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村本大輔氏を支持します(2

2018年115

宇佐美 保

 それでは、先の拙文《村本大輔氏を支持します(1》同様に、リテラの“元旦『朝生』のウーマン村本は全然間違っていない! 本当のバカは三浦瑠麗と落合陽一だ”に於ける記述を引用させて頂きながら、書き続けさせて頂きます。

 

  その後も、村本の勢いは止まらなかった。終盤、村本は改憲をめぐる論議が国民的に盛り上がっていないことに切り込んだ。村本は「僕はまず、国民の人たちが憲法論議をして、そしてテレビでもやっていって、そして国会でもやるようにしたいんですけど、なぜそのメディアでもうちょっとそれを発信して国民でできるようにならないんですか」と批判したのだが、すると井上がこういう風に反論した。

 

井上「ちょっといいですか。村本くんの発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。国民はよくわからないんだから、とかね

村本「僕は、『僕は(よくわからない)』です」

井上「私はそれね、君、一見ね、国民の目線で立っているようだけどすごく上から目線なんだよ。僕はちゃんと説明すれば小学生でもわかる話(だと思ってる)」

落合「だって義務教育の小学校6年生の授業でやってる

 

 

 ところが、落合氏は「だって義務教育の小学校6年生の授業でやってる」と発言されますが、我が国の首相は憲法の根本原則である立憲主義を理解出来ていないようです。

 

政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方。「憲法に立脚する」という意味合いである。なお、立憲主義を前提とした民主主義を立憲民主主義と呼ぶ。

 

更に、平成二十八年五月十九日提出の 質問第二八〇号の一部をコピーします。

 

 安倍総理は、平成二十八年五月十六日の衆議院予算委員会において山尾志桜里議員の質問に答え、「議会については、私は立法府の長であります」と答弁している。

 また、平成二十八年五月十七日の参議院予算委員会において福山哲郎議員の質問に答え、「私は、立法府の、私としては」とも答弁している。

 

(ところがなんと、その後、議事録の発言内容が「立法府の長」から「行政府の長」へと変更されてしまったそうです)

 

日本の政治の枠組みは、国会(立法府)、内閣(行政府)、最高裁(司法府)の三権が互いにチェックし合う三権分立の体制である。国会は法案審査や国政調査を通して行政を監視し、議員で裁判官の弾劾裁判所をつくっている。内閣は衆院の解散権を持ち、最高裁判所裁判官を任命する。最高裁は違憲立法審査権を持ち、行政にかかわる訴訟の判決もする。

 

 しかし、アベ氏の頭の中には、“俺は、行政府、立法府、司法府の三権長である。何しろ議会で、森友加計問題等で、俺に不都合な人物をどんなに証人喚問として要求されても蹴とばしてしまうし、議会の解散も思うがまま……、早々、司法だって俺に尻尾を振っていた奴の逮捕状だって無効にしたりもできるし、裁判官の任命も自分の気に入りを任命したり、その結果、判決だって好きに左右できるんだぞ!” が渦巻いているのでしょうから!

 

 更には“村本くんの発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。……私はそれね、、一見ね、国民の目線で立っているようだけどすごく上から目線なんだよ。” との井上氏の発言こそ、村本さんに対しての井上氏の「すごく上から目線」的発言です。

出席者が肩書、年齢などに、拘束されず自由な討論を行うには、出席者はみな平等な立場である筈です。

従って、井上氏は、村本氏を“村本君”呼ばわりするのではなく“村本さん”と声を掛けるべきと存じます。

司会の田原氏も、何度か村本氏に対して、“うるさい!黙ってろ!”と怒鳴ってもいました。

 

 また、リテラの記事の抜粋を続けます。

 

 井上「すぐ国民投票って言うとヒトラーが云々って(言う人がいるけど、)あれは例外的ですから。ほとんどの国民投票はまともにやられてるわけ。それで、ここで一つ重要なことは、イギリスのEU離脱のあれもそうだけど、国民投票にかけるぞっていうアジェンダが設定されたらね、国民自身が自分たちが主権者としての選択を迫られてるんだと(自覚する)。普段無関心だった若者もパブで議論し始める。通りで議論し始める。家庭のなかでも喧嘩になるほど論議し始める。だから私はこれを、ちゃんとした課題として設定する。じゃあそれをいま、してこなかった。いきなり国民が改正発議して国民投票かけるのは実は国民投票の問題があって、期間が短いとかあるけど、今一番あれなのは広告放送、投票日の二週間前という制限しかなくて、それまでだったら広告いくらかけてもいい。これを変えなきゃいけないっていうのはありますよね。しかし、にもかかわらず、国民にこういうことを改正すると言って国民投票にかけるとなったら国民は真面目に考えるんだ。それを真面目に考えない。もうちょっといろいろ丁寧に説明してあげなきゃ(ダメなんだ)っていうのは、私は許しがたい愚民観だと思います

 

  “すぐ国民投票って言うとヒトラーが云々って(言う人がいるけど、)あれは例外的ですから。” との井上氏の発言こそは大問題でしょう!?

