野中広務氏への麻生氏の差別
2004年7月24日
宇佐美 保
本屋さんの店頭で、偶然『野中広務 差別と権力』(魚住照著:講談社発行)を立ち読みして、ビックリしました。
そして、その本を購入しました。
その本には次のような記述があったのです。
「私は一週間、泣きに泣きました。私に目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、そして一生懸命がんばるのに、自分が手塩にかけたそういう人たちに、なぜそんなことを言われなくてはならないのだという、奈落の底に落ちた私の悲しみは一週問続きました」 敗戦から二十八年後の一九七三年(昭和四十八年)三月七日、京都府議会の本会議場は静まりかえっていた。演壇に立った府会議員の野中が大鉄局を辞めたいきさつを切々と語っていたからだ。 私が調べた範囲では、彼が公開の場で自らの被差別体験を詳細に語ったのは、後にも先にもこの時しかない。 「(一週間悲しみ抜いた末に)私が最後に出した結論は、私はあまりにもいい子になっていたということでした。大阪へ出て部落の出生であることを言いふらそうとも、隠そうとも思ってなかったけれども、自分の環境から逃げ出していい子になりすぎておった。やっぱりまっすぐ自分を育んでくれた土地へ帰ろうと。府議になることよりも、町長になることよりも部落差別をなくすことが私の政治生命であります。ここでこんな悲しいことを言わなくてはならないのも、これが私の最大の政治生命であるからです」 いったい野中の身に何が起きたのか。もう一度、敗戦後の大鉄局(大阪鉄道局)に戻ってみよう。 一九五〇年(昭和二十五年)、野中は大鉄局業務部審査課の主査になっていた。野中は審査課の族客係として切符の印刷工場の検査や、駅員たちの指導などの仕事をてきぱきこなし、課内で重用された。…… 野中の運命を変える事件が起きたのはそのころである。当時の審査課には野中のあっせんで入った園部中学の後輩が前出の黒田ら二人いた。野中は彼らを自分の下宿で寝起きさせ、食事の面倒も見てやっていた。ある日、野中が局の更衣室で着替えをしていると、衣裳棚を隔てた向こう側から聞き覚えのある声がした。 「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いでやっているけれども、園部へ帰れば部落の人だ」…… 野中が部落民であるという話はあっという間に局内に広がった。野中の昇進ぶりをねたむ職員たちが「鬼の首でも取ったように」(野中の府議会での発言)騒ぎ、上司に対して「なぜ、野中をあんな高いポストにつけるのか」という抗議が一斉に起きた。 これまで信頼していた相手が態度を豹変させるのを見るのは辛かった。野中は夜、下宿に帰ってふとんのなかで悶え苦しんだ。悔し涙がこぼれた。 何で自分はこんな馬鹿なことを言われなきゃならんのだ。大阪へ来て、一生懸命働いたつもりなのに…… 苦しみに苦しみぬいた末の一週間目の朝のことである。 「ここはおれのおるところではない」 という声が聞こえてきた。そのとき野中は心を決めた。 「おれは大阪でいい子になりすぎていた。結果的に自分の環境から逃げていた。自分を、自分という人間を知ってくれているところで、もう一度生き直してみよう」 |
この記述を読み大変驚き、又、悲しくなりました。
国会議員の全員を震え上がらせる程の権力を持っていた野中氏が「部落の出生」である事をこの本にて初めて知りました。
そして、こんな立派な方が引退された事が、大変残念に思えて溜まりませんでした。
出自によって、差別をすることが如何に不条理であることを身を以て感じ取って居られる野中さんなら、わが国の世界に誇るべき奇跡のような『平和憲法』が、出自がアメリカだとの理由から改正の憂き目に遭う不条理を食い止めてくれたのでは?とも期待出来たのですから。
更には、次の記述もありました。
元社会党代議士で部落解放同盟の書記長をつとめた小森龍邦(現解放同盟広島県達委員長)は、戦後の解放運動を引っ張ってきた指導者の一人である。……部落解放の理念と歴史を体現する数少ない男の一人と言っていいだろう。 その小森が野中の存在を初めて知ったのは一九八二年(昭和五十七年)三月、京都市の京都会館(旧岡崎公会堂)で全国水平社創立六〇周年記念集会が開かれたときだった。 来賓として壇上に立った京都府副知事の野中はこう挨拶した。 「全水創立から六十年ののち、部落解放のための集会を開かなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる一人として心からおわびします。私ごとですが、私も部落に生まれた一人です。私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けておるかぎり、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります。六十年後に再びここで集会を開くことがないよう、京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を進むことを厳粛にお誓いします」 全国から集まった約二千人の同盟員らから大きな拍手がわいた。東京・六本木の部落解放同盟中央本部で小森が当時を振り返る。 「そのときワシは同盟の中央執行委員じゃったが、野中さんの演説にみんながやんやの喝采をしてじゃな、ワシは『おお、元気ええ人がおるな。野中いうのはやるもんじゃなあ』と思った。地位を得た人がそういう(出自を明らかにする)宣言をしてくれるのは非常にみんなを元気づけるわな。そういう意味の感心をしたのを覚えとる」 |
