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ポツダム会談とトルーマンそして原子爆弾(3

2011218

宇佐美 保

 前文≪ポツダム会談とトルーマンそして原子爆弾(2≫迄の、『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間(チャールズ・ミー著 大前正臣訳)』からの引用文から、お分かり頂けますように、敗戦間際の日本の運命は、米ソ2大国のエゴ(と申しますより、その国のトップのエゴ:自国における自らの地位保全)の為に、木の葉のように翻弄されているのも知らず、日本はソ連に仲裁を求めていたのです。

 

勿論、チャーチルとて、前々文の引用文

「もしもチャーチルがイギリスの戦闘参加についてトルーマンを説得できれば五十万のイギリス人、
いやそれ以上のイギリス人の命も失われるかもしれない

に見られますように、チャーチルとて、降伏条件を緩めれば、日本は直ちに降伏すると分かっていながら、日本攻撃に参加して、戦利品の分け前にあずかろうとしていたのでしょう。

 

 

 こんな、ポツダムでのトルーマン、スターリンの丁々発止のやり取りをまるで気が付かない日本は、まるで、日本が世界の中心で、世界は日本の為に動いてくれるかの如き、悲しい浮世離れ的錯覚(ソ連は自分たちの味方になってくれると自分たちの希望的観測のみで動いている)にしがみ付いていたのです。

 

 

 日本時間でこの日(筆者注:7月二十一日)の午後九時半、東郷外相はモスクワの佐藤大使に再び打電し、ソ連政府に近衛特使を受け入れさせるよう、いまいっそうの努力をせよ、と訓令した。

 第一回の申し入れに対し、ソ連側は三日前の十八日、すでに回答してきたが、それは色よい返事ではなかった。スターリンが彼の宿舎でトルーマンに約束したように日本を子守唄で眠らせる″ようなものだった。回答はその日のうちにモスクワでロゾフスキー次官から佐藤大使のもとに届けられた。

 

  「天皇のメッセージ申に述べられた趣旨は一般的形式のもので、なんら具体的提案を含んでいない。ソ連政府にとって近衛特使の使命が何であるかも不分明である。したがって、ソ連政府は天皇のメッセージおよび書簡に述べられた特使派遣についても、なんら確たる回答はできない」

 

 佐藤大使はこの回答を本国に送るとともに、いまさらソ連にまわりくどい申し入れをしても駄目で、具休的な提案をしなければいけない、と切々と訴えた。

 二十二日の訓電はこれを踏まえたものである。それには、

 

 [無条件降伏ハイカナル場合ニオイテモ受諾シ得ザルモノニシテ……敵ニシテ無条件降伏ヲ強要セントスルニオイテハ全国一丸トナリ敵ニ当ラントスルモノナリ]

 と悲壮な決意を披露しながら、そのような事態を避けるためにソ連の調停をたのみたい、具体的提案は近衛特使の口から伝えさせたいのだ、と説明した。

 

 [コノ際、直チニ具体的条件ヲ示スコトハコレマタ対内関係上ナラビニ対外関係上、不可能カツ不利ナルニッキ、ソノ間ノ機微ナル事情ノモトニ近衛公ヲシテ大御心ニ基クワガ方ノ具体的意図ヲ「ソ連」ニ伝達シ、東亜ニ対スルソ連ノ要求卜睨ミ合ワセツツ話合ノウエ、米英側二当ラシメントスル次第ナリ]

 

そしてソ連に対してなんらかのお礼をすることをほのめかし、近衛特使の使命は平和斡旋の依頼とともに「戦時オヨビ戦後ヲ通ジ、帝国外交ノ基本タルベキ日ソ間協力関係樹立ニ関スル事項ヲ商議スルニアリ」と伝えた。

 

 [右、ソ連側ニ申入レ、ソ連政府ノ特使派遣ニ同意スルヨウ御努力アイナリタシ]

 

 チャーチルは本会議であまり点をかせがなかった。

七月二十三日の本会議で、トルーマンとスタトリンは、彼にシリアとレバノンに関するフランスとの取引を許してやった。それは二人が彼に与えたパン層であり、彼がポツダムで手に入れた数少ない収穫の一つだった。

……

ワシントンではその日、グローブズ少将が原爆投下命令の原案を書いていた

 「カール・スパーツ将軍閣下へ。

@二〇空軍五〇九航空集団は一九四五年八月三日以降、天候の許す限りのできるだけ早い時期に、ヒロシマ、コクラ、ニイガタ、ナガサキのうちの一目標に最初の特殊爆弾を投下せよ