 

なにしろ「ヒトラーの手口を学べ」を公言して憚らない人物が副総理の椅子に座っているのですから「ヒトラーを例外的」と片付けるべきではなく、(井上氏の日ごろの研究同様と存じますが「例外の存在」が大問題で)、この「例外」の本質を追及し、「例外の発生を防止する手段」を研究討論すべきでしょう。

 

その研究過程で、アベ氏が行った「共謀罪」、「緊急事態条項」などを排除して行く必要が浮かび上がる筈です。

なのに、今回の「朝生テレビ」では、誰もこの問題点への警告を発していないようでした。

 

「朝生テレビ」の出席者がこんな状態で、井上氏の発言“イギリスのEU離脱のあれもそうだけど、……国民自身が自分たちが主権者としての選択を迫られてるんだと(自覚する)。普段無関心だった若者もパブで議論し始める。……”と云っても、それらの議論は「井戸端会議」の域を出ないでしょう。

(何しろ、愚民である私も、この拙文を書くには改めて色々と調べ直したりと、随分時間を必要としましたし、途中で放棄しようとも思いました。

若者もパブで議論」といっても、その議論に対する下調べがどれだけ出来るでしょうか!?)

 

 井上氏は「首都圏の上空が、米軍の管理下」にある件に憤慨していましたが、片山氏は“その件では、石原慎太郎都知事(当時)が、色々と折衝されていました。”とか発言されておられましたが、石原氏は、民間航空機に横田基地を使わせろと云っていただけで、「米軍の支配体制に根本的な改善を要求」したのではないのです。

 

この程度の発言をする、片山さつき氏は、本当に国会議員なのかしら(それとも、国会議員は、無知で大ばか者であるとの定義があるのなら、立派な国会議員でしょうが)と思ってしまいます。

 

更に、鳩山友紀夫氏が(当時首相)“辺野古基地を、少なくも県外と云いながら、辞任してしまい、沖縄県民は2階に上げられた後に、下に落とされたと同様だ!”と非難され、出席者も同調されて居りました(田原氏は別説を述べていましたが)。

 

IWJ Independent Web Journalの【鳩山友紀夫元首相による講演会「鳩山元総理が明かす『辺野古新基地』の真相」(2016241時半から、日本記者クラブ10階ホール)】を見ればその真相が明らかになります。

 

  鳩山氏の談話:「(2010年)419日か20日だったかと思いますが、3枚の紙切れを持った外務省の役人がやってまいりまして、『大使館と交渉した結果こういうことになりました』と、その紙を見せられました」

 

沖縄米軍の陸上部隊と海上部隊は、一緒に北部訓練場で訓練を行なう。その訓練の一体性を考えると、普天間基地がどこか遠くに移設され、そこまでの距離があまりにも長いと、移動等に時間がかかりすぎて訓練が十分にできない。その距離は65海里(約120km)以内であるべきだ、という基準が米軍のマニュアルにも明記されていると、その紙には書かれていたとのこと。

 

当時、移設の候補地として鳩山氏が名前を上げていた徳之島までは、200kmをはるかに超える。

 

鳩山氏の談話:「すなわち、これは徳之島をあきらめなさいというペーパーでございました」

 

 これが決定打となり県外移設を断念したと鳩山氏は当時を振り返る。

 その後、2ヶ月にも満たない68日、鳩山氏は首相を辞任した。

 

この様な「虚偽公文書」の存在(というより、「虚偽公文書」を作成し、鳩山氏を潰した勢力)の問題をどなたも発言して居りませんでした。

(知らないのでしょうか?それとも知っていても、知らん顔?)

 

更には、「沖縄の地上は18パーセント、上空は100パーセント支配されている」件を指摘する方は皆無でした。

(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか(矢部宏冶著 集英社インターナショナル発行』)

更に矢部氏の著書10頁には

 “つまり米軍機は、同じ沖縄という同じ島のなかで、アメリカ人に家の上は危ないから飛ばないけれども、日本人の家の上は平気で低空飛行する。”

と。

 

更に、森本氏に関しては、同じ著書の169頁に、次のように書かれています。

 

 日本の安全保障研究の「第一人者」という評価のもと、民主党政権で防衛大臣に抜擢された森本敏氏ではないでしょうか。

 森本氏は二〇一三年四月一一日の民放の番組のなかで、

「〔日本海側にたくさん建っている〕日本の原発に、北朝鮮が核ミサイルを打ちこんできた場合、防ぐことができるんですか」とキャスターの人から聞かれて、

日本の現在の原発は、そうした通常兵器以外の攻撃〔=核攻撃〕に対し、耐えうるような強度をもつよう設計されているので、そこは問題ありません

 と、平然と答えていました(!)。

 

更に、先の拙文でも引用しましたが、次の落合氏の発言です。

 

 村本「なぜ侵略される、意味が分からないんですよ」

落合陽一「だって知らない人に通り魔で刺されたりするでしょ?

