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マリオ・デル・モナコ先生と私

199210月記)

1961年,『NHKのイタリア・オペラ』のテレビの画面から飛出してきたマリオ・デル・モナコさんの歌われる「道化師」のアリア“衣装をつけろ”は,当時,アインシュタイン,エジソンに憧れ.東京工業大学の門をくぐっていた,『歌大嫌い,オペラなんて特に大嫌い人間の私』を,すっかり圧倒してしまいました.

小学校,中学校,高枝時代の私には,学校に行っても野球,家に帰ってきても野球しか,頭の中に無く,“歌なんて男のやるものでない!特にオペラなんて気持ちが悪い!”と,思っていました.全くのバンカラでもありました.

音楽の時問には,皆と一緒にガナリ声をハリ上げ,先生に怒られてばかりいました.

でも,歌の試験になると,何故か今までの自分の声と全く違った声で軟っている自分が不思議でした,高い音も苦も無く出ました,それに,声はやたらに大きな声でした.

ですから,デル・モナコさんの歌には,“これぞ男!”と,腰を抜かす程圧倒されながらも,自分もデル・モナコさんのように歌いたいと,そして歌えるのだ!と,厚かましくも思ってしまいました。
(この時のデル・モナコさんの歌唱をつぎのYouTubeで視聴可能です「Mario Del Monaco - Vesti la giubba - Il Pagliacci 衣装をつけろ 1961」)


 そして,その思いを実現したく,大学のお近くにお住いの,イタリアの指揮者ガエタノ・
コメリ先生に,楽譜の書き方を初め,音楽.歌を教えて戴きました.

でも,コメリ先生は,“音楽の世界,特に歌の世界には,入るのではないですよ.”と論されていました.

で,“月の世界は,遠くから見ている方が美しいのだなあ!”と……

 

しかし,1978年の夏,本屋で立ち読みしてた雑誌(音楽の友?)に,デル・モナコ先生の声楽講座に中川牧三先生が引率して下ださる旨の広告が出ていました,で,早速,中川先生に御願いしました.

当時は,日立製作所の半導休関係のエンジニアをしていましたので,イタリアに行く為の休暇が貰えるか心配でした,貰えなかったら,辞職してでも行こうと思ってました.

でも,無事,休暇は貰えました.

講座では,憧れのデル・モナコ先生の“誰か歌う者は?”との声に,真先に飛出して,あの“衣装をつけろ”を,憶面も無く歌ったのでした.

講座終了時に,デル・モナコ先生は,“教えてやるから,イタリアに残れ!”と,おっしやって下さいました。
(次の写真は、デル・モナコ先生が”Tu rimani in Itaria”とおっしゃって下さった講座終了書授与の際の写真です)

 “イタリアに残れ!”とデル・モナコ先生

「衣装を付けろ」のレッスン

   

 
でも,そうしたら,生活費は,今後どうしたら良いのか等と,色々心配でした,又,中川先生が.“イタリア人は御世辞が旨いから,真に受けてはいけないよ,さあ,一緒に帰りましょう.”と助言して下ださった事もあり,帰国してしまいました.

79年,80年と,同じ事を繰返しました.

 

でも,1981年の夏は,ヴェネチア近郊のトレヴィーソのデル・モナコ先生の御屋敷の門を一人くぐり,個人的に教えて戴きました,そして,“宇佐美,今度はいつ来る?”とおっしゃるデル,モナコ先生に,“マエストロ,又,来年の夏に来ます.”“遅い!”とのマエストロの一言に.“では,今年の冬に来ます.”と、答えました。
(この時のレッスンの最後に、歌劇「オテロ」の最後の場面”オテロの死”を歌わせて頂いた様子(音声のみ)を次のYouTubeでお聴き下さい)

 Niun mi temaオテロの死

81(〜82)年の冬,マエストロは.御入院中の奥様の御容態が悪化した為,レッスンを一時中断されましたが,奥様の御病気が癌でないと判明した後は.以前に増して熱心に,指導して下ださり,急激に進歩する事が出来ました.

