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戦争法賛成者の誤解

2015920

宇佐美 保

東京新聞(2015.9.18付け)には「安保賛成派も官邸前で集会」との記事が載っておりました。

その中には、次の発言が紹介されております。

 「防衛力を高めて日本を守る体制をつくらない と、子どもや孫が心配で仕方ない」と言うのは千葉県松戸市の主婦○○さん(六三)、「九条を守れと言うだけで平和を守れるならこんなに楽なことはない」と 語気を強めた。」

 
 この
主婦○○さんは、日本を守るために、自らが自衛隊に入隊するとか、自衛隊が米軍共々、世界各地で戦う際には、志願して参戦するのでしょうか?

それとも、お子さんや、お孫さんが自衛隊に入隊するのでしょうか?

 

 ご自分達は、戦地に赴かず、自衛隊員だけにその任務を押し付けて、ご自分のお子さんやお孫さんの安全を確保するというのでしょうか?

 

 同じ東京新聞の2015919日の夕刊「文化面」に記載された『伯父・火野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)』をお読みになっては如何でしょうか?

その一部を、ここに引用させて頂きます。

 ……
戦闘が終わっても、心の傷は死ぬまで消えない。伯父の自死を見て、戦争が破壊するのは体だけではないと実感した。アフガンでも米兵や武装勢力、住民の別を 問わず、人々が心を壊される過酷な現実を見た。だからこそ集団的自衛権行使や安保法制をめぐる国会論議の「ゲームのような軽さ」にがくぜんとする。
 「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい」


 安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った
安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。
……

 

 ここでの「安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない」を我が日本国に当て嵌めれば、「安全保障とは近隣諸国との信頼関係にほかならない」となります。

 

 そして、何よりも、「日本国憲法前文」は次の言葉で結ばれております。

 

 “われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。”


「九条を守れと言うだけで平和を守れるならこんなに楽なことはない」だからこそ、“日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。”と誇り高く名誉ある私達日本人は、どんな苦難が待ち受けていようと、先に紹介させて頂いた中村哲医師の “「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間 に言った。”との御発言に通じるのだと存じます。

 

確かに、中村哲氏のような行動は、私達にとっては、大変困難でしょう。

しかし、一人で舞台を務める芸人の松元ヒロ氏は、「平和憲法」との演目中、憲法の前文を一字一句声を上げて謳い上げつつ“理想が現実より遥かに高く、現実に合わないといって、その理想を手の届くとこまで引き下げるのは可笑しい”旨を、舞台から訴えておられました。

 

冒頭に紹介させて頂いた「主婦○○さん」も、「この崇高な理想と目的を達成」に向かって、日本国憲法の前文を声を上げて読み上げつつ、お子さんやお孫さん共々、歩んでみてはいかがでしょうか?

 

日本では、サッカーや野球などの国際試合では、「サムライ日本」との言葉が飛び交っておりますが、サムライに関して、拙文《武士道と自衛隊と勝海舟》の一部を再掲させて頂きます。

 

……「武士道」の本質は?

そこで、新渡戸稲造の著作『武士道:三笠書房発行』を覗いてみましょう。……

 

武士道』に於ける最も重要と私が思っている点「武人の究極の理想は平和である」を最後に抜粋します。

 

 武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者とされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときはどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はじつのところ、ごく稀にしかやってこないのである。

 

 大義もなく、イラクにかってに攻め込んだ米国、そして、米国を支持した我が国は、“やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者”ではありませんか?!

 

 そして、この続きを掲げます。

 

 暗殺、自殺、あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった、私たちの歴史上のきわめて不穏な時代をのり越えてきた勝海舟の言葉に耳を傾けてみよう。彼は旧幕時代のある時期、ほとんどのことを彼一人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三、暗殺の対象に選ばれていた。しかし彼はけっして自分の剣を血塗らせることはなかった。

 勝舟は後に独特の江戸庶民的語り口で懐旧談を語ったが、その中で次のように語っている。

私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃して、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。南瓜でも茄子でも、あなたは取ってお上んなさるだらう。あいつらはそんなものです』と言った。それはヒドイ奴だったよ。しかし河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。ナニ蚤や虱だと思へばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒いだけだ、生命に関りはしないよ」(『海舟座談』)

 これが、艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に「負けるが勝ち」というものがある。この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また「血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。

この崇高な理想が僧侶や道徳家の説教だけに任され、他方、サムライは武芸の稽古や、武芸の賞揚に明け暮れたのはまことに残念きわまりない。このようなことの結果、武士たちは女性の理想像を勇婦(アマゾネス)であれ、とするに至った。ここで女性の教育、地位という主題に数節をさくことは無駄ではなかろう。

 

 この勝海舟の言動を、“自衛隊の実質は軍隊である”とか、“言葉と実体が合致するように、憲法を改正して自衛隊を軍隊と改名すべし!”とほざく小泉首相らは勝海舟に多くを学ぶべきです。

刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった」との勝海舟の「決して抜けない」は、全く我が国の自衛隊そのものではありませんか!?