野中氏は、この「部落解放の道を進むこと」との厳粛な宣言の翌年から、国政の場で活躍することになります。
そして、衆議院議員として初当選した1983年8月から20年後の、2003年9月に引退を決意されたのですが、その時の模様をこの本の「エピローグ」で、次のように記述しています。
「私、野中広務は今期をもって政界を引返することを決意しました」 二〇〇三年(平成十五年)九月九日、小泉が再選を目指す自民党総裁選の十一日前、野中は引退を表明した。 一週間後の九月十六日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に現れた野中の顔色は心なしか青白かった。これが大勢の報道陣やテレビカメラに囲まれる最後の舞台だという意識がそうさせるのか、彼は硬い表情のまま壇上で語りはじめた。 「私は、いま日本は国の内外を問わず危険な道をひた走っていると思います。小泉総理や日本のマスコミ、は景気が良くなったとか言っていますが、絶対に!良くなっておりません。今も一日百人の日本人が自分の意思で自らの命を絶っている。ホームレスや失業者が街にあふれています」 「イラクに自衛隊が行ったとき、犠牲者が出なければ日本人は気がついてくれません。正当防衛としてイラクの人を殺すことになる。日本は戦前の道をいま歩もうとしているのです。そこまで言われなければ気がつかないのかなあと思うと、一つの時代を生きてきた人間として本当に悲しくなります」 悲壮感を漂わせた野中の演説を聞きながら、私はこの野中の評伝が月刊誌に掲載された直後に衆院議員会館で彼に会ったときのことを思い出していた。 彼はうっすらと涙をにじませた目で私を睨みつけながら言った。 「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。 そうなることが分かっていて、書いたのか」 私は答えなかった。返す言葉が見つからなかったからだ。どんな理屈をつけようと、彼の家族に心理的ダメージを与えたことに変わりはない。 …… |
さらに又次のように続きます。
二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。議題は党三役人事の承認である。楕円形のテーブルに総裁の小泉や幹事長の山崎拓、政調会長の麻生太郎ら約三十人が座っていた。 午前十一時からはじまった総務会は淡々と進み、執行部側から総裁選後の党人事に関する報告が行われた。十一時十五分、会長の掘内光雄が、 「人事権は総裁にありますが、異議はありますか?」 と発言すると、出席者たちは、 「異議なし!」 と応じた。堀内の目の前に座っていた野中が、 「総務会長!」 と甲高い声を上げたのはそのときだった。 立ち上がった野中は、 「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」 と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。 …… この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢にまでたどり着いた人間は野中しかいない。彼は「人間はなした仕事によって評価をされるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と心に誓いながら、誰も足を踏み入れたことのない険しい山道を登ってきた。ようやく頂上にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は、彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったにちがいない。 総務会で野中は最後に、 「人権擁護法案は参議院で真剣に議論すれば一日で議決できます。速やかに議決をお願いします」 と言った。人権擁護法の制定は野中が政治生活の最後に取り組んだ仕事である。だが、人権委員会の所管官庁をめぐって与野党の意見が対立し、実質審議が行われないまま廃案になった。 それは野中の政治力の衰えを象徴する出来事でもあった。 「もう永田町にオレの居場所がなくなってしもたんや」 野中はこんな言葉を残して政界を去った。 |
何と悲惨なことでしょうか!?
何と皮肉なことでしょうか!?
