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戦争よりもエコが良い(2

(鳩山由紀夫首相の「友愛」へ期待)

2009103

宇佐美 保

先の拙文《戦争よりもエコが良い(1》を続けさせて頂きます。

 鳩山首相のお書きになった「私の政治哲学」を読ませて頂くと、鳩山首相への期待感が湧いて来ます。

 

 そこで、その論文のところどころをつまみ食いさせて頂きます。

先ずは、鳩山首相が説かれる「友愛」についてです。

 

私の言う「友愛」はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」の博愛=フラタナティ(fraternite)のことを指す。

 祖父鳩山一郎が、クーデンホフ・カレルギーの著書を翻訳して出版したとき、このフラタナティを博愛ではなくて友愛と訳した

……

クーデンホフ・カレルギーは、今から八十五年前の大正十二年(一九二三年)『汎ヨーロッパ』という著書を刊行し、今日のEUにつながる汎ヨーロッパ運動の提唱者となった。彼は日本公使をしていたオーストリア貴族と麻布の骨董商の娘青山光子の次男として生まれ、栄次郎という日本名ももっていた。

……

 

 

 この、「鳩山一郎」が訳された「友愛」に関して、少し私的な話を書かせて下さい。

鳩山一郎氏が、1951年(昭和26年)脳出血で倒れ、公職追放も解除された後、政界への復帰へ躊躇していると感じた私の兄(当時、20歳過ぎたばかり)は、鳩山一郎氏に、“慫慂(しょうよう:傍から誘いすすめること)を待つことなく、自ら進んで立つように”との手紙を送ったそうです。

それから23度の手紙の遣り取りの後、鳩山一郎氏から、会見を求められ、鳩山御殿を訪ねたそうです。

 

 門を入って、御殿への曲りくねった道を上がって行く途中の庭に「友愛」と書かれた看板が立っていたそうです。

 

 そして、二人は「友愛」についても語り合ったそうです。

そして、「友愛」に対して、「愛」とか「友情」とかの類よりは、「人と人の接着剤といった役割をするもの」で解釈の一致を見たと、兄は語りました。
(この件は文末で、補足させて頂きます)

 

 そして、兄は、鳩山一郎氏から、“自分の秘書になるように”と言って頂いたのに、(私から言わせて頂ければ、若気の至りで)“私は、体制に寄らず、独立独歩の道を行く”と大見得を切ったそうです。

 

 しかし、鳩山一郎氏は最後に、“人間にとって一番良い世界とは、どういう社会かな?と呟いたそうです。

 

 この鳩山一郎氏の言葉は、兄は“歳をとるほどに重みを増して来た”と言います。

「政治家は、自分の為、自分の仲間の為……に四苦八苦している人種」と思っていた私には、驚きの言葉です。

 

 鳩山一郎氏は、その後、1954年(昭和29年)日本民主党結成(総裁)し総理大臣になられ活躍されました。

 

 ところが、鳩山一郎氏の前で、大見得を切った私の兄のその後は、いわゆる社会的な評判とは無縁です。

それでも、『民主主義哲学入門:宇佐美彬著、春日書房、1985530日発行(今は絶版で、新たな書を準備中)』を上梓しています。

 

その本は、永六輔氏からの、「……この本は地球という星に生きる為の教科書なのです」との推薦文を頂いており、例えば次のような記述等も沢山あり、私も、永六輔氏同様な感を受けます。

 


 まず(土地)というと何を思いうかべるでしょうか。

 青々とひろがった草原でしょうか、砂丘の連なった砂漠でしょうか、且念に手入れされた自分の家の庭でしょうか、値上がりを期待して買った郊外の造成地でしょうか、しかしそれらの全ては、地球そのものなのです。

……

一体全体、ある個人の所有の土地にどれほどの他の土地との隔離性、確立性があるでしょうか。ためしに一〇〇坪の土地に、自分のための所有が意味するところの隔離性、自分の自由になる確立性を保持するために、周囲にまずコンクリート壁を二〇〇メートルの高さに建て、上に蓋をし、地面の下の方にも一〇〇坪を囲うコンクリート壁を何十メートルか掘り下げて造ったとしますすると何年か後には、その土地は土としてはその土壌は死んだようになり、地表上のコンクリートの中の空気も人間が吸えるようなものではなくなっているでしょう。コンクリートの壁に窓をあけませんでした。なぜなら空気も太陽光線も土地とは別で、買えませんでしたから。買えた土地だけのその土地の自分のための隔離性・確立性・有用性を証明しようとしました。しかし、それを立証しようとすればするほど、土地は、他のあらゆるといっていいほどの空気や水やその上、太陽光線・温度・地熱等数えきれない生命維持要素の有難い諸成因の供給を受けて、その貫通性・浸透性・共通性・共用性によって成りたっているということです。

