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私の賢治作品の朗読

2004年3月27日

宇佐美 保

 

音楽は、作曲者の書いた楽譜だけでは、一般の人にはその内容が伝わらないので演奏者を介して、楽譜を音に変換し、一般の人に作曲家の音楽を提供します。その上に(楽譜以外に)演奏者の影響(創造、印象等)が付加されます。

 

 文学等では、昔と異なり一般の方々が文字を御読みになりますが、一般的に朗読者は不要でも良いのでしょうが、朗読者が介在する事によって、当然良きにつけ悪きにつけ音楽同様、朗読者の影響が付加されます。

 

直接文字で読んでも、本の装丁活字、挿し絵等からも影響を受けるでしょう。

ですから、私は、音楽同様、朗読に於いても、聞き手に対して、私自身の創造力を存分に味わって頂きたいと念じております。

 

 と申しますのは、賢治自身、妹弟近所の子供を集めて、自作を朗読して聞かせる事が多かったそうです。

その際の賢治の朗読は実に生き生きしていて楽しいものだったそうですから。

そして、朗読に於いて、自らの想像力を羽撃かせるためには、自分の声がその足枷になってはいけないのです。そこで、5オクターブの声と、ホーミー迄可能な私の声をフル活用するのです。その声によって、“雪婆んご”は魔女の如く、“象”は又、「ブオー」と大きく鼻を鳴らす象の如く。

 

“声の為には、クシャミもしてはいけない、おーい!タクシー!なんて叫んでもいけない。”とおっしゃってる、日本一高名なソプラノ歌手達には、こんな声は、絶対出せないと存じます。

 

幾多の天才達と同様に、宮沢賢治も随分誤解されているのでは?

 

内田康夫氏は、氏の作品「イーハトーブの幽霊」で主人公の浅見に次のように言わせています。

浅見は宮沢賢治は天才だと思い、賢治の作品の鮮烈さには脱帽するしかし、宮沢賢治の作品が好きかと訊かれて、素直に「うん」答えられるかどうか分からないそれは賢治の作品にほぼ共通する、やりきれないほど暗い雰囲気に起因している。……

 

 賢治の童話にも、『注文の多い料理店』のように、登場人物人物(動物)たちがたがいに騙したり騙されたり、殺したり殺されたりーーというシチュエーションがゴロゴロ出てくる。『毒もみのすきな署長さん』の警察署長は、最後には死刑されるのだが、最後のときに笑って、「地獄で毒もみをやるかな」とうそぶくのである。天才・宮沢賢治の哲学や諦念に裏打ちされた風刺なのかもしれないが、その背景に賢治特有のシニカルな冷笑が見えるような気がしてならない。イメージがいかにも陰惨で、読んだ後、浅見はいつも決まって、暗く惨めな気分になるのだ

 

宮沢賢治が天才であったのは、まぎれもない事実といっていいだろう。しかし彼の作品が社会に受け入れられなかったのは、感覚的に時代に早すぎる登場だったばかりでなく、作品のどうしようもない陰鬱さによるものではなかろうか。”


と、こんな具合に続けられるのです。

 

 私の宮沢賢治の朗読を御聞き下されば、内田氏(浅見)の御見解“賢治の作品は陰鬱である”を納得出来ないでしょう

 なにしろ、賢治の童話では、登場人物は全て自然の中で、嬉々として生き生きと活動しています。

 

 それでも、「宮沢賢治って、本当は、もっと暗く深刻なものであるべきでは?」と思われる方が多いのでは?

