無能なジャーナリストの傲慢
2004年1月10日
宇佐美 保
週刊文春は毎週「新聞不信」のコラム等で、新聞不信批判論を盛んに展開しています。
しかし、文春の批判論には全面的には私は賛同できなかったのですが、文春の新聞批判に首肯せざるを得ない文面を、『2003.11.6号』に見る事が出来ました。
そして、こんな新聞には、何にも期待出来ないと痛感し、週刊文春は味な紙面構成をするものだと妙に感心してしまいました。
その問題の文面は、「今週の三冊」に於ける、『ネットは新聞を殺すのか:NTT出版 青木日照、湯川鶴章共著』に対する本郷美則氏(朝日新聞社の要職を歴任)の批評文です。
この批評文を引用(以下の枠内に)させて頂きながら、文春の批判論に私が納得する点を列挙させて頂きます。
先ずは、本郷氏は「確かに、新聞の信頼性喪失は年を追って深刻だ」と、新聞の惨状を次のように記述しているのです。
許認可事業で、広告収入が命の綱であるテレビを傘下に抱え、政官財にからきし弱腰になった新聞は、本来の報道という機能でも、今や出版社系の雑誌に先陣を譲ることが珍しくない。 |
新聞人の本郷氏に「政官財にからきし弱腰になった新聞」と開き直られたら、私達は新聞に何を期待するのですか!?
新聞は、軍国主義に傾く小泉政権を糾弾、阻止できるのですか!?
年金の積立金を無駄使いして年金制度を危機に陥れた役人そして、そのOB達を糾弾できるのですか!?(拙文《インチキ評論家が年金は黒字と嘘を言う》を御参照下さい)
族議員達を追放できましたか?!
自らの経営責任を取らずに、私達の税金を公的資金注入などとの名目で吸い取った上、高額の退職金、高年俸などを貪り食って平気な顔をしている銀行、銀行幹部を糾弾出来ましたか?!……
テレビとくっついている為に、新聞が新聞本来の役割を果たせないなら、新聞はテレビと縁を切るべきではありませんか!?
読者は、新聞がテレビとくっついている事なんか望んでいません。
更に驚く事は、新聞がこの体たらくなら、「許認可事業で、広告収入が命の綱であるテレビ」の方は、もっと弱腰となるではありませんか!?
この点を、本郷氏はどう考えているのでしょうか?
部数競争のため適正な購読料を設定できず、広告依存を強めて言論に自己規制が付き纏う。 |
私達読者が望みもしない「部数競争」を行って「広告依存を強めて言論に自己規制が付き纏う」等と白を切られては参ってしまいます。
(でも、私が新聞紙面で一番好きなのは広告面です。)
経営優先が過ぎて記者教育も疎かになった。人減らしで市井の細かな情報の扱いを見切って草の根の読者を疎外してもいる。 |
朝日新聞社の研修所長の職務も体験された本郷氏は「経営優先が過ぎて記者教育も疎かになった」と書かれていますが、「記者は教育で育つ」とでも思っておられるのでしょうか!?
本郷氏は、別の箇所で、プロ・ジャーナリストの条件として「公正・公益のために真実に迫る無私の男気を兼ね備え」ている事を掲げていますが、この様な「無私の男気」を教育で植え付ける事が出来ると思っているのですか!?
「無私の男気」といった類は、記者本人の素材の問題ではありませんか?!
今の新聞界に、優秀な人材を引き付ける魅力がないから、優秀な人材は他の分野(ひょっとすると、出版界)へと流れていくのです。
(この件は拙文《マスコミも構造改革を》も御参照下さい。更に付け加えますと、今から何十年も前、私の最も尊敬する友人は新聞社へ入社しました。)
そして、私達読者は、大新聞に「市井の細かな情報」等は期待しません。
「市井の細かな情報」は、折り込み広告と一緒に配られたりするタウン誌で充分です。
苦境が深刻化するだけに、情報流通の王座を守り続けようとますます独善と保守に傾く。 |
ここでの本郷氏の言い訳の「情報流通の王座を守り続け」る事なども、私達読者は望んでいないのです。
その上、次のように本郷氏は尻を捲ってしまうのです。
かつて民主主義の番犬として市民の側にあった新聞が、この体たらくでは、代りに頼れるメディアを求めて、人々がネットへ走るのも無理はない。 |
可笑しいではありませんか!?
