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バスチアニーニを偲んで

200437

宇佐美

 

196310月、19656月と2度来日し、日本のオペラファンを熱狂させた1年半後の1967125日に44歳の生涯を閉じてしまった名バリトン、エットレ・バスチアニーニの伝記本『君の微笑み』(マリーナ・ボアーニョ&ジルベルト・スタローネ:共著、辻 昌宏、辻 麻子:共訳、フリースペース:発行)を読み、昔を懐かしく思い出し、又、今まで抱き続けていた疑問が氷解しました。

 

バスチアニーニに関する、デル・モナコ先生の見解を、この本は次のように紹介しています。

 

 エットレ・バスティアニーニは、敬愛すべき偉大な歌手でした。僕の歌手人生の中で出会った一番親しい仲間で、彼ほどいい人間はいませんでした。デビューは、僕のほうが先だったのですが、僕にとっては先生でもあったのです。彼から教わったのは、言葉をはっきり発音すること、フレージングを中断させず、流れを持続させたまま力強く歌うことでした

 彼のフレージングは、実に明快でした!……トスカーナ人らしく母音をのびのびと、しかも常に端正に歌っていました。ですから僕にとっては、言葉の先生だったのです。もし僕が、この長い年月のあいだに少しでも進歩しているとしたら、それは彼のおかげでもあります。……彼の歌うのを聴き、素晴らしい語り口を自分のものにしようと努めました。……彼の発音は、僕を虜にします。家では、息子たちを含めて皆、彼の大ファンです……

               (一九六七年二月二十五日 ラジオ・インタビューから)

 

事実、デル・モナコ先生ご夫妻が私の発声を教えて下さっていた際、

 

“バスティアニーニは、本当に素晴らしい声を持っていた。

そして、マリア・カラス……”

 

 と私に話して下さったものでした。

 

 又、バスティアニーニが亡くなった際、当時私が音楽を教えて頂いていた指揮者のガエタノ・コメリ先生(拙文《マリオ・デル・モナコ先生と私》を御参照下さい)は、次のように話して下さいました。

 

 バスティアニーニのようなこれからのオペラ界を背負って立つ立派な歌手が亡くなって、実に残念だ。

そこで、あなたをイタリアにいる私の知人の元に送りたいとも思うけれど、なにしろ、音楽の世界、特に歌の世界は色々あるから、……

でも、私はあなたに歌だけでなく、音楽を教えて上げますから、頑張りなさい。

 

 と、心優しく純真なコメリ先生は私に語りかけて、ピアノを初め色々と教えて下さったのでした。

(その頃は、著作の中で紹介されていますが、戦争中野戦病院で開かれていたコンサートでのバスティアニーニの重要なレパートリーの『セビリアの理髪師』の《陰口はそよ風のように》や『ラ・ボエーム』の《古外套よ、さらば》を、多分、私もコメリ先生の前で歌っていたのだと記憶しています。)

 

 ところが不肖の弟子である私は、家に帰るとピアノには殆ど触れず、デル・モナコ先生のレコードに合わせてがなり、特に、オペラ『運命の力』での、デル・モナコ先生とバスティアニーニの二重唱の部分を、一人二役で声を張り上げていました

 

 しかし大変不思議だったのです。

196310月に、デル・モナコ先生がNHKイタリア歌劇団の一員として来日して、『イル・トロバトーレ』と『西武の娘』に出演されるとのことで、その前売り券を得る為、銀座の鳩居堂横の路地に、友人の寝袋を借りて徹夜して並び、(又、友人にも依頼して)、デル・モナコ先生が出演されると思われる全(8日)公演の切符を入手しました。

 

 でも、残念なことに、デル・モナコ先生は、腎臓病を発病され、来日が不可能となってしまいました。

(NHKは代わりに、フランコ・コレッリに依頼したが、“(ハイCの聞かせ処がある)『イル・トロバトーレ』を遠隔地で歌うのは危険すぎる”との懸念から断られてしまった?

マリア・カラスはオナシスとの愛の世界に没頭していて、日本どころではなかった?)

それでも、バスティアニーニの『イル・トロバトーレ』に於けるルーナ伯爵を聞くことが出来ました。

そして、不思議に思ったのです。

確かに、バスティアニーニの舞台姿、歌唱は気品に溢れていました。

そして、『イル・トロバトーレ』に於ける有名なバリトンのアリア“君の微笑み”をバスティアニーニが歌い終わると会場は盛大な拍手で溢れました

 

 私は不思議に思いました

バスティアニーニの声が、毎日毎日聞いていたレコードの声のように朗々と鳴り響いていないのです。

声が胸につかえているように私は感じたのでした

なにしろ、当時の私は、“オペラの声とはホール一杯に鳴り響くべきもの!”と思い込んでいたのですから、尚更、その感を強く抱き、欲求不満に陥りました。

 

 一方、『セビリアの理髪師』では、バスティアニーニのライバルでもあるバリトンのアルド・プロッティと、そして又、メゾ・ソプラノのジュリエッタ・シミオナートの声が東京文化会館のホールに溢れかえっていたのですから。