 ですから地球星の表面地表つまり土地については、やはり(人間には土地の所有性は不存在)だと言えます。

……



 
 ここでの、「一〇〇坪の土地」の喩えは、個人の土地だけでは「国土」にも適用されます。

日本は、「四季のある美しい国」と言われていますが、この素晴らしい四季も(太陽と地表の角度の変化以外に)日本を巡る海流の変化、空気の流れの変化なくしては求められませんから、日本の領土に沿って、コンクリートの壁を、深く深く高く高く設置したら、四季が消滅するどころでなく、私達の海水も空気も汚れ私達は死を待つだけになります。

 

 

 ここで我々人間として謙虚に考えなければならないことは、この地球上に人間・動物達は、生存条件がととのってからその変遷過程に随伴して海から這い上がってきた生物であり、今、呼吸している空気も、そして水も、土地も、それは地球星という一つの生命維持循環系であり、それを大切に保全し、みんなで(活用)させてもらえるのではないかということです。なんとしても活用させてもらえないことには二分間とは生きていられないのですから。

 

 

 この喩えからも、「汎ヨーロッパ主義」と、更に「世界は皆兄弟」へと続いて行くべきでしょう。

 

 

 カレルギー氏に関して「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」を見ますと、“汎ヨーロッパ主義を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなった。そのため「EUの父」と呼ばれる。”との記述を見ます。

 

 更に、鳩山首相の「友愛」に関する記述をつまみ食いさせて頂きます。

 

 

 カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。……

その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、……

 

 「友愛が伴わなければ自由は無政府状態の混乱を招き平等は暴政を招く

……

人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。

  「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない

 彼の『全体主義国家対人間』は、こういう書き出しで始まる。……

 

 

 カレルギーは、「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」が最重要と考えて著作の書き出しとしたのでしょう。

ところが、勝手に

「愛国者」と名乗る方々は、「国のために命を捧げろ!」と声高に叫びます。

 この結果で生じた悲劇の数々は、毎年、815日頃のNHKのテレビ放送で紹介されます。

(又、先の拙文の《松代巨大地下壕と原子爆弾》に書かせていた、悲劇もご参照下さい)

 

 次には懐かしい名作映画「カサブランカ」に纏わる話も書かれています。

 

 

 カレルギーがこの書物を構想しているころ、二つの全体主義がヨーロッパを席捲し、祖国オーストリアはヒットラーによる併合の危機に晒されていた。彼はヨーロッパ中を駆け巡って、汎ヨーロッパを説き、反ヒットラー、反スターリンを鼓吹した。しかし、その奮闘もむなしくオーストリアはナチスのものとなり、彼は、やがて失意のうちにアメリカに亡命することとなる。映画『カサブランカ』は、カレルギーの逃避行をモデルにしたものだという。

 

 

 「カレルギー」なる人物の名前をはじめて知った私ですから、この逸話も初めて知りました。

そこで又、『ウィキペディア(Wikipedia)』の御世話になり、「クーデンホーフ光子(旧名:青山ミツ(あおやま みつ))の項を訪ねますと、“1918年に戦争が終わると、次男リヒャルトが女優イダ・ローランと結婚すると言い出し、光子と対立。リヒャルトは家を飛び出してしまう。そして「汎ヨーロッパ主義」を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。”との記述を目にします。
 更に、鳩山首相の記述を続けます。

 

 

 戦後、首相の地位を目前にして公職追放となった鳩山一郎は、浪々の徒然にカレルギーの書物を読み、とりわけ共感を覚えた『全体主義国家対人間』を自ら翻訳し、『自由と人生』という書名で出版した。鋭い共産主義批判者であり、かつ軍部主導の計画経済(統制経済)に対抗した鳩山一郎にとって、この書は、戦後日本に吹き荒れるマルクス主義勢力(社会、共産両党や労働運動)の攻勢に抗し、健全な議会制民主主義を作り上げる上で、最も共感できる理論体系に見えたのだろう。……

 

 

 ここに書かれた「首相の地位を目前にして公職追放となった鳩山一郎」の件に関しては、田岡俊二氏(朝日新聞)が、朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」で、次のように破顔にて話されておりました。

 

 

 「鳩山一郎」は、原爆に対して「残酷(cruel)」との表現を使ったので、米国にパージされたのだが、鳩山首相は国連での演説では、原爆に対して、敢えて「残酷(cruel)」との表現を使った。

 

 

 更に、鳩山首相は「友愛」の効用を説かれています。

 