新聞界の惨状の原因を本郷氏の記述から纏めますと次のようになります。
1)
許認可事業で、広告収入が命の綱であるテレビを傘下に抱えた為。
2)
部数競争の為。
3)
経営優先が過ぎた為。
4)
情報流通の王座を守り続けようとする為。
これらの原因は私達読者の希望と全く乖離しているではありませんか!?
これらの原因は、新聞界自らが呼び込んだだけであって、自らが早急に摘出すべきではありませんか!
ところが、自らを本道に戻す事を怠っている新聞界に帰属する本郷氏は、次のような訳の判らない事を綴っているのです。
「ジャーナリズム」と、インターネット上での草の根の「発言」「主張」は、似て非なるものである。 比喩で示そう。――ショウケースに置かれたカレーの値札が倒れている。三人の客が当てずっぽうに値段を言い合ううちに、六百円か、との合意に到る。 そこへ現れた男が、ケースの裏に回って値札をつかみ出し、「七百円。この通り」と差し示す。 価値ある情報とは、これである。ジャーナリスト、ジャーナリズムの役割が、ここにある。 |
ここに書かれた本郷氏の比喩の意味を、私は全く理解できません。
「三人の客」がインターネット上での発言者の事ですか?
そして「インターネット上での草の根の「発言」「主張」」が「当てずっぽう」だと言うのでしょうか?
更に判らないのは「そこへ現れた男が、ケースの裏に回って値札をつかみ出し、「七百円。この通り」と差し示す」との人物がジャーナリストなのでしょうか?
可笑しいですよね。
「三人の客」だって、勝手に「ケースの裏に回って値札をつかみ出し」等という行為が許されるなら、「当てずっぽう」でガヤガヤ喚かずにさっさと「値札をつかみ出し」納得する筈です。
私には、この本郷氏の比喩からでは、「記者クラブ」等というジャーナリストだけが出入り出来る所から得る事を、得意気に披露でもしている光景しか目に浮かびません。
更にビックリする見解を本郷氏は披露してくれます。
新聞でいう価値ある情報には、見識が濾過した信頼がある。 それを提供できるのは、該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだジャーナリズムのプロである。 ネット発信者が、見聞きし、読み、考えたままを発言し、主張しても、プロの吟味を経ずしてはジャーナリズムになり得ない。 |
いかがですか?!
「ネット発信者」には、「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだ」方々が皆無だと本郷氏はほざいているのですよね!?
逆に、私達は、現在のプロ・ジャーナリズムの世界に「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだ」人物が欠如していると痛感しているのではありませんか!?
最近の例では、「拉致問題」等に関して男気のある記事を目にした事がありません。
(「拉致議連」等の方々に対して全く腰が引けているではありませんか!)
更には、この件に関しては、ショーウィンドーの裏に回って値札を見せてくれるように、単身北朝鮮に乗り込んで、金正日の真意を探り出した記事でも書いて欲しいものです。
そして、「アメリカのアフガニスタン、イラク侵攻」等に対して、マイケル・ムーア監督以上に「公正・公益のために真実に迫る無私の男気」を感じさせてくれる記事を見せて欲しいものです。
その上、プロ・ジャーナリストに「該博な知識と見識」を持っているなら、前述の「年金問題」に関してもしっかりした記事を書いて貰いたいものです。
年金は、本来「積み立て方式」であったのです。
それなのに、年金運用の不手際から多額の積立金をドブに捨ててしまった為、役人や、議員達は、責任を明確にし責任を取る事なく、いつの間にか「世代間扶養方式」に変換されているのです。
なのに、マスコミは、役人や、議員達の責任を追及もせず、更には、これらのインチキに気も付かず、単に年金の掛金の変更問題ばかりを記事にしています。
こんな方々が、ジャーナリズムのプロなのでしょうか!?