(そして、このお二人の声こそがオペラの声!と納得出来たのです。)

かくも無限の声が溢れ出てくるようなアルド・プロッティは、サインを貰う為に文化会館の楽屋口に並んで待っている私達の前に、まるで水道工事用の工具を入れるような小型のバックを手に、そして、ジャンバー(工事用とも思えてしまう様な)姿で現れ、実に気軽にサインして下さいました。

プロッティさんの舞台(そして、声も)の印象は、この時の印象そっくりでした。

 

 でも不思議のことに、私の知人も聴衆も、批評家もバスティアニーニを絶賛するだけで、誰一人としてバスティアニーニに異議を唱える人はいませんでした。

 

これから1年半ほどの後、19656月にバスティアニーニは単独で来日して、東京文化会館でのリサイタルを催してくれました。

イタリア古典歌曲の「清らかな乙女では、朗々と文化会館のホールに溢れてきました。

「こおろぎは歌う」、「妖精のまなざし」等の素敵な歌に私は魅惑されました。

更に、『セビリアの理髪師』のアリア「私は町のなんでも屋」では、前述のデル・モナコ先生のコメント“言葉をはっきり発音すること”が、見事に実践されていました。

 

 勿論、デル・モナコ先生ご自身も、バスティアニーニの教えを堅く守り、同じアリアを実に歯切れ良く軽快に歌っている事は、キングレコードかで発売された『マリオ・デル・モナコ ライブ全50曲入り(4枚セット)』の中で、確認出来ます。

(喉に力を入れていたら、このアリアを見事に歌うのは全く困難です。)

 

 でも、本当に悲しいことに、信じられないことが起こりました。

バスティアニーニは、最後の聞かせどころである5線の上のソの音を(一寸ではありましたが)喉に引っかけてしまったのでした。

しかし、心優しい日本の聴衆は(私も)盛大な拍手をバスティアニーニを捧げました。

 

 そして、今、バスティアニーニに関する著作『君の微笑み』を読み、私の頭の中に巣くって居た多くの謎が氷解しました

 

この本には次の驚くべき記述がありました。

(本書に於ける、エットレとの記述は、私達が日頃慣れ親しんでいるバスティアニーニに書き改めました。

 

このアメリカ滞在中に、おそらくは十一月(筆者注:1962年)に、バスティアニーニは初めて恐ろしい診断結果を知ったという可能性が高い。もっとも厳しい結果、すなわち声にかかわる器官を襲った咽頭痛であった。

 さまざまな歌手仲間が、個々に私の質問に答え、当然のことながら口付は確定できないものの、

バスティアニーニが最初にかかった医者はルイージ・ペッロック教授という、オペラ界ではかなり有名なニューヨーク在住のイタリア人医師で、個人的な友人でもあった人だと、請け合ってくれた。

 教授は癌と診断し……外科手術が可能であることを説明する。しかしながら、それは広範囲な除去手術で、声自体が出なくなるわけではないが、歌う能力はまちがいなく奪われてしまうことを告げぬわけにはいかなかった。咽頭は、声帯のように音を《出す》ことに直接関わっているわけではないが、《反響させる器官》であると言う。これが無いと、声は、共鳴によってもたらされる響き、豊かさを持つことが出来ないのである。

 バスティアニーニは声をあきらめる決断はできない。絶対にこのことは秘密にするよう医者に頼み、決断を先に延ばす。

 くり返すが、これらの事実は、きわめて信頼できる複数の歌手仲間の証言から得たもので、その信憑性については疑いの余地がない。……

 最初の確かな日付は、キュルステン教授の好意により得られたものだが、教授はすべてのデータをすこぶる正確に提供してくださった。

……

キュルステン教授の証言によれば、彼は患者に対して放射線治療を勧めたのである。その結果、咽頭癌は消え、再発することはなく、死は転移によるものであったとされている。したがって、明らかに外科手術は、放射線療法より前にバスティアニーニに提案されたはずで、これより後だとすると筋が通らない。

 間違いなく、キュルステン教授の助言は、この時点で、バスティアニーニにとって思いがけない頼みの綱となったに違いない。外科手術を回避する可能性、声を無傷のまま保つ望みを意味していた。

 ところが、その望みははかないものであったことが判明する。ベルンの病院に長期入院し、大学付属放射線研究所医長のアドルフ・ツッピンガー教授の治療をうけた後、一九六三年四月二日にウィーン国立歌劇場に出演する。

 ここでは、おそらく、状況の描写を、専門家としてのキュルステン教授の、感情をまじえぬ言葉にゆだねたほうがよいだろう。

 「この放射線照射の結果、気管上部における粘膜欠乏が確認された。(…)彼の声の質は甚大な被害を被り、この時期以降、かつての声の響きを取り戻すことはなかった」。

 それゆえ、今日、こういった資料に照らし合わせてみると、一九六三年一月二十一日、あるいはその数か月前といったほうがよいかもしれないが、この時点でエットレ・バスティアニーニのキャリアは終わったのである

