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賞味期限切れの日本人(3)(週刊文春の堕落)

20071219

宇佐美 保

 先の《賞味期限切れの日本人(2)〈週刊文春と「赤福」の関係〉》に少し引用させて頂きました「週刊文春(2007.12.13号)」に於ける小林信彦氏のエッセイをもう少々引用させて頂きます。

 

ぼくは、連休がつらい。情報がまつたく遮断されてしまうからだ。

 情ない話だが、ぼくは大マスコミと呼ばれるものを、まったく信用していない。大新聞は飛ばし読み、というか、小情報をひろうだけである。本の広告とかね。

 これだけ騙され続けている日本の民衆が、テレビのワイドショーなるものに動かされ、煽られているのを観察していると、戦時中と同じだ、と思う

 政局、殺人、食品問題、とあれば、政局がぼくたちの生活に直結しているのは明らかなのです。

 たしかにショッキングな殺人が多く、こうなると、つい、そちらに目が行って、政局が二の次になるのがこわい。

 しかし、ミシュランがどうしたこうした、といえば、みんな、どっとミシュランヘ行ってしまう。そして、フランス人に和食がわかるか、とカッとなる。

 しかし、これでは、ミシュラン側の作戦にのったことになる。TBSラジオの「ストリーム」で小西克哉氏が喝破していた通り、これはブリヂストンに抜かれたミシュランのブランド確立作戦であり、シャツやらなにやらを日本人に売りつける土台構築なのです。

 だから、一切、無視すればいいのに、視聴率がとれそうだ、というので、どの局のワイドショーも取り上げる。呼ばれてきている〈電波芸者〉たちがひとこと述べる。

 ミシュランだけじゃない。殺人事件では犯人を予測して、あとで頭を下げる事態になる。新聞社のなんとかという肩書を持つ〈電波芸者〉シニアは「ねじれ国会は不健全」というが、ねじれているからこそ、防衛省の疑獄が明るみに出たんじゃないか!

 土、日がつらいのは、まともなラジオ放送、週刊誌がないことだ

土、日は、北朝鮮というか、中国なみというか、真実はなにも伝えられない。

 

 ここに書かれた「ぼくは大マスコミと呼ばれるものを、まったく信用していない・・・・・土、日がつらいのは、まともなラジオ放送、週刊誌がない」の前半は私も同感ですが、小林氏は、かつては「まともな・・・週刊誌(?)」週刊文春をその最良のCM顧客である「赤福」に対して、林真理子氏、徳岡孝夫氏と御一緒に、又、週刊文春のコラム(「新聞不信」)担当者:滝氏共々 “「赤福」支援応援大論文”を、週刊文春にて展開する事で、上記で非難している〈電波芸者〉たち同様な、〈週刊誌芸者〉に成り下がってしまわれたのです。

 

 更に、ここでは、小林氏は「ミシュランのブランド確立作戦」を非難されていますが、「赤福」や「吉兆」にしろ、「老舗の商売」ではなく「ブランド商売」ではありませんか!?

何故、この点で、「赤福」問題を論じなかったのでしょうか?

やはり、小林氏は〈週刊誌芸者〉に成り下がってしまったのでしょう。

 

 私は、毎週「週刊文春」購入していますが、エッセイ、コラムは、あまりに馬鹿らしい論旨が展開されているので、ほとんど眼を通しません。

 

 そんな中で、(私が見たと同じような)戦後の東京を見ておられる小林氏のエッセイは、勝手に親近感を抱き、読ませて頂いておりましたが、“小林氏!お前もか!”となってしまい、残念で溜まりません。

 

 それでも、小林氏の「新聞社のなんとかという肩書を持つ〈電波芸者〉シニアは「ねじれ国会は不健全」というが、ねじれているからこそ、防衛省の疑獄が明るみに出たんじゃないか!」指摘には同感です。

 

 「滝」、「翼」の署名がある「新聞不信」はもう随分前から読む事はやめていましたが、今回の「赤福偽装事件」の場合、何故か、私の眼に飛び込んできたのです。

そして、「週刊文春(2007.12.13号)」の「新聞不信(署名:滝)」には、次のような実に下品な記述があります。

 

 ・・・亭主が悪事を働けば女房も罰するのは、中国検察のする行為である。論説委員の中には女性もいるはずなのに「ちょっと待て、妻の逮捕は検察の勇み足じゃないか」と、疑問を呈する記事がない

