

(ケネディ・ライブラリーに保管されている秘密文書の中に埋もれていた。

その文書にはキューバ首脳者に対する接触、1990年代後半まで機密扱いのことと書かれていた)

 

 一方、フルシチョフとカストロに関するセルゲイ・フルシチョフの談話は次のようです。

“父はカストロに何度も言っていました。

彼(ケネディ)が君の国に侵略しないことを信じている

ケネディは再選されるだろうから、我々には、あと6年も時間がある。”

 


 

アメリカがカストロに揺さぶりをかける一方で、
ケネディは裏のルートで、カストロとの話し合いの可能性を探っていた

 

196311月、ついに話し合いの突破口が開かれようとしていた。

フランス人ジャーナリストのジャン・ダニエルは、10月にワシントンを訪れケネディに面会した。

ダニエルがキューバへ行くことを知ったケネディは、

カストロの人となりを教えてほしいと頼むと共に、カストロ宛のメッセージを託した。

 

 カストロに共産主義者でも構わない、ユーゴ―スラビアのチトーだって共産主義者です

 

 でも、キューバがソ連との同盟を続けるなら、我々は受け入れられない。

 

ジャン・ダニエルは19631122日、カストロに会いケネディのメッセージを伝えた。

 

カストロは語りました。

“ケネディは歴史的な大統領だ。
世界が多様であることを理解する最初の大統領とあるかもしれない。

アメリカは共産主義国と平和的に共存し得るのだ”と。

 

 

 この時、側近が飛び込んできて“アメリカ大統領が撃たれたことを伝えた。”

 

 その時のカストロの様子は、仲間を失ったようだったといっても過言ではありません。

 

 カストロはダニエルに言いました。

“平和の使者としての君の任務は終わってしまった。”

 

 

 

 

セルゲイ・フルシチョフの談話。

“父は神経を尖らせていました。

誰の犯行か分からなかったからです。

タカ派のアメリカ人が平和を守ろうとする大統領を殺したのであれば、
明日にもソ連に対して核戦争を仕掛けてくる恐れがありました。

だから、父は気を張り詰めていました。”

 

 

 

 

アンドレア・カズンズ(カズンズの娘)の談話。

 

私達人類と、地球の存続の為にケネディが行った最大の功績は、

権力をふるう集団に立ち向かい、孤立しても声をあげる姿を示したことだと思います。

それを一人で実行するのはとても難しいことでしょう。

 

 

 

 

ケネディの有名な言葉があります。

“人は誰もが変化をもたらすことが出来る。

ならば、全ての人がやるべきだ。”

 これは深い真実をついています。

我々一人一人に問われる真実です。

 



 

 

 

更に、アンドレア・カズンズの談話。

 

 

 核の脅威は、もはや米ソだけの問題ではなく、 更に、広がっています。

私達が核に反対する姿勢を示すことは、可能です。

 

しかし、核に反対することは
ケネディを見ればわかる通り、困難であるだけでなく、危険が伴います

それでもやらなくてはなりません。

 


 ところが、武器の削減廃止を試みようと、又、ベトナムから米兵を引き上げようと政策立案していたケネディが銃弾によって命を絶たれた後を引き継いだジョンソンは、
ベトナムに、第2次大戦を遥かに超える爆弾を投下する空爆を行い、50万人もの地上軍を送り込みベトナム戦争は泥沼状態に陥るのです。

 

 さて、我が日本の現状はどうでしょうか?

核兵器の原料供給源と言われてもいる原発は、福島の事故が未解決のまま、再稼働されて行きます

何故、現政権はこのような決定を行うのでしょうか!?

戦争法案を制定したり、武器の輸出を認めたり

遂には、平和憲法も破棄せんと企てています

何故でしょうか!?

 

 この件は次へと続けさせて頂きます。



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