目次へ戻る

 

 

中村教授と日亜化学の悲劇

200474

宇佐美

 

 私は以前、青色発光ダイオードの開発者である中村修二氏の著作『考える力、やり抜く力 私の方法(三笠書房)』を読み大変感激しました。

 

 先ず、感激したのは、当時の(今は亡き)日亜化学工業小川社長の素晴らしさでした。

そして、又、会社の方針(小川社長の方針ではありません)を無視して、自己の道を邁進しようとする中村氏の凄さにです。

以下に、中村氏の著作から引用させて頂きます。

(尚、青色発光ダイオードの発明が中村氏の力、存在に依存している証明でもある大事な部分なので、長くなりますがお許し下さい。)

 

……私はついていたと思う。それは当時の小川社長(現会長)が研究開発の何たるかを理解してくれていたからだ。目先の結果だけを求めるのではなく、どちらかと言えば楽天的だった。だから、会社の規模としては多額の研究開発費をボンと出してくれたのだった。

 しかし、一度一九九〇年頃、青色発光ダイオードの窒化ガリウムの研究をやめて、ガリウム・ヒ素の高電子移動度トランジスター(HEMT)の研究をしなさいと会社命令が下った。

 過去の十年間の研究時代だと「はいわかりました」とすんなり聞いていただろうが、今回は違っていた。会社の規則、命令はすべて無視と決めていたので完全に無視した。自分の好きなとおりにやると決めていたのだ

 約一カ月間ぐらい、私の机の上にはいつも「すぐに窒化ガリウムの研究をやめてガリウム・ヒ素のHEMTの研究をしろ」という命令書が置いてあった。私は、それらの命令書を即破って、いつもごみ箱に放り投げた

 なぜなら、ガリウム・ヒ素のHEMTを会社がしたくなった理由は、当時大手半導体メーカーのお偉いさんが会社見学に来て、私がMOCVDをしているのを見て「わけのわからないのをするより、ガリウム・ヒ素のHEMTをしなさい。ガリウム・ヒ素のHEMTは今後用途が伸びるよ」と、うちの会社に薦めたからであった

 当時は、全くまともな窒化ガリウムができていなかった時期で、私はどん底に近いような状況だった頃である。会社の開発テーマの選択基準というのは、過去十年間も当時も、まったく変わっていなかったのである。そして、私はこうした選択方法が間違っていると、過去十年間の経験から嫌という程わかっていた。だから、完全無視を通した。

 ただ、私がこれらの会社命令を一カ月間ぐらい無視しても、機嫌が悪くなるだけで後はほったらかしであった。こうなると楽天主義というよりは、もうわけがわからないからほっとけという感じであった。

 そして、小川会長の楽天主義は夏の休みの長さにも現われていたように思う。二十年も前から日亜化学の夏休みは、七月末から八月下旬まで約二十日あった。日本の企業でこれ程の休みを取れる企業は、今でもそうないのではないだろうか。

 小川会長は以前そのことについて聞かれた時、「二十日間の休みなど、欧米の企業に比べれば珍しくも何ともない」と答えたという。日本を基準にして会社を作ろうとしていないという点も楽天的な方針につながったのだろう。

 だから、私が無体とも言える青色の開発を進言した時も、うるさいことは一切言わず「やってみろ」と言ってくれた。その上、材料に窒化ガリウムを選ぶという無謀をやっても一切口をはさまず、研究開発に関しては、当時は好きなようにやらせてくれたのだった

 前述のように、一時は青色発光ダイオードを窒化ガリウムで研究するのはやめろという命令も来たが、当時会長は高齢で、こういう細かいところまで干渉はしなかったかもしれない。ただ、会社の上部で決めたことかもしれない。

 後年、小川会長はその時のことを回想して、「私は『チャンスを与えれば、必ず期待した結果が返ってくる』という自分の信条に従っただけだ」と言っているが、私にとっては非常に有難い支援になったと思う。

 私は一介のサラリーマン研究員で、会社の経営といったことにはまるで無知だったが、開発・研究に携わる立場から勝手なことを言えば、トップが小川会長のようなスタンスだと、社員もやりやすいのではないかと思う。いらぬプレッシャーがない分、開発に専念でき、それが思わぬいい結果を生むのではないだろうか。人は無言のうちにでも、信じてもらっているという実感があれば、身をも捨てる気になって頑張るものだ

