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敬愛するマイケル・ファラデー(1

ファラデーの生い立ち

201116

宇佐美 保

 ファラデー(実験科学の時代)小山慶太著(講談社学術文庫)』を一読しますと、どなたも200年ほど前の1791922日にロンドン近郊のニューイントン・バッツで鍛冶屋を営む家庭の二男として生まれた偉大なる科学者マイケル・ファラデーが大好きになるのではないでしょうか?

勿論、私もファラデーが大好きになりました。

 

 なにしろ、ファラデーに11年遅れ181227日に生まれた英国の著名な作家チャールズ・ディケンズの小説『大いなる遺産』の主人公フィリップ(通称:ピップ)は、姉の嫁ぎ先の鍛冶屋で育てられ、後年ロンドンに出ての生活が始まるのですから、何処か境遇が似通っており、『大いなる遺産』の映画に出てくるロンドンの風景がファラデー活躍の場のように思えてきたりするのです。

 

 しかし、小説での『大いなる遺産』は主人公ピップだけ(若しかしたら、素敵なエステラもその恩恵に与ったかも)に残されますが、ファラデーの『大いなる遺産』は私達人類すべてに今も残されております。

 (それら、ファラデーの業績(人生共々)は、フリー百科事典ウィキペディアに見る事が出来ます

 

しかし、鍛冶屋の二男に生まれたファラデーが、何故、後世に偉大なる名も実も残す事が出来たのでしょうか?

 

この辺の事情をファラデー(実験科学の時代)小山慶太著』から、抜粋させて頂きます。

 

 

ニューイントン・バッツで生まれたファラデーは、五歳のとき一家でロンドン市内に移ってきた。それでも、貧しい鍛冶屋の家族の生活は、いっこうに楽にならなかった。一八〇一年には、生活保護の申し立てをしなければならないほどであった。

 これではとても、学校に通って勉強をつづける余裕など、あるはずもない。一家は、なんとか食べていくのが、精一杯だったのである。

時はあたかも産業革命の最中、地方から都市へ人口が流入する時代であった。急激に人口が膨れ上がった都市──とりわけ、ロンドン──は、それだけの人々の生活を支えるだけの基盤はまだできあがってはいなかった。したがって、産業革命という一面の華やかさとは裏腹に、庶民の生活はきわめて厳しい状況の中にあったのである。

貧困が蔓延する社会であった。

 そこで、ファラデーは十三歳にすぎない少年のころから、製本屋の配達人として働き始め、家計を支える一員となったのである。とても、勉強どころではなかった。

 ファラデーを雇い入れたのは、リボーというフランス人の腕のよい製本職人であった。

 

なお、製本と聞くと、現代の我々は、何千部何万部単位で出版される今日の書物の製作工程を思い浮かべるが、ファラデーの時代の製本職人というのは、それとはだいぶ趣が異なる。自分の好きな本に、モロッコ革の表紙をあしらい、そこに独自のデザインを施し、金箔で書名を打刻するのである。つまり、自分だけが持つ美しい本をつくる趣味が、一部の裕福な人々の間に流行していた。それは、いわば一種の工芸作品といえる。こうしてできあがった書物を、ファラデーはお得意先に配達する仕事をしていたのである。

 

 

 このように、当時の製本業が今の製本業とは異なっていた為、ファラデーの製本技術が後年彼に幸運を呼び込んだようでした。

 

 

 リボーのもとに雇われた翌年(一八〇五年)、ファラデーは配達人から製本の徒弟へと昇格″した。ここで技術を習得すれば、将来はその道で一人立ちするチャンスが開けるのである。そうなれば、家計も楽になり、親孝行もできると、ファラデーの夢は膨らんでいった。

 夢の実現に向け、ファラデーは仕事に精を出した。真面目で素直な人柄がリボ一に気に入られ、可愛がられたことも手伝って、ファラデーは製本職人としての腕を上げていった。このまま順調にいけば、ファラデーはリボーの後を継ぎ、この業界で名を成していたかもしれない。

 ところが、生来の勉強好きから、仕事の合間を見つけては、読書にものめり込むよぅになった。なにしろ、職場が職場であるから、読む本には事欠かない。さまざまなジャンルが揃っているからである。なかでも、とりわけ科学書に、ファラデーは関心をもつようになった。仕事場の片隅での独学が、こうして始まったのである。そこが、正規の教育を受けられなかった少年の、たった一人の学校″でもあった。

 というわけで、製本技術の習得と科学の独学を糧に成長したファラデーに、人生の転機が訪れたのは、二十一歳になった一八一二年のことである。

 もうこのころのファラデーは、一人前の職人としてやっていけるだけの腕を身につけていたが、同時に科学への関心もやみ難いものとなっていた。そんな折、仕事で手がけていた『ブリタニカ百科事典』の頁をめくつたのである。すると、そこには、動物電気の説明が書かれてあった。カエルの脚がぴくぴく動くという例の話である。ガルヴァーニやヴオルタの実験は、すでに別の書物を通して知ってはいたが、それはファラデーにとって、いつ読んでもわくわくするほどおもしろいものであった。

 

 

 このような学校にも行けずたった一人で本に向き合って学問に打ち込むファラデーの姿が、電車の中、更には歩きながらでも、ゲームに或いはメール等に熱中して携帯電話と一体化している多くの日本人の姿と余りに乖離している事に、改めて驚かされます。

(せめて、日本人の多くの方が電子書籍の虜にでもなってくれたら?!)