……

 


13章 二 大 国

 七月二十四日年前十時、スチムソン米陸軍長官はワシントンからの報告を受けて小ホワイトハウスに大統領を訪れ、原子爆弾の第l発が八月三日以降に投下できるようになった、と伝えた

トルーマンは喜んだ。これは彼の計画にピタリと当てはまった。彼は蒋介石に日本降伏要求の宣言の草案を送り、検討して署名するよう要求していたが、間もなく返事がくるはずだった。彼は「OKの返事が来次第、ポツダム宣言を発表しよう」といった。

 トルーマンが宣言を口にしたので、スチムソンはこの機会をとらえ、またもや例の問題を持ち出した。日本に天皇制を保証することを知らせてやる問題である。彼はいったんこの条項を宣言から落とすことに同意したものの、問題全体を考えなおしてみると、やはり日本に知らせるべきだと思った。

 もちろん、宣言の文言を修正きせるのは手遅れとわかっていたが、スチムソンとしては、大統領は事態の推移に注意すべきだと思った。そこで彼はトルーマンに、「もしも日本がこの一点で反発すれば、天皇制を保持できることを外交経路を通じて口頭で伝えることもできますよ」と念を押した。トルーマンは「間違いなく情勢を見守り、適当な状況になればそのようにしよう」と答えた。スチムソンがようやく部屋を出ていったとき、トルーマンもホッとしたに違いない。

 スチムソンが大統領の相談相手から外されていると思ったとしたら、それは彼だけでなかった。

 このように何度もトルーマンへ、実は結ばなかったとはいえ「天皇制の保証」を進言したりして、「日本の原爆投下前の降伏」が可能となるよう対処してくれていたスチムソン米陸軍長官を私達は忘れてはならないと存じます。

 

 

日本時間の七月二十五日午後七時、東郷外相はまたモスクワの佐藤大使に打電した。日本政府もイギリス総選挙の最終開票のため、ポツダム会談が中断きれることは知っていた。

 電報はまず佐藤大使に、イギリス首席代表が帰国している間、ポツダム会談が休会に入るのを利用し、どこへいってもよいからモロトフに会い、終戦を望む日本改府の熱意を印象づけよ、と指示していた。

……

 この電報もアメリカの情報機関に傍受、解読され、バーンズ、トルーマンと噸次、上に報告された。

電報には国体推持がまだ問題になっており、日本政府としては無条件降伏は受け入れられないものの、大西洋恵葦≠ノ基づく和平には反対しない、ともあった。

……

 日本にとって天皇を保持することが国家の自存と名誉の問題であった。日本側は天皇保持は形式的な意味しかなく、実質的、政治的意義がないことを理解していた。それにもかかわらず「米英ニシテコノ点二拘泥スルニオイテハ、本件ハコノ点ニヨリテコトゴトク挫折スルホカナクナルペシ」なのであった。

アイゼンハワ一連合軍欧州最高司令官はスチムソン陸軍長官に、日本は最も面子を失わない形で降伏する道を求めているのだ、と語っている。日本がこれほどなんでもないようなことのために、これほど大きな犠牲を払っても戦いつづける覚悟であることは異常に思われよう。それでも、ソ連がまだ宣戦を布告していないことは救いに思われた。事実、ソ連はまだ中立国であり、日本のために無条件降伏の形式を緩和するよう仲介してくれるかもしれなかった。ソ連が調停してくれる可能性がどんなに薄いとしでも、日本政府としてはその自存と名誉″のなんらかのシルシを救う試みはしなければならなかった。

 

         *

 その晩、モスクワでは佐藤大使がロゾフスキー次官を訪ねた。(ただし、これはこの日、東京で出された訓電に基づくものでなく、七月二十一日付の指示によるものである。二十五日発の電報はまだモスクワで受け取られていない。)

 大使はロゾフスヰ一に、天皇が派遣を希望している近衛特使の使命について繰り返し説明した。……

……

 しかしソ連としては、急いで日本に助けの手を伸ばすことはない。スターリンになにかがわかっていたとしたら、それは約束や書類上の申し合せを信用するより、軍隊をうまく使ったほうがよいということだった。ソ連軍はまだ極東で完全配置についていなかった。

 ロゾフスキーは佐藤に、ソ連がなんらかの助けになるかもしれないとの印象を与えた。佐藤大使は「ロゾフフキーは終始、熱心かつ丁重な態度をもってわが方の申し入れを聴取し、政府の回答を約束した」と東郷外相に報告している。

 

 

 これでは[日本は全くのお人良し]です。

そして、

この「スターリンになにかがわかっていたとしたら、
それは約束や書類上の申し合せを信用するより、
軍隊をうまく使ったほうがよいということだった
」は、
北方領土問題にしても「約束や書類上の申し合せ」云々よりも
軍隊をうまく使ったほうがよいということだった

なのではないでしょうか?

