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賞味期限切れの日本人(2)〈週刊文春と「赤福」の関係〉

20071219

宇佐美 保

 先の拙文《賞味期限切れの日本人(1》に於いて、週刊文春は、独自のコラム「新聞不信」で、作家林真理子氏が、又、ジャーナリストの徳岡孝夫氏が、「赤福擁護論」を展開している事を紹介しましたが、週刊文春(2007.12.6号)では、小林信彦氏までもが連載コラム「本音を申せば」で、次のように、「赤福」を弁護しています。

 

一つ疑問があるのは、確か、今年は創業三百年だったはずです。アメリカ独立より古いわけだ。

 当然、江戸時代です。冷凍保存のない時代に、「赤福」を旅の人が持ち歩いた──ということは、「赤福」って、なにか特別なものがあるのではないかってことですね。「赤福」にアタった人って、聞いたたことがないもの。

 それはともかく、あれ、(冷凍赤福)として売れば、問題なかったのだ。文明開化の世の中に少し合わせないから、諸悪のもとみたいに罵倒される。

 

この「アタった人って、聞いたたことがない」との見解は、徳岡孝夫氏と全く同じです。

その上、「(冷凍赤福)として売れば、問題なかったのだ」とも「赤福」を弁護しているのです。

ここで、小林氏の「冷凍保存のない時代に、「赤福」を旅の人が持ち歩いた」の裏を探る為に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を訪ねますと、次のように記述されています。

 

当初は、砂糖が貴重品であったために塩味の餡であった1727年、江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が砂糖の原料となるサトウキビの栽培を奨励し、砂糖の生産高が増えたことから、赤福も次第に黒砂糖餡を使うようになった。

1911年(明治44年)、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が神宮参拝の折、赤福餅を注文した。赤福は、甘みと灰汁の強い黒砂糖餡では、「皇后陛下のお口に合わないのではないか」と案じ、白砂糖餡の特製品を献上した結果、無事好評を博したという。この結果、一般販売にも白砂糖餡を使うようになり、現行の赤福餅が完成した

 

 このように、「当初は・・・・・・塩味の餡であった」と言う事ですから、「「赤福」を旅の人が持ち歩いた」のかもしれませんが、今は、「白砂糖餡」です。

従って、次のようにも書かれています。

 

保存料を使わない生菓子であり、本来の消費期限は夏期は製造年月日を含め2日間、冬期は3日間である。

 

 何故、小林氏までもが、このような捻じ曲がった「赤福弁護」を展開するのでしょうか?

(小林氏の「赤福弁護」の全文は、長くなりますので、文末の(補足)部分に掲げさせていただきます)

 

 ここで又、先の拙文で、イチャモンをつけて来ましたジャーナリストの徳岡孝夫氏への反論に戻ります。

徳岡氏は、「食品偽装「魔女狩り」はもうええやろ」(誰か腹でも壊したの?)(週刊文春2007/12/13号)を次のように終えています。

 

 谷崎潤一郎の短編『刺青』は、次のような書き出しで始まる。

「其れはまだ人々が『愚』と云ふ貴い徳を持つて居て、世の中が今のように激しく軋み合はない時分であった」

 私は愚か者であるから、正義が行なわれる世より、軋み合わない世の中の方が暮らしやすいと感じる。

 

 ここで、谷崎潤一郎の書く「『愚』と云ふ貴い徳を持つて」の背景には「賢あってこその愚ではありませんか!?」

同じ作家宮沢賢治は「雨ニモマケズ」の中で、「デクノボウと呼ばれる者になりたい」と書いていますが、その前に、「あらゆることを自分を感情に入れずに、よく見、聞きし、分り、そして忘れずに」と書かれています。

ですから、徳岡氏のように「私は愚か者であるから」では『』は「貴い徳」にはならない筈です。

 

 そして、徳岡氏が取り上げた谷崎潤一郎の『刺青』をもう少し読めば、この件はより明確になります。

 

それはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や華魁の笑いの種が尽きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神、──当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼も挙って美しからんと努めた揚句は、天稟の体へ絵の具を注ぎ込む迄になった。芳烈な、絢爛な、線と色とがその頃の人々の肌に躍った。

馬道を通うお客は、見事な刺青のある駕籠舁(かごかき)を選んで乗った。吉原、辰巳の女も美しい刺青の男に惚れた。博徒、鳶の者はもとより、町人から稀には侍なども入墨をした。時々両国で催される刺青会では参会者おのおの肌を叩いて、互に奇抜な意匠を誇り合い、評しあった。