 

 いつしか、ファラデーは、製本よりもこうした科学の実験を自分でも行ってみたいと思うようになっていた。そして、ファラデーの気持を決定づけたのが、この年の二月二十九日から王立研究所で始まったデイヴィーの一連の講演であった。

 この講演の入場券を、ファラデーはリボーの客の一人であったダンスという人物から貰うのである。書物を通してではなく、目の前で、今をときめく化学者デイヴィーの実験をじかに見られる幸運が訪れた。おそらく、ファラデーにとっては、天にも昇る思いであったろう。

 一八一二年二月二十九日、ファラデーはまもなく生涯を過ごすことになる王立研究所に初めて足を踏み入れ、師となるデイヴィーと出会うのである。それは、製本職人ではなく科学者の道を選ぶ人生の分岐点でもあった

 

 

 勿論、当時のロンドン市民に限らず、今の日本人でも、マスコミに大々的に取り上げられるノーベル賞受賞者等の講演会などには列をなして押しかけるようです。

(なのに、私の『コロンブスの電磁気学』が何故無視されるのか!と切歯扼腕しています)

 

 

 では、やがては、ファラデーの師となるデイヴィーの王立研究所での講演の様子はいかがだったのでしょうか?

 

 

 

 デイヴィーの説明はきわめてわかりやすく、ときに詩的な表現を織りまぜ、聴衆を魅了したようである。・・・その評判はますます高まり、デイヴィーの講演の日は、研究所の講堂が常に満席になったという。聴衆の中には、美しく着飾った婦人たちの姿も、少なからず見られた。彼女たちも、若い美男教授──残された肖像画を見ても、デイヴィーは、科学者にしておくのはもったいないくらいの美男子であることがわかる──の魅力あふれる講義に、うっとり聴き入ったのである。

 

 

 では研究面での業績はと申しますと、次のように記述されておられます。

 

 

 一方、研究においても、電気分解による元素の単離という新しい分野で、デイヴィーはめざましい活躍をした。さきほど触れたように、一八〇〇年、ヴオルタの電池の発明がロンドン王立協会の雑誌に掲載されると、これを用いて、ニコルソンが水の電気分解を発見した。

 その翌年、王立研究所に採用されたデイヴィーも、独自に大規模な電池の組み立てに取り組んでいる。その成果は、一八〇六年、イギリスと戦争中であった敵国フランスのナポレオンから賞を授けられるほど、きわだったものであった。

 歴史上の英雄は、程度の差こそあれ、ほぼ例外なく毀誉褒貶がつきまとうものであり、ナポレオンもその光と陰のコントラストは最たるものがある。ただ、間違いなく評価できることは、科学に対し強い関心を抱き、総じて、科学者を厚遇した姿勢である。大数学者ラプラスを内務大臣に登用したのも、その一例であろう。そして、デイヴィーへの授賞も、ナポレオンの意外に知られざる寛大な一面を表わしている。

 たとえ戦闘状態にあっても、「科学に国境はない」という崇高な思想を、ナボレオンはまさに実践したわけである (そのナポレオンを、ファラデーは後にパリで一瞥する機会を得る。デイヴィーの助手として、大陸旅行を行う最中に起きた偶然であったのだが)。

 さて、ナポレオンから賞を受けた翌一八〇七年、デイヴィーは、カセイカリ(水酸化カリウム)の電気分解を行い、陰極に金属カリウムを析出させた。こうして、アルカリ金属元素の第一号が単離されたのである。さらに、その数日後、同様の手法でナトリウムを発見している。

 年が明けて一八〇八年に入っても、デイヴィーは電気分解を駆使し、マグネシウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウムをたてつづけに発見、元素の研究は、デイヴィーの独壇場の様相を呈するに至った。

 今日、元素は水素から始まってローレンシウムまで百三種類が知られているが、そのうちの少なくとも六種を、デイヴィーは一人で発見したのである (このほかにも、他の化学者と同時発見した元素は二つ(ヨウ素、ホウ素)かぞえられる)。おそらく、この数は、歴史上の化学者の中での最多記録であろう。