勝海舟は、「丸腰(全く武装していない状態)」ではなくて「決して抜けない刀(自衛隊)」を帯びていたのです。)

 

そして、『武士道』に於ける「負けるが勝ち」「血を見ない勝利こそ最善の勝利」「武人の究極の理想は平和」を私達は、改めて肝に銘じるべきです。

 

更に、『武士道』から、「名誉、勇気、そして武徳のすぐれた遺産を守れ」の件も抜粋致します。

 

人間の闘争本能というものは普遍的で、かつ自然なものであり、また高尚な感性、男らしい徳目であるとしても、それは人間性のすべてではない。もっと神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能の下にある

私たちは神道や、孟子、さらに王陽明が明確にそのことを教えていることを見てきた。しかし、武士道や、戦闘者タイプの道徳は疑いもなく、直接的な現実の欠くべからざる問題にのみとり組まざるをえなかった。そのため、しばしばこの愛するという本能の存在を正当にとり扱うことを閑却してきたのである。

 近年、とみに生活にゆとりが生じてきている。武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている。広がった人生観、デモクラシーの成長、他民族、他国民に対する知識の増大とともに、孔子のの思想――あるいは仏教の慈悲の思想もこれに加えるべきか――はキリスト教のの観念へとつながっていくだろう。

 人はもはや臣下以上のものとなり、市民という存在に成長した。否、人は市民以上のもの、すなわち人間なのである。現在、戦雲が日本の水平線上に垂れこめている。だが平和の天使の翼がこれを吹き払ってくれることを信じよう。世界の歴史は「優しき者は地を嗣がん」という預言を確信しうるものである。

 生まれながらの権利である平和を売り渡し、産業振興の前線から退いて、侵略主義の戦略に加わるような国民はまったくくだらない取引きをしているのだ。……

そして「詭弁家、金儲け主義者、計算高い連中」の新時代に入ったことのあかしであった。

 

 ここに掲げられた「武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている」の文言の「武士の訴えてきた使命」を「軍隊の使命」に置き換えて考えるべきです。

 

 そして、私達は「軍隊」よりも「孔子のの思想、仏教の慈悲の思想、キリスト教のの観念」が必要とされるのです。

 

更に拙文戦争に嵌っている人は精神病の一部を再掲いたします。

 

 

 

……本日の番組「サンデープロジェクト(テレビ朝日)」で、94歳のご高齢でもお元気で活躍されておられる聖路加国際病院理事長の日野原重明氏は、「戦争反対」、更に、

 

犠牲が伴う愛

を訴えておられました。……

あのね、敵を愛せよと言う言葉がありますね、キリスト教にもね、敵を愛すると言うのはね、ただただ馴れ合いになるのではなく、理性を伴うの。

許しがないと、だから非常に困ってる人にマントを脱いで掛ける時にはね、自分は凍えてしまうの、でも、この人を助ける為に・・・だからあのマントの裏には血がにじんでいる。

それは何かと言うとね、許しと、許しがないと。

 

平和憲法で言いましたでしょ。それはねアメリカはいつも出て行く(注:日本の為に出動すると言う意味と思います)という協定(安保条約)の下に、そうだから、(それでは)本当の平和憲法ではない。

 

あの憲法を読みますとね、前文にあります、全ての世界が平和に向いている、その先頭に立って日本はやれ!と言うんでしょ。

ところがね、世界は平和に向いていないと言う事が起こっているでしょ。

61年の間に。

 

だから、原爆反対反対では、子供には駄目なんですよ。

反対では成功しない

 

私達は、もっと愛の精神で、この世界に愛のゴスペルを浸透させる事で、愛する事には犠牲が伴うと言う

だからですね、私達はあのアメリカとの協定が無くてね、平和にするんだったら、どうしてね、それじゃ日本は潰れても良いから
何も無抵抗だと言うガンジーとキング博士のような思想に徹底すればよかった。

 

 ここに、その一部を再掲いたしました拙文の全文へもお訪ね下さい。

 

 そして、先に紹介させて頂いた松元ヒロ氏の舞台からのメッセージのように「平和憲法」という理想を安易なありきたりな憲法へと引き摺り下ろす目論見は避けるべきです。

理想は高く、そして、「平和憲法」は、新たにどこかの国が作ろうと思っても作ることが出来ない「奇跡の憲法」なのです。

 

どうか、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》等などへもお訪ね下さい。

そして最後に、世界に誇る、そして私達がそこへ向かって歩み続けるべき「日本国憲法の前文」を掲げさせて頂きます。
何度も何度も読み返して頂きたく存じます。

(「ポツダム宣言」同様に、この前文すらお読みになって居られないような方が、この国のトップに居座っているのは、とても残念なことです)

 

 

日本国憲法の前文

 

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

 

 
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