雨ニモマケズに逆行する日本
2015年3月25日
宇佐美 保
『雨ニモマケズ』に書き残された宮沢賢治の思いとは、全く、逆の方向に進んでいる日本の現状に唖然としています。
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ |
と宮沢賢治は書かれておりますが、この意味は「いかなる場合に於いても、損得など全ての面で自分を度外視して、物事に対する判断すべし」の筈です。
ところが今の閣僚、政治家たちはどうでしょう!?
お金!お金、利権!利権、自分の大臣の椅子、議員としての議席等々、自分中心の勘定ばかりです。
特に、自国の勘定最優先で、「国益」との旗を振れば、全てが罷り通ってしまいます。
恥ずかしいことです。
(勿論、「自分を勘定に入れず」を率先垂範されている方も居ます。
下村博文文部科学相に至っては、金や利権、大臣の椅子に醜くしがみついていても、そんな自分を勘定に入れずに“道徳教育が必要”とのたまうのですから、大したお方です、驚き呆れます)
更に、後半の部分です。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ |
ここでは、宮沢賢治は、他人と助け合って生きて行くことの大切さを訴えておられます。
ところが、累進課税の強化(以前の状態に戻す)は、“仕事への意欲を奪うことになる”との屁理屈をつけ実施せず、その上、更に税金を逃れて、多くの金持は、「タックスヘイブン」にお金を寄港させ、稼いだお金で他人を助けることには無頓着なようです。
かつて、作家の松本清張氏は、“原稿用紙いっぱいに書いても、自分の取り分は、最後の2〜3行だけだ”と語りつつ、多くの傑作を書き残されたそうです。
お金持ちがどんなに儲けたとしても、その稼いだ金の入ってくる道筋を追えば、自分の力だけで、多額の金銭が自分の懐に入ってきたのではないことが分かります。
清張さんにしても、出版社のおかげ、そして最終的には読者のおかげです。
ですから、どんなに税金を取られても、次々と創作に立ち向かわれたのでしょう。
但し、私は、清張さんの作品が映像化され、その映像が再放送されていても、犯人となる女性が、悲しい結末を迎えるのを見るのが辛いので、録画しても見ることは殆どありません。
(罪を犯さざるを得なかった悲劇を通して清張さんは社会的な問題抉り出しているのでしょう)
今なお、福島の方々が、原発の被害で今も苦しんでいる状態なのに、名前を書くのも悍ましい我が国の何某は、“福島原発は、アンダーコントロール状態である”と世界に宣言(虚偽宣言)し東京オリンピックを推し進めます。
更に酷いのは、その何某は“世界のどこかで、戦争が起これば、武力を行使して解決する”との態度を取り始めました。
この態度は、宮沢賢治の「北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」とは全く異なります。
この宮沢賢治の世界は、今までの日本の姿でしょう。
そして、宮沢賢治は、最後に
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ |
と書き残してくれています。
“湾岸戦争の際には、金だけ出して、兵を出さなかった”、“安保ただ乗り論”だの“日本がこれまで平和であったのは、米国の核の傘の下にあったからだ”と世界中から、どんなに「デクノボート」と非難されようと、私は、日本も宮沢賢治の言葉を守り通せば良いのだと思います。
どだい、「湾岸戦争」など言わずもがな、戦争などに正義がありますか!?
空から無差別に(狙いは定めているといいつつも)爆弾を落とし、多くの家族の家や命を奪いながら、テロは残虐行為だと喚きますが、どちらもどっちでしょう!
日本が武器を携えて、宣戦したら好結果を生んだような戦争がありましたか!?(戦争に加担して、尊敬される国となれますか?)
日本が今まで平和な国であったのは、米国に守られていたからでしょうか?
今のアラブ世界の悲劇は、武器で(それも、日本までも武器を持って参戦して!)解決しますか!?
(文末の 「補足:1」 もご参照下さい)
戦争など全て「北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」の世界ではありませんか!?
参戦しない日本だからこそ、「ツマラナイカラヤメロトイヒ」仲介役も引き受けることが可能だった筈です。
その資格を日本はこれまで十分とは言えずとも行使し、尊敬もされて居た筈なのに、何某はその資格をドブに捨ててしまうのです。
その上、戦争の手段である武器の輸出の営業活動を、我が国の何某は、率先実行しているのですから、呆れて、腸(ハラワタ)が煮えくり返ってしまいます。
日本での生活が、世界に比べて比較的安全なのは、私達が武器を携帯していないからではありませんか!?