「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いでやっているけれども、園部へ帰れば部落の人だ」との園部中学の後輩の陰口から政治家へ転身した挙げ句の果て、総務大臣に予定されておる麻生政調会長に『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』と野中氏不在の場で公言され、野中氏の政治の場での最後の発言が、この麻生発言の糾弾に終わってしまったとは!
こんな低劣な発言をする麻生太郎氏は如何なる人物かをけれのホームページに見てみます。
(http://www.aso-taro.jp/index2.html)
学習院大学卒業後、スタンフォード大、ロンドン大学院に留学。帰国後に家業の麻生産業(現麻生セメント)に入社、炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。日本青年会議所会頭時代は民間外交を積極的に推進。祖父は故吉田茂元首相、父の故太賀吉も衆議院議員と政治一家だが、衆議院初当選は父引退の14年後。 |
と案の定、まるで競馬馬の如く「政治家血統の正しさ(?)」を載せています。
それにしましても、「政治家血統の正しさ(?)」等が存在するでしょうか?
麻生氏の政治感覚を見る為に、彼に記述したページも見てみました。
2004年07月号『再訪朝』のページでは次のようです。
昨今のマスコミ誌上は 小泉総理の再訪朝に対する批判で埋まっております。曰く「子供の使いだ。」「俺でも出来る。」「金正日を出口まで見送ったのがケシカラン‥」等々、とてもじゃないが自国の総理大臣に対して言うべき言葉とは思えません。…… 御存知のように、相手は「悪の枢軸」とも言われ、世界にミサイルを輸出し、核開発を目指して国連のIAEAメンバーを国外退去させるといった札付きのワルであります。
他方日本は軍事力、情報力が極端に乏しい国家で、集団自衛権すら認められていない国の総理大臣。その人がテロや軍事力だけは鍛え抜かれ、西側先進国の首脳で誰一人会談した事のない金正日にこれで二回、直接対談したんです。それだけでも特記されるべき事実ですが、二度くらいの会談で問題が全て解決するほど国際交渉は甘いもんじゃありません。…… |
ここでは、「日本は軍事力、情報力が極端に乏しい国家」と書いていますが、次に掲げる2004年05月号『防衛思想の転機』には、「アジアで第一級の戦力を保有している」と書いて、事実認識が全く滅茶苦茶です。
そこで、2004年05月号『防衛思想の転機』をもう少し抜粋させて頂きます。
イラクに派遣されている自衛隊員の活動はテレビを通じてお茶の間に入りこみつつ有ります。総指揮官の番匠一等陸佐や、同じくヒゲの佐藤一等陸佐は新しいタイプの日本人なんじゃありませんか。…… 明らかに戦後の日本が生み出した新しいタイプの戦うプロ集団が出来上がりつつあると思われ、私としては、大変結構な事と思っているんです。 今、自衛隊はオランダ軍とイラクの警察と一緒に活動していますが、もしテロリストによって一緒に働いているオランダ軍が攻撃された時、日本の自衛隊は、集団自衛権の不行使が決められていますので武器を使用して反撃出来ないんです。オランダ軍に助けられても、オランダ軍を助けてはイケナイ‥と言う話が普通の世界で通じるとは思えませんが、今の日本憲法下に於ける実情がこれです。 冷戦構造が終わりを告げ、世界は「テロ」という新しい脅威と戦わねばならなく成りつつ有ります。 …… 有事法制も成立し、国民保護法制も今国会で成立するでしょう。 これが北朝鮮への強いメッセージとして伝わり、日本は外交カードとして自衛隊を使うと、ハッキリ認識したでしょう。更に国際社会が海上封鎖をする時には、海上自衛隊も共同行動を取ることが起こりえるとも認識したでしょう。 |
この2つのページを見て、“成る程、麻生氏は心の貧しい方だ、この様な方だからこそ、野中氏へのような差別的暴言を吐いたのだろう(多分、麻生氏ご本人は今もって暴言とは思っていないのかもしれません)”と思いました。
なにしろ、交渉相手である北朝鮮に対して「御存知のように、相手は「悪の枢軸」とも言われ、世界にミサイルを輸出し、核開発を目指して国連のIAEAメンバーを国外退去させるといった札付きのワルであります」と罵倒するのですから。
「悪の枢軸」は、米国大統領のブッシュ氏から見た北朝鮮に対する見解です。
でも、北朝鮮の金正日から米国を見たらどうなるのでしょうか?
