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宮澤賢治 と 童話  そして私の朗読    1996年9月20〜28日  宇佐美 保

 

3.『どんぐりと山猫』

 

  1996年9月8日朝日新聞のコラム「閑話休題」にて、編集委員の河合史夫氏は、

“「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」という一郎の参考意見を得て、山猫判事は「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなってなくて、頭のつぶれたような奴が、いちばんえらいのだ」と言い渡した。つまりは「二番以下なら、みんないちばんえらい」とやったとこが何とも画期的であった。”

と書かれています。

  そして、又、この点に関して、ある雑誌では、

“「どんな判決であっても、強権的に言い渡されると、どんぐり達のように、絶対服従してしまう」愚かさを書いている”

旨の記事を読みました。

   角川文庫「ポラーノの広場」の解説で、大塚常樹氏は、

“この作品は、一郎の判決が普通の価値基準をひっくりかえしたものであることに示されているように、価値観にはいろいろある、ということを伝えるために書かれた作品です。”

とさえ書かれています。

  更に、雑誌トリッパー1996年夏季号で、アニメーション映画監督の宮崎駿氏は、

“よくテーマは、少年が裁判でチビでみすぼらしいどんぐりが一番賢いと言うところだというけれど、僕は違うと思う。あれをメインにもってくると、ほんとうにつまらない。あれはさかしらな意見です”……

ああいうふうにさかしらに判決を下しちゃうことで、あの世界を失ったんです。結局一回こっきりで、山猫から出頭すべしという手紙が来なかった。そこらへんがなかなか悲しいところがありますね。


と、語っております。

 

私は、この四種の見解に大反対です。

 

  私には、この場面から、シェイクスピアの原作に、ボイトが台本を書き、ヴェルディが作曲したオペラ「ファルスタッフ」の『名誉のモノローグ』が思い浮かんで来るのです。

 ファルスタッフは従者二人に、同一文の恋文を二人の夫人に届ける事を依頼しますが、従者達が柄にも無く「武士のはしくれとして、そんな破廉恥な行為は、“名誉”に禁じられている!」断るのに対して、ファルスタッフは、『名誉のモノローグ』を歌い、笑い飛ばすのです。

“名誉だと!ぬすっとめが!……この俺だって、時には必要にせまれば、神さまに目をつぶってもらい、名誉を棚上げて、いんちきをし、ずるく振る舞い、方針をかえることだってある。それなのにお前たちは、お前たちのボロ屑と山猫のような目つきと、不愉快なうすらわらいをうかべて、名誉にしがみついている、お前たちの名誉!?どんな名誉だ!……

名誉で腹がくちくなるか?とんでもない。名誉が傷ついた足をなおすか?

まさか。……名誉は医者じゃない。じゃ一体なんだ?唯の言葉さ。

じゃその言葉にどんな意味がある?空中を飛ぶもの、目に見えないエーテルのようなものだ。……死者にとっての名誉とは何だ?無価値。では生きているものには価値があるか?何でもない。理由はこうだ、誤って、甘い言葉がそれ(名誉)を膨張させ、思い上がりがそれを堕落させ、陰口がそれを醜くするからだ!だから俺には望ましくないものなんだ!まっぴらだ!……  (黒田恭一氏訳)

 

で、ここの“名誉”のイタリア語は“L’onore”で、日本語では、“名誉”の他に、“面子”等の意味が有ります。

  私は、どんぐり達は、たとえ“いちばんえらい”との肩書きを得る為であれ、“俺は少なくも、一番馬鹿ではない”、“俺は少なくも、めちゃくちゃではない”、“俺は少なくも、まるでなっていない事はない!”という、自分達にもっと身近な、“面子”を捨てる事が出来ず、又、それを大事にしたのでしょう

その小さな、小さな面子”を捨てられなかったからこそ、どんぐりは皆、黙ってしまったのだと思います

(そして、又、山猫への参考意見に、一郎は「ぼくお説教できいたんです。」と、付け加えています。この御説教は、賢治が、国柱会などの法華経関係の集い等で聞いた話では?)

 

  そして、一郎に、山猫から二度と手紙が来なかったのは、宮崎氏の見解とは異なり、賢治が、作品の最後に一郎に語らせている通りなのだと思います。

“やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はときどき思うのです。”

   

 

もう、皆様お判り戴いているのに、蛇足かも知れませんが、この件の説明を付け加えます。

 

(山猫の言葉)「それから、はがきの文句ですが、これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてどうでしょう。」

一郎はわらって言いました。

「さあ、なんだか変ですね。そいつだけはやめた方がいいでしょう。」


この、応答により馬車別当による初めの文面より、山猫の提案は劣ると判定されたのですから、山猫は、彼の(馬車別当に対しての)面子を失うのです

こういう残念な想いをさせられては、悲しい事に、山猫は、再び一郎を呼ぶ事が出来なかったのだと、私は思います。

 

  そして、どんぐりや山猫達の捨て難い、これらの“面子”を捨てた彼方に、「雨ニモマケズ」の「……ミンナニデクノボー”トヨバレ……」の境地があるのでは?

そして、又、優しい賢治は、くだらない面子を捨てきれなかった、どんぐりも山猫も非難していないのです。


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