 

 

 日本政府がポツダムにメッセージを伝えようとしている間、トルーマン大統領はスパーツ将軍に対する原爆投下命令書の原案に目を通していた。それにはナショナル・ジオグラフィック社発行の大きな地図から切り取ったアジア地図とともに、四つの攻撃目標候補地(広島、長崎、小倉、新潟)について説明した一枚の書類がつけてあった。

 イギリスはすでにアメリカの原爆使用プランを承認しており、チャーチルも「原爆を使うか使わないかの決定は争点にもならなかった」と書いている。原爆開発計画に参加した一部の科学者は政治的、道徳的意味を心配しはじめていたが、このことは大統領に届いてはいず、大統領も原爆投下を躊躇することは夢にも考えなかった

 ある意味で、原爆は二つの爆弾として存在していた。一つは他の兵器よりも強力なだけで、準備の整い次第、使われるべき兵器であった。この爆弾には投下の決定など決してなく、開発作業が始められた瞬間から、その使用は必然的なものだった。

 いや、原爆は特別の考慮を要する別種のものだ、というのが第二の意味であった。この第二の意味では、原爆はその力において従来の兵器をはるかに超越していたので、種類において違ったものとなり、究極″兵器となり、そのため、その物理的破壊力を超える心理的効果を持つこととなった。チャーチルをして「神の第二の怒り」と叫ばすまで興奮させ、アラモゴルドの科学者に最後の審判の日を口にさせ、スチムソンがトルーマンとバーンズの前で実験報告番を読みかげたときに彼の声をふるえさせ、一部の科学者に原爆使用反対を思い立たせたのは、原爆の第二の面であった

 トルーマンは後日、彼は最後の日≠フ仕掛としてでなく、たんなる兵器としてしか考えなかったかのように原爆について語っている

「私は軍事兵器として見、その使用について疑いを持ったことは一度もなかった」

 しかし実際には、彼も最後の日の仕掛としての原子爆弾を知っていた。原爆に関する政策を調査し、それについて勧告した「中間委員会」は早くも六月一日に「たんに投下するだけでなく、最大の心理効果をあげるために、軍民二重目標、すなわち労働者の住宅に囲まれた軍事施設に対して使うべきである」と報告している。

七月二十五日ころには、トルーマンがそれまでにレイヒ、アイク、キング、アーノルド、ルメイその他から勧告されたように、一般には兵器としての原爆は必要でなくなったと考えられていた。太平洋戦線の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、日本に対する原爆投下が軍事的効用があるかどうかについて諮問されなかったが、彼は戦後、効用性はなかった、と自らいっている。

 マーシャル統参本部長だけが依然としてこの問題に慎重で、攻撃が奇襲になることには深く悩んだ。

のちに彼は原爆が対日戦を数カ月″早く終わらせたといった。ルメイは二週間縮めたといった。チャーチルは「日本の運命が原爆によって決まったと想像するのは誤りであろう。日本の敗北は第−弾の投下前に決まっていた」と述べている

 メリカ戦略爆撃調査団も戦後「原爆が投下されなくても、ソ連が参戦しなくても、上陸作戦が計画されなくても、日本は降伏しただろう」と報告している

 日本に対して、兵器としての原爆も、最後の日の仕掛としての原爆も落とす必要はもはやなくなっていた。しかし日本に落とさなかったら、最後の日の仕掛はソ連に心理的効果を持ち得ない。したがつてバーンズがいったように、ソ連に対して心理的効果を与えるために、日本に原爆は投下された

 スターリンに対する効果は二重であった。アメリカは最後の日の仕掛を使っただけでなかった。スターリンにもわかっていたが、軍事的に必要でなくなったときに使ったのだった。ソ連に最大の印象を与えたのは、このヒヤリとさせられる事実だった。