“米国は、地球を何回も破滅させる程の核兵器を持ちながら、他国に対しては「核は持つな!」と云い、イラクのように気に入らない国は「大義もなく」絶大な軍事力で破壊し尽くし、自分の思い通りにしようとする「こんなワルは世界に存在して良いのか!?」”と思うのではありませんか!?
このワルの帝国の拒絶しようにも、通常の軍事力では不可能です。
となると、自国の独立性、倫理観などもかなぐり捨てて、こんなワルにくっついて自国の安全を図るか、或いは、「「テロ」という新しい脅威」で、「ワルの帝国」に立ち向かうかの二者択一を迫られることとなります。
(なにしろ、日本は“防衛力はGDPの1%以内とか言う基準を適当に定め……アジアで第一級の戦力を保有”と麻生氏は誇っていますが、日本よりGNPの低い国はどうするのですか?食べるものも食べず、核兵器を作るというのですか?でも、これが北朝鮮の現状では?)
“オランダ軍に助けられても、オランダ軍を助けてはイケナイ‥と言う話が普通の世界で通じるとは思えませんが、今の日本憲法下に於ける実情がこれです。”と麻生氏は憂えていますが、逆ではありませんか!
「普通の世界で通じる」事ばかり行っていたら、戦争は未来永劫無くならないのです。
この様な場合こそ、日本の「平和憲法」を世界に訴えるべきなのです。
更には、“相手は力の信奉者なんですから、相手に通じる事でメッセージを出すことが重要だと認識し、国家としての意志の表現を強化しなけりゃならないと確信します。”との麻生氏の見解では、“目には目を、歯には歯を”即ち、“絶対的な軍事力にはテロ、テロには軍事力”)の世界が未来永劫続くのです。
更には次の記述もあります。
『麻生太郎』故郷への足跡 ……我が国の有事に対する危機管理体制には、強い懸念を抱いており、「組織論や技術論といった対症療法とともに、国の基本となる教育論や憲法論といった原因療法に手をつけない限り、いつまでたっても日本の危機管理体制は仏作って、魂入れずだ」と主張、国、そして国民を守るための改革を求めている。 |
『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』との差別発言を平気で行い、謝罪もしない麻生氏が、ご自身のホームページに「国の基本となる教育論や憲法論といった原因療法に手をつけない限り、いつまでたっても日本の危機管理体制は仏作って、魂入れずだ」と書かれている大きな矛盾にご自身はお気付きにならないのですか?!
麻生氏は「憲法論」云々と書かれていますが、第14条をお忘れですか?
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 |
ご自身が憲法違反の発言をしながら、「憲法」をとやかく言うのは止めて下さい。
更には、“他人の痛みを思いやる”と云うことが「人間の条件」そして「政治家の条件」ではありませんか!?
この様な人間として、政治家としての重大な資質に欠如している人物が教育論を云々するのは止めて下さい。
「思いやりのない人物」(そして又能力の劣った人物)ほど、他人の欠点をあげつらって、何とか自分の優位性を誇示しようと図るのです。
そして、似非政治家は、自国民に対して、他国民よりも優れていることを吹聴して、過度の愛国心を煽り、他国民を殺害する事を正義であり大義であると自国民へ、又自身へも暗示を掛けるのです。
拙文《ブッシュ氏とその政権の危険性(1)》の一部を次に抜粋します。
ブッシュ氏は、他人の命には無頓着な方のようなのです。
と申しますのは、ブッシュ氏はテキサス州の州知事時代には、135人も死刑を執行しています(12月21日放映のテレビ朝日「サンデープロジェクト」)。
何故このように、多くの人達に死刑を執行したかに関しては、マイケル・ムーア監督のDVD作品『アホでマヌケなアメリカ白人』の中で、ブッシュ氏のテキサス州に於いては、「公設弁護人制度も、まともな控訴手続きもない」と紹介していますし、更に、ブッシュ氏の“私は、えん罪など無いと信じています。死刑になった者は全員有罪の筈です。”との発言が画面から飛び出してくるのには、腰を抜かすほど驚きました。 |
でも、驚いてはいけないのかもしれません。
なにしろブッシュ氏は、大統領就任後には、何万人(?)ものアフガニスタンやイラクの市民達を死に追いやって平然としておられるのですから。
更には、拙文《愛国心と政治家と戦争》からの抜粋です。
千田氏の『ユーゴ紛争』の「はじめに」に於いて次のように記述されています。
「○○民族が悪い」という書き方はしていない。悪いのは民族ではなく、民族主義をあおり、戦争をすすめた指導者達である。強制的に動員され、戦場で人間を殺させられた兵士をふくめ、圧倒的多数は犠牲者だ。…… |
ですから、野中氏の前に麻生氏が政治(指導者達)の場から退いて欲しかったのです。
今からでも遅くありません。
(そして悲しいことに、麻生氏のホームページを見ますと「地元の福岡県第8選挙区を含む旧産炭地・筑豊の浮場にも全力で取り組んでいる」との様子がはっきり判るような箱物の写真が満載されています。)
一方、野中氏はどうでしょうか?
