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何故、今、朗読?

1996年8月28日  宇佐美 保

宮沢賢治と音楽そして朗読

 

 

 宮沢賢治の大正十五年十二月十五日の宮澤政次郎(父)宛ての手紙には、次のように書かれています。

 

……今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時頃まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。……

 

 この書簡から、賢治にとってどんなにか音楽が必要だった(又、活用した)かが、うかがえます

 

 本当に、賢治の童話の台詞は、朗読する際は、自然と歌となってくるのです。

特に、『双子の星』はその典型ではないでしょうか?

 

 そして、賢治の声は、板谷栄城氏著「素顔の宮沢賢治」の27頁に、次のように紹介されています。

 

 ……声は張りのある立派なもので盛岡のレストランで洋食をご馳走になった森佐一(荘已池)は、自作の歌をたっぷり聴かされたそうです。その時、賢治は椅子から立ち上がると、学芸会の舞台に立つ小学生のように、両手をズボンのポケットのところにきちんとそろえて力いっぱい歌いました。その声は隣の盛岡劇場の芝居の観客が、幕間に窓を開けて重なり合ってのぞいたほど、高く透明で大きな物だったそうです。また経文を朗唱する時の声は、りんりんとして魂をゆさぶるものだったそうです

 

 従って、賢治作品の朗読には、賢治の声を髣髴させる“張りのある立派な”“高く透明で大きな”“りんりんとして魂をゆさぶる”声が不可欠と感じます。

 

この件に関しては、拙文《私の賢治作品の朗読》にて、改めて記述致しますのでそちらを御参照下さい。

 

1.歌の声、朗読の声


文芸春秋(‘96年8月号)に、多年にわたって、宮沢賢治の作品を(東北訛りを用いて)朗読されている長岡輝子さんが、“地声で(朗読も)話すように、そして、ある有名なオペラ歌手も「地声で歌え」と言っていた。”と述べておられました。

私も、全く同感です。

 

でも、実際はどうでしょうか?

日頃テレビで耳にする、多くナレーターの声は如何でしょう?

高名な、奈良岡朋子さん、森本レオ氏の身体発声器官の共鳴共振を拒否した声は、地声とは言えないでしょう。

この種の声は、一語一語の発音の明確性を第一義にする為の、御本人方の工夫努力の所産なのでしょう

(流行歌の世界では、国民栄誉賞を受賞された故藤山一郎氏のクルーン唱法に例を求めることが出来ます。)

一語一語の発音の明確性を第一義にする為だとしたら、最近、至る所で用いられている、コンピュータの合成音声で十分なのでは?

江守徹氏のガラガラして、押し殺した悪い意味での浪曲声、熊倉一郎氏の鼻声等々は、地声なのかもしれませんが、魅力を感じない、というより、辟易しております。

(このような声では、前述のコンピュータ音声と同様に、表現力の幅が限られてしまいます。)

それから、柳生博氏は、その人なりの暖かみといったものを、出されますが、いかんせん声(地声)に、張りも輝きも、ありません。

ですから、その方のみの人柄だけしか表現出来ていない!と感じております。

 

私は、「“超一流の声”というのは、強弱、高低、緩急、柔軟、悲喜、明暗、等など変幻自在、自由に空間を踊り廻るべき」と存じております。

(“一流の声”、“普通の声”は、兎も角。)

又、その様に、世界最高のテノールとして活躍されたマリオ・デル・モナコ先生に発声を御指導戴いて参りました。

 

ですから、ナレーターのみならず、俳優、声優、アナウンサー等など、日頃テレビで耳にする声には、魅力を感じません。

マリオ・デル・モナコ先生の奥様は(生前)、日本のテレビ番組「将軍」が吹き替え無しで、イタリアにて放映された翌日、(三船敏郎等の俳優の声を聞いて)

 “宇佐美の声が、なかなか進歩しない訳が判ったよ、日本で、日頃あんな風に話しているのだから、可哀想に!”


とおっしゃいました。

従って、「地声」と云ってもその質が問題だと思います。

 

それから、若し、オペラのアリア等を地声で歌えていたら、其の地声で、日本語の歌(流行歌)等も、何の違和感を感じず、又、感じさせずに歌えるはずなのです。(その様な、日本のオペラ歌手を御存じでしょうか?日本のオペレッタは、歌と台詞の声が余りに異なるので、とても嫌でした。今は?)