清吉と云う若い刺青師の腕ききがあった。浅草のちゃり文、松島町の奴平、こんこん次郎などにも劣らぬ名手であると持て嚇されて、何十人の人の肌は、彼の絵筆の下に胱地となって拡げられた。刺青会で好評を博す刺青の多くは彼の手になったものであった。達磨金はぼかし刺が得意と云われ、唐草権太は朱刺の名手と讃えられ、清吉は又奇警な構図と妖艶な線とで名を知られた。

もと豊国国貞の風を慕って、浮世絵師の渡世をして居ただけに、刺青師に堕落してからの清吉にもさすが画工らしい良心と、鋭感とが残って居た。彼の心を惹きつける程の皮膚と骨組みとを持つ人でなければ、彼の刺青を購う訳には行かなかった。たまたま描いて貰えるとしても、一切の構図と費用とを彼の望むがままにして、その上堪え難い針先の苦痛を、一と月も二た月もこらえねばならなかった。

 

 谷崎潤一郎は、ここで、2つの「愚」を記述しています。

1つは、「お茶坊主だの幇間」の「愚」が、
殿様や若旦那」そして「御殿女中や華魁」の「賢」が「激しく軋み合わない」ように
「潤滑油」として働いたことと、
もう
1つは、短編小説の題でもある『刺青』の「愚」です。

 

 「愚」が排除される今では、『刺青』は、親から頂いた「天稟の体へ絵の具を注ぎ込む」のですから、とんでもない「愚」であると非難されてしかるべきです。

でも、谷崎潤一郎は、その『刺青』を「愚」としてではなく「貴い徳」として受け入れられていた時代の物語を書いたのであって、その時代が、

「正義」が行われなかったなどとは、又、「愚か者ばかりだった」とも書いていないのです。

 

 但し、徳岡氏の“私は愚か者である”は、ここまで引用させて頂いた氏の文章からも推測できますが、彼の記述の冒頭に書かれた次の文章も酷いものです。

 

 夜中、パリの宿でポカッと眠が覚めた。のどが焼けるようだ。水、水……。だが私の部屋には水がなかった──。長期滞在用の安宿だから、水のボトルなど置いてない。部屋にはビデがあるが我も日本男子、渇してもビデの水は飲まない

小さい洗面器の上に、小さい蛇口がある

 三十年ほど前の話だが、当時のパリでも8区の水は「飲めない」が常識だった。

ここは8区である。

 しかしサハラ砂漠横断中の旅人のように、のどが渇いていた。構うもんか、いてまえ!私は蛇口をひねり、口をつけてゴクゴク飲んだ。矢でも鉄砲でも持って来いと気迫をこめ、腹いっぱい飲んだ。最後に鞄から正露丸を出して二粒放り込み、再びぐっすり寝た。

翌朝、パリの秋の空もが気分も爽快だった。前夜生牡蠣何ダースかでヴィラージュを痛飲し、深夜に酔い覚めの8区水を飲んだことなど、すっかり忘れていた。

 私はそういうことをする野蛮な男だから、食品偽装事件に関しても偏頗な見方をしているかもしれない。

少し割り引いて聞いていただきたい。

 いまの日本には水道局を信用せず、歯を磨くにもボトルの水を使う人が大勢いるらしい。そういう過度の清潔好き人種、いわゆる癇症病みと、私は趣味を異にする者である。食品偽装を怒らない。

 

 めちゃくちゃの文章でしょ?!

小さい蛇口がある」のですから、「部屋にはビデがあるが我も日本男子、渇してもビデの水は飲まない」などの記述は不要です。

こんな事を書かずに、「私は蛇口をひねり、口をつけてゴクゴク飲んだ」だけで済むではありませんか?!

(それとも、パリの8区では、「蛇口から出る水」より「ビデの水」の方が綺麗なのですか!?)

 

それにこの「小さい蛇口」が無かったら、徳岡氏は「サハラ砂漠横断中の旅人のように、のどが渇いていた」のですから、「我も日本男子、渇してもビデの水は飲まない」などと気障を装うことなく、「ビデの水」を飲んでいたのではありませんか?!

 

 更に、

300年の歴史を誇る「赤福」の創業時は、谷崎描くところの“人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て”の時代ではありませんか!?

 

 だとしたら、「愚直なまでの誠実さ」でもって「赤福」の創業者たちは、菓子造りに勤しんでおられたのではないでしょうか?

