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松代巨大地下壕と原子爆弾

2009929

宇佐美 保

 では先の拙文《雑誌「ビッグイシュー日本版」をお勧めします》を続けさせて頂きます。

私が最初に購入した「ビッグイシュー」は、第124号で、そこには「松代巨大地下壕」等の記事が載っていました。

そして、それらを読んで驚愕しました。

 

 その「松代巨大地下壕」の記事ですが、次のようです。

 

長野県長野市松代町の3つの山に、総延長10キロメートル以上にわたって広がる巨大地下壕がある。

その名も「松代大本営」。太平洋戦争末期、敗戦9カ月前、本土決戦に備えて国家と軍の中枢すべてを東京から移転させる計画だった場所だ

……

部分公開されている象山地下壕の入り口はひっそりとしたたたずまいで、隣接する家には洗濯物が初夏の風にゆらめく。

のどかな光景は、60年以上前、この山を含む3つの山の地下に国家の中心を移す一大遷都計画があったことをまるで感じさせない。

 だが、壕の中に足を踏み入れると、様相は一変する。トラックが通れそうなほど大きな坑道。20本の縦坑が20メートル間隔で掘られ、それを大小10本の横坑が50メートル間隔でつなぐ。碁盤の目に掘りぬかれた地下壕は、さながら巨大地下都市である。

地下壕というと、沖縄のガマのように、湿気が多くて、岩肌に座るイメージがありますが、ここはぜんぜん違います。縦坑と横坑がきっちり十字に合っていて、湿気も少ない。これだけ整然としたつくりのよい地下壕は、あまり例がありません。

完成時には、壕内に部屋が作られ電気も通される。水洗トイレまで設計されていた

……

建設は9カ月の突貫工事で、多い日には1万人の労働者が強制動員された

工事は112時間の厳しい労働と粗食のため、栄養失調も多発したといわれています。しかも、工事のあった冬は長野気象台始まって以来の大雪で、粗末な飯場には雪が舞い込んだという証言もある。特に発破などの主要作業を担った朝鮮人労働者はこの壕の建設に決定的な役割を果たし、60007000人がかかわり、犠牲者も日本人より圧倒的に多かった。ただ、どれぐらいの犠牲者があったのか、60年経った今もはっきりしていません」

……

沖縄の元ひめゆり学徒隊のみなさんも案内しましたが、その時には泣き出した方もおられました。」

自分たちがクチャ土(泥岩)の壕内で飯上げ(食事の用意)などに走り回っている時に天皇や大本営の人はこんな立派な場所に来ようとしていたのかと。しかも

実はこの大本営をつくる時間稼ぎの戦いが、沖縄戦だったんです

 大日方さんは詳細な歴史資料をもとに、こう続ける。

沖縄戦は昭和204月に米軍が本島に上陸、5月に首里城が陥落します。その段階で、沖縄を守っていた第32軍は大本営に降伏の旨を連絡する。

ところが、大本営は『さらに南に移動して戦いを継続せよ』と命令するわけです。そのため第
32軍は摩文仁の丘を目指して南へ下り、一般住民もその後につき従う。対して、米軍は南部にかけてモップアップ作戦を展開します。モップアップというのは、モップで掃くように一点残らず壊滅させていく掃討作戦で、ガマというガマに爆弾を投げ入れ火炎放射で焼き払う。
普通に考えれば、地下壕の奥に隠れていれば大丈夫と思うかもしれませんが、当時、米軍戦車の火炎放射は
1キロメートル先まで届いたんです。だから、ほとんどが壊滅です」

そして、

621日、大本営から打電がきます。『貴軍の忠誠により本土決戦の準備は完了した

と。

つまり、本土決戦の準備ができたから、君たちはもういいよと。本土決戦の準備とは何かというと、実は6月に入って陸軍大臣をはじめ幹部や宮内省の職員が松代大本営を次々に見に来ているんです。

天皇の側近が『ほぼこれでいいだろう』と言って松代を後にするのが6月半ばぐらいですから、そうすると21日の沖縄への打電とピタリと合ってくる。つまり、沖縄戦というのは勝ち負けの戦いではなく、松代大本営ができるのを待つための時間稼ぎの戦いだったんです

 

 

 この地下壕は、高校生たちの活動なくしては、闇に葬られたままだったのです。

 

 

 だが、松代大本営は戦後の長い間、「幻の大本営」といわれ、人々の記憶の中から消える。……

そんな歴史の闇に再び光を灯したのは、地元の高校生たちだった。

85年に地元の高校が沖縄に修学旅行に行って、生徒たちがガマの暗闇の中で非常にショックを受けるんですね。自分たちが明るいところで考えてもわからなかった戦争のことが、暗闇の中では非常にはっきりわかってきたと。

それで、地元にも地下壕があるということで、その年の夏にこの象山地下壕内に入るんです。当時は恵明寺口に竹の柵があって、ツタがたくさん絡まっているところを分け入って探索した。そして、彼らはこの壕を保存して一般公開したら、平和のための勉強になると考え、ついては長野市長さんにお願いしようということで、それを地元のマスコミが大きく報じたんです」……

86年に地下壕見学会と『松代大本営を考える集い』を開催して、保存運動が動き始めた。高校生が先頭を走り、市民運動が後押しする中で世論ができて、90年に保存公開が実現したんです」

 

 

更に、“天皇や大本営の人はこんな立派な場所に来ようとしていたのか”と「沖縄の元ひめゆり学徒隊のみなさん」が泣き出した、その御座所とは……?