(この件は拙文《インチキ評論家が年金は黒字と嘘を言う》を御参照下さい。)
そうして、本郷氏は自分達の無能を棚上げにして、又、文頭に抜粋した新聞界の惨状も全てその責任を「経営者」に押し付けてしまうのです。
そこに、本書も示唆する草の根のネット情報と新聞の融合・補完の可能性がある。両者は本来「殺し、殺される」関係にはない。 新聞はネットに殺されるのではなく、自殺の道に迷い込んでいるのだ。再生のヒントもある.経営者に虚心の一読を勧めたい。 |
どんなに経営者が無能で無責任であっても、本郷氏達が「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだジャーナリズムのプロである」なら、私達に感激感銘を与える記事を提供できるはずです。
本郷氏は、日経新聞の子会社(ティー・シー・ワークス)の不正経理問題などで鶴田(前)会長の経営責任を追及し解任を求め、懲戒解雇された元日経部長大塚将司氏に、「無私の男気」を感じないのでしょうか!?
感じるなら、責任を経営者のみに押し付けず、自ら行動したら如何ですか?
ところが、本郷氏には「無私の男気」が欠如しているだけでなく、「該博な知識と見識」も持ち合わせていないようです。
未来を語るのは難しい。 八〇年代初めのニューメディア騒ぎの中、「新聞は二一世紀を迎えられずに消える」との予測が、新聞社の内外を駆け巡った例もある。今では笑い話だ。 |
本当に本郷氏の指摘のように「ニューメディア騒ぎは、今では笑い話だ」なのでしょうか?
私は、朝日新聞を購読していても、「asahi.com」を契約し利用しています。
そして、新聞紙面で見るのは広告と、テレビ欄位です。
記事は、殆ど全てパソコンの画面で見ています。
なにしろ、ヘッドラインが画面で一覧出来ますから、見たい記事だけをクリックして直ぐ読む事が出来ます。その上、後日有益と思える記事は、新聞紙を切り抜かずとも、パソコン内に簡単に保存できるのですから。
(但し、パソコンの液晶画面が、明るすぎて目が疲れるので、画面背景を暗転させて白抜き文字で読んでいます。)
早晩(もしかしたら今でも?)、通勤時の車中でも、携帯電話(或いは小型ノートパソコン)が、自動音声変換してくれて、耳から情報を伝えてもくれるでしょう。
なにしろ混み合った車中で新聞を広げるのは大儀ですから。
本郷氏の認識のように「未来を語るのは難しい」のですから、安易に「今では笑い話だ」と書いて、「新聞は永遠だ!」とでも思い込んではいけないのです。
その上、次のように書いている本郷氏には、ジャーナリストとしての資格、そして又、本の批評をする資格があるのでしょうか?
読者には、まず冒頭の「出版にあたって」「はじめに」、そして巻末の「監修」「著者略歴」を通覧し、本書が電子情報産業の側に立つことを確認して、本論に読み進むよう勧めたい。 |
私達(特に、ジャーナリスト達なども)が物事を見たり聞いたりそして判断する際、一番重要なのは余計なバイアスを排除する事ではありませんか!?
私達日本人の欠点の最たるものは、「レッテル」、「ブランド」で物事を判断する点ではありませんか?
本郷氏は、週刊文春に記述された、以下の略歴で、ご自身が読者に十分理解されたとお感じですか?
評者 本郷美則 1934年生まれ。朝日新聞社会部、整理部、広告局などを経て、ニューメディア本部副本部長、研修所長等を歴任。近著に『前立腺痛切らずに治した』がある |
それとも、「朝日新聞社会部、整理部、広告局などを経て、ニューメディア本部副本部長、研修所長等を歴任」との世間もうらやむ肩書きを誇示するだけでご満足ですか?!
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