「賄賂」と職務権限は、切っても切れない関係にある。ヨメハンは単に厚かましいだけだったかもしれない。そしてもし特捜部が世の中の厚かましいオバハンを片っ端から逮捕し始めたら、失礼ながら日本中の拘置所がたちまち満パイになるだろう。

 ただし守屋前次官の犯罪は、いまや政治化している。

自民党政権を倒しさえすれば、直ちに清廉潔白の政治が行なわれるような幻想が横行している。賄賂をもらうまでもなく、宴席に同席したかどうかで証人喚問せよと決議する異様な政治状況にある。

 守屋幸子を被告とする法廷を、検察は維持できるのか?

 万一、被告席の彼女が声を潜め「宮崎さんと特別な関係になってから、おねだりするようになりました。主人には内緒です」と言って泣いたら、アンタどうする? (滝)

 

 先ず、「自民党政権を倒しさえすれば、直ちに清廉潔白の政治が行なわれるような幻想が横行している」に関しては、滝氏は故意に曲解している感があります。

 私達は、民主党議員の多くが、元は自民党議員であったことを知っています。

ですから、悲しい事に彼らが政権を執ってもいつの日かは、今と同じ状態になるでしょう。

でも、「政権の交代」によって政権政党と官僚の長年の癒着がいくらかでも緩む事を私達国民が期待している事を「滝氏」は百も承知な筈です。

なにしろ、小林氏の「ねじれているからこそ、防衛省の疑獄が明るみに出たんじゃないか!」が、「政権交代」によって尚の事「疑獄が明るみに出たんじゃないか!」状態になるのではありませんか!?

 

 このような滝氏の「故意に曲解」は兎も角として、文末の「被告席の彼女が声を潜め「宮崎さんと特別な関係になってから、おねだりするようになりました。主人には内緒です」と言って泣いたら、アンタどうする?」との記述はあまりに下品です。

 

 守屋幸子氏が逮捕されたのは、「国策逮捕」ではありませんか!?

「何故、政治家が逮捕されないのだ!・・・との国民の怒りのガス抜き」の為に、検察は、他人の金(最終的には税金)を好き勝手に浪費していた守屋幸子氏を逮捕しただけで、法廷を維持する考えなど毛頭無かったはずです。

なのに、その守屋幸子氏に対する、「滝氏」の記述は「下品で失礼」です。

この滝氏の表現は「罪を憎んで人を憎まず」ではなく「人を憎んで罪を憎まず」です。

 

 こんな「滝氏」は、小林氏が非難する、ワイドショーに呼ばれてきている〈電波芸者〉たち以下です。

 

 そして、「週刊文春」では、このような「滝氏」がコラムの担当者ですから、林真理子氏程度の作家が、1000回以上もエッセイを書き続けている事が出来るのだ!と納得してしまうのです。

 

「週刊文春(2007.12.13号)」の林真理子氏のエッセイの一部を抜粋させて頂きます。

 

 防衛省前次官、守屋さんの奥さんまで逮捕されたので、世間の人はみんなびっくりしている。ふつう奥さんまで司直の手は伸びないそうだ。

 この奥さん、夫の地位を利用して、業者からゴルフや飲食の接待を受けていたという。絶対に許されるべきことではないが、新聞の「00県の農家出身。高校卒業後、防衛庁勤務」という文章がひっかかる。いかにも、田舎の高卒の女が、亭主が出世したばかりにいいめを見て、というニュアンスが読み取れるからだこれが「大臣令嬢、名門女子大卒。見合いで守屋氏と結婚」というのならば、世間の見方も多少違っていたような気がする。なにしろこの国の人々は、「亭主の力をカサに着る女」を激しく嫌うからである。

 

 林真理子氏の感性は、テレビの前で「小泉劇場」に酔いしれ、再演の夢を捨てきらずにいる女性、週刊文春を購入する女性の感性にぴったり適合しているのでしょう。

なにしろ、「創:2008.1号」には、“週刊文春の女性読者の比率は、いまや5割前後にのぼる”と書かれているのですから!