 これだけの業績を収めると、いやがうえにも、世俗の栄誉がつきまとう。一八一二年にはナイトに叙せられ、一八一八年、準男爵となり、一八二〇年にはロンドン王立協会の会長へと、栄達の階段をデイヴィーは昇りつめるのである。

 

 

 このような時代の寵児たるデイヴィーにファラデーは運命的な出会いをされたとの事です。

 

 

 デイヴィーがナイトに叙せられた一八一二年、ファラデーはこの天才化学者と、運命的な出会いをする。製本職人リボーの顧客であったダンスから王立研究所の公開講座の券をもらったファラデーは、興奮した面持ちでデイヴィーの登壇を待っていた。

  テープレコーダーもビデオもない時代のこと、一言半句も聞き漏すまいという思いで、ファラデーは公開講座に出かけたのである。

 その日行われたデイヴィーの実験は、大掛かりな電池を用いて行った電気分解のデモンストレーションであった。話に聞いていた歴史上の大発見が、ファラデーの目の前で、デイヴィー自身によって再現されたのである。ファラデーは、おそらく、夢見心地であったものと思われる。

 いや、それでも、ファラデーはただうっとりとデイヴィーの話に聞き惚れていたわけではない。実験をスケッチし、講演の内容を詳しくノートにとっていったのである。こんなチャンスは、そう滅多にはまわってこないと思ったのであろう。ファラデーは、必死にペンを走らせた。

 公開講座が終了した後、デイヴィーの講演に満足した多くの人々が、王立研究所の建物をあとにした。その中で、人込みに押されながら、講演を記録したノートを大事そうに抱え、興奮醒めやらぬ思いで、家路につく若きファラデーの姿が目に浮かぶようである。

 

 

 NHKのテレビ放送などで有名人の講演等が映されると会場で熱心にメモを取っておられる方々が何人も居られる事に気が付きます。

しかし、そのメモはファラデーほどのメモ程ではないと思うのですが、いかがでしょうか?!

 

 更には、ファラデーは自分の思いを自分の中に押し込めてはいなかったのです。

 

 

 こうして、図らずも実現したデイヴィーとの邂逅は、製本職人として一人立ちする寸前のファラデーの心に、科学に対する、もはや消すことのできない情熱の火をつけた。その火は、日を追うごとに、激しく燃え上がったのである。

 なんとかして科学者への道を歩み出す方法はないものか、その方策を求めて、ファラデーは悩みつづけた。そして、ついに思い余った果て、こともあろうに、王立協会会長のバンクス卿に直訴″に及ぶのである。穏やかで慎み深いファラデーの人柄からは、ちょっと想像のつかない行動であった。

 ま、それほどまでに、科学に対する思いの丈が強かったのであろう。

 

 リボーの店で配達の仕事をしていた経験から、ファラデーはロンドンの地理に通暁していた。主だった人々の住所も、頭に入っていた。

 そこで、ファラデーは、自分の思いを切々と綴った手紙を、ソーホー地区にあったバンクスの屋敷 ── 1799年、王立研究所の設立集会が開かれた場所 ── に届けたのである。

・・・

 それにしても、バンクスは、あまりに大物すぎた。冷静に考えれば、製本屋の見習い職人が手紙を書くなど、畏れ多いほどの人物だったのである (逆にいえば、ファラデーはそれだけ冷静さを失っていたのであろう)。・・・案の定、バンクスから返事はこなかった。

 バンクスは若手科学者の育成にも力を入れていたことが知られているが、さすがに、面識もない製本屋の見習い職人にまでは目が届かなかったのであろう。
・・・

案の定、バンクスから返事はこなかった。

 

 

 “ファラデーはそれだけ冷静さを失っていたのであろう”との著者小山氏の推測には私は同調できません。

私には、それだけファラデーの思いが強かったのだと思えてなりません。

そして、そのファラデーの強い思いにこそ救いの手が差し出されるのです。

 

 

 こうして、結局は製本職人として生きていくしかないと決心しかけ、科学への道を諦めかけたとき、ファラデーの人生に思いがけない転機が訪れた。それも、やや皮肉なことに、製本職人としての腕前が転機をもたらしたのである。人生は、何がどう幸いするかわからない。

 バンクスからの返事をもらえず ── ま、もらえるはずもなかったのだが──落胆していたファラデーに、以前、公開講座の券をくれたダンスが、いっそのことデイヴィ一に手紙を書いてみたらどうかと、助言をしてくれた。しかし、ただ手紙を書いただけでは、バンクスに訴えかけたときと同じ結果に終わってしまう心配がある。そこで、ファラデーはひとつの策を練った。

