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仁なき詭弁家小泉純一郎首相

2005年6月1日

宇佐美 保

 いつまで私達は、人間性が欠落している人物(小泉純一郎氏)に、首相として君臨され続けるのでしょうか!?

 

 誰しもが、今回の小泉発言には「うんざり」した筈です。

毎日新聞:2005年5月16日の記事を抜粋させて頂きます。

 

 小泉純一郎首相は16日午前の衆院予算委員会で、中韓両国が首相の靖国神社参拝に反対していることについて「他国が干渉すべきではない。戦没者に心からの追悼の誠をささげることがなぜいけないのか、理解できない」と不快感を示し「いつ行くかは適切に判断する」と述べ、従来よりも踏み込んだ表現で参拝継続への意欲を示した。

 首相は同神社への第二次大戦のA級戦犯合祀(ごうし)と参拝の関係についても「『罪を憎んで人を憎まず』というのは(中国の)孔子の言葉だ。一個人のため参拝しているのではない」と説明した。

……

 

 小泉氏の発言を聞かされるたびに、“何故日本では、このように頭が悪く、人情味のない人物が続けざまに首相になるのか!?”と、呆れ果てて、落胆してしまうのです。

 

 小泉氏が“戦没者に心からの追悼の誠をささげる”というその場所は、一般人(沖縄で、原爆や大空襲などで命を落とされた方々)の眠られるお墓ではないのです。

靖国神社は、戦没者全てが眠られておられるお墓とは違うのです。

 

自主・平和・民主のための広範な国民連合」のホームページでは、次の記述を目にします。

 

靖国神社には、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの戦没者約二百四十六万人が祀られている。しかし、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民、天皇に刃向かった戊辰戦争での会津白虎隊や西南戦争の西郷隆盛は、合祀の対象から除外。また被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している
国民は死んで靖国神社に祭られることを美徳と教えられ、参拝を強制された。第二次大戦の敗戦まで、天皇を現人神としてその政治的権威を宗教に基礎づけた国家神道の軍国主義的、侵略主義的側面を代表する施設であった。国家神道の政策に従わなかった大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、解散を命じられ、幹部は治安維持法違反等で投獄された

 

 「被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している」の件に関しては、私は、電話にて靖国神社に確認しましたが、応対してくださった方は“私の記憶ではそのようなことはない”と答えられました。

 

 しかし、山中恒氏著『「靖国神社」問題:小学館発行』には次の記述があります。

 

 大日本帝国では、すべての戦没者を平等に扱うのではなく、まず、戦没者名簿から靖国神社の神様に祀る者を選びだして、霊璽という特別の名簿を作ります。次に天皇が霊璽に記載されている者を靖国神社の神様に祀ってもよいと許可します(註=あるいは、「祀ってやれ」と命令すると書いてもよいかもしれません)。そこでようやく靖国神社に合祀されるのです。……

 戦没者を靖国神社に合祀する場合、戦没者個人や遺族の宗教、合祀を希望するかしないかについては、まったく配慮をしません。なぜかといえば、戦前の日本では、「おそれおおくも天皇陛下の思し召しで靖国神社に祀ってもらえることは、最高の名誉だ」とされていたからです。……

 

 従いまして、靖国神社側が「被差別部落の人びとも排除」していなくても、靖国神社に回ってくる「霊璽という特別の名簿」の中から「大日本帝国(靖国神社を所管した陸海軍省)」が、「差別部落の人びと」を排除していたのかもしれません。

 

 先に小泉氏は“日本では、どんな罪人でも、死ねばみな仏となり、生前の罪は許される”と発言されましたが、この「死ねばみな仏」となられているお方は、「仏として」お墓でお眠りになっておられるのです。

 

 しかし、靖国神社は、戦没者を「仏」ではなく「神」として祀っているのです。

ですから、先のホームページの記述は、次のように続いています

 

国民は死んで靖国神社に祭られることを美徳と教えられ、参拝を強制された。第二次大戦の敗戦まで、天皇を現人神としてその政治的権威を宗教に基礎づけた国家神道の軍国主義的、侵略主義的側面を代表する施設であった。国家神道の政策に従わなかった大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、解散を命じられ、幹部は治安維持法違反等で投獄された

 

 信教の自由は全くなかったのです。

但し、大日本帝国憲法第二十八条は、次のように書かれています。

 

 日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有す。

 

 しかし「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」の但し書きは、即ち、「国家神道の政策に従わなかった」との意味となり、信教の自由は消滅してしまいます。

 

 そこで、小泉氏が“日本では、どんな罪人でも、死ねばみな仏となり生前の罪は許される”と信じておられるのなら、(公明党は言わずもがな)もっと仏教徒の方々のご見解に耳を傾けるべきではありませんか?!