 私に運というものがあったとしたならば、それはチャンスを与えてくれるトップがいたことであり、チャンスをモノにしてくれると信じられていたことだ。

「中村は大ポラ吹きだが、物はきちんと作る」と、何も言わずにじつと見ていてくれたことが、私の青色発光ダイオードの成功につながったのだと、今でも思っている。私はここに、トップたるものの眼力を見る思いがするのである。しかも、大ボラ吹きに莫大な予算を与えて平然としていたその胆力にも、今さらながらに感謝するのである。眼力と胆力を持った者が企業のトップとして成功するのだろう

 実際、大ボラ吹きにチャンスを与えた胆力の持ち主、眼力の持ち主の会社は、従業員二百人たらずの会社から、千八百人を超える会社へと成長した。売上高も四百八十億円と倍々ゲームを続けている。

 さらに、百億円あまりをかけて本社に六階建ての発光デイオード生産工場を建設し、同じようなレーザー生産工場も建てるといった具合なのだ。それもこれも「世界一の商品を作ろう」という、いわば楽天的なスローガンを掲げて、それを本当に楽天的に実行しょうとしたトップの経営姿勢がなさしめた業なのだ。そして、かく言う私も、それに対して何らの疑問もはさまず「できます」と答えてしまう根っからの楽天家だったのだ。

 

 ここまでの引用で、故小川社長の偉大さがお判り頂けたと存じますが、もう少し引用させて頂きます。

 

 日亜化学は現会長の小川信雄氏が一九五六年に創業した会社だ。小川会長は目が悪かったために希望した士官学校には行けず、当時の高等高専、今の徳島大学薬学部に入学した。

そして卒業後、太平洋戦争で激戦の続いていたガダルカナルヘ薬剤師として赴任することになる。

 士官のほとんどが戦死する中、彼は奇跡的に助かった。そして、半死半生のガダルカナルで、占領軍の部屋に不思議な青い光を放っている物体があるのに感動する。蛍光灯だった。小川会長は日本に帰国できたら、この不思議な発光体を扱ってやろうと秘かに思い定めたというのである。

 しかし、故郷の徳島に帰った小川会長は、当初は専門知識を生かした製薬会社を設立することになる。ここで抗生物質の一つであるストレプトマイシンの生産を開始したのである。しかし自社製品は一〇〇パーセント効く高品質の薬なのにもかかわらず、市場では五〇パーセントも効かない租悪品と同じ扱いを受ける。品質の良し悪しなど度外視して売られていたのである

 小川会長はこのことに嫌気がさしてしまった。良心的で品質の良い製品を作る会社が馬鹿を見るだけだったのだ。きちっと計器で品質を測定できるものを扱いたい。彼の思いは強くなる一方だった。

 そんな時、あのガダルカナルで触れた感動の一瞬を思い出したのだ。蛍光体ならば、品質の良いものと悪いものとの差は歴然と見える。品質のよい蛍光体をつくれば、必ずや評価されるだろうと考えたのである。こうして日亜化学は、蛍光体の生産に取り組み始めたのだった。

 当時、蛍光体の特許はGE(ゼネラル・エレクトリック社)が持っていた。が、日本の大企業は特許料さえ払っていないような状況だった。小川会長に言わせれば、これは「盗っ人のできそこないのようなもの」だったのだ。そこに気がついた小川会長は、すぐさまに特許の使用を正式に申し込んだ。GEはこの行為を高く評価してくれ、使用権を全部日亜化学にくれたのだった。

 こうして日亜化学は、化学薬品メーカーなのにもかかわらず主力製品が蛍光灯やテレビのブラウン管に使われている蛍光体といった、異質な会社として再出発することになるのである。徳島県東部の阿南市、人口約五万人の小さな地方都市の会社だった。

 だが、私が入社した当時はすでに蛍光体では国内トップクラスのシェアを誇っていた。

とはいえ、会社の規模はまだ小さく、年間売上高は四十億円。従業員も百八十人程度で、その大半が地元阿南市の出身だった。

 

 如何でしょうか?

この様な偉大な故小川信雄社長の下にいては、中村氏ならずとも発憤せざるを得ないのではないでしょうか?

