宮澤賢治 と 童話 そして私の朗読 1996年9月20〜28日 宇佐美 保
2.『よだかの星』
多くの人に、大きな感銘を与えてくれる『よだかの星』に対して、「生誕100年宮澤賢治を語る」(1996年9月14日朝日新聞朝刊)での、アニメーション作家高畑勲氏の
“あれは切実で美しいけれど、いじめられてどこか遠くへ行ってしまいたいという願望が達せられた話ではないでしょうか。いじめがあり自殺が起きているときに、どう関連づけるか興味は有りますが、僕は「よだかの星」を教科書に載せるのはやめて欲しいと思っている。” |
との発言の如くに、最近は、「いじめ」という言葉で以って、この素敵な作品「よだかの星」を排除される方が多いようです。
これでは、「差別用語が使用されているとの理由で、名作が排除される」如きでは?
「いじめ」という言葉で以って、この素敵な作品を排除される方に質問したく存じます。
では、「よだか」は星にならずに、どうすれば良かったのですか?
悪口を云う鳥達を説得するのですか?
(悪口を云う鳥達は、現在では、日頃のテレビ放送に満足している、日本の大多数の方々に相当するのでは?)
鷹と戦うのですか?(負けるに決まっています。勝てます?)
鷹の言い付け通りに、「市蔵」と改名するのですか?
そして、大犬座に「お前のはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ。」と言われつつも、何度も何度も飛上がり、星へと向かい得たのは、どの鳥よりも強いはねと、強い意志(と優しい心を)を持った「よだか」だからこそ可能だったので、「よだか」が“いじめ”から逃げて行った弱虫と片付けてしまうのは如何なものでしょう?
宮沢賢治は東京に於いて、歌舞伎や浅草オペラ等を随分楽しまれたそうです。
ですから、宮沢賢治の作品には、それらの影響が強く現れている作品が多々有ると、私には感じられます。
例えば、「よだかの星」の鷹、大犬座の星、大熊星、鷲の星の台詞は、全て歌舞伎調の台詞です。
特に、鷹の次の台詞は全くの歌舞伎でしょう。
「……俺がいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を言って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」 |
「市蔵」なんていう名前から、「改名の披露」「口上」等の言葉が続くのですから。
ですから、私は、この「よだかの星」の作品からは、歌舞伎を感じるのです。
従って、歌舞伎の場合の如くに、台本がどうの、その話の目的は何?と、ごたくをこねるより、鷹や、大犬座、大熊星、鷲の星の名台詞に酔うのです。
(どうか、私の朗読の口跡を堪能して戴けないでしょうか。)
そして、勿論、「よだか」に理屈抜きに感動するのです。