 一言半句も聞き漏すまいとノートしたデイヴィーの講演録を清書し、きれいに製本して手紙と一緒に送り届けようというわけである。ファラデーにとって、製本はお手のものであった。また、詳しく記録され製本までされた自分の講演内容は、デイヴィ一にとっても貴重なものであろうし、それだけ強い印象を与えるはずである。



 ファラデーに助言をくださる事も素敵なのですが、その助言を実行する行動力が小山氏の「芸は身を助ける」記述となります。

 はたして、ファラデーの策は功を奏したのである。まさに、「芸は身を助ける」という諺を地でいくような展開となった。

一日千秋の思いで返事を待っていたファラデーのもとに、一八一二年十二月二十四日の日付で、デイヴィーから手紙が届けられた。それには、ノートを通してファラデーの熱意を真摯に受けとめたことと、近々、会いたいというメッセージが認められてあった。ファラデーにとっては、このうえないクリスマスプレゼント≠ニなった。

 年が明けて一八一三年一月、ファラデーはついに王立研究所に呼ばれ、デイヴィーとの面会が実現したのである。そして、幸運にも、実験助手に突然空席ができたため、その年の三月、ファラデーが後任に採用されることになった。週給は二十五シリング、加えて研究所の屋根裏に居住用の二部屋が提供されるという条件である。

 こうして、製本したノートがきっかけとなり、話はとんとん拍子に進んだ。おそらく、給料は職人時代よりも低い額だったものと思われるが、そんなことより、科学の雰囲気に!それも、王立研究所でデイヴィーの助手としてーどっぶり浸れる境遇を得た喜びのほうが、はるかに大きかったであろう。

 それにしても、こう見てくると、製本職人であったことが、いかに幸いしたかがよくわかる。デイヴィーがノートに強い印象を受けなければ、二人の邂逅はなかったはずだからである。

 ただ、デイヴィーにとってファラデーは、あくまでも実験助手にすぎなかった。器具を洗ったり、実験室を掃除したり、公開講座の舞台装置を準備したりという、いってみれば、下働きの人手を必要としていたのである。もとより、一人前の科学者として扱ったわけではない。もちろん、ファラデーのほうも、とりあえずはどんな仕事であれ、デイヴィーのもとで働けるだけで満足だったであろう。

 ところが、手伝いをさせているうちに、デイヴィーはファラデーの非凡な才能を感じ取るようになる。飲み込みがはやく、要領さえ指示しておけば、ファラデーに実験をまかせることもできたからである。さらに、ファラデーは自分で実験方法を改良したり、装置を工夫するようにもなった。ファラデーは単なる下働きの域を超え、実験室の貴重な戦力となったのである。

 
 その後の研究面でのファラデーの活躍は小山氏の著作やフリー百科事典ウィキペディアの記述を御参考下さい。今はこのまま小山氏の引用を続けさせて頂きます。

 これは、デイヴィーにとって──表現は悪いが──拾い物をしたような思いだったであろう。しかし、当初はそうであっても、ファラデーが徐々に頭角をあらわし、科学者として一人立ちするようになるにつれデイヴィーの心境は複雑なものになっていく。スポットライトが自分から助手に移っていくことに、デイヴィーは心穏やかではいられなくなった。

 デイヴィーの心の中に、やがて、ファラデーに対する嫉妬が芽生えるのである。十年後、それは、王立協会を舞台にしたスキャンダルへと発展していくことになる。

 

 

 でも、人間関係は聖人関係ではないのですから、色々と問題は発生しましょう。

しかし、フリー百科事典ウィキペディアでの先のファラデーの項目での、次の記述は至言と存じます。

 

 

 デービーは私の最大の発見はファラデーであるという言葉を残している。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。

 

 

 一方ファラデーも、これまたフリー百科事典ウィキペディアから引用させて頂きますが、大いに教育に関与した事が窺われます。

 

1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった。

 

ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)、少年少女向きのクリスマス・レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。

 

 それでも、数々の発見をした偉大なファラデーですら、「第2のファラデー」を発見する事は出来なかったのですから、私もデイヴィーの言葉(私の最大の発見はファラデーである)に感動します。

 そして、ファラデーがクリスマス・レクチャーを行った背景には、「一日千秋の思いで返事を待っていたファラデーのもとに、一八一二年十二月二十四日の日付で、デイヴィーから手紙が届けられた」との先の小山氏の記述を思い浮かべるのです。

 ファラデーがデイヴィーから(まるでクリスマスプレゼントのように)授かった最初の恩恵を、ファラデーが授かったと同様に多くの市民に(クリスマスプレゼントとして)贈りたかったのでしょう。
そして、その行為からファラデーのデイヴィーへの不変の感謝を汲み取る事が出来るのです。

 

 

 以下は、次の≪敬愛するマイケル・ファラデー(2) ファラデーの無念≫に続けさせて頂きます。

 

 

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