 

そして、地声で歌っていたら、話し言葉も、歌と同じ声であるべきです。

なのに、今の三大テノールですら、彼らの話し声は、彼らの歌声とは懸け離れています
(彼らとて、地声で歌えてないのでしょう)
ですから、彼らの話し声に、当然、私は魅力を感じないのです。

 

歌も語りも、それに対する発声法は、全く同じでなくてはいけないのです。

 

 

なのに、日本のオペラでは、その日本語の意味を聞き取る事が大変困難な状況は、おかしいですよね。

その上、オペレッタに於いては、台詞と歌とでは、歌手の声の性質が全く異なってしまうなんて可笑しいですよね。

 そして日本のオペラ同様、歌舞伎、能の台詞も、その意味が聞き取れません

なのに、「歌舞伎、能の言葉は聞き取れなくて当然なのだ。」

「オペラ、歌舞伎、能などの古典を鑑賞する際には、前以って、予習しておく事が必要なのだ。」と言う事が、まことしやかに言われているのです。

可笑しいですよね。

 (この点について、岡田嘉夫氏も別冊「文春」No222(一部抜粋させて頂きました)で、苦言を呈されています。)

 

世界最高のテノールの名を、ほしいままにされたマリオ・デル・モナコ先生は、日常私達に話される話し声ですら、マリオ・デル・モナコ先生のオペラの声そのもので、大変魅力的でした

 

でも、マリオ・デル・モナコ先生の声でさえ、決して生まれつきの儘ではない筈です

マリオ・デル・モナコ先生は、発声練習を最も大事になされました。

そして、御自身の声を、徹底的に鍛えに鍛え、輝く声に磨かれたのです。

そして、あのように素晴らしいテノールのアリアを歌い切る事の出来る地声を獲得されたのです。

 

従って、声(超一流の声)を、生業にするからには、その地声を徹底的に鍛え磨かなくてはならないのです。

この点が、今の日本では全くなおざりにされているように私は感じます。

徹底的に声を鍛え磨く事によって、感情の動きに忠実に、声が自由に追随してくれるのです。

 

     マリオ・デル・モナコ先生の教え

発声練習で、声(体)をとことん鍛えて、歌うときには、発声方法については全て忘れ去り、喉を自由に、話すように歌う事。」

 

このようにして、無意識下に発声される声こそが、「地声」なのだと思います。

しかも、この「地声」は、磨けば磨くほどに、輝かしい「地声」に発展するのです。

 

しかし、マリオ・デル・モナコ先生亡き後、一人で声を鍛えていますと、声の正規の方向と思って突き進んでいる積もりだったのに、マリオ・デル・モナコ先生の指し示して下さった方向から、時折、逸脱しています。

(マリオ・デル・モナコ先生ですら、若かりし頃、誤った先生の指導の為、一時は声を失った事すらあったそうですから。)

従って、この世の中、一生懸命、声を鍛えてる方も居られると存じますが、その努力が無駄になっているのでは?

 

(補足)

長岡輝子さんの発言の抜き書き(文芸春秋8月号)

 

    地声で喋りなさい

私、朗読のクラスやってますからね……

 言葉の教育というめんでは、まず声の出し方からできてないのね。私は教えるのに大きな声でものを言いなさい、息をするときはおなかで息しなさいそれで地声で喋りなさいと言うの。つくった声じゃだめだと。自分の声で、地声で喋りなさい。それがね、つくり声でふだんの生活をしている人が多いもの。よそいきの声でね、「昨日はちょっと用がありまして」なんて言って、自分の声と心がつながってないの。だから、地声で喋ること。私、いつも教室でそれを言うんだけど。そしたらこの間、有名なオペラ歌手が、やっぱり地声で歌えと。歌だって同じなんだなあと思った。

 

 この発言に対しての、「私の見解」の補足

“よそいきの声で「昨日はちょっとようがありまして」”と言ったとしたら、それは「自分の声につながっていない」のでなく、その方の心そのものにつながっていると思います?

即ち、その方の心は、その発言時には「よそ行きの心」を装いたかったのでしょう

声は其の人の心を如実に現わします。ですから、心と共に、声(逆に、声が人柄を育む)を磨く努力を、日頃から心掛ける必要があると存じます。

 

(もう少し付け加えさせて戴けるなら、“大きな声を出したり、おなかから息をするのも”発声練習の時だけに意識すべきで、喋る時は、マリオ・デル・モナコ先生の教えの通りに、声を、心の儘、自然に任すべきです。)

 

 

2.声の進歩(ファルセット・ソプラノへの挑戦)



マリオ・デル・モナコ先生が、この世を去られた後、先生の奥様の「私の主人は、いつまでも、お前の事を天国で、見守ってくれているよ」の御言葉通りに、私の声は、日々鍛練すれば、日々進歩しています。