大統領は軍の作業を進めさせる″必要があったため、まだ日本にポツダム宣言の最終警告を出してない七月二十五日、投下命令を承認した。彼はスチムソンに「ポツダム宣言に対する日本の回答が受諾可能と私が貴官に通告しない限り、投下命令は有効である」と訓令した。宣言に対する日本の回答が受け入れられるものになる可能性はきわめて薄いと考えられた。

トルーマンはのちに、「原爆投下は大きな決定でなかった。悩まねばならぬような決定ではなかった」といっている。 陸軍長官ヘンリー・スチムソンの仕事は終わった。

 七月二十五日、彼はポツダムを立ち、帰国の途についた。来たときと同じように悩みながら去った。

彼は大統領に与えた勧告を思い出し、トルーマンがソ連を扱ったやり方、スターリンがアメリカの原爆使用から結論しそうなこと、元気のよくなった大統領″がソ連に対し最後の日の仕掛の心理を利用しようとしたやり方、大統領が極東支配競争で他人を押しのけているやり方を考えた。

彼はこれはみな怖いことだと結論した。もう七十七歳で、疲れ果てていた。引退すべき時機と思い、ポツダム会談が終わって数週間後、辞表を提出した。しかし、そのころになっても「自分はいけなかった」と思い、辞任前に大統領に最後のメモを書き、ソ連と原爆管理協定を結ぶよう勧告した

 

 

念の為、ここでの要点を次に抜き書きします。



原爆に関する政策を調査し、それについて勧告した「中間委員会」は早くも六月一日
「たんに投下するだけでなく、最大の心理効果をあげるために、
軍民二重目標、すなわち労働者の住宅に囲まれた軍事施設に対して使うべきである」と報告している。


と、とんでもない報告がある一方、

一部の科学者に原爆使用反対
 七月二十五日ころには、トルーマンがそれまでにレイヒ、アイク、キング、アーノルド、ルメイその他から勧告されたように、
一般には兵器としての原爆は必要でなくなったと考えられていた

マーシャル統参本部長だけが依然としてこの問題に慎重で、攻撃が奇襲になることには深く悩んだ。

のちに彼は原爆が対日戦を数カ月″早く終わらせたといった。ルメイは二週間縮めたといった。

チャーチルは「日本の運命が原爆によって決まったと想像するのは誤りであろう。
日本の敗北は第−弾の投下前に決まっていた」と述べている
 アメリカ戦略爆撃調査団も戦後
「原爆が投下されなくても、ソ連が参戦しなくても、上陸作戦が計画されなくても、日本は降伏しただろう」と報告している

陸軍長官ヘンリー・スチムソンの仕事は終わった。

 七月二十五日、彼はポツダムを立ち、帰国の途についた。来たときと同じように悩みながら去った。
……ポツダム会談が終わって数週間後、辞表を提出した。しかし、そのころになっても「自分はいけなかった」と思い、
辞任前に大統領に最後のメモを書き、ソ連と原爆管理協定を結ぶよう勧告した


 

しかし、次のようにして原爆は日本に投下されたのです。

トルーマンは後日、彼は最後の日≠フ仕掛としてでなく、たんなる兵器としてしか考えなかったかのように原爆について語っている
バーンズがいったように、ソ連に対して心理的効果を与えるために、日本に原爆は投下された
大統領は軍の作業を進めさせる″必要があったため、まだ日本にポツダム宣言の最終警告を出してない七月二十五日、投下命令を承認した
トルーマンはのちに、「原爆投下は大きな決定でなかった。悩まねばならぬような決定ではなかった」といっている


 

 

恐ろしい事ではありませんか!?

 

 

 トルーマンは七月二十六日、米軍視察のためフランクフルトに飛んだ。……

トルーマンがポツダムに帰ると、蒋介石が日本に降戦を呼びかける宣言を承認した、という朗報が待ちかまえていた。その夜七時、解禁時間年後九時三十分の指定で、宣言のコピーが報道陣に配布された。

 宣言はアメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席、英国首相は数億ももの三国民を代表しで協議した結果、日本に戦争終結の機会を与えることに同意した」という条文で始まり、十三の条文で成り立っていた。                      一

 まず「米英中三国の膨大な陸・海・空軍兵力は四方からの軍隊、航空隊によって何倍にも増強され、いまや日本に最後の打撃を与える態勢に入った。この軍事力は日本が抵抗をやめるまで、対日戦争を戦い抜くとの連合国の決意によって維持され、鼓舞されている」とうたった。