 

 朝日新聞の「天声人語:1985年08月10日」に、次のような記述が載っていました

 

 筆者の手もとに「真宗教団連合」の「真宗にとって『靖国』問題とは」という小冊子がある。一読して、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派など10派の考え方がきわめて明快にわかった。

 

▼戦没者に対する国の追悼は靖国神社でといわれていますが、なぜ神式でなければならないのか、という問いにこう答える

▼「国が神式で行うことがそもそも間違いで、神式でなければならないなんて、とんでもないことです。戦没者追悼の国家的施設としては、いかなる宗教にも立脚しないことが条件で、そのような施設で初めてすべての国民がそれぞれの信仰・信条にもとづいて自由に参拝できるのです

▼小冊子はさらにいう。

(1)戦死がたたえられ、「偉業」であるとされてはならない。国家の犯した戦争というあやまちが、戦没者をたたえることで正当化されてはならない。

(2)靖国神社にはA級戦犯も合祀(ごうし)されている。こうなると、戦争賛美が続いているとしか思えない

(3)靖国の国家護持や公式参拝は国家神道の復活に道を開く。戦前、神祇(じんぎ)不拝の立場に立つ真宗教徒も、時には、非国民とののしられた。脅迫まがいのいやがらせは今もある

▼真宗だけではない。新日本宗教団体連合会も、公式参拝への動きに「苦痛と悲しみを覚える」と批判している……

 

 ここに紹介されている「真宗にとって『靖国』問題とは」という小冊子の内容は誠に「正論」そのものではありませんか!?

 

 この件に関しては、一海知義氏(中国文学者)が、朝日新聞の視点(2005年5月31日)に

 

 第2次世界大戦において、私の長兄はガダルカナルで、次兄はビルマ(ミャンマー)で戦死している。

三兄も内地で戦病死した。

しかし無神論者である私は3人の兄たちが靖国神社にいるとは考えていない。

 

何故、小泉氏は、仏教徒の方々、無神論者の方々の声に耳を傾けないのでしょうか?

小泉首相の靖国参拝は、中国韓国から反対される以前に、国内からの反対の声が湧き上がるべきではありませんか!?

(外圧でなく、先ずは内圧で、小泉氏は靖国参拝を断念すべきです。)

 

 更に、一海氏は次のように記述されておられます。

 

  テレビを見ていたら、衆院予算委員会での小泉首相の答弁が映し出されていた。靖国参拝問題である。

 首相は「どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきでない」と言          い、A級戦犯の合杷問題について「『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ」と述べた。

 これを聞いて驚いた。私は五十数年来、専門の対象として中国古典を読んできたが、孔子がこんなことを言っているとは知らなかったからである。少なくとも、信頼できる文献には見当たらない

……

 また、そもそも「罪を憎んで人を憎まず」は、加害者だった側が使うべき言葉なのか。首相発言は中国民衆の立場を無視している。

目の前で日本兵に親を殺された体験を持つ人々に、「罪を憎んで……」と説教しているのである。

……

戦後首相の中でも、小泉首相は特に中国古典がお好きらしい。施政方針演説など、さわりの所で「孟子」を引き、「量子」を引くといった具合である。

 しかし、おおむね「断章取義」的な引用法が多い

断章取義とは、原典の趣旨とは無関係に、ときには趣旨に反して、自分に都合のよい部分だけを抜き出して引用することである。これは中国では古来、軽蔑されてきた手法である。

 

 この一海氏の小泉氏に対するご指摘は、小泉氏の中国古典の引用のみならず、日本国憲法の引用に対しても、断章取義」的な引用法が多いのです。

いや!断章取義」的な引用法ばかりなのです。

 

 そして、「罪を憎んで人を憎まず」の言葉を実行されたのは、中国側ではありませんか!?この件に関しては、何度も引用させて頂いておりますが、ここでも引用させて頂きます。

 

中国がA級戦犯が合祀されている靖国神社への公式参拝に対して反対している根拠は、拙文《小泉首相の靖国参拝(お蔭様を忘れずに)》にも引用させて頂きましたが、文芸春秋:20019月特別号に古山高麗雄氏の書かれた「万年一等兵の靖国神社」と私は思います。

(以下に再度引用させて頂きます。)

 ……元中国大使の中江要介君は……、六月末の「東京新聞」にその理由を書いていた。

 その要旨を簡単に言うと、一九七二年、当時の首相田中角栄が、日中国交正常化のために訪中したとき、当時の中国の首相周恩来は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」と言って、賠償請求を放棄した。だから中国政府としては、東京裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝することによって、A級戦犯の戦争青任が曖昧になったり、その名誉が回復されたりすると、自国民を納得させられない、というのである。