今こそ会社を辞めて,マエストロの下にとどまり,この進歩をより大きな物,確かな物にすべきと思い,会社に電話しました,

“懲戒免職でもなんでも良いですから辞転さきせて下さい!”“まあ,そう言わず今回は,私の顔を立てて.帰って来いよ!”との上司の言葉でした,当時の上司の立場は,色々な面でとても苦しい立場でしたので,その上,私の事で迷惑を掛けては悪いなと,浪速節的な思いで,熱心に教えて下ださっていたマエストロと別れ,帰国してしまいました。
(この時、デル・モナコ先生のお屋敷を後にする直前に、私の憧れの歌”衣装を付けろ”をデル・モナコ先生のご指導で、歌わせて頂きましたので、様子(音声のみ)を次のYouTubeでお聴き下さい)

 デル・モナコ先生のレッスン(19822月)に於ける”衣装を付けろ”

歌い終わった後で、デル・モナコ先生が“(宇佐美の才能を)パッサリアーノの時から感じていた……”とおっしゃって下さいましたが、この「パッサリアーノ」とは、私が最初にデル・モナコ先生にお会し、私のつたない歌をお聞き下さった「デル・モナコ夏期講習会」が開かれた場所です。

ですから、その「終了証書授与式」(冒頭の写真)でのデル・モナコ先生の“宇佐美イタリアに残れ!”は、お世辞ではなくデル・モナコ先生のご本心からの言葉だったと解釈できます。

 従って、中川先生の“イタリア人は御世辞が旨いから,真に受けてはいけないよ,さあ,一緒に帰りましょう。”の助言を振り切りイタリアに残り、或いは、浪速節的な思いも捨て去り、デル・モナコ先生のお宅での居候を続けさせて頂いていたら、私の運命はどう変わっていたのかしら?と思ってしまうのです。


後日,友達から聞いた話では,毎日マエストロは.病院に奥様を御見舞する度に,“今日は,宇佐美は,ここまで進歩した.”と,嬉しそうに奥様に報告されていたとの事でした.そんな,マエストロを後に帰国してしまった事がとても悲しく思えてなりません

 

 流行歌「人生劇場」では“義理と人情のこの世界”と謳われますが、この録音でのデル・モナコ先生の“温情”溢れるお声を聴くたびに、“義理”を果たしたつもりで帰国した私は、大事な“人情”を蔑ろにしてしまったことに気が付き、慙愧の念に耐えられない思いで胸が張り裂けそうになります


 82年の夏,会社を辞めて,マエストロの下に飛込んだ時には.半年前に,あんなにも進歩して
いた私の声は、すっかり無くなっていました.

(日本での半年間で,私の声は自分一人一生懸命勉強し,マエストロがびっくりされる程に進歩したと一人合点しつつ意気揚々と.マエストロの門をくぐったのでしたが,自分勝手の練習で,全く自己流の声にしてしまっていたのでした.)

暫くして,半年前以上の声が出始めた時に,マエストロは.お腹の具合が悪くなられ,入院され,10月16日に天国へと旅立たれてしまわれました。
(その半年前以上の声が出始めた時の様子(音声のみ)を次のYouTubeでお聴き下さい)

 衣装を付けろの一部(sei tu forse un umo?