だからこそ、「週刊文春」は、林真理子氏を絶対に手放せないのだと存じます。

しかし、私は、林氏の感性を拒絶します。

 

 私は、林氏のように「「00県の農家出身。高校卒業後、防衛庁勤務」という文章がひっかかる。いかにも、田舎の高卒の女が、亭主が出世したばかりにいいめを見て、というニュアンスが読み取れるからだ」と思ったこともありません。

女性の出身や学歴職歴は、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。

(勿論、男性に対しても然りです!)

 

 

私は、林氏とは逆に、上級官僚の奥さんが「大臣令嬢」だったら、却って、政官の癒着を懸念してしまいます。

更に、林氏は次のように続けています。

 

 もう何年も前のことであるが、女友だちとオペラを見に行った折、ロビーでひとりの男性を紹介された。

00省事務次官の××さんよ」 そこへ彼の奥さんが近づいてきたので、次官は多少のミーハー気分を込め嬉しそうにこう言った。

「君、△△さんとハヤシマリコさんだよ」

 その時の奥さんの感じの悪さは今でもはっきり憶えている。鼻にもひっかけない、という感じで

私、ぜんぜん知りませんけど

 とのたまったのである。私もむっとしたけれども、私の友人△△さんはもっと怒った。彼女はその省の審議会委員を務めるいわば実力派の女である

「次官の奥さんぐらいで、自分のことをナニサマだと思ってんのよッ」

 あちこちで悪口を言いふらしたらしい

 

 如何ですか?!

次官の奥さんが、オペラを見に来ているのに、ロビーで突然オペラとは無関係とも思われる「林真理子氏やその省の審議会委員を務めるいわば実力派の女」を紹介されても面食らって、「私、ぜんぜん知りませんけど」と答弁しても非難に値する話しではありません。

逆に、「その省の審議会委員を務めるいわば実力派の女」がご立派な方ならば、ご自分が一歩引いて、その奥様に“私はいつもご主人に御世話になっており、大変感謝しているのです”とでも挨拶すべきではありませんか!?

 

 それなのに、「次官の奥さんぐらいで、自分のことをナニサマだと思ってんのよッ」

 あちこちで悪口を言いふらしたらしい。と、

 

 更に、林氏は次のように続けます。

 

いわば権力者の正妻と、権力を握った女との戦いである。どっちが勝ったかというと、それからしばらく後、パーティーでくだんの夫人が近づいてきて、私の友人に謝罪したという。

「このあいだはごめんなさいね。私、なんか勘違いしてて」

 きっと夫に怒られたのよと、私の友人は得意そうに言った

 

こんな事を平気で書く林氏の感性を、神経をいつものように私は疑うのです。

勿論、「その省の審議会委員を務めるいわば実力派の女」の品性を疑うのです。

そんな女性がどのような審議を日頃されて私達にどのような恩恵を与えてくれているのでしょうか!?

己の肩書きを偉ぶる人が、私は大嫌いです!

(勿論、私に肩書きがないからでもありますが)

 

 そして、林氏は、まだ奥さん方に対する愚論を続けていますが、週刊文春(2007.12.20号)のエッセイに移らせて頂きます。

 

 地下鉄が表参道に到着すると、どっと人がドアに向かう。開くやいなや外に出ようとするのだがうまくいかない。入り口に立っている若い男が踏んばっているからである。おまけにこの男の子の肩から下げているバッグが異様に大きい。ドアの半分まで達している。おかげで人の流れが止まってしまうのだ。

ねえ、ドアからいったん降りたらいかが。そうしないと人が出られないじゃないの

 という言葉を奥で呑み込む。今日び、若いコに注意したりすると、いったい何が起こるかわからないご時世である

「待て、ババア」

 とか言って追いつかれ、ナイフで刺されたらどうしよう。

「ハヤシマリコさん、地下鉄構内で口論の末、若い男に刺されて死亡」

 などという記事を思い浮かべてぞっとする。かくしてもの言わぬ人になっている私だ。

 

 林氏は、毎週「週刊文春」でエッセイを書き、又、小説を書き、いわば社会からお金を頂いている身分です。

だとしたら、林氏は社会的責任を感じ、自ら進んで若者に注意すべきです。

それが出来ないなら、週刊誌でエッセイなど書かないことです。

 

 更に林氏の記述を続けます。

 