板谷栄城氏著「素顔の宮沢賢治」には、

“宮沢賢治にひかれる人ならたいてい、「その生涯を気高い考え方とひたむきな生き方をもってつらぬいた理想的な人間」という賢治像をもっておられるでしょう。……しかし、生前の賢治のことを知る多くの人は、「いつも冗談をしゃべっていて、実に明るい人だった」と口をそろえていっている。云々。ですから、「まったくまちがいではありませんが、まずまちがいといっていいでしょう」


と記述されています。

 

この本には、他に賢治の数々のエピソードを書かれておられます。

 

中学時代の彼は、「謙遜で内気ではあったが、しかし彼は決して卑屈で陰気な少年ではなかった。人前ではむしろおませで、おしゃべりで、そして自慢ののどで小鳥のようによくうたった。後年におけるあの話術の巧みさやユーモアの豊かさを、少年時代の彼は、すでにりっぱにそなえていた。

 

研究生のころにトシの看病のために母親と上京した時には、母親を誘って寄席に落語を聴きにに行きましたが、後年、しばしばその時の思い出を見ぶり手ぶりで演じて母親を喜ばせ……

 

生徒との交流では、

“……遅れた仲間を待っていると、かたわらの杉の木からフクロウの声がしてきました。突然間近で声がしたので驚いていると、いろいろの鳴き声がし、やがてスルスルと、賢治が靴ばきのままおりてきました。賢治はフクロウの真似が大変上手だったのです。”

 

賢治の声は、

“また声は張りのある立派なもので盛岡のレストランで洋食をご馳走になった森佐一は、自作の歌をたっぷり聴かされたそうです。その時、賢治は椅子から立ち上がると、学芸会の舞台に立つ小学生のように、両手をズボンのポケットのところにきちんとそろえて力いっぱい歌いました。その声は隣の盛岡劇場の芝居の観客が、幕間に窓を開けて重なり合ってのぞいたほど、高く透明で大きな物だったそうです。また経文を朗唱する時の声は、りんりんとして魂をゆさぶるものだったそうです。”

 

このような宮沢賢治ですから、彼が自作を朗読する時は、日本の現状のナレータの如くモゾモゾとした声でなく、りんりんとよく通る声で、又、「柏ばやしの夜」では、フクロウの真似が上手だった彼は、ここに登場するフクロウ声は、当然、フクロウの物真似の声でフクロウの台詞を語り、鳥の様に歌い、彼の母親に落語の話を聞かせる時のように生き生きと面白可笑しく朗読したのだと思います。

 

更に、

 “愛弟子と話しているうちに、ふと机から鏡を取り出し、自分の顔を映して見ながら、「おお山猫!」と叫んだ時の賢治の顔と声は道化師のよう、そして、「鏡を吊るし」などの詩を何度もいい声で(読むのでなく)歌ってくれた。”旨が書かれていますし、天沢退二郎氏の「《宮沢賢治》鑑」には、“賢治の弟さんの清六さんの「生前の兄の朗読はこんな風だった」といってなされた詩の朗読では、ある箇所にいたって、不意に美しいメロディがつき驚かされた。”


旨が書かれてあります。でも、私は驚きません。当然だと思います。私は、「雨ニモマケズ」等に接すれば自然にその詩にはメロディが付いてきます。

 そして、この件に関しては、
宮沢賢治からの大正十五年十二月十五日の宮澤政次郎(父)宛ての手紙に、

……今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時頃まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。……

 と書かれていますように、賢治にとってどんなにか音楽が必要だった(又、活用した)かが、そして、賢治作品が音楽と一体化していたかが、うかがえます

 それに、宮沢賢治論は、多くの方が書かれておりますが、その多くは、私は納得出来ません。

詩篇「永訣の朝」の中に使われる方言による賢治の妹の言葉を、続橋達雄氏は

「宮沢賢治少年小説」にて“よそよそしい共通語としての詩句でなく、みんなが日ごろ使っている言葉で、血肉というべき花巻の方言としての妹の声を、詩篇の中に昇華させることによって、両親の傷心をいやしたいという願いをこめた賢治のおもいやりか。いや、あまりにも激しい両親の傷心に対して、妹の言葉をとどめざるを得なかったのではあるまいか”


という奥田弘氏の説を支持されてますが、

でも、私は全く納得出来ません。若し賢治自身が、「永訣の朝」等を朗読するなら妹や、母親の言葉は日常彼女等が語る声色で、そして、「松の針」の最初の(2段ほど下がってかかれている)2行は、賢治自身の声で、日常の会話のように、他の部分は、“りんりんした声”で朗読したでしょう。ですから、当然妹や母親の言葉は方言で書かれたのでしょう。