その後.暫くは,マエストロの奥様に教えて載き,“私の夫は,天国でいつも,お前の声を聞いていて,お前の事を守っていてくれるよ.”とも励まして下さいました。

(なにしろ、デル・モナコ先生は、私が舞台に立つ事を期待して下さり、教えて下さり、“宇佐美は、舞台に立ってもサマになる!”ともおっしゃり、 “次なるカニオの宇佐美へ”、“宇佐美の大好きなオペラ・オテッロが早く歌えるようになるように!”、“オテッロ歌いの才能を持つ宇佐美へ”とのサインも下ださっておられたのですから。)

(次のYouTubeの音声は、デル・モナコ先生のご葬儀の後も残って奥様に教えを受けていた、外国の若い歌手たちの前、そして、日本に帰る前の発声練習等の様子です)

 la speranza&vincero(アリアの高音(ドやシ)部分)

 そして帰国後は私の歌を録音したテープを送ると,“宇佐美,いつもいつも勉強だよ!”と激励して下ださった奥様も,昨年マエストロのもとへと,旅立たれてしまわれました.

しかし.この数年(特に,この1年)「どの声が良いのか」が,はっきりと,分って来て,自分自身の声が,格段の進歩を遂げる事が出来ました.

そして,今も,日一日と進歩を続けております.

あたかも,マエストロ御夫妻が.天国で見守っていて下ださるが如くに.


 YouTubeへ動画アップロードしましたので 曲名をクリックしてお聴き下さい

独唱会(19945月)より
 オペラアリア  オテロの登場  衣装を付けろ 女心の歌  哀れなる父の胸は    La dolcissima effigie  L'anima ho stanca  
 イタリア民謡  オ・ソレ・ミオ  カタリ・カタ  忘れな草  サンタ・ルチア  フニクリ・フニクラ  マッティナータ  孤独
 トスティ歌曲  夕べに 今ひとたび  死にたいな         
 日本の歌  月の砂漠  リンゴ追分  人生劇場  鉾を収めて      


 2018523  これらを録画をした際の、その翌日は、 明星大学にて、・・・
 流行歌  人生劇場   

湯の町エレジー

影を慕いて  男の純情    人生の並木道 悲しい酒  東京ラプソディー  高原列車は行く  蘇州夜曲   遠くへ行きたい 白いブランコ   誰もいない海 昴(スバル) 
日本の歌  浜千鳥   宵待草  故郷(ふるさと

花嫁人形

 
月の沙漠 


       201852
 日本歌曲 浜辺の歌  赤とんぼ  七つの子  朧月夜  早春譜  夏の思い出  花の街 
 流行歌  湯の町エレジー  人生の並木道  男の純情 白いブランコ  昴(スバル) 
サンタルチア 君の微笑み(歌劇「トロバトーレ」から)  星は輝き(歌劇「トスカ」より) 

2018年4月18日        
日本歌曲     荒城の月 この道  からたちの花  中国地方の子守歌  平城山  砂山  出船   初恋
流行歌  影を慕いて  人生劇場  東京ブギウギ 

シクラメンのかおり 

昴(スバル 

 イタリア民謡  ’O sole mio (私の太陽)

Core ngarato  (カタリ・カタリ) 



これらの歌全て(一般的には「クラシック音楽」といわれる「日本歌曲」も、現在では「ハンドマイク」口に当てつつ歌う「流行歌」も「イタリア民謡」もオペラのアリアも)同じ発声法(デル・モナコ先生に教えて頂いた“歌うときは話すように、話す時は歌うように”)に従って歌っております。

この件に関しては「日本の歌を歌う為の、日本独自の発声は、全く不要! のページをご参照下さい。


トスティ歌曲(歌と訳詞:宇佐美保)  2018225日)
 Malia 魔法  L'ultima canzone最後の歌  Non t'amo piu お前なんかもう! Ideale  理想

日本の歌   2018225日)     

 浜千鳥  宵待ち草  故郷 月の砂漠   花嫁人形 人生劇場  リンゴ追分  悲しい酒 

ロシア民謡  2018318日)

私自身で、ロシア語の歌詞に直接当たり、20曲ほどの訳詩を作成し、
多くの方々が聞き馴染んでおられるロシア民謡の世界とは全く異なる世界を歌っております。

是非ともお聴き下さい。

 ステンカラージン トロイカ  ヴォルガの船曳  果てしなき荒野  仕事の歌 



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