 最近、酒井順子さんの書いた「黒いマナー」という本を読んでいたら、なるほどと思う箇所があった。

 この頃、アカの他人に注意することが出来なくなった。人々のそのフラストレーションがたまり、サービス業の人たちに集中しているのだと

 それは確かに言えるかもしれない。これまたクレーマ一に関する本を読んでいたら、お客のクレームのつけ方というのは、もはや常軌を逸している。まともな大人のすることとは思えない。ファミリーレストランで、コーヒ−のつぎ方が悪いから土下座しろ、特別のものをつくれと、無理難題を押しつけるらしい。

 しかし、その一方でサービス業の人たちのレベルの低下も相当のものである。駅前のコーヒーのチェーン店でコーヒーを飲み終えて出口に向かう。この時カウンターの前を通過するのであるが、立っているスタッフからひと言も発せられない。接客で忙しいならともかく、カウンターに客はおらず、彼らはつっ立って正面を見ている。その真ん前を飲み終えた客が通り過ぎれば、「ありがとうございました」を言うのは当然のことではないだろうか。二百三十円のコーヒーだって客は客である。商いの家に育った私は、気になって仕方ないのであるが、もちろん何も言わないことにしている。

 

 あわれな林氏は、酒井順子さんの「この頃、アカの他人に注意することが出来なくなった。人々のそのフラストレーションがたまり、サービス業の人たちに集中しているのだ」が、林氏ご自身にも当てはまっている事がご理解できていないようです。

 

 分っていたら「時カウンターの前を通過するのであるが、立っているスタッフからひと言も発せられない・・・「ありがとうございました」を言うのは当然」などとは書かないことです。

 

林氏が「商いの家に育った私」であるなら尚の事、
「ありがとうございました」の言葉は、お店側から発せられると共に、
客側からも発せられねばならない言葉です。

(この件は拙文《お客様は神様です(三波春夫)》もご参照下さい)

 

 カウンターから「ありがとうございました」の言葉が無ければ、林氏の方から「ありがとうございました」の言葉をカウンター内に投げかければよいだけの話しです。

 

 私は日頃、買い物などするときはいつもお店の人、レジの人に、(私の一言が、お店の方の僅かなりとも喜びとなればとの願いを込めて)何かしらお礼も込めて声を掛けます。

(友人達からは、“若い女性には特にそうである”と私はからかわれています)

 

 更に林氏は続けています。

 

 そして私のフラストレーションはどこで発散されているかというと、電話でのやりとりですね。買う方も買う方だと人は言うが、私は時々痩せるためのグッズやサプリメントを

通販で求める。もちろん本名を使ってだ。するとブラックリストならぬデブのリストに入れられるのであろう、他のダイエット食品のセールスの電話がやたらかかってくるようになる。

「あなた、この電話番号をどこでお知りになったんですか。おかしいじゃないですかッ。この個人情報が保護される時代に、他の情報で知り得たことをセールスに使うなんて間違っていませんかッ」、

 などと顔が見えないのをいいことに、かなりきついことを口にしている私。反省しています……。

 

 この林氏の行為は、先の酒井順子さんの「この頃、アカの他人に注意することが出来なくなった。人々のそのフラストレーションがたまり、サービス業の人たちに集中しているのだ」そのものではありませんか!!!!!?

 

 途中少し飛ばさせて頂きまして、最終部分に行かせていただきます。

 

 それでは昔はどうだったかと思い出すと、二、三十年前、私ら若者は結構外で叱られていたはずだ。大学生の頃、テニスの練習に行き、バッグを電車の床に雇いて数人でお喋りしていたら、「棚に置け、棚に。歩けないだろ」

 と知らないおじさんに怒鳴られた

友人と拡がってだらだら歩いていたら、後ろから主婦らしき女性に、「もっと早く歩いて。邪魔なのよ。全く学生さんってだらしなく歩くんだから」

 ときつく言われた。

・・・今の時代、あれだけ怒鳴る大人がいたら、少なくとも電車の中で化粧をする女の子は出現しなかったはずだ。言葉を発しない人は、存在しないと同じことなのだから仕方ない。

・・・

 今日、無線のタクシーを呼んだ。

ドアが開くなり驚く私。シートが思いきり後ろに倒してある。わずかな隙間はどう見ても、客を拒否しているようだ。

「これ、シートを前に直してくれませんか」

「やり方がわからない。そんなことを言われたのは初めてですよ」

 が、私は釈然としない。黙って乗り込んだが、信号で止まった時、隣りのタクシーを指さして言った。

「ほら、この角度、隣りの車と比べてくださいよ。おたくは、後ろの窓の桟から越えてるの、わかりますッ?」

 私もかなり言ってるかも

 

 この件も、先の酒井順子さんの「この頃、アカの他人に注意することが出来なくなった。人々のそのフラストレーションがたまり、サービス業の人たちに集中しているのだ」そのものではありませんか!!!!!?