 

 

 建物に入ると、見たこともないような分厚い壁と、1メートル弱はありそうな天井の厚さが、当時の危機感を雄弁に物語る。また、窓越しに見学できる

天皇の御座所は、戦時中の物資不足にもかかわらず、
ヒノキと正目のスギでつくられた立派な和室だった。

いよいよ戦争終結への道が模索されると、天皇も国体護持(天皇制の維持)のため、松代への動座を考えていたという。

731日には、天皇が『三種の神器は自分が守って運命をともにするほかない』『信州へ移す心組みで考えたい』と当時の内大臣の木戸幸一に語っています。それに際して、天皇に万一のことがあっても皇統が維持できるように、三種の神器を置く賢所を天皇の御座所とは別の、伊勢神宮と結んだ線上に南面した場所につくり始めますが、山の斜面を掘り始めたところで、日本は敗戦を迎えます」

 歴史は、本土決戦突入の一歩手前で、終戦へと大きく舵を切ったのだった。

 現在、松代大本営には年間12万人の見学者が訪れる。……

 

 

 更にこの雑誌は次のことも教えてくれました。

 

 

 慶應義塾大学日吉キャンパスの南部に広がる「まむし谷」。この地下30mには、アジア太平洋戦争末期、日本海軍の指揮を執った「連合艦隊司令部」の中枢施設が置かれていた。

 アジア太平洋戦争で、日本海軍の艦隊はレイテ沖海戦(194410月)での敗北により事実上壊滅し、それ以後は大規模かつ組織的活動が不可能となつた。

その後、敗戦の年、
45年の2月に始まった硫黄島戦4月から始まる沖縄戦などの作戦指令は、ここから出された

 今年627日、「日吉台地下壕保存の会」の定例見学会には約60人の参加者が集まった。熟年世代に混じって若い人たちの姿もちらほら見える。……

 通路から枝分かれした「部屋」に着くたび、8人のボランティアガイドが代わるがわる当時の様子を説明してくれた。

「ここが40台の通信機を置き、3交代で24時間、最前線の電波を受信した電信室です。あの戦艦大和が4547日、魚雷や爆弾を受け、刻々と傾斜角度を大きくして沈んでいく様子もここで受信しました」。当時は珍しかった蛍光灯により煌々と明るかったというが、今は何もない薄暗い空間が口を開けているだけだ。

 

 

 更には、

 

 1945310。敗戦を半年先に控えた東京は火の海だった。

300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃で、道路や川には死体があふれた。罹災者は100万人を超え、推定10万人もの人々が亡くなつたといわれている。……

 

と、東京大空襲も紹介しています。

そして、そこに書かれた年表を見ますと、「194411月 B29による東京初空襲」の記述を目にします。

そうしますと先に「松代大本営」は、「敗戦9カ月前、……東京から移転させる計画だった場所」と書かれていますから、この「東京初空襲」に脅威を感じて松代への移転計画が始まったのかもしれません。

(或いはその前?)

 

 しかしその間に、先の記述にもありますように、「日吉台地下壕」からの指令で「2月に始まった硫黄島戦4月から始まる沖縄戦」が、硫黄島の兵士、沖縄の兵士、更には、沖縄の方々の多大な犠牲の後(松代地下壕の完成によって、大本営と天皇が安全となったと思われた時点)「貴軍の忠誠により本土決戦の準備は完了した」との打電で幕を閉じるのでした。

 

 でも、この結末の為には、その間、3月の東京大空襲(名古屋、大阪、神戸空襲)での多大な犠牲者が生じるのです。

 

 更には、8月の「広島、長崎への原爆投下」の大惨事が発生するのです。

 

 

 そして、

大本営命令による、硫黄島、沖縄の兵士、沖縄の方々の奮戦こそが
この原爆投下の口実を米国側に与えたのです。

 先の拙文《911」事件に対する元外務省国際情報局長&前防衛大学校教授のご見解》等にも引用させて頂いた孫崎氏の著作『日米同盟の正体 講談社現代新書』から、又、引用させて頂きます。

 

 

一九八五年から一年間、筆者はハーバード大学国際問題研究所の研究員であった。学生に交じり、ジョセフ・ナイ教授の授業に出た。第一日目の講義は日本への原爆投下は正当化できるかであった。彼は次の論理を展開した。