最近は、カウンターテナー(高い声域をファルセット(裏声)で歌う)が、もてはやされておりますが、彼らの声は、せいぜい、5線の上のファ(女性のアルト)迄です、ですから、映画「カストラート」では、カストラートのファルネッリの声を、男性カウンターテナーが出せない声より高い声の分として、女性ソプラノの声を積み上げて、男女二人の声をコンピュータで合成して作り上げておりました。

そこで、私は、全て男性(私)一人でカストラートの声を歌い上げたい!と、(それと、次なる理由で) 昨年の秋以来、ソプラノ迄、声域を伸ばすべく努力を続けております

イ.トスティの歌曲等を歌っていると、当然その作品の中に、女性の歌も有ります、ですから、声を1オクターブ上げてソプラノの声で歌いたくなります。それには、ファルセットの声を従来のアルトでなく、より高い、メゾ・ソプラノ、又、それより高いソプラノの声まで、自分の声を開拓しなくてはなりません。

ロ.文献では、“イタリアのカストラートとは、声変わり前の少年の、睾丸の機能を手術にて絶ち、成人後も女性と同じ声帯の長さを維持させる事によって、男性に女性の声で歌う事を可能にさせた”と。

    しかし、このような手術は、禁止されていたので、カストラートは、表向きには、「その幼年期に、事故で睾丸の機能を失った」事にされていたそうです。

    “しかし、スペインでは、カストラートでなく、ファルセット・ソプラノが存在したといわれているが、実は、これもカストラートだったのではないか?”と書かれていました。

    となると、臍曲がりの私としては、自らの声で、ファルセット・ソプラノを歌い上げる事によって、「スペインのファルセット・ソプラノの存在の証し」となりたい!とも思いました

 

ハ.世の中の、マリオ・デル・モナコ先生への評価が、“マリオ・デル・モナコの声は、凄いが、彼の発声方法は、喉に力を入れる強引な発声で、彼の並み外れて強靱な喉が可能にする、彼独特の方法であり、余人が、彼の発声方法を真似すれば、たちまちに喉を壊すであろう。”それに、“彼の喉に力を入れる発声の為、テノールの声の魅力の一つであるファルセットがまるで出来ない。”という具合に、余りにも不当なので、その評価を少しでも正当化したいと、思い続けておりました。

    マリオ・デル・モナコ先生の発声は、喉に全く力を入れてないのです、それに、ファルセットが出来なかったのでなく、用いなかっただけなのです

   世の中の「物事を計るにあたっては、“自らの物差し”しか、用いる事が出来ず、“その物差し”を大きくオーバーする物は、計りようが無く“異端”と簡単に片付けて憚らない」という風潮に立ち向かわねば!と思うのです。

そして、今は、コロラチューラソプラノも手掛けたい、とも念じております。

(声は、鍛えれば鍛えるほど、磨けば磨く程、その方法を間違えなければ、信じられない位に進歩します。)

 

(補足:19004年3月22日)

 最近では、男性でありながら、女声ソプラノの音域を持つ、世界でも稀有な「ソプラニスタ = 男性ソプラノ」として、活躍されている岡本知高氏に敬意を抱いております。

 

 

3.何故、私が朗読を始めた?



この約30年来、樋口一葉の朗読を続けておられる女優の幸田弘子さんは、私を、オペラの世界に引きずり込んだ、マリオ・デル・モナコ先生の、オペラ「道化師」のアリア“衣装を付けろ”に痛く感銘し、「マリオ・デル・モナコの追っかけもどき」になられたとの事でしたので、「同好の士」(私の身勝手な解釈)のよしみで、私を紹介下さる「題名のない音楽会」(“偉大なるアマチュア”)のテレビ放映の案内をさせて戴いたところ、御覧下さり、その後、幸田さん御自身の朗読の会(5月中旬)の御案内を戴きました。

 

幸田さんの朗読は、日頃テレビから不満を私に押し付けてくださる方々とは異なる感銘を与えて下さったので、お礼の手紙を書こうと存じましたが、

私の朗読の会で感じた事等を、文字で表わすより、実際の自分の朗読で表現すべきと感じました。

 

そこで、司馬遼太郎の短編「京の剣客」を録音しました。

そしたら、なかなか面白いのです。

日頃、テノールのアリアのデモ・テープ作成の為の録音ばかりに勤しんでいると、“好きだ”“愛してる”が殆どの世界に、ドブ浸かりになります。

(しかし、バリトンや、バスの歌には、別の世界が存在します。

私の、声域は、テノールの下、バリトン、バス、又、その下の声と、4オクターブ以上、更にテノールの上のファルセット・ソプラノの分を加えると、5オクターブ以上になります。

しかし、マリオ・デル・モナコ先生は、“宇佐美 、余り欲張って、下の声を練習すると、神様が折角授けて下さった、大事なテノールの輝く高音を失うよ。”と優しく諭して下さってましたので、極力、バリトン、バスの歌からは遠ざかっております。)