しかし、中村氏のようには、世の中の人達は(悲しいことに)発憤しないのです。

この点は、中村氏の次の記述からも察することが出来ます。

 

 こんなこともよく言われた。「こんなド田舎の、いつ潰れるかわからない会社へ、何でまたわざわざ徳島大学からくるのか」と。しかも専門が電子工学だから、当時の社員にとってはなぜと首をかしげても不思議ではなかったのだ。

 

 こんな発言を中村氏にぶっつけるような社員が、社長に惚れ込んでいるとは到底思えません。

なにしろ、当時の日亜化学に対する世間の認識度が次のようなものだったのですから。

 

実験をやるにあたっては、いろいろな測定装置や備品が必要になる。しかし徳島県の、しかも阿南市などといった田舎都市には、そのような高度な半導体関係の測定装置や備品を置いている会社などない。だから、大都会の会社へ注文しなければならない。そこへ電話してまずカタログを送ってもらうことになるのだが、その段階ですでにつまずくことになる。

 電話をして「徳島県なんですが」と言うと、必ずや「徳島で半導体などやって、どうするんですか」と聞かれるのだ。よけいなお世話なのだが、そのうえ「徳島市からさらに入った阿南市というところなんですが」と言うと、「どこの半導体メーカーの下請けさんでしょうか」と聞かれるのだ。

 そこで、「いや下請けではなく、独自に開発しています」と答えると、「へえ、すごいですね」と一応感心されるのだが、その頃になると何となく小馬鹿にしたような雰囲気になる。そして「カタログを送ってほしい」というこちらの要求に気もそぞろで、結局、何日待っても送ってはくれないのである。

 測定装置に限らず、半導体などといった高度なものは、田舎では扱えないとハナから思っているのである。だからカタログ一つ送ってはくれない。所詮は無駄という考えなのだろう。

 私が電話でカタログを注文して、送ってくれたのはわずか二、三割程度だったと思う。……

 このように、半導体の研究に関わった当初は、最先端の技術が必要なのにもかかわらず、情報も入らず、装置もそろわずといった最悪の状態だった。それは確かに悔しかった。私自身の能力が劣っていたために差別されたのではなく、単に地方にある名もない小さな会社だというだけで、まるで参加しなくてもいいよ、と言われているようなものだったからだ。悔しさをバネに、一人黙々と開発に取り組んだ。

 ところが、いい気なもので、いったん私が成功したとなると、掌を返したように人が集まってきた。頼みもしないのに嫌という程のカタログが送られてくる。日本中、いや世界中から営業マンが雲霞のごとく押しよせてくるようになったのだ

 日本の企業の悪いところは、ブランド力のあるところは信用するけれども、そうでないところは歯牙にもかけないといった扱いをすることだ。何事もブランドと肩書で判断してしまうのである。

 

しかし、この様な環境の中で、中村氏は、どのように仕事をされたか?

それでは次の抜粋文を御覧下さい。

 

 失敗もずいぶんやった。月に二、三度は爆発事故を起こしていたのである。石英管を手製で作ったのはいいのだが、どうしても付け焼き刃的な部分があるため、そこが反応してしまうのだ。

 石英の筒を真空にして温度を上げ、中の赤リンとガリウムを反応させる水平ブリッジマン法というやり方なのだが、温度が上がりすぎたり、空気が入り込んだりすると、赤リンに引火して石英が炸裂するのだ。

 何しろ赤リンというのは、マッチや火薬の原料に使われている材料だ。だから、火薬を石英の中に閉じこめて、温度を上げるようなものだと考えればいいだろう。石英管にひび割れなどがあると、そこから空気が入って爆発してしまうのである。

 石英管は私の手作りだから、どうしても時折ひび割れが入ってしまう。ど−んというものすごい音で爆発し、百メートル近く離れた駐車場にまで届くくらいなのだ。電気炉は吹っ飛び、赤リンの燃えた煙で部屋の中は真っ白になってしまう。石英は肌に突き刺さるから危険きわまりない実験だが、そういう爆発を月に二、三度はやっていたから、私自身は慣れっこになっていた。

 だから、そろそろ爆発するなという勘が働く。そのたびに衝立の後ろに隠れて身を守るわけだが、長年やっていたのに怪我一つしなかったのが不思議なくらいだ。狭い実験室なのだが爆発すると部屋中が真っ白になって、その中を火のついたリンがバッタみたいに飛び回る。とにかくすごい爆発なのだ。