 

 更に、片山氏も“強盗が家に入ろうとしても、痛い目にあうと知っていたら入って来ないでしょ!?”的な発言をされて居られました。

 

 国家間の紛争と、国内での事件とごっちゃにしてしまうお二人の見識を疑います。

 

 このお二方は、《例えになっていない安倍首相の例え話:2015.07.21 きっこのブログ》の紹介されているアベ氏同様な方と思われます。

(尚、このブログ中の「アメリカの国旗をあしらった大きな家と、同じ敷地内にある「離れ」、そして、道路を挟んで建っている日の丸をあしらった家の模型を使って、集団的自衛権の説明を始めた。……」に関しては拙文《戦争を火事に例えるのは、亜米氏にとっては正論なので 》も御参照下さい)

 

 国内の事件は、少なくも警察がしっかりと対応してくれます。

但し、伊藤詩織さんに対する山口敬之氏のレイプ事件のように、逮捕状が出て逮捕寸前の時に、上からの圧力で、その逮捕状が無効化されるのは大問題です。

この件を、特に、着飾った多くの女性出席者が、問題提起して欲しいです。

 

 しかし、落合氏、片山氏の発言は「通り魔」、「強盗」から身を守るには、米国同様に、各自が武器を携帯せよとの意味となります

その各自が武装している米国では、武器による事故事件が絶えません

米国でも武器所持反対運動が起こっていますが、なかなか達成されません。

ところが、日本では各自が武器を携帯していませんから、安全な社会となっております。

 

 この様な件から、個人の武器携帯と、国の軍備と同列的に考えるべきでしょう。

それでも、日本に於いても、昔は個人(武士)が武器を携帯していましたし、国内では、多くの小国が割拠して戦争を繰り返しておりました。

それが、廃刀令以降、個人が武器を携えない結果、日本は世界でも有数な安全な国となりました。

 

 その上、昔は男性に対して女性が対等な立場で議論するなど考えられなかったでしょう。

それに、主席者の誰よりも若くて元気で強そうな村本氏が、“手前等ゴチョゴチョ云って煩いんだよ、表へ出てケリをつけようじゃないか!”と怒鳴らなかったのは、彼が、「憲法9条 第1項」の精神を身に付けているからではありませんか!?

 

(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」(日本国憲法第9条 第1項)

を個人間の問題として、以下のように解釈出来ましょう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国民相互の融和を誠実に希求し暴力の行使は、国民相互の問題を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」)

 

それから、司会の田原氏は“国民はバカではない”と常々唱えて居られますが、先の戦争の際は簡単に軍国少年に洗脳された件を、バカではなかったと云い張るのでしょうか!?

(まあ、愚民ではなかったけど、洗脳されただけ!?)

村本氏は、井上氏に対して、“「イギリスのEU離脱」に関してはフェイクニュースがあったのではありませんか!?”と問うたのに“そんなのはありません”的に退けられましたが、田原氏が、軍国少年になったのは、新聞報道(金儲け主義的な、いわば、フェイクニュース)に踊らされた結果ではありませんか!?

 

 この様に、出席者の方々の知識も表面的ですから、一般の方々は推して知るべしで、今度もまた新聞、テレビで簡単に軍国少年モドキな、軍国主義的憲法へと洗脳されて行くことは十分に考えられます。

 

リテラ記事の最後は次のようでした。

 

……最後に番組終了後、沖縄・辺野古に飛んだ村本のツイートを引用して終わりたい。

 

〈おれが朝生で無知を怒られていたことに対しておれのツイッターをみて会いにきてくれて「僕も知らない、あの場で村本さんが聞いてくれて嬉しかったそれを伝えにきた」と言ってくれた。おい、バカ学者ども、お前達は街の人を知らない。みんな仕事がある。お前らは知で飯食ってるから知ってるだけ。〉(12日)

 

この村本氏の発言に対して、私も一言付け加えましょう。

 

「知」とは、「勇気」と「情」が伴って初めて「知」となるのであって、「勇気」も「情」も伴わない「知」は「空論」となるでしょう。

 

 たとえ「知」が若干乏しいとしても、大事なのは「情」と「勇気」を伴った「知」です。

 

 だからこそ、「情」と「勇気」を兼ね備えて発言し続ける村本氏を私は尊敬いたします。

 

 そして、更なる活躍を期待いたします。

 

 まだ書き足りませんので、次の拙文《村本大輔氏を支持します(3》へと続けさせて頂きます。

 
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