 次にナチス・ドイツが無益な抵抗をした結果、ドイツの国土、工業、生活が廃墟と化した例をあげ、日本方面に集結する対独戦争よりも強大な連合軍兵力が日本を壊滅させると脅した。

「われわれの兵力の全面的投入は日本軍の必然的、完全な破滅と、これも必然的な日本本土の徹底的な荒廃を意味しよう」

 そして宣言は日本に二つの道の一つを選択せよと迫った。

「いまや日本が決定すべき時がきた。その無謀な計算が日本帝国を壊滅の瀬戸際に追いこんだ勝手な軍国主義的進言者たちによって引き続き支配されるか、それとも理性の道を歩むか」

次に無条件降伏の条件≠ェあげられた。その条件は「われわれがこれから逸れることばなく、対案はなく、遅延を許さない」ものである。

 第一に、軍国主義者の追放である

「日本国民を欺し、世界征服に向けて誤導した者たちの権威と影響力は、永久に排除しなければならない。なぜならば、無責任な軍国主義を世界から追放しない限り、平和と安全と正義の新秩序は不可能だからである」

第二に、連合軍が日本を占領することである。占領は「このような新秩序が確立され、日本の戦争を引き起こす力が破壊されたという確証が生まれるまで」行なわれ、「連合国が指定する日本領土の諸点は基本目標達成のため占領される」ことになる。

 第三に、領土を日清戦争前に戻すことである。

「カイロ重言の条件を実施し、日本が主権を及ぼす範囲は本州、北海道、九州、四国およびわれわれが決める小さな島々に限られる」

 第四に、日本軍隊を武装解除し、復員させ、平時の生活に戻すことである。

「日本軍隊は完全な武装解除後、平和的で生産的な生活を営む機会を与えるため、それぞれの家に帰ることを許す」

 第五に、日本民族を奴隷化するつもりはないが、戦争犯罪者は厳罰に処し、日本を民主化することである。

「われわれは日本人を民族として奴隷化するつもりも、国家としてなくすつもりもないが、われわれの捕虜を虐待した者を含め、あらゆる戦犯に厳罰を科す。日本政府は日本国民の民主主義的傾向を復活させ、強化するために、あらゆる障害を取り除かねばならない。基本的人権の尊重とともに、言論、宗教、思想の自由を確立しなければならない」

 第六に、経済を維持するだけの工業は許すことである。

「日本に自国の経済を維持し、公正な賠償を払わせるような工業は許すが、戦争のための再武装を可能にするような工業は許さない。この目的のため、原料の支配は許さないが、原料の入手は許きれよう。いつかは世界貿易への参加も許されよう」

 第七に、日本に国民の自由意思に基づく政府の樹立後、占領軍は撤退する

「以上の目標が達成され、日本国民の自由に表現された意思に基づく平和志向で、国民に責任のある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は引き揚げよう」

 スチムソンらが原案に天皇制保持の保証をいれていたのはこの個所である

 最後は、最も重要な無条件降伏の呼びかけである。

「われわれは日本政府がいま全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、これを実施する適切な保証を与えることを要求する。さもなければ日本は速やかに全面的に壊滅されるだけである」

 宣言には「一九四五年七月二十六日、ポツダムにおいて」と、トルーマン、チャーチル、蒋介石の署名がなされた

 

 

この宣言からは、広島長崎で被害にあわれた方々は、殊更に「国体……」に拘らずに、即座に、“日本は降伏する”と全世界に発信してくれれば良かったのに!!!と思わずにはいられないと存じます。

 

 

 これより先、スチムソン陸軍長官はトルーマンに、スターリンにも署名を要請せよと勧告していた

日本がソ連の中立に一縷の望みを託していたら、この望みは断つべきだ、というのがスチムソンのいい分だった。ついに大国がみな敵に回ったことを知れば、日本も間違いなく手をあげる、というわけである。マーシャル統参本部長も前国務長官のコーデル・ハルもこの勧告に同意し、ソ連からも宣言の承認を取りつけるようにとトルーマンにすすめた

ポツダム会談の開会前につくられた草案には、ソ連も参加する言葉が代案としていれられていた。

スターリンの署名があるだけで、日本はただちに降伏すると考えたブレーンもいたしかしトルーマンは宣言の発表前、ソ連に関する文句も削ってしまった

宣言に三つの要素をいれれば、その一つでも日本降伏を導く、とブレーンは示唆した。それはスターリの署名、天皇保持の約束、全面的破壊の裏付けとして具体的に原爆をあげることの三つだった