“平和にタダ乗りしている、デクノボー!”と非難されようと、「不軽菩薩」のように、“武器を持たず、戦争せずとも、平和になれます”と世界に発信し続ければよいのでしょう。
(この件(「不軽菩薩」の件)に関しては、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》をお訪ね下さい)
更に、
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ |
に関しては、例の何某は、マスコミ人らを侍らせて豪勢な食事を振舞い、又、副総理は、政治資金を使用して、会合と称し連日の如く贅沢三昧に耽っておられるようです。
(この件は拙文《中村修二教授と報奨金》を御参照下さい)
(私は「一日に玄米1合と、納豆とキムチを食べ」で殆ど済ませております)
しかし、私が尊敬し、少しでも見習いたいと念じている宮沢賢治でも「常不軽菩薩」程の悟りを得ることは出来なかったのでしょう。
大正九年十二月二日の保坂嘉内(宮沢賢治の友人)宛の手紙には、賢治は次のようにも書いているのです。
今度私は 国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は 日蓮聖人の御物です。従って今や私は 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。 あまり突然で一寸びっくりなさったでせう。私は田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いてゐません。唯二十五分丈昨年聞きました。お訪ねした事も手紙を差し上げた事もありません。今度も本部事務所へ願ひ出て直ぐ許された迄であなたにはあまりあっけなく見えるかも知れません。然し日蓮聖人は妙法蓮華経の法体であらせられ 田中先生は少くとも四十年来日蓮聖人と 心の上でお離れになった事がないのです。 これは決して決して間違ひありません。 即ち田中先生に妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。…… |
そして、この頃、「世界最終戦争論」を展開し、関東軍参謀として「満州国」樹立に力を注いだ石原莞爾や、血盟団事件の井上日召も同じころに、この国柱会に入会しているのです。
この手紙を書いた宮沢賢治が、現時点で若者であったら、オーム真理教に帰依しかねない有様です。
更には次の手紙です。
実に病弱私のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が全くの子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐へてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。……既に熱河錦州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこのご一年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。……どうかいろいろ心身ご堅固に祖国の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかったといはれる此の度の激しい御奉公を完成せられるやう祈りあげます。 (昭和八年八月三十日、伊藤与蔵宛。三十七歳、肺結核で病臥中) |
そして、この「万里長城に日章旗が翻へる」、「熱河錦州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐる」との状態こそが田中智学が造語した「八紘一宇」の具現過程であると存じます。
そして、宮沢賢治ほどの方でも容易に、時の流れに影響を受けてしまうということでしょう。
ですから、戦時中の残虐行為、慰安婦問題はなかったと公言される方は、余程の人格者であろうと思わざるを得ません。
そのような方々に比べ、私などは、いとも簡単に軍国少年になり、もっと戦争が長引いていたら兵隊となり「八紘一宇」の具現の為と称し、虐殺行為も辞さなかったでしょうし、中曽根元首相の尽力に感謝しつつ(「補足:2」を御参照下さい)慰安婦の方への人権問題など思いもよらなかったと存じます。
家にあった戦闘機がレーベルに印刷されている「愛国行進曲」や、「青葉茂れる桜井の・・・」とかのSPレコードよく聞いていたものです。
当然、冒頭に掲げました「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
宮沢賢治も今ご存命なら、当時の言行を恥じ入り、近隣諸国への謝罪の行脚を続けておられたと思わざるを得ません。
(補足:1)”わが軍”とほざき、日本を戦争する国としたら、国内に原発を50基も抱え込み、その上、六ヶ所村の核燃料再生工場まで有していているこの国をどうやって守るのですか!?
米軍が守るというのですか!?
何故、こんな何某が居座り続けるのでしょうか!?
その上この何某の補佐役(?)は”普天間は世界一危険な空港だから、一刻も早く辺野古への移設が必要”とほざきますが、だったら、辺野古云々の前に普天間の機能を一刻も早く、今日にも、明日にも、日本各地の基地に分散移転するのが先決ではありませんか!?
(補足:2)中曽根元首相が慰安所設立に尽力
「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」には、次のような記述を見ます。
『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。は、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章(タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」)次のような一文を寄稿しているとのことです。 当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」 2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。
いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。
国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。…… |
(補足:3)平和憲法と理想
自らを「テレビに出して貰えない芸人」と称される松元ヒロ氏の「平和憲法」は素晴らしい舞台でした。
彼は次のように語るのです。
人は、「理想」を高く掲げ、その「理想」に近づこうと努力するものです。 ところが、この国は、その「理想」が「現実」に即していないと言って、逆に、「理想」を「現実」へと引き摺り下ろしてしまうのです。 |
勿論、ここでの「理想」は、「平和憲法」であり、「現実」は、「武器を持って戦う国」です。
それから、暗黒街のボスのような服装の「副総理」を「服総理」と揶揄していました。
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