ところが、朗読の世界には、色々な人物が登場しますので、それらの人物達に、入れ代わり立ち代わり成り代わるのは、実に楽しいものでした。

 

マリオ・デル・モナコ先生に教えて戴き、先生の死後も、その教えに従って、自ら鍛練した声を用いますと、どんな人物にも成り切れますし、作品から巻き起こされる感情のうねりの儘に、声は高くも低くも、大きくも小さくも変幻自在です。

ですから、別の作品の朗読もやってみたくなりました。

 

友人が、「宮沢賢治の作品を朗読したら?」と言ってくれました。

そこで、セロ弾きのゴーシュ、よだかの星、猫の事務所、雪渡り、なめとこ山の熊、双子の星、土神ときつね、どんぐりと山猫、注文の多い料理店、とっこべとら子、祭の夜、気のいい火山弾、と立て続けに録音しました。

でも、歌のデモ・テープ同様に、再録音の繰り返しです。

 

マリオ・デル・モナコ先生は“歌う時は話すように、話す時は歌うように。”と教えて下さいました。

ですから、朗読の時も、歌う時と全く同じ声を用いております。

宮沢賢治の作品は、自然と歌が、心から、口から溢れて来ます。

 

そして、当然、歌の部分と、語りの部分の声の隔たりはありません。

特に、歌の声と、朗読の声が、(私の場合)全く同じな例として、「双子の星」(歌物語的に朗読しています)等で、御確認戴けましたら幸いと存じます。

 

 

 

4.活字朗読と、舞台朗読



広辞苑をひくと、朗読の「朗」は、「声がすんでよくとおること」そして、「朗読」は、「声高く読み上げること。特に、読み方を工夫して趣あるように読むこと。」と、出ています。

でも、実際は、活字もどき朗読と、舞台朗読に大別されるのでは?

イ.)活字もどき朗読

      (眼から入れる活字情報を、耳から入れる音声情報に変えただけの朗読)

      第一項で「コンピュータの合成音声で十分なのでは?」と述べた、高名な、NTさん、MR氏の力を全く抜いてしまう声、又、日頃テレビで耳にする、多くのナレーターの方々の声による、「一語一語の発音を、出来るだけ明確にする事を、主眼に置いた」朗読。

ロ.)舞台朗読

      先日、拝聴させて戴いた、幸田弘子さんの舞台の朗読。       

      勿論、辞書をひもどく迄もなく、幸田弘子さんに代表される朗読は、舞台だけに限られる事はありません。 

 

朗読は、音楽の演奏にも例えられるでしょう、

特に、童謡に於いては、どんな質の演奏でも、聞き手は(その歌詞、旋律などを耳にしただけで)、昔、自らその歌を歌った頃の風景心情を思い出すなりして、耳から得た(どんなに貧弱でも)情報を、自らの心の中で大きく膨らます事が出来ます。

この童謡と同じ様に、聞き手の心に入れる情報を、眼から入れる活字を、耳から入れる音声情報に変えただけの朗読でも、その朗読の聞き手は、自らの心の中で、その情報を膨らます事によって、恰も本を読むと同様に感銘を受ける事は可能でしょう。

 

しかしこれらの朗読は、当然コンピュータ音声に代わって行くでしょう。

コンピュータ音声では、聞き手の好みの朗読速度、声質、声の高さ等が任意に選択可能となるでしょう。

 

多くの人に惜しまれつつ、この世を去ってしまわれた、寅さんこと、渥美清さんの素晴らしさは、勿論、渥美さんの、お人柄の良さにもよりましょうが、そのお人柄の良さが、スクリーンから、私達の心にストレートに飛び込んできたのは、渥美さんの“発声の良さ”に多くを負って居たのではないでしょうか?

 

渥美さんの発声の良さが、渥美さんの心を、素直に渥美さんの声に変化させ、あんなにも、変幻自在の感情の変化を私達に伝えてくれ、私達の心を揺すって呉れたのだと思います

そして、それが、渥美さんの話芸だったのでしょう。

 

もう少し付け加えさせて戴きますと、宮沢賢治の作品からは、音楽を感じるのです。

更にまた、(「よだかの星」等では)歌舞伎を感じます。

ですから、私は、音楽の演奏(歌)に於けると同様に、朗読にても、コンピュータで出来ない朗読を目指したいものです

 

宮沢賢治は、詩「告別」の中で、

           ちからのかぎり

            そらいっぱいの

            光でできたパイプオルガンを弾くがいい  と歌っています。

 

でも、私は、

            ちからのかぎり

             そらいっぱいに

             声のパイプオルガンを鳴り響かせたい と念じております。

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