なにしろ、伊勢神宮参拝帰りの御みやげ品に買われるのですから、なお更、製造に当たっては「愚直なまでの誠実さ」が要求されていてしかるべきです。

 

 「愚直なまでの誠実さ」は、「愚」以上に「貴い徳」である筈です。

「人生色々、会社も色々」などと唱えた小泉元首相のおかげかどうかは分りませんが、今の日本には、この「愚直なまでの誠実さ」は、消滅してしまったようです。

それでも、

つい最近まで私達は、この「愚直なまでの誠実さ」を「老舗」に求めていたのではありませんか!?

まさか小泉流に「老舗も色々」になってしまったと言うのでしょうか?!

 

 週刊文春(2007.12.20号)でのコラム「新聞不信(署名:翼)」の“まだ「死刑廃止」にこだわる毎日の倫理”の中で次のように記述しています。

 

 法務省は、この七日に三人の死刑囚の刑を執行した、と発表した。・・・

 各紙の取り上げ方をみると、おおむね、従来の死刑執行の閉鎖性や密室性を排し、情報公開の方向に沿った処置であるとの見方が示されている。

 そんな中、毎日が、死刑反対論を意識した紙面づくりを展開したのが目立った。・・・

 先進諸国では、日本と米国だけが死刑を残している、といい、その米国でも死刑判決数や執行数は減少傾向にあると紹介。「国際社会で死刑反対の動きは一層強まっている。一方、日本では世論調査を行うと存続論が多い。内閣府の世論調査結果では死刑存続を認める意見が初めて8割を超えた」と、あたかも日本が特異であるかのような書きっぷりである。

・・・

「命をもって償う」ことしかできない罪がある。そう考えることは「道徳」の範疇かもしれない。しかし、道徳をないがしろにしてきたことが、今日の日本社会の退廃を生んできたのではないか。(翼)

 

 この翼氏が「死刑の正当性」を主張するなら、日本の裁判の現状を判断していただきたく存じます。

自己の出世の為、上の意向のみを気にする裁判官達(ヒラメ裁判官?)、更には、脅迫による自白強要、冤罪・・・このような裁判所で死刑の判決を受けるのは勘弁して欲しいです。

それに、イラクのフセイン大統領の処刑は、口封じのように思われます。

(今の行き続けていて、フセイン統治下での米国との関係などを証言して欲しいと存じております)

しかし、「死刑」のけんは別文に譲らせて頂きまして、翼氏が最後の記述した

「命をもって償う」ことしかできない罪がある」というのは、
伊勢神宮のみやげ物店であり、老舗
300年の歴史を汚した
現在の「赤福」経営陣に向けられる言葉であるべきです。

 

 更には、

道徳をないがしろにしてきたことが、今日の日本社会の退廃を生んできた」の言葉は、
そっくりそのまま「赤福」経営陣に向けられるべき言葉です。

 

 なのに、先の「新聞不信」の署名者の滝氏、そして、林真理子氏、徳岡孝夫氏、小林信彦氏らは、「赤福」に対して、あたかも「茶坊主だの幇間」の如き駄文を献じたのでしょうか!?

 

 ここで、先のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「赤福」の項を良く見ますと、次の14文字の記述に驚かされるのです。

 

週刊文春にも広告を出している

 

 改めて、私は、手元にある週刊文春(今年度分)を見てみました。

 有りました!有りました”この広告掲載状況を次の表に纏めました。
事件発覚前までは、

毎週必ず3分の1ページの縦長の「赤福の広告」が、
そして、ほぼ1週間おきに2ページのカラー広告が
週刊文春に掲載されていたのです!!!


「赤福」の週刊文春への広告掲載状況
カラー2頁 白黒1/3頁 カラー2頁 白黒1/3頁 カラー2頁 白黒1/3頁 カラー2頁 白黒1/3頁 「赤福」ヨイショ
1/4&11 4/5 7/5 10/4
1/18 4/12 7/12 10/11
1/25 4/19 7/19 10/18
2/1 4/26 7/26 10/25
2/8 5/3&10 8/2 11/1
2/15 5/17 8/9 11/8 林真理子氏
2/22 5/24 8/16&23 11/15 「新聞不信」の滝氏
3/1 5/31 8/30 11/22
3/8 6/7 9/6 11/29
3/15 6/14 9/13 12/6 小林信彦氏
3/22 6/21 9/20 12/13 徳岡孝夫氏
3/29 6/28 9/27 12/20


 その上事件発覚後「赤福」の広告掲載が無くなるや、直ちに、週刊文春は臆面も無く、11月8日号で林真理子氏が、11月15日号で「新聞不信」の滝氏が、12月6日号で小林信彦氏が、更には、12月13日号で徳岡孝夫氏が、「赤福」弁護の駄文を掲載して、読者を裏切ったのです。

 何のと言う事でしょうか!?

