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平和憲法への勘違い

2003107

宇佐美 保

週間金曜日(2003.8.22472号)を見ていたら、ビックリしました。

「輝け!九条」新護憲市民の会の某事務局に装束される、某氏による「論争 徴兵制提案?!六五〜七〇歳は軍務につけ?!」との記述に出くわしました。

この某氏は、「六〇年安保当時の心情(思想?)にこだわって、今も反戦・反安保、教育問題、環境問題、人権問題等に関わって生さて」来られたそうです。

そして、この某氏の先輩の発言(以下に一部抜粋させて頂きます)が胸奥に突き刺ったと書かれておられますが、私には、その発言内容はとんでもない勘違いだと思いました。

 

『教え子を再び戦場に送るな!』というスローガンが死んでしまった現在、″では、責任をとって私が戦場に行こう″という心境だ。その上で、徴兵制を提案したい。六五歳から五年間、兵士になれ!という徴兵制だ。

ボタンを押せばいいような戦争なのだから、車椅子に乗ってもやれる。年金や介護保険のことを考えれば、社会的有効活用としても意味がある。死ぬような場合があっても、それはいいキリのつけ方ではないか

 

 長年「輝け!九条」と訴え続けられていた方なのに、何故その九条(下記)の意味を誤解されるのでしょうか?

 

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

九条の根幹は武力行使を放棄するのであって、『教え子を再び戦場に送るな!』ではない筈です。

戦場に武器を持って、私達ロートルであろうが、ノコノコ出かけて行けば、それは少なくとも威嚇行為です。

 そして、このお二人は、『教え子を再び戦場に送るな!』が守れれば、戦場で殺し合いをする事を厭わないと言うのでしょうか?!

 

 野中広務議員は、週刊文春(2003.9.25)の「独占手記」の中で次のように書かれています。

 小泉首相が本当にイラクに派兵することが必要だと考え、それによって自衛隊員が死ぬ可能性を考えていたら、なぜ、息子をタレントにしたのでしょう。息子さんがタレントになりたいのは自由ですが、首相の息子ということでタレントになれたことは明らかです。もし、自衛隊の隊員がイラクで死んだ時、その親は、首相の息子を見て、どう感じるのでしょうか。私はあえて言います。自衛隊の海外派兵が必要だと思うのなら、安全だというなら、まず息子を自衛隊に入れて、行かせる覚悟を見せなさい。実際には、あんな劣悪な条件の場所に自衛隊員を出していたら、ますます隊員の数を増やさざるを得ず、やがて徴兵制度が現実味を帯びてくるでしょう。

 

 若しも、野中氏が「自衛隊員がイラクで死ぬ」事を懸念して、派兵を反対されているのでしたら、野中氏も勘違いされておられるのでしょう。

それとも、派兵で戦争だと息巻く輩達は、先ず彼等自身がまた彼等の息子達が率先して赴く意志があるのかを問うているのかと推測します。

 

 私も拙文《平和憲法は奇跡の憲法》にて以下のように書きました。

 私はいつも思っています。

「戦争だ!」と喚く人達は、中曽根氏にしても、中西氏にしても、真っ先に最前線に一兵卒として出陣すべきです

今時の戦争は、ハイテク兵器で行われるのですから、どんなに力がなくても老人でもそれらの武器は扱えるはずです。

ですから、今回若し、アメリカがイラクに攻め入るような事態になったら、佐々氏、中曽根氏、中西氏らはどうか真っ先に、その最前線に志願兵として出かけてください。

自分が戦地に出向かないで、戦争だ!と喚く輩こそが、一番卑怯だと思います。

 

 そしてこの文意は、佐々氏、中曽根氏、中西氏らが戦場で戦う事を肯定しているのではありません

只、彼等が戦争という愚劣な行為を自分自身の手を血で染めて行う決意があるのかを問うているのです。

 

 野中氏の文意も、小泉首相は、自分の息子の手を、罪なきイラク国民の血で染めるかもしれない愚劣な行為を強行するのかと問うているのだと思います。

 

 九条は、「私達は戦場で死にたくありません」ではなくて、「殺し合いと言う愚劣な行為で、国際紛争を解決するのは止めましょう」と宣言しているのです。

 

 ですから、文頭の某氏と某氏の先輩の方が、“万が一、外敵が攻めてきたら、私達ロートルは、真っ先に、武器を持たず、人間の盾となりましょう”と訴えるのでしたら、最悪ですけれど、私は賛同します。

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