先ずは、次なる大政翼賛会発言があります。
加藤の説得で委員長就任を受諾した野中は(沖縄特措法)採決前の委員長報告で、 「ひとこと発言を許してください」 と前置きして三十五年前の出来事を語りだした。彼が京都府園部町の町長だった一九六二年(昭和三十七年)、宜野湾市で戦死した京都出身兵士二千五百人余りの慰霊塔を建てるため、初めて沖縄を訪問したときのことである。 「那覇からタクシーで宜野湾に入ったところ、運転手が急にブレーキをかけ、『あの田んぼの畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです』と言って泣き叫んで、車を動かすことができませんでした。その光景が忘れられません。どうぞこの法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい」 戦争の悲惨さを肌身で知る野中の心中から思わず漏れ出た言葉である。しかし、それは同時に、小沢と手を結んで改正案を成立させた梶山に対する強烈な当てつけでもあった。 |
そして、1998年11月の沖縄県知事選で野中氏の暗躍によって、知事の座を追われた太田氏(現在社民党の参議院議員)の談です。
「野中さんというのは一番弱い立場の人々に目を向ける政治家でね。特措法改正の際の大政翼賛会発言にはひどく感動しました。日本の政治家でこんなことをまともに言える人がいたのかと。 沖縄振興策の問題でも以前からお願いしていた道路公団の沖縄自動車道の料金値下げを約束してくれたり、本島と離島を結ぶ飛行棟の運賃を国の負担で値下げしてくれたり、庶民が利用できる部分で配慮してもらったからお礼状まで出したんです」 だが、そうした野中の姿勢も大田が九八年二月に海上基地建設に反対すると正式表明してからは一変した。その年八月、野中は小渕内閣の官房長官に就任した直後の記者会見で、「基地問題解決のために真摯に努力してこられた橋本前首相が辞任表明したのに、大田知事が挨拶にこなかったのは人の道に反する」 と言って激しく非難し、大田県政打倒の先頭に立った。大田が言う。 「『人の道』発言を聞いたときは率直に言って、沖縄の人たちを戦争中背しめて、戦後もまた生命・財産の危機にさらしておく政府のやり方こそ人の道に反すると思いました。小沢一郎さんへの対応などを見ても、野中さんは今日言ったことと明日やることが極端に違う。たたき上げだからそこまでしないと実力者になれないのか。そうまでして自分の立場を強化しなければならないのか。やはり日本の政治はそんな形でしか成り立たないんだろうかと愛想が尽きるような気がしました」 |
この「野中氏に対する太田氏の評価」は、悲しいことに、的を射ているように感じるのです。
「自分に痛みを持った人程、他人の痛みがわかる」のだと私は信じております。
ですから、もっと早く野中氏の苦しみを知っていたら、私だけでなく、多くの方々も野中氏にエールを送り続けていたでしょう。
そして、日本も、もう少し(少しだけかもしれませんが)良い方向へと変わっていたかもしれません。
但し、私は野中氏の優しさの限界も感じるのです。
それは、本文の冒頭に抜粋した次なる野中氏の発言です。
私に目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、…… |
目、口、耳は兎も角、「皮膚の色が違う」方は大勢居られます。
又、外見上、一寸変わっている方も居られます。
これらの点に代表される配慮が野中氏には欠けていたのではないでしょうか?!