 

 そして、著者が「エットレ・バスティアニーニのキャリアは終わった」と云う、一度目のベルンでの放射線入院治療の10ヶ月ほど後の公演が、(私がバスティアニーニの声に疑問を抱いた)196310月東京文化会館での『イル・トロヴァトーレ』のルーアナ伯爵の熱唱だったのです。

 

 更には、二度目の入院治療後の初公演が、(悲しいことに、『セビリアの理髪師』のアリアで喉に声を引っかけてしまった)196569日の東京文化会館でのリサイタルだったのでした。

 

 この事実を知った今、東京文化会館でのリサイタルの実況録音によるCD(ETTORE BASITANINI LIVE IN TOKYO.1965)を改めて聞き直しますと、“なんと素晴らしいバリトンを私達は失ってしまったのだろうか!”との思いが強く胸に打ち寄せてきます。

必死に病に立ち向かいながら歌うバスティアニーニの声が尚更のこと心を打ちます。

そして、この録音を残してくれたことに多大の感謝を捧げます。

 

そして、なんと若くしてこの世を去ってしまったのでしょうか?

1922年生まれのバスティアニーニに対して、2年早く生まれているアルド・プロッティは、バスティアニーニの死後16年経った1983年、デル・モナコ先生の一周忌のペーザロでの追善演奏会にて、『アンドレア・シェニエ』のアリア「国を裏切る者」を、かつて私が耳にした声音同じ豊かな声で歌われていました。

 

(そして、デル・モナコ先生の奥様の“テノールの声を作るのは時間が掛かるからバリトンを歌え!さもないと、お前の声ができあがる前に私達は死んでしまうよ”との言いつけ通りに、若し、私がバリトンの歌を歌っていたら、私もこの演奏会で歌わせて貰えたのかも?しれませんでした。(でも、どうだったでしょうか?)

その後、バスティアニーニの十八番である「君の微笑み」、「プロバンスの海と陸」を、デル・モナコ先生の楽譜をコピーして、モナコのモンテ・カルロ歌劇場内の練習場(イタリアは治安が悪いと、デル・モナコ先生の死後、奥様はモナコに移住されておりました)で奥様から教わったりもしました。
 そして、奥様の御神託は確かでした。
ですから、テレビ朝日の「題名のない音楽会」で、岩城宏之先生の指揮の下「女心の歌」「衣装を付けろ」「カタリ・カタリ」等を歌う事が出来たのは、デル・モナコ先生の死後10年も経ってからでした。
 そして、今、私自身のデモ用のCDを録音する際は、『イル・トロバトーレ』のハイCで有名なテノールのアリア「焚木は燃えて」と共に「君の微笑み」も録音しているのです。
しかし、声は、日々進歩するので、いつまで経っても私のデモCDは、完成の日を迎える事が出来ません。)

 

 それにしても何故44歳の若さでこの世を去ってしまったのでしょうか?

(私が会社を辞めて、デル・モナコ先生の懐に飛び込んだのは42歳の時でした。)

 

 この謎はやはり、この本を見て解けたように思います。

この本にはバスティアニーニの魅力的な写真が沢山掲載されています。

そして、残念な事に、その中に喫煙姿の写真がありました。(1961年フィラデルフィア)

なにしろ愛煙家だったドイツの優れたバリトン歌手のヘルマン・プライも喉頭癌で亡くなられているのですから。

 

 

(補足:1)

ガエタノ・コメリ先生

ガエタノ・コメリ先生は、192?年にカーピ・イタリア歌劇団で来日して、とてもチャーミングで美しい日本女性とご結婚され息子さんと3人で、私が通っていた大学から、電車で23駅離れた閑静な住宅街である久が原の、瀟洒で欧風なご住居にお住まいでした。

そして、藤原歌劇団などのオペラを指揮され、オペラ団に所属される歌手の方々を先生のお宅で教えておられました。

 

私は、当時も愚かでしたから、コメリ先生に音楽を教わっていて、イタリア語まで教わるのは卑屈(私は日本人である!?)であると、訳の判らない理屈を自分で付けて、コメリ先生とは常に日本語で話して居ました。

先生からイタリア語も教わっておけば良かったと、今更ながら悔やんでおります。

その上、親切な息子さんが「英語を教えてあげましょうか?」と声を掛けて下さっても、私は日本人です!と云った顔をしていました。

本当にバカですね!

 

 デル・モナコ先生との会話は、殆ど禅問答のようでした。

それでも、声は歌の事に関しては、十分に意思疎通は可能であったと思っています。

しかし、親切なコメリ先生からイタリア語を授かっていたら、色んな事もデル・モナコ先生からお聞き出来たのに!と、今更ながら悔やんでおります。


(補足:2)
 バスチアニーニの伝記本『君の微笑み』の情報は、「なつのイタリア文化周遊:(不滅の騎士的バリトン〜エットレ・バスティアニーニ )から得る事が出来ました。
感謝致しております。



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