 だから、中曽根首相は、A級戦犯合祀の再検討が困難になると、以後参拝をやめた。ところが橋本首相は、国のために一命を捧げた霊を弔って何がいけないのか、と参拝を復活させた。小泉首相も同様である。私も、橋本首相や小泉首相とはいささか違うが、靖国に首相が参拝して何が悪いと思っていたのである。日中の事情を知らなかったのである。新聞が中江君のような説明をしてくれたら、ああそういうことだったのか、それなら首相は行かない方がいいな、大事なことは見せることではない。弔う心を持つことだ。ならば官邸内で祈ればいいではないか、と思う。

 首相ともなれば、知らなかったでは怠慢になるが、知っていてなお強行するとなれば、これは中国に対する非礼である。礼節はまもりましょうや。
……

 

あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。」

この中国の首相周恩来(当時)の言葉と態度こそが
罪を憎んで人を憎まず
そのもの
ではありませんか!?


罪=あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者=A級戦犯

人=一般の善良なる日本人民

従って:憎んでいない人(一般の善良なる日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない

 

 そして、亡きA級戦犯の方々も、自分達は死を賭して日本国民の為に戦ったとの誇りがあるならば、この中国側の(戦争の責任をA級戦犯のみに押し付ける)処置を甘んじて受けられるのではないでしょうか?

 

 それなのに、この中国側(故周恩来首相)の大英断(温情)に対して、A級戦犯の祀られている靖国神社に小泉首相は参拝した上、“人(A級戦犯)を憎まず”“亡くなった人(A級戦犯)には罪はない”と公言されては、中国政府は如何にして故周恩来首相の大英断を自国民に納得させる事が出来るのでしょうか!?

 

 それとも、小泉氏は「」を「A級戦犯」ではなくて、「一般の善良なる日本人民」に負わせて「日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなこと」を行おうとしているのでしょうか?

賠償金」となると、先の拙文《衣食足りて礼節を忘れた日本人》にも引用させて頂きましたが、野田氏は、417日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』に於いて、次のように発言されていました。

 

 “日清戦争以来、日本が中国に与えた損害は、数百兆円にもなるだろう。……”

 

 数百兆円もの賠償金を日本はどうやって払うのですか?!

 

 ところが、平沢勝栄自民党議員(松原ナンとかと言う民主党議員も)等は、次のような発言をして憚りません。

 

 日本は中国には今まで、3兆円ものODA援助(有償無償合わせて)をしてきた、その上、何度も謝ってきたではないか!!

これから先、何度謝ったらよいのと言うのだ!

 

 ODA援助(有償無償合わせて)では、数百兆円の損害を補填できません。

それに、3兆円のODAは、議員や業者の懐を潤す為にも行われたのではありませんか?

中国国民に対して、どれだけ有効に使われたのでしょうか?

 

 何故、小泉氏は自己中心的な考えを振り回して、他人(中国側)の思いに気を使われないのでしょうか?!

こんな心の貧しい人物が日本のトップに居座り続けていて良いのでしょうか?!

 

 そして、小泉氏は、孔子の言葉を誤用しましたが、私は、孔子の言葉「仁」について、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》から、以下に抜粋いたします。

 

イエスの心も、仏陀(トルストイの言う「インドの賢者」)の心も、その本質では同じなのです。……

仏教において、“慈悲(トルストイの説く“”)の重要性を説いています。

……

「仁」の項目で広辞苑を紐解きますと、中国の賢者「孔子」の心の根幹も「慈悲」であることに改めて気が付きます。

仁:孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。……儒家の道徳思想の中心に据えられ、宋学では仁を天道の発想とみなし、一切の諸道徳を統べる主徳とした。……慈悲

 

 小泉首相は、「『罪を憎んで人を憎まず』というのは(中国の)孔子の言葉だ。一個人のため参拝しているのではない」とホザク前に、

この孔子の「仁」の教え(礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり)を
小泉氏自らの心に叩き込んでおくべきです。

 

 そして、古山高麗雄氏の記述のように、

首相ともなれば、知らなかったでは怠慢になるが、知っていてなお強行するとなれば、これは中国に対する非礼である。礼節はまもりましょうや

なのだと思います。

 礼節も、いわんや、孔子の「仁」の教え(礼にもとづく自己抑制と他者への思いやりも無い人物が、何故日本国の首相の座に鎮座しているのですか?!

 

 更には、「小泉氏が“戦没者に心からの追悼の誠をささげる」と宣うのなら、仏教徒の方々、キリスト教徒の方々、無宗教の方々への思いやりの下、せめて、いかなる宗教にも立脚しない戦没者追悼の国家的施設にて追悼の誠を捧げるべきではありませんか!?

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