 だから最初の頃は、音を聞きつけた職員が「中村、生きているか!」とよく声をかけてくれたものだった。そのたびに、白い粉を被った私が煙の中からぼんやりと姿を現わすという具合だった

 しかしそれも、あまりにも何度も爆発するものだから「またやったかい」ぐらいで見向きもされなくなっていった。私にはこれは好都合でもあったのだが……。

 

 中村氏は、いとも気楽な風に書かれていますが、こんな事は誰にでも出来る仕事ではありません。

 

 ここ迄では、中村氏は単なる「無鉄砲人間」でしかないのかもしれません。

(勿論、単なる「無鉄砲人間」だけでも、中村氏は貴重な人材です。)

次ある引用文から、独創性溢れる中村氏の存在があったからこそ、世間から相手にされない状態の日亜化学で青色発光ダイオードが開発されたことがよく判ります。

 

 私が会社の机の上に参考文献を一冊も置かなかったのも、このようなドグマに陥ることを拒否したかったからだ。それが、私の独創性を生み出す方法だと考えたのである。

 オリジナリティや独創的な発想を生み出す方法は、他にも色々とあるかもしれない。人それぞれによって、やり方は違うと思う。ならば、他人のやり方ではなく自分のやり方でやるべきだ。自分独自のやり方を貫くのに恐れることはない。他人に何と言われようが堂々と貫き通せばいいと思うのだ。

 私は、自分の直観に関しては頑固なまでにこだわった。端から見ればどう考えても無体なことだ。会社の上司も同僚も、私が青色発光ダイオードの開発に乗り出すと宣言した時には皆、驚きの声をあげたし、その材料として窒化ガリウムを選択した時には、文字通り関西風にいう「アホと違うか?」という具合だった。

 しかし、実はよくよく考えた結果「自分にはこれしかない」という″勘”がはたらいたのである。そして、これを私は信じた。

 日本では勘や直観に頼るのを、どういうわけか嫌うところがある。理論を話したり理づめに考える人を見ると、この人は大したものだということになってしまうことが多いのではないだろうか。

 確かに理づめに説明されたりすると、こちらにそれを上回る理論でもない限りは納得せざるを得なくなり、この人は理論家だ、頭がいいという具合になってしまう。そういう意味では理論というのは確かにすごいものだと思うし、特に新理論を打ち立てる人は大したものだと思う。

 しかし、だからといって、勘や直観を理論より下に置いてもいいのだろうか。勘に頼るからダメだと決めつけてもいいものだろうか。

 

 更に付け加えます。

 

青色発光ダイオードの開発に当たって、多くの研究者がその完成の近くまでいっていると思いながらも完成できなかったのはなぜなのか。完成の近くまできているというその思いは、単に定説や常識の上に立ってそう思い込んでいたに過ぎなかったからだ。そのため、思いきった方向チェンジができなかったのだ。

 もしも、他の研究者たちが定説にとらわれなければ、近くまでせまっているとは思わなかったかもしれない。そうすれば、きっぱりとセレン化亜鉛の路線を捨てて、私より先に窒化ガリウムの研究に取り組んでいたかもしれないのだ。

 私と他の研究者たちとの大きな違いは、彼らがあまりにもよく定説や業界の常識を知り

すぎていたために、一定の研究方法に引きずられてしまったことだと思う。定説や常識に

こだわりすぎたために、先へ進めなかったのだ。特に新製品の開発にあたっては、定説や

常識などないものだと思った方がいいのである。

第一、既存の製品においてならまだしも、まだ完成していない全く新しい製品、作り得るかどうかわからない段階の新製品に対して、定説や常識があると矛盾以外の何者でも無いだろう。

 

 ここでの中村氏の記述は、特に新しい物を開発する際の真理だと存じます。

科学に於ける「理論」は、その絶対性は無限の生命を持っているのではなく、常に見直される宿命を背負っているのです。

 

 ここまで引用させて頂いた文からでも、故小川信雄社長と中村氏との出会いがあったからこそ、青色発光ダイオードが日亜化学で開発されたのだと私は信じます

そして、お二人は手を取り合って喜ばれているのかと思っていたのですが、そうではないと知ってビックリしました。

朝日新聞(1月31日付け)には、次のように書かれていました。

 