しかし、これらは一つも宣言にいれられなかった

 アメリカ側は発表の直後にバーンズがモロトフのもとに写しを届けさせるまで、宣言についてソ連に知らせなかった。モロトフの通訳が電話で、発表を「二三日待てないかと問い令わせてきた。

 翌二十七日、モロトフがバーンズを訪ねた。

 バーンズは弁解した。「今朝、二、三日待ってくれとの要求を聞いたが、遅すぎました」

 モロトフは反論した。「昨夜、宣言のコピーを受け取るとすぐ、たのんだのです」

 バーンズは説明した。「宣言は今朝早く報道させるため、昨夜の七時に報道陣に知らせたので、それでも遅すぎました。大統領は政治的理由から、日本に対する降伏要求は即時発表する事が重要だと考えたのです。私は二日前、チャーチル首相と協議し、発表について承諾を得ました。ついで蒋介石氏に打電しました。大統領は昨日、フランクフルトから帰ったとき、蒋介石氏の承認の返電を受け取ったのです」

 モロトフは質問した。「それで発表後までソ連に知らせなかったのですか」

 バーンズは答えた。「ソ連は対日戦争に加わっておらず、ソ連を煩わせたくなかったので、相談しなかったのです」

 モロトフはこれでこの話は打ち切った。「私はこれ以上、この問題について討議する権限を与えられていません」

 その夜、夕食前、トルーマンは涼しい微風に吹かれながら、小ホワイトハウスの裏口のポーチに立ち、ラッパ手が国旗降納式の曲を吹き鳴らすのを静かに聞いていた。曲が終わると、感動した大統領は国旗掲揚柱の下まで歩み寄り、ラッパ手を祝福した。食裳に入るため、戻ってきたとき、そばにいたピアニストのユージン・リストに「あの曲は演奏が難しいね、君」とささやいた。

         *

東京時間で二十七日の午前六時、日本の短波受信機はポツダム宣言をキャッチした。政府は急いで会議を開き、年前は最高戦争指導会議・構成員会議(首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長によって構成)、午後は閣議に移して、一日中、宣言の受け止め方について議論した。

 東郷外相は宣言は明らかに「無条件降伏」を押しっけるものではないと感じ、天皇にも最大の慎重さで扱いたい、と奏上した。

 

一方、豊田副武軍令部総長は、政府はただちに宣言はバカげており、検討に値しないという声明を発表すべきだと主張した。豊田総督が宣言でいう“無謀な勝手な軍国主義者”であることはいうまでもない。

しかし宣言を前向きに受け取りたがっている派にとって、2つの点で説得力を持っていた。

1は、スターリンが宣言の署名に加わっていないことであった。したがってソ連はまだ中立国であり、日本のために調停してくれるかもしれない

2は、宣言中「無条件降伏」という言葉は1回しか出てこず、それも「全日本軍隊の無条件降伏」といっていることである。

鈴木貫太郎首相は、“最大の慎重さ”で宣言に反応する必要があるという東郷外相の意見に賛成した。日本政府にとって問題は、いかにして、だれに対して回答するか、であった。宣言は外交路線、例えば中立国を通じて送られてきたものでなかった。新聞とラジオ放送で知らされたものだった。


 ここに掲載しましたブレーンの示唆をトルーマンが採用していれば、日本は直ちに降伏に向かい、原爆投下もソ連の参戦もなかったのでしょう。
しかし、トルーマンは日本の降伏を引き延ばし、日本への原爆投下を優先していたのでしょう。

 

 

18章 幕引きの時

 

 八月一日 (水曜)

 ワシントンではグローブズ少将がスチムソン陸軍長官の原爆担当補佐官ジョージ・ハリソンに一つの書類箱を渡した。それにはシカゴ大学の金属学プロジェクト・チームからの陳情書、アンケート調査、報告が入っていた。

 シカゴ大学の物理学者、レオ・シラードは原爆について道徳的に悩んでいた。バーンズ国務長官は原爆について、ヨーロッパでソ連をもっとおとなしくさせるための最後の審判の日″の仕掛だと語ったが、シラードもそれをきいた一人だった。時間がたつにつれ、原爆を使ってはいけないというシラードの良心の痛みは耐えられないほどになった。七月初め、彼はついに勇気を奮い起こし、原爆計画に参加した科学者仲間の抗議運動を組織しはじめた。もちろんこの時点ではもはや手遅れだった。