又、この野中氏の裏で行っていた政治手法は、彼の子飼いであった鈴木宗男被告の政治手法によって表の舞台に引き出されたように感じるのです。
例えば、朝日新聞(2004年4月4日)には次のように書かれています。
偽装牛肉事件を主導したとして詐欺容疑で逮捕された大阪府食肉事業協同組合連合会(府肉連)副会長の浅田満容疑者(65)が築き上げた「ハンナングループ」は国内外に約70社の系列会社を擁する。政界に太いパイプを築き、食肉業界に大きな影響力を持つ実力者だ。だが、公的な場に顔を出すことは少なく、実像はなかなか見えない。…… 浅田容疑者は鈴木元議員ら農水族議員を中心に政治家を資金面で支えてきた。関係者によると、浅田容疑者は故中川一郎元農水相の支援者だったが、中川氏が83年に死去した後、中川氏の秘書だった鈴木元議員がその関係を引き継いだ。 鈴木元議員が95年から7年間使った高級乗用車「セルシオ」はハンナングループの企業名義だった。自動車税約45万円も肩代わりしてもらっていた。 今回の事件で悪用された「国産牛肉買い上げ制度」は鈴木元議員と松岡利勝元農水副大臣が01年、農水省に実施を迫っていた。当時は牛海綿状脳症(BSE)の影響で牛肉の売り上げが激減していた。「国が引き受けますと言えばいい。簡単なことなんだよ」。鈴木元議員は農水省幹部に詰め寄った。 …… 著作「食肉の帝王」で浅田満容疑者を描いたジャーナリスト溝口敦氏の話 浅田容疑者をめぐる偽装牛肉疑惑は、立件されずに葬られてしまうと心配していたので驚いている。大阪府警がよくぞ捜査に踏み切ったと思う。浅田容疑者は今まで聖域視されてきた、食肉や同和問題にからむ分野で活動し、大阪に限らず東京や名古屋でも影響力を行使してきた。今回の事件で終わりとせず、食肉や同和問題をめぐる利権構造や政治家、暴力団との関係が洗いざらい明らかになることを期待する。 |
「「国が引き受けますと言えばいい。簡単なことなんだよ」。鈴木元議員は農水省幹部に詰め寄った」との、記事の箇所は当時テレビの画面を見て愕然としたものでした。
そして、この鈴木氏の行動は、『野中広務差別と権力』の中の次の部分(「糾弾会の荒れようはすさまじく、灰皿やヤカンが飛んでくるのは当たり前でした」)にオーバーラップして行くのです。
このころ部落解放同盟(一九五五年に部落解放全国委員会が改称)は、全国各地で差別行政反対闘争を繰り広げていた。そのきっかけになったのは、戦後解放運動のエポックとされるオール・ロマンス事件である。 一九五一年(昭和二十六年)十月はじめに発売された雑誌『オール・ロマンス』は、京都市の部落を舞台に青年医師と女性の恋愛を描いた小説『特殊部落』を掲載した。筆者は市職員の杉山清一(当時の筆名)だった。杉山は人々の生活模様を猟奇的に描き、登場人物に差別的なセリフを語らせていた。 部落解放京都府委員会(委員長・朝田善之助)は、この小説が部落を「ヤミと犯罪と暴力の巣窟」に仕立て、差別意識をあおりたてるものだとして糾弾闘争を組織した。それも、従来のように個人の差別意識だけを問題にするのではなく、差別の原因となっている部落の劣悪な生活実態を放直してきた市当局の責任を厳しく追及した。 その結果、京都市は翌年度の同和対策予算を従来の十倍近い四千六百万円に増額させた。 以後、「部落にとって不利益なことはすべて差別である」を合い言葉に行政当局と闘うことが、全国の解放運動の基本戦術となった。 行政闘争は、一九五三年(昭和二十八年)の園部川氾濫で木崎に大きな被害が出たのを契機に園部にも波及した。若手町議の一人だった大島隆(仮名)によると、町幹部や年輩の議員が酒席で、 「どうせお前は部落民だから」 などと暴言を吐いたりすることがよくあった。すると解放同盟が役場に乗り込んできて糾弾会を開き、町当局の責任を追及した。大島が言う。 「糾弾会の荒れようはすさまじく、灰皿やヤカンが飛んでくるのは当たり前でした。町会で『なぜ、彼らだけが固定資産税を減免されるのか』と質問した議員が自宅をぐるりと取り囲まれることもあった。そんな状態だったから、誰もあまり町長などになりたがらない。寿命を縮めるだけですからね。だけど野中さんなら解放同盟を抑えることができる。そういう事情もあって彼は若くして副議長、議長になれたんです」 |
この様な糾弾会的手法を最も嫌悪したのは野中氏ではなかったのでしょうか?!