 「私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは『友愛』の精神である。自由弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は『出る釘は打たれる式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの一〇〇年間はあまりに軽視されてきた。二〇世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。

 

 

 私の兄は、常々

“ダーウィンの「theory of evolution」を「進化論」と訳したのは間違いだ”と力説します。

特に、人間社会を見ていると「進化」ではなく「弱肉強食」であり、
「悪いやつほど良く眠る」と訳すべきだと。

ですから、多くの米国人が進化論を信じていないのは(大いなる皮肉の意味を込めてでも有りますが)当然なのかもしれません。

そして、「自由の女神」に象徴される自由を謳歌する米国は「自由弱肉強食の放埒に陥りやすく」となるのかもしれません。

 

 

 今の時代、「『友愛』の精神」の重要性を痛感します。

 

 

 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」。

 

 

 『個の自立』の原理と同時に、『他との共生』の原理を重視したいとの願いの延長は、当然、「日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」とならなくてはなりません。

即ち、「自分だけ良ければ自国だけ良ければ自然を蔑ろ(ないがしろ)にしようとする人達」の御退場を願わなくてはなりません。

 

 更に、鳩山首相の記述を続けさせて頂きます。

 

 

……冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの「自由」、その「自由の経済的形式」である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことに改めて気が付いた。道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それが今われわれに突きつけられている課題である。

 

 

 「道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義」には、どなたも怒りを通り越して呆れ果てておられるのではないでしょうか?

儲ける時は儲けるだけ儲け、その儲けを自分達の懐に入れ、損して破綻すると、今まで稼いだ分を先ず吐き出しもせず、国からの援助を強奪しつつ、又、儲けが出れば自分達の懐に入れるのが常態化しているのですから。

その上、わが国の銀行は、かつて、税金を投入されて再生されたのに、現在では、低金利で国民にはそれ相応の利息も払わず、人員削減で人件費を減らし、中小企業には貸し渋りをし、国債などを購入して大儲けをしつつ、困った企業に対して返済を待つと銀行の経営が危うくなると、亀井静香金融相が提唱する「モラトリアム(支払い猶予)法案」に反対を表明するなど、私には、不思議な事ばかりが起こっています。

(困った時は御互い様、銀行独自の企業救済策を前もって出していてしかるべきです)

 

 

銀行に「友愛」の精神が求められます。

 

 

 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして、「友愛」を位置づけたことをあらためて想起し、再び「友愛の旗印」を掲げて立とうと決意した。平成二十一年五月十六日、民主党代表選挙に臨んで、私はこう言った。

 「自ら先頭に立って、同志の皆さんとともに、一丸となって難局を打開し、共に生きる社会『友愛社会』をつくるために、必ず政権交代を成し遂げたい」

 私にとって「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である。そして、われわれが目指す「自立と共生の時代」を支える時代精神たるべきものと信じている。

 

 

ここで、小沢一郎氏の心の友である平野貞夫氏の著作『わが友・小沢一郎 株式会社 幻冬社 200955日発行』の記述の一部を、先の拙文《麻生太郎氏を論じるのは終わりと思いましたが……》から再掲させて頂きます。

 

 

「日本型セーフティネット」の整備が、何よりも国民のための景気回復策だと理解できないのが、自民、公明両党の限界であり、国民の悲劇である。麻生政権を支える官僚、財界、マスコミなどの中には、「日本型セーフティネット」の整備や「友愛」「共生社会の実現」に理解を示さない人たちが多い。その原因は彼らの「歴史観」と「人間観」に問題があることだ。そこから反省してもらわないと、日本は亡国の道を加速していくだろう。

 

 

 このように「「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤」であるをモットーとする鳩山首相と、同じ思いの小沢一郎氏が幹事長を務める民主党に大いに期待致します。

 又又、長文となってしまいましたので、次の拙文《
戦争よりもエコが良い(3)(鳩山由紀夫首相への期待》に続けさせて頂きたく存じます。

(補足)

 

 私の兄が、鳩山一郎元首相と語り合った際、二人が「友愛」とは「人と人との接合剤」であると見解の一致を見た件の補足です。

 

 人が寄り集うとき、いかなる心情をもって集うものなのか?愛情では個人的過ぎるし博愛では散漫になります。

 

 人と人が何か感じ合うとき、そして、解かり合うその絆が友愛の心根であり、集合の要因なのです。ですから「友愛」こそ緩くもなく鋭くもなく、人と人をつなぐ絆であり、集合の原理なのです。それを理解しながら「集う」とき民主党代議士何百人あろうともそれは決して烏合の衆ではないのです。そして、友愛の意味・力を端的にいえば「人と人との接合剤なのです。

 

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