「われわれは民主主義を守るためドイツ、日本と戦った。この戦争は勝利しなければならない。しかし、米軍兵に予想以上の人的負担が出た。

日本軍と米国軍の死傷者の比率は当初南方で一〇対一であった

それが

硫黄島の戦いで五対一となった。

日本軍の抵抗は強かった。次いで

沖縄では三対一となった。

本土上陸が待っている。このままでは日本の抵抗がますます強くなる。

九州上陸の際には比率は二対一と予想された

。日本の征服は必要である。しかしその犠牲は一定の許容範囲がある。二対一は許せない。この論理が原爆投下の最も有力なものだった」(筆者注:ナイの講義中の具体的数字については筆者の記憶違いの可能性もあることを付記したい)

トルーマンの自叙伝を読むと、
日本本土上陸の際には
米国は五〇万人の米国兵の死者を想定

していたようである。

 

 

 ここに登場したジョセフ・ナイ教授とは、今回、オバマ政権の駐日大使の有力候補としてたびたび報じられた方なあのでしょうか?

なにやら恐ろしい(自分達に都合の良い)論理展開をなさる方のようですね?
同じ孫崎氏の著作には「米国国民は第二次大戦に参戦するつもりはなく、中立の立場を貫いていた」その米国民をいわば欺いて、日本を「真珠湾奇襲」に仕向けておいて「民主主義を守るためドイツ、日本と戦った」との見解を口にされるには、ナイ教授ご自身も米国民を欺く事は民主主義とご理解されているのでしょうか?

 更に、トルーマン大統領(当時)の書簡です。

 

 

一九四五年八月一一日

 親愛なるカバート氏へ

 八月九日付貴氏書簡を感謝します。

原爆投下に私ほど心を痛めた者はいないと思います。しかし私は日本人による真珠湾攻撃及び米国人捕虜に対する殺人に対して心を乱されてきました。彼らが理解すると思われる唯一の言葉は、われわれが相手を攻撃するときに用いる激しいものだけのようです。

のような連中を相手にするときは彼らをとして扱う必要があります。残念ですが事実です。

敬具

ハリー・トルーマン

  (Nuclea File Org.筆者訳)

 

 

 なんとも酷い話です。(私達日本人は「」扱いなのです)

しかし、このトルーマンの書簡も、これが本心の全てかどうかは分かりません。

(本心は、ソ連に、原爆の威力を見せ付ける為に、日本人を犠牲にした?)

なにしろ、孫崎氏の著作には次のような記述も見られるのですから!

 

 

大野伴陸自民党元副総裁が述べた価値判断
「政治は好きか嫌いか、得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる

 

 この弁では、ナイ教授もトルーマンも「日本人が嫌い」?
全ては「得か損」、しかし、誰の「得か損」なのでしょうか?

そして、未だに「戦争を好む政治家達」が存在します。

しかし、彼らが好む戦争の「得か損」は、「彼らにとって得」で「私達のとって損」なのです。

(確か、最近「改革!」、「改革!」を叫んでいた方が居られましたが、その改革は「彼らにとって得」であって「私達にとって損」の改革であったようです)

即ち、「彼らにとって得な改革」「で、私達にとって損な改革」であったのです。

 

だってそうではありませんか!?

改革の旗振りのお一方は、息子に年収1億円ほどの家業(政治屋:小泉商店)を継がせ楽隠居を決め込み増した。

もう一方は、己の改革運動で、発展の礎を築いてやった「人材派遣業」の会社の会長の座を確保して、年俸1億円かで「平らな蔵」を山のように膨らませて「金蔵」に改革!するのでしょうから!

それに、彼らに同調し応援した方々の会社は、内部留保をしこたま溜め込んだそうではありませんか!?

 

 そして、大勢の方々が職を失いました。

 

 

(補足)

 

 私は、ビッグイシューの販売員の方に“松代大地下壕の記事は凄かったですね”と言いましたら、彼は“その地下壕は、初めは松代ではなく、高尾に計画したそうですよ。でも、高尾では艦砲射撃が届いてしまうので、より奥まった松代に変更されたのだそうですよ”と教えてくれました。

 

 確かに、ケーブルテレビの歴史チャンネルだかで「戦艦大和」に関する番組を見ていたら、“戦艦大和の主砲の到達距離は40キロメートル”とか説明していたと記憶しています。

 

 そして、この「戦艦大和」は、「松代大地下壕」の完成までの時間稼ぎの為の、沖縄戦へ陸の砲台となる為に、片道分の燃料だけで向かいます。

そして「4547日、魚雷や爆弾を受け、刻々と傾斜角度を大きくして沈んでいく様子もここ(日吉台の大地下壕)で受信しました」と言うことなのだそうです。

 

 戦争では、こんな事が平気で罷り通ってしまうのです。

恐ろしい事です。

トルーマンの書簡を訂正すれば、次のようになります。

“戦争なんて行う者は、敵も見方も皆「」です。否!「」以下です。”

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