なのに、子飼いの鈴木氏がこの手法を最大限に活用したとは何という因果なのでしょうか?
このハンナン事件には、次のような記事(chunichi WEB press)もあります。
(http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040422/mng_____tokuho__000.shtml)
「食肉の帝王・巨富をつかんだ男」(講談社)の著書がある作家の溝口敦さんは「もともと父親の浅太郎氏が終戦直後の一九四七年、大阪府羽曳野市に食肉卸業『浅田商店』を開いたのがきっかけ。…… 急成長の背景について溝口氏は、こう分析する。 「一九七三年の石油ショック時に、農水省の外郭団体、畜産振興事業団(現農畜産業振興機構)が予測を誤り過剰輸入した牛肉をハンナン側が引き取った。これをきっかけに農水族の大物国会議員、故中川一郎氏との親交が生まれ、当時秘書だった鈴木宗男(元衆議院議員)氏へと政界人脈がつながっていった。さらに関西の有力暴力団幹部とも親しかった。こうした一面がある一方、弟を社長に据え、頭を低く構えながら、もうけのチャンスを逃さない冷徹な計算ができる経営者だった」 …… 鈴木宗男氏が使用していた高級乗用車もハンナングループの企業名義だった、という。元国会議員(大阪府選出)の秘書を務めた男性は言う。「選挙でも支援してもらっていたが、表に出てくる人ではない。元自民党幹事長の野中広務氏など、同和問題に理解の深い人を応援していた。成り上がり企業で血族的なバックアップもなく、厳しい差別の中で力でのし上がった。それだけに地位を維持するための後ろ盾が欲しかった。政界に近づいたのは、そのためだろう」…… 溝口氏は「最も有力な証拠である牛肉そのものが失われたのが大きかった。物証が出なかったから。個人的には、摘発は無理だと見ていた。大阪府警の粘り強い捜査で企業内部からの証言が得られたり、帳簿などの証拠が押収できたのだろう。今回の事件ではグループ企業のハンナンマトラスの経理部長も逮捕されており、ここらへんを突破口に全容が判明するのでは」と推測する。 |
更には、「yomiuri on line関西:2004年6月28日」には次の記事が出ていました。
(http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/gisou/gi40628c.htm)
牛肉偽装事件に関連して二十八日、食肉卸大手「ハンナン」元会長・浅田満被告(65)の地元・大阪府羽曳野市の福谷剛蔵・前市長(62)が公用文書毀棄(きき)容疑で書類送検された。初当選以来、四期十五年にわたる浅田被告との蜜月(みつげつ)ぶりに批判の声が上がるたび、口癖のように「天が見てござる」と潔白を主張してきた前市長。辞職表明から二週間。浅田被告との面会記録改ざんという“疑惑隠し”で刑事責任を問われることになり、関係者らは「墓穴を掘ったようなもの」と口をそろえた。…… 一九八九年、四期十六年続いた共産党市政打倒を掲げ、初当選。選挙では、鈴木宗男・前衆院議員や九重親方(元横綱・千代の富士)、歌手の松山千春さん、藤あや子さんらが応援に駆けつけるなど浅田被告、ハンナングループの強い支援を受け、再選を重ねた。…… |
歌手の松山千春氏は、鈴木被告が逮捕された後に、同じ町の出身者だからと云って鈴木被告を応援し、田原総一朗氏のテレビでのインタビューを受けて“鈴木氏が悪いと判ったら、真っ先に、議員バッチを外させます”と語っていました。
そして、今回の参議院選挙にても応援しています。
でも、次の記事(北海道新聞:2001年11月4日)は、前の記事とどのように繋がるのでしょうか?