 

 そして、最後の「私もかなり言ってるかも」の林氏は、「あれだけ怒鳴る大人がいたら、少なくとも電車の中で化粧をする女の子は出現しなかったはずだ」の怒鳴る大人ではなく、酒井順子氏が指摘する「サービス業の人たちに集中」して文句を言う大人の代表なのです。

 

 そして、このように林氏が現代の大人の代表であるからこそ、林氏の作品は売れ、エッセイも人気を博して「週刊文春」が売れるのでしょう。

こんな事で(売れさえすれば)「週刊文春」は良いのでしょうか?

 

 次は、週刊文春(2007.12.6号)からも、林真理子氏のエッセイを抜粋させて頂きます。

 

 ・・・私は新幹線で新潟へ向かった。これから三日間、エンジン01文化戦略会議のオープンカレッジが開かれるのである。

 今回私は大会委員長という大役を担っているのでかなり緊張している。実はこのオープンカレッジ、地元の新聞社やテレビ局が後援してくれ、かなり宣伝をうってくれているにもかかわらず、チケットの売れゆきが今ひとつであった。ワンコイン五百円で一流の講師の話が聞けるというのに、出足が遅い。・・・

 さて、このオープンカレッジ、企画委員長は秋元康さんである。百人近い講師を四、五人のグループに分け、それぞれの講座のテーマを決めていくというのは大変な作業だ。それなのにいつも(タダで)一生懸命してくださる。

 まず一日めのオープニングは、大会場を使い、二つのイベントを行なう。二千人入る大会場を、いったいどうすれば満杯にすることが出来るだろうか。・・・それではいったい誰を・・・。

 その時、秋元さんが言った。

江原啓之さんに出てもらおう。あの人は大阪城ホールを、一時間でソルドアウトにする人だから

 そんなわけでエンジン01に入会していただけませんかとお願いしたところ、快諾してくださったのは今年の夏のこと。江原さんには大人気の脳科学者、茂木健一郎さんとからんでもらい、二人で精神世界と脳の関係について語ってもらうことにした。この講座の人気は高く、週刊文春のたび重なるバッシングにもかかわらず、すぐに売り切れとなったのである。

 

 このように

二千人入る大会場を、満杯にする」為ならば、「週刊文春のたび重なるバッシング」を受けている「江原啓之氏」でも講師に呼ぼうと言う林氏らは、視聴率さえ取れれば、「亀田一家」をリングに乗せ、「週刊現代」で欺瞞性を叩かれている占い師(?)細木数子氏を起用するテレビ業界、売れさえすればCM料が入れば儲ければ良いの「週刊文春」の現状と全く同じである事が分ります。

 

 林氏の記述の「週刊文春のたび重なるバッシング」は例えば、「週刊文春(2007.11.15号)」には、次のように書かれています。

 

一般人を断りもなく霊視〃し、事実無根の説教をした江原啓之氏。彼とテレビを批判した先週号の記事は、大きな反響をいただいた。

ところが、懲りない江原氏は、自身の最新刊で小誌に反論している。それがまきに「トンデモ本」としか言いようのない内容で……。

 

 そして、この文面にある「先週号の記事は」“「善意のボランティア」をペテンにかけた江原啓之とフジテレビ”との題で、次のようです。

 

 今春からゴールデンタイムに昇格した「オーラの泉」(テレビ朝日系)に出演するスピリチュアル・カウンセラー、江原啓之(42)。

彼の非科学的な霊視〃を前提にしたカウンセリングと、それを垂れ流すテレビ局の姿勢について、小誌は再三、批判を続けてきた。

 百歩譲って、芸能人相手の「バラエティ番組」の枠組みの中ならば、「あんなのショーでしょう。信じる方がおかしい」と笑い飛ばす人もいるだろう。だが、霊視を望みもしない一般人の守護霊や先祖霊を勝手に騙り、結果、その人の生活や人間関係をぶち壊したとなれば、公共の電波を使った放送番組として、もう明らかに一線〃を越えていると言わざるを得ない──。