例の4氏の駄文は、読者の為に書かれたのではなく、
週刊文春の最良の広告主である「赤福」への支援応援文だった事が露呈するのです。


 

 従いまして、

彼ら4人も、更には、週刊文春自体が、翼氏の最後の言葉
「命をもって償う」ことしかできない罪がある
道徳をないがしろにしてきたことが、今日の日本社会の退廃を生んできた
を頭から浴びて欲しいものです。

 

 なにしろ、

週刊文春「新聞不信」の滝氏は「赤福支援」の為に、
無期限の営業禁止とは気の毒だという同情は、新聞には全くないのか
とまで書いてしまったのですから、氏の罪は、万死に値する

のではないでしょうか!?

 

 ところが、斯くのごとき読者への背信行為を行った小林氏は、週刊文春(2007.12.13号)で次のように記述しているのです。

ぼくは大マスコミと呼ばれるものを、まったく信用していない。大新聞は飛ばし読み、というか、小情報をひろうだけである。本の広告とかね。

 これだけ騙され続けている日本の民衆が、テレビのワイドショーなるものに動かされ、煽られているのを観察していると、戦時中と同じだ、と思う。・・・

 

 日本ABC協会が発表した2007年上半期の『週刊文春』の平均販売数では、『週刊現代』の約35万部のはるか上の約53万部です。(「創:2008.1号参照」)

『週刊文春』は「大マスコミ」ではありませんか!

その「大マスコミ」に於いて、小林氏らは読者への背信行為をシャーシャーとやってのけたのです!

 

 又、長くなってしまいましたので、これらの件は、次は《賞味期限切れの日本人(3)(週刊文春の堕落)》に続けさせて頂きたく存じます。

 

 

 

 

(補足)

 

 それでは、小林信彦氏が、「本音を申せば」とのエッセーを484回(2007.12.6号で)も連載させてもらっている週刊文春への忠義立ての為に書かれた、週刊文春の最良のスポンサーである「赤福」への支援応援演説を掲げさせて頂きます。

 

本音を申せば:「赤福」とサンマ

 

「船場吉兆」などをめぐる問題で、「赤福」の影が薄くなってしまった。

「赤福」事件で、連日、特徴のあるあの包み紙をテレビで見せられているうちに、ぼくは食べたくて仕方なくなった。まるで、うまそうな何かを、CMで一日に何回も見せられた時のようだ。

 ぼくは──もとはといえば、和菓子屋の息子である。

 だから、というか、しかるに、というべきか、甘い物には全く興味がなかった。洋菓子(スイーツ、ですか)は少し興味があるが、和菓子は完全に×である。

 

 そういう気の毒な男が、疲れた時に、ちょっと食べてみたいな、と思う和菓子の一つに「赤福」があった。

 あれ、和菓子というんですかね。

有名だし、関西、名古屋あたりの駅だったら、どこにでもあったので、(和菓子)という、なにやら近づきがたい存在には思えない。

 お伊勢参りに行っているから、ぼくは本店も知っているのだ。店に向って、右側で、旅の人、というか、大衆が、もぐもぐ食べている。

 もっとも、昔から好きだったわけじゃない。だいいち、知らなかった。三十ぐらいまでは。

 結婚という、いま、あまり若い人がしたがらないコトをした結果、知ったのが「赤福」である。

 妻というか、いま風に書くとパートナーかどっちでもいいけど、

女性の両親が西の方の出身だったので、「赤福」を買うようになった。

妻の父親が、特に好きだったのである。

 大阪でも、名古屋でもいいが、帰りにお土産を買おう、という時、駅で赤福を買う。いくつかサイズがあるから、カバンの空き具合によって、どうにでもなる。まあ、あまりデカいのは買わなかったような気がする。

 それでも、ぼくは、そうは食べない。モチにして、三つか、四つ、そんなものです。もちろん、家にてから、家族が頂くついでに食べる。

 あれは、アンが甘くないから良いのである。今だったら、二つも食べればいいか。

一つ疑問があるのは、確か、今年は創業三百年だったはずです。アメリカ独立より古いわけだ。

 当然、江戸時代です。冷凍保存のない時代に、「赤福」を旅の人が持ち歩いた

ということは、「赤福」って、なにか特別なものがあるのではないかってことですね。「赤福」にアタった人って、聞いたたことがないもの。

 それはともかく、あれ、(冷凍赤福)として売れば、問題なかったのだ。文明開化の世の中に少し合わせないから、諸悪のもとみたいに罵倒される。

たしかに西の方へ行くと、どこの駅へ行っても、「赤福」を売っているでしょ。フシギな気がしたものね。各地に工場があるとは思えなかったし。

 まあ、和菓子屋をやっていると、隙を見せられないのだ。あることないこと、じゃなくて、ないことないことを言われる。

 