十勝管内足寄町出身の歌手で、道の「北の食大使・牛肉大使」を委嘱された松山千春さんが3日、大阪市北区の阪急百貨店梅田本店で初仕事をした。 大使のたすきを掛けた松山さんは、地階食料品売り場に特設した「北海道十勝牛フェア」会場で「十勝の安全な牛肉を売らせてもらいます」とあいさつ。ステーキ用とすき焼き用合わせて1000パックが売り切れるまでの1時間余り、買い物客1人ひとりと笑顔で握手したり、記念撮影に応じた。 狂牛病の影響で、まだ7割しか牛肉需要が回復していないという同店だが、この日は400枚の整理券で打ち切るほど千春効果はてきめん。松山さんは「焼き肉店などでお客さんと一緒に食べるイベントがあってもいい」と意欲を見せていた。 |
ここで又、麻生氏のホームページ(『麻生太郎』故郷への足跡)に戻りますが、麻生氏は“我が国の有事に対する危機管理体制には、強い懸念を抱いており”と云う、外国からの日本の防衛以前に、“国の基本となる教育論や憲法論といった原因療法に手をつけない限り、いつまでたっても日本の危機管理体制は仏作って、魂入れず”で、日本は内面から崩壊してしまうでしょう。
なにしろそのお先棒を麻生氏は担いでしまったのですから。
麻生氏の経歴には、“スタンフォード大、ロンドン大学院に留学”と書かれています。
なのに何故、麻生氏の心は世界に開かれていないのでしょうか?!
以前は盛んに「国際人」との言葉が持て囃されました。
残念なことに最近はその言葉が影を潜めてしまいました。
留学体験がある麻生氏なら「国際人」たる資格は、「氏素性」ではなくて「個々の人柄、実力」であると痛感した筈です。
それとも、麻生氏にとっては祖父である「故吉田茂」の威光が余りに強すぎて、麻生氏自身の個を発揮しなかったのでしょうか?
それとも、「第2回メキシコ国際射撃大会(クレー・スキート(個人・団体))優勝、第21回オリンピック競技大会(モントリオール)(射撃:クレー・スキート)にも出場」との射撃の腕前も、心の乏しさから「個の実力」を発揮出来なかったのかしら?
“地元の福岡県第8選挙区を含む旧産炭地・筑豊の浮場にも全力で取り組んでいる”事を誇るのではなく、もっともっと、日本のこと世界のことを考えたら、麻生氏ならば、もっともっとスケールの大きな人物に成れたはずです。
そこで、読売新聞の編集委員橋本五郎氏のコラムを拙文《読売新聞を購読して(1)》に引用させて頂きましたが、再掲させて頂きます。
イングランド西南の港町、ブリストル。英国保守主義の祖、エドマンド・バーク(一七二九−九七)の銅像は、市の中央にある広場に立つ。その台座には次のような文章が刻まれている。 「私は善を行い、悪に抗する自己の役割を果たすためにこそ、議会の一員でありたいと思う」 一七八〇年九月、ブリストル市選出の下院議員、バークは選挙人を前に一時間をはるかに超える大演説を行った。 在任中、あまり選挙区を訪れなかったことなどで強い批判が出ていた。政治生命にかかわる危機の中での反論・弁明の演説だった。 「自らの代表に広い視野に立って行動する余地を認めないなら、わが国の代議制度は単なる地域的な利益代表者間の騒々しい抗争の舞台に堕落するに決まっている」 「諸君にふさわしい代表は、確固たる信念の持ち主でなければならない」 その六年前、下院議員に選出された直後にバークは選挙人にこう演説していた。 「諸君は確かに代表を選出するが「いったん諸君が彼を選んだ瞬間から、彼はブリストルの成員ではなくイギリス本国議会の成員となる」…… |
私は、このバーク氏の言葉に感動します。
このバーク氏の言葉を、国会議事堂を初め、日本全国の議場に掲げて欲しいと思いました。
それに、全議員の事務所に。
そして、私達は、この際もう一度「国際人」たる言葉を思い浮かべるべきではないでしょうか?!
私達は、「日本の安全」を考える前に、先ず「世界の安全」を考えるべきではありませんか?
『世界が安全になれば、日本も安全になります』
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