 従って、「鹿踊りのはじまり」は、賢治が、“秋の風”から聞いた昔話なのですから、そこに登場する“嘉十”も、“鹿達”も、方言で、(勿論鹿は鹿の声で!)語り合うのでしょう。

(でも、残念な事には、方言の為に鹿達の言葉が、聞き手の方々には聞き取り難くなるのが、心配なのです。)

けれども、私は、その“鹿の声で語り合う鹿達”が大好きになるのです。

 

それに、私は、黙読した時はさして好きでもなかった「紫紺染について」も、山男や、研究会のメンバーの人達の声を、全て変化させ使い分けることによって、彼等が生き生きと個性を持って活動し始め、大好きな作品に変貌するのです。

(私が、黙読だけで好きになった賢治作品は、「風の又三郎」「銀河鉄道」だけでしたかの有名な「注文の多い料理店」等も、黙読した時は好きではありませんでした。)

かって、著名な落語家の桂芝雀さんは“自分の落語をTVで見るのは大好きで、自分が一番の芝雀ファンだとさえ思える位です。”の旨を話されていました

私も、“私の賢治朗読”の大ファンです、自分の録音を何度も何度も聴いて楽しんでいます。皆様も“私の賢治朗読”大ファンになって下さると嬉しいのですが。

 

「黄いろのトマト」は、全編殆ど、「蜂雀」が語りますが、この「蜂雀」の声は、私としては、人間ではない「蜂雀」は、当然、私の動物声(裏声)で語らなくてはなりません。それに、小さな蜂雀ですから、同じ裏声でも、なるたけ高い声(ソプラノ)を用いたいのです。ですから、私の歌の声が、ソプラノの声まで自分で満足出来るようになればなる程、「蜂雀」の声として自分でも満足出来る声に近付いて来ました。

天沢退二郎氏の「《宮沢賢治》鑑」で、

“かって二十代始めの大岡信が「詩は詩人の肉声を伝えるべきものだ」という頑なな信条を書きしるし(「現代詩論」)、《声》の肉声性と複数性との幸福な実現に成功した「声のパノラマ」のような詩を書いてから、もう三十余年が経過したが、いよいよ明らかなのは、事がさように単純でないということばかりである。”と、又、“中島みゆきの魅力の根元として重要なのは、彼女は、「話し声」《肉声》とは確然とした差異のある多彩・多様な歌声を持ち、歌毎にそれに一番照合した声で歌っている点である。”と、又、“賢治の弟さんの清六さんの賢治の詩の朗読(詩の一部を、美しいメロディを付けて歌われる)から、賢治もシンガーソングライターだったのだ。”


との旨を書かれてます。

これらから、詩人大岡信氏や、天沢氏を初め多くの方々の、「声」に対しての認識として、次のような事が想起されます。

 

「歌声」というのは、(一部の)歌手にのみ持つ事を許された、(一般人には持てない)「特別な声」である。

 

一方「話し声」は、《肉声》であり、これは各自生まれ付きの声である。

   (ですから、“磨き上げる”等とは考えも及ばない、「声」なのです。)

 

大岡氏の“詩人は、自作を自分で朗読せよ。”という見解は、“作曲家は、自作を自分で演奏せよ。”という見解に等しいでしょう。

 

ピアノの名手であった、ショパン、リスト、ラフマニノフ、そして、バーンスティン等では、自作自演は可能でしょうが、ピアの以外の曲は、自分で指揮をせよという事になりますが、これでは、“作曲される曲は、全て演奏が容易”というのか、“指揮なんか誰でも出来る容易な仕事”という事なのでしょうか?

そんなことは絶対ないですよね。

 

ですから、私は、大岡氏ですら、《肉声》の可能性に対して、「余りに無知であった」という事でしょう。そして、自作を朗読するなら、(その作品が、内容を多く含んでいればいる程)「声」の可能性を追求し、「声」を磨き上げて行くべきでしょう

 

宮沢賢治は、ショパン、バーンスティン等のように、自作自演が可能な、数少ない「詩人」「作家」であったのでしょう。そして、私も、そのように朗読します。

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