 世紀の発明といわれる「青色発光ダイオード(LED)」の特許権を譲り受けた会社が、発明者に支払うべき正当な対価をめぐって争われた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。三村量一裁判長はまず、発明の対価を604億円と算定。そのうえで、発明者の中村修二・米カリフォルニア大学教授(49)が発明対価の一部として勤務していた会社に請求していた200億円を全額認めて同社に支払いを命じた

 支払いを命じられたのは日亜化学工業(本社・徳島県阿南市)。日亜側は控訴した

……

 

 更には、422日付けでは、次のようになります。

 

 ……日亜化学工業(徳島県阿南市)が、発明者の中村修二・米カリフォルニア大教授に支払うべき正当な対価をめぐって争われている訴訟の控訴審が22日、東京高裁で始まった。

 200億円の支払いを命じた一審・東京地裁判決について、日亜側は「特許は中村氏だけの努力で得られたわけではない。一審は過大評価している」「こうした訴訟が続々出ると企業の運営は阻害される」と批判した。……

 東京地裁は1月、青色LEDの特許により2010年までに同社が1208億円の「独占利益」を得られ、中村氏の貢献度を50%として、発明対価は604億円と算定。中村氏側が請求していた200億円全額の支払いを認めた。……

 

 私には、日亜化学側の“特許は中村氏だけの努力で得られたわけではない。一審は過大評価している”との見解には全く反対です。

そして、東京地裁の1月の判決「中村氏の貢献度を50%」には大賛成です。

そして、残りの50%は当然、故小川信雄社長の貢献分でしょう。

 

 それにしても、「最高の幸せで、奇跡でもあった、故小川信雄社長と中村氏との関係」が、何故斯くの如き不思議な結末と変化してしまったのか?

私には、全く合点が行きませんでした。

 

 ところが、私は、『週刊現代(2004.05.22号)』の“あの日亜化学工業で内紛社長一族を操る「謎の老女」”との表題の記事を読み私なりに合点が行きました。

その一部を以下に抜粋させて頂きます。

 

……中村修二氏(カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)が語る。

私の裁判の1回目の証人尋問のときに、私の尋問中なにやらブツブツ言っている老女がいて、裁判長に注意されていました

 また、やはり裁判の1回目の法廷のときだと思いますが、法廷に入る前に同じ老女が私に近寄ってきて、なにやらブツプツと話しかけてきたという記憶があります」

……

実はこの女性が、日亜化学工業社内で「謎の老女」とウワサされる人物なのである。

もともとは85年ごろ、日亜小川信雄前社長夫妻の四国八十八箇所めぐり(お遍路)の手伝いをしたことなどから、小川家と近い関係になったらしい。信雄前社長の死後未亡人の孝子夫人の相談役として、自宅に頻繁に出入りしている」(日亜社員)

……

本人は周囲に、『霊感が非常に強い』と言い、話術も巧みで、とくに年輩で病気などに悩む人を惹きつける力を持っていた。予言めいたことを口走って、寺巡りに連れていったりしていた」(病院時代の同僚)

 最近はボランティア団体代表を名乗り、特別養護老人ホームに車を寄贈したりもしている。また高野山にも高額の寄附をしていたが、その際は「日亜化学工業株式会社 相談役」(高野山時報‘0211日付)を名乗っていた。しかし、日亜は、本誌の取材に「当社とA氏とは関係ございません」と回答している。

 小川家の親族はこう話す。

 「前社長の未亡人の孝子さんと、その長女・和子さんはAに心を奪われています。孝子さんは『Aさんはお不動さまだ!』と言っている」

 孝子、和子の両氏だけでなく、小川家に婿養子に入った和子さんの夫・英治氏(現日亜社長)も、Aさんの信奉者だという。親族が続ける。

……信雄前社長が病床にいるときには、『会長(当時)の意思はAさんにしかわからない』といって会社関係者を接触させないようにしていた」

 ‘006月には、こんなシーンがあった。脳萎縮によって意識障害があった信雄前社長の車イスをAさんが押して、会社にやってきた。Aさんが「会議をする!」といい、幹部が集められた。

 「次期社長は婿養子の英治であり、みなが婿養子の指示に従い、会社をもり立てることを望む……そうだな、会長!」

 信雄前社長は、力無く頷いたという。

……

(信雄)会長が病気しとったから、私が付き添いしとっただけ。

私は(信雄氏に)『行って来い!』と言われて、寺回り行かされたん。代理で行ってた。

中村の裁判は、ヤジ馬として行ってる。小川家の指南役?そんなことするかい! 和子さんは気位の高い人です」

……

 

 皆様も「成る程!」と思われたのでは?