 七月の前半、彼は仲間の科学者の間に「最初に原爆を使った国は想像を絶する規模の破壌の時代を開く費任を負わねばならないかもしれない」と述べた陳情者をまわし、六十九人の署名を集めた。この陳情は議論をひき起こしたが、彼はついに百五十人の科学者の意見をアンケート調査した。日本に対してもはや原爆を使う必要はなくなったという、軍部の判断を知っている者は一人だにいなかった。

 日本降伏のために原爆使用賛成……15

 軍事的誇示に賛成……46

 警告として実験的示威に賛成……26

 示威には賛成だが、脅迫には不賛成……11

 使わず、示威せず、秘密を継続することに賛成……2

 

 ハリソン補佐官はグローブズ少将から受け取ったシラードの陳情書、反対陳情書、アンケート調査を眺め、一括して資料箱に片づけた。


 あくまでも「日本への原爆投下」へまっしぐらと思えます。そして、運命の194586日に関する記述です。

 

トルーマン大統領はオーガスタ号のサン・デッキに腰をおろしていた。気温は華氏六十八度、空は快晴、船が高速で航行しているため波は立っているが、海面は静か。艦内のバンドの演奏をきいた後、大統領は乗組員と昼食をとった。正午二、三分前、オーガスタ号の作戦室のフランク.・グラハム大佐がトルトマンに電報を渡した。

 [ワシントン時間、八月五日午後七時十五分、広島を目視爆撃した。戦闘機、高射砲の抵抗なし。

 爆弾投下十五分後、パーソンズが「あらゆる点で結果は明白な成功。目視による結果は実験結果を上回った。投下後の本機の状況は正常」と報告]

 わけはわからないが、大統領が興奮し、はしゃいでいるのに乗組員は気づいた。大統領はグラハム大佐と握手し、「これは史上最大の事件だ!」と叫んだ。

 つづいてスチムソン陸軍長官から第二報が入った。

 [ワシントン時間、八月五日午後七時十五分、大型爆弾を広島に投下。第一報によると、前の実験をはるかに上回る完璧な成功の模様]

 

オーガスタの航海日誌によると、トルーマンは席から躍り上がって帯び、バーンズのもとに歩み寄って、                          −′

「さあ帰国だ!」

 といった。   

 

 

 

 八日午後五時、ようやく念願がかなえられた佐藤大使がモロトフの前で、用件を切り出そうとすると、彼はそれをさえぎり、

「ソ連政府の名のもとに日本政府に伝える通告がある。これをお伝えしたい」

 といった。彼は長いテーブルの端にすわり、大使は反対側にすわった。

 モロトフは長い声明文を読みあげた。それは意外にも日本政府に対する宣戦布告だった。これ以上、明確な態度もない。布告は次のように述べていた。

 

  「ドイツの敗北後、世界で戦争をつづけている大国は日本だけになった。

 日本はポッダム宣言を拒否したが、これによってソ連に対する調停依頼は全くその基礎を失った。

 日本が降伏を拒否したため、連令国は対日戦争に参加するよう、ソ連改府に提案した。それは戦争終結を早め、犠牲者の数を少なくし、全般的平和に頁献させるためである。ソ連政府は連合国の義務に従い、この提案を受け入れ、ポツダム宣言に加わった。

 ソ連はこのような政策が平和を促進し、各国民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、ドイツが無条件降伏の拒否によってなめたような危険と破壊を、日本人にもなめさせない唯一の方法と考える。

 以上かち、ソ連政府は明日すなわち八月九日から日本と交戦状態に入ることを宣言する」

 

 佐藤大使は宣戦布告文をきいたあと、ソ連の措置を遺憾とするとともに、

「日本国民を犠牲と苦難から救うためといいながら、日本と戦端を開くのは理解に苦しむ」

 とモロトフに反駁した。

 大使はまた宣戦布告文を本国政府に伝える方法について質問したところ、モロトフはその通信は差し支えない、暗号を使ってもよいと答えた。


       *

 同じ日、トルーマン一行を乗せたオーガスタ号はニューボート・ニューズ港に帰港、大統領はホワイトハウスの執務室に戻った。

 スチムソン陸軍長官がトルーマンに原爆投下後の広島の写真を見せた。そのとき彼は進言した。いまや、できるだけ早く降伏するよう日本を説得すべきです。広島に原爆を落とし、さらにソ連が宣戦を布告したからには、日本を降伏させるのに十分です──と