 ──というような話を妻としていたら、親戚の人が、地方都市でアンコロモチの一種を買ってきてくれた。

 ほんの少しだが、これがうまかった。要するにアンコロモチそのものなのだが。

 本当をいえば、「赤福」って、駄菓子との中間なのですよ。えらいのは、お伊勢様というバックグラウンドの利用と、創業三百年の歴史である。

 京都あたりの老舗は応仁の乱以後の店じゃないか、と嗤うかも知れないが、三百年つづけるって、なみのことじゃないですよ。今の東京じゃ、(六十年の老舗)なんて言っていて、それは(戦後)ってことでしょうが。・・・・・・

 

 こんな「赤福」ヨイショ文を書いて小林氏は恥ずかしくないのでしょうか!?

 

 徳岡孝夫氏の「赤福」支援応援演説の残渣も次に掲げさせて頂きます。

 

 そもそもの発端になった苫小牧・ミートホープ社事件でも、私は言いたい。今もし日本中に昔のように肉屋があり、オッサンが肉を自分で切りオバサンが店先でコロッケを揚げていたら、オッサンはとっくに「おい、このミンチ、おかしいぞ」と、気付いていたことだろう。

 いま牛肉は、大食内処理会社からスーパーに届いて、シロウトの消費者へ直接渡る。トレイに載せラップをかけた肉を主婦は手に取り、値段を見て、老練な主婦なら中身をちょっと透かし見てから、黙ってレジへ持っていく。

 

重箱の隅の隅をほじくる話

 

 中問段階の業者は淘汰された。そのぶん肉は安くなった。だが何かを得た人は、得た物と交換に、きっと何かを失う。昔から世の鉄則である。

 日本の流通を変えてしまったのは主婦の責任だとは言わない。だが町の肉屋が無くなるとき、あなたたちは一度でも抗議の声を上げたか?スーパーができる、地下に駐車場がある。

便利だ清潔だ安いわよと、店を畳んで町を去る肉屋を、見送りもしなかったじゃないか。肉屋が親から子に受け継いできた技術とコツと肉の質を見る眼力は、日本社会から「無用の長物」と宣告された。海外旅行する人は、ちょっと観察してごらん。今も肉は肉屋、魚は魚屋で買ってる国が、世界にはいっぱいあるよ。

 

 おかしいですよね、「赤福」は老舗なのです。

老舗の話をしていて、「ミートホープ社」という新興会社の話を持ち出すなんて!

それにしても、「いま牛肉は、大食肉処理会社からスーパーに届いて、シロウトの消費者へ直接渡る」「だが町の肉屋が無くなるとき、あなたたちは一度でも抗議の声を上げたか?」と非難されていますが、老舗である「赤福」までもがいくつ物工場を持ちお菓子を量産するから、私が街の手作りの和菓子屋さんはとっくの昔にお店をたたまれてしまったのです。

何故、徳岡氏は、老舗である「赤福」の量産体制に異議ありとの声を上げないのでしょうか?

 

 では又次を引用させて頂きます。

 

 トドメを刺す形で登場したのが、御存じ横浜名物、シウマイの崎陽軒である。

シウマイの成分表示の順番が間違っていたというのだから、重箱の隅の隅をほじくる話だ。しかも崎陽軒の自己申告だというではないか。

 五番目に表示すべき帆立貝柱を、二番目にしていたのが悪い、JAS法は、原材料を重量順に表示せよと定めているというんだが、あまりの些事、お相手をしていられない。「読売」(1129日)は、「信用していたのに残念」「小さい頃から食べていたのに」と、女性の「怒りの声」を載せている。シウマイの成分表示がそんなに大事件ですか。

 シウマイを信じ学校の先生を信じるのは、子供のすることである。おとなはシウマイどころか福田にも小沢にも、また「交通事故やったので示談金を振り込んで」と電話してくる「孫」すらも、無条件では信じない。疑うことこそ、おとなである証明なのたから

 

 徳岡氏は、自分でベンチャラ記事を週刊誌に書いておきながら、「疑うことこそ、おとなである証明」と言うのでは、呆れて物が言えなくなります。

でも、物が言えなくなるのは、今回の「赤福」の件によって徳岡氏ご自身であって欲しいものです!!!!!

 
次は《賞味期限切れの日本人(3)(週刊文春の堕落)》に

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