中村氏と小川信雄前社長との幸せな関係が、未来永劫続いているべき筈であったのに、「脳萎縮によって意識障害があった信雄前社長」を、「周囲に、『霊感が非常に強い』と言い、話術も巧みで、とくに年輩で病気などに悩む人を惹きつける力を持っていた。予言めいたことを口走る」人物が思うように操り、お二人の間を引き裂いてしまったのだと。

何と不幸な出来事でしょうか!?

 

 私が日頃お世話頂いている方々の中に、

「私が今あるのは、(或る)宗教のお陰。従って、この家(凄いお屋敷です)も、敷地(実に広大です)も、その宗教団体に寄付して死んで行くのだ」

と語っている方が居られます。

私には、宗教(?)という存在が大変恐ろしい存在と感じます

(信者の方々が、皆、家屋敷、それに預金などを全て宗教団体に寄付されたら、相続税をあてにしている国の財政はどうなるのでしょうか?)

 

 私は、トルストイのように

世界人類の全ての賢者、インド人、中国人、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人……

と、宗教と言うより賢人の教えと心に受け止めることが好きです。

この件は、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》も御参照下さい)

 

 更に新聞記事(朝日新聞:64日付け)には次の記事があります。

 

……日亜化学工業(本社・徳島県阿南市)の小川英治社長は朝日新聞の取材に対し、今後の特許出願見合わせを検討していることを明らかにした。その場合、新しい発明は社内の機密情報とするという。特許裁判の「主役」企業の特許戦略の転換だけに産業界に一石を投じそうだ。

……

 発明を巡る判例によると、特許なしでも発明者は対価を受けられる。ただ、法曹界関係者は、特許出願されないと発明の技術の範囲を争わなければならないため、裁判では発明者側が不利になる、とみる。

……

 

 この様な、日亜化学の態度は、次の中村氏の記述からも納得出来るのです。

 

……私が青色発光ダイオードを開発するにあたって考案した「ツーフローMOCVD装置」は、今ではコンピュータで動いている。しかしそれは、あくまでも私の手作業をコンピュータが模倣しているだけで、創造的な部分をコンピュータが生み出しているわけではない

 青色発光ダイオードが完成した段階で、ツーフロー装置の簡単な模型図は、論文にも書いたし、特許にも記載した

 しかし、それを見ただけでは他人に同じものは作れない。なぜなら、装置の細かな形状や、材質、また作業の手順や放出するガスの流量、反応時間などについて総合的な知識やノウハウがなければ、確実に失敗してしまうからだ。あくまでも、私が開発した手順どおりでなければならなかったのである。

 ハイテク製品の開発というのは、基本的にはそういうものなのではないかと思う。でき上がったものだけを見ると、とても手作業でやれるとは思えない程システマティックにでき上がっていたり、また高度な機器や材料が使われているため、何か非常に手のおよぼし難い作業や技術が必要に思えるし、またそれを支える難解な理論が必要なように思える。

 ところが実際には、最初の開発にそのようなものなど全く必要ない。必要なのは、実験装置を自分で組み立て、必要に応じて改造していけるかということなのである。……

 

 斯くも、中村氏の功績が大であるのにも拘わらず、小川信雄前社長亡き後の日亜化学の(否!Aさん(?))の中村氏への仕打ちが異常な点に、私は多大な悲しみを感じます。
若し、Aさんなかりせば!?或いは、今なお、小川信雄前社長が、ご健在ならば!?と思わずにいられません。
そうであれば、「200億円訴訟」もなかったのでは?
そして、中村氏の望みは決して「200億円」ではなかった筈だと私は信じているのです。
更には、今に至るまで、日亜化学の中村氏への処遇に対して、異論を唱える声が日亜化学社員のどなたからも上がってこないと言うことは、やはり、「中村氏なかりせば、日栄化学では絶対に青色ダイオードの開発は出来なかった」事の明々白々な証拠であると私は信じるているのです。


目次へ戻る