 事件は三カ月前、普段から江原を担ぎ上げて視聴率稼ぎに奔走するテレビ朝日ではなく、フジテレビの夏の名物特番「FNS27時間テレビ」の中で起きた。

 被害に遭ったのは秋田県で美容院を営むAさん(50歳女性)である。

・・・・・・

 期せずして江原の霊視を受けることになったAさん。ハッピーサプライズの対象に選ばれた理由は善意のボランティア活動だった。

 Aさんは父親の死後、美容院と同時に十年以上に亘ってリンゴ園を経営している。〇四年に起きた新潟県中越地震の際、Aさんはリンゴ四万五千個に励ましの手紙を添えて、被災地の子供たちに送った。被災地からはお礼の手紙やメールが千数百通も届いた。彼女は〇六年にもイジメで悩んでいる学校などに向けて、リンゴと手紙を送っている。

「どんなことがあってもくじけないで、というメッセージに感激しました。本業の美容院も頑張りながら、一生懸命育てたリンゴに、真心を感じました」(リンゴを受け取った被災女性)

 しかし番組は、そんなAさんに悩みがあるのだと、ナレーションで提起する。

(リンゴをタダで送るため、リンゴ園の経費がかさみ、肝心の美容院の経営が苦しくなっていたのです。

このままいくと、リンゴ園を手放さなければいけない危機。こんなとき、お父さんが生きていれば、何て言ってくれるだろうか、とAさんは悩んでいる)

 そんなAさんを心配した美容院のスタッフが手紙を送ってきたので、彼女の悩みを解決するために香取慎吾が立ち上がるという体裁〃で番組は進行する。・・・

 

 ところが、「番組の発端になった美容院のスタッフが出したという手紙も、実は番組スタッフによる”やらせの手紙〃だったのだ」と、「Aさんは自ら望んで霊視を受けたわけではないし、美容院の経営に行き詰っているわけでもない」とも後に書かれています。

そもそも、Aさんが会場にこられた理由は、「「講演会の依頼が来た」とウソをついてAさんを東京に呼び出し、ウソの講演会場に連れて行く」とのテレビ局の手配だったのです。

そして、事態はとんでもない方向へ進展するのです。

 

 かつてAさんからのリンゴに元気付けられたという別の収録参加者が話す。

突然現れた江原さんがAさんに『お父さんはあなたの後ろにいる』とか勝手なことを言い始めた。そのうち『亡くなったお父さんが、このままで行ったら、お店が大変なことになると言ってますよ』なんて、Aさんのボランティア活動を侮辱するようなことまで言い始めたんです」

 実際に放送された番組の模様から紹介しよう。江原の説教の要旨は単純だ。

「ハツキリ言ってごめんなさいね、お父さん自身もおっしゃるし、Aさん自身の守護霊さんもおっしゃってるから言うんだけど、Aさんが悪い。下手なの」

「本当にお人好しだし、自分自身がこうと思うと自分だけで突っ走ってやっていくでしょう」

「厳しい、現実的なアドバイスをお父さんは今日、届けてる」

──Aさんは美容院の経営をおろそかにして、ボランティア活動に入れあげ、人から感謝されるごとで自分ばかり喜んでいる。それでは美容院のスタッフにも迷惑がかかる。それを江原は「両方の車輪〃がうまく回ってない」というのだ。

 番組では客が一人もいない閑散とした美容院の店内を映し出し、Aさんは「働きもせず、身分不相応にボランティアばかりしている女性」として描かれている。

 そして最後に、江原の話を目を潤ませながら聞いているようなAさんの婆を映し出し、番組はこんなナレーションで締め括られるのだ。

(亡き父のメッセージによって心の迷いが晴れたAさんに、いつもの実務が戻りました)