 が、トルーマンには第二弾の投下を中止する気が毛頭なかったことは明らかである

        *

 ロンドンではモーラン卿がチャーチルを訪ねた。モーランの日記。

「彼は絹のチョッキをつけ、ベッドの端にすわって床をじっと見つめていた。

『打撃を受けなかったふりをしても駄目だな、チャールズ。わしは余生をなにもしないですごす訓練は受けなかったよ。飛行機で死ぬか、ルーズベルトのように死んだほうがよかったよ。……憂鬱で、発作が起きるんだ。一生、どんなだったか知ってるだろう。それがみんな消えてしまった』

 物音がきこえた。

『あのたたく音は何だ。一日中、つづくのか。わしにはもう止めさせられない。ああチャールズ、祝福が呪いに変わる。君はわしを生かしつづけたが、いまや……』

 彼は背中を向けたが、私を見あげたとき、その目には涙があふれていた


        *

 モスクワの日本大使館の電話と無線通信装置は停められた。モロトフは佐藤大使に、宜戦布告文とモロトフ・佐藤会談の報告を本国に送ってもよいと約束したのに、公電はついに東京に届かなかった。

 その代わり、会談数時間後、モスクワ放送は対日宣戦布告を放送した。八月九日未明、東京の無線台はこれをキャッチした。

 寝耳に水の日本政府はつづいて、満ソ国境のソ連軍が東と西から満州に侵入し、関東軍を攻撃しはじめたとの報告を受けた

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 米軍機「ボックス・カー」号が長崎に向かっていた。同機にはチャーチルをたたえてデブ≠ニ名づけた第二の原子爆弾が積んであった。

 九日年前十時半、鈴木首相は最高戟争指導会議・構成員会議で、口火を切った。

「四囲の情勢上、ポツダム宣言を受諾せざるを得ないと思うが、みなの意見をおうかがいしたい」

一分後、二番目の原爆が長崎に落とされた

この期に及んでも、日本の軍国主義者たちは国民の血によって自らの職業的面子を保ちたい気持を捨てなかった。宣言を無条件で受諾すべきかどうかの問題は午後の閣議に持ち越されたが、夜になっても決着を見なかった。深夜、天皇の主宰する御前会議が開かれ、午前三時、ついに天皇が親しく戦争終結の裁断を下した。

外務省は十日、宣言には「天皇の国家統治の大権を変更するという要求が含まれていないとの了解のもとに」宣言を受諾すると連合国側に通告した。アメリカはこれに「日本を統治する天皇および日本政府の権限は連合国最高司令官に服属す」「日本の政府形体はポツダム宣言に基づき、究局的には自由に表明された国民の意思によって決定する」と回答してきた。

 これも、もめにもめたが十四日、天皇は再び裁断を下し、これを受諾することに決まった。

 十五日、終戦の詔勅が放送される。

 トルーマンも日本が無条件降伏(天皇制が保持され、連合軍最高司令官のもとに服属するという条件のもとに)を受諾した、と発表した。


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長崎の死者、死につつある者、不具にされた者の数は十万人にのぼった。レイヒ提督は「われわれは暗黒時代の野蛮な道徳律を採用したのだ」と結論した。だれも事実を直視したがらないが、ポツダム会談の出来事と会話から、広島と長崎に対する原爆使用が無茶な殺戮であったことは明らかである。

 

 

 ポツダム宣言に対して、天皇制の維持云々に拘泥せず、日本の多くの人々を救う為に、直ちに(遅くとも原爆投下準備完了の8月3日前)受諾する旨を返答(そして全世界に発信)していたら、ソ連の参戦も、いわんや原爆投下もなかったでしょう。

(これを単なる結果論として片付けてしまったら、私達は歴史を学ぶ意味が無くなってしまいます。
更には、ポツダム宣言に対して、鈴木首相(当時)が”黙殺する”と言おうと、何と言おうとの問題ではなく、この著に見られる米国ソ連の思惑を考えれば、宣言を直ちに受け入れていなくてはならなかったのです)

 

 これらの記述を引用させ得て頂きながら、私は、暗く深い鬱状態に陥りとても自らの見解を書き添える気力も失せてしまいました。

 

 『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間(チャールズ・ミー著 大前正臣訳)』(原著名:MEETING AT POTSDAM by Charles L.Mee,Jr.)からの引用は、この位にしまして、又、別文に私の嘆きを吐露させて頂きたく存じます。

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