 まさに感動のハッピーサプライズ──しかし、実はこれ、大ウソなのである

 まず、Aさんの美容院は決して経営難ではない。

 前出の収録参加者が憤る。

「収録は二時間もかかりましたが、放送は数分。番組で流された以外にも、現場でAさんは江原さんからずっと酷いことを言われ続けていました。でも、そもそも美容院が経営難なんて話は聞いたことがありません。現在も五人のスタッフが忙しそうに働いています。Aさんも最初は『そんなことないんですよ』とやんわり返したりしていたんですが”両方の車輪≠フ話になったあたりで、さすがにカチンと来たのか、明らかに江原さんを睨んで『貧乏だからこそ、私は(ボランティアが)できるんだと思うんです』と言い返したんです。そうしたら江原さんは『お金持ちだってボランティアはできます』って、しゃあしゃあと返す。

 話が噛み合わないイライラは客席にも伝わってきて、途中で香取さんも『お父さんもそう言ってるんですよね』とか『美容院やっていきますよね、リンゴのために』とかフォローしていた。正直、収録がどうなってしまうのか不安でした」

 江原のデタラメな霊視に笑顔になるどころか、憤慨するAさん。目を潤ませたのはリンゴをもらった人たちの感謝の拍手にであって、江原の霊視に対してでは決してない。ところが、番組ではAさんの怒りや反論は一切カットされている。

 現場にいたもう一人の参加者も放送を見て驚いた。

「『えっ?』という感じでした。それこそAさんが江原さんの言葉に涙したみたいに、つなぎ合わせてある。聞けば、Aさんは番組放送後、相当辛い思いをされているようです。地元では『経営難の美容院』と囁かれ、ボランティア好きなおばさん〃だという視線に晒されて、人間関係もギクシャク……。いわば全国ネットで人格を全否定されたようなもの。私もAさんに勇気づけられた一人で、彼女を励ますために参加したのに、逆にこんな結果になってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです」

 

 このように善意の「Aさん」を「全国ネットで人格を全否定」した江原氏を、オープンカレッジの講師に、それも「二千人入る大会場を、満杯にする」為に呼ぶとは、秋元康氏も、林真理子氏もどのような神経なのでしょうか!?

 

 

Aさん」の江原氏から受けた苦しみを慮れば、林氏は江原氏を当然拒絶すべきです。

万一、講師に呼んでしまったとしても、その事実を、「Aさん」の江原氏から受けた災難を紹介した同じ紙面(週刊文春)に記述するのは差し控えるのが当然です。

人間の情です。

 

 悲しい事にこのような林真理子氏が、今の時代に受け入れられるのでしょう。

その為に、「週刊文春」の編集長は、喜んで(それとも、金のために泣く泣く)林真理子氏に毎週エッセイを依頼し、ついにはその数が1000回を越えたというのですから、そして、その(先の拙文で述べましたように、週刊文春の最良のCM顧客の「赤福」の提灯持ちをして読者を裏切った)週刊文春が、今一番売れている週刊誌だと言うのですから、世も末ということなのでしょうか?

 

 

 

(補足)

 

 占い師に「貴方はクレオパトラの生まれ変わり」といわれて喜んでいる友人が居りました。

不思議ですよね、なにしろある方の生まれ変わりが、同時に何人にも共存する事はないのですから、クレオパトラの生まれ変わりは各世代にたった一人でしか存在できないはずです。

 クレオパトラの生まれ変わりの方たちは、1本の糸でクレオパトラまで結ばれているはずです。

 となると、困った事になります。

クレオパトラの時代の人口に比べて、今の人口は10倍以上ですから、クレオパトラの時代のどなたかに1本の糸で結びつくには、10倍の競争を勝ち抜かなくてはなりません。

私などは豚とか犬とか・・・の生まれ変わりで我慢しなくてはなりません。

 

 それに、変ですよね。

クレオパトラは、どなたの生まれ変わりなのでしょうか?!

クレオパトラの時代の方全員が、各々の誰かの生まれ変わりであろうとすると、又、糸が足りなくなります。

だって、クレオパトラの前の時代の人口は又少ないでしょうから!

 

 若しかしたら、クレオパトラも豚の生まれ変わりかもしれませんね。

ですから、“私の鼻がもう少し低かったら、世界は変っていたかもしれない”といわれたのかもしれませんよね。

 

 そして、江原氏の唱える「守護霊」は、何人も掛け持ちが出来るのでしょうか?

掛け持ちが出来ないとなると、「生まれ変わり」同様に、豚や犬、あるいは蛆虫などが守護霊を務めないと守護霊の数が足りなくなってしまいますよね。

 

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