林真理子氏と海老蔵そして藤原義江(2)
2010年12月15日
宇佐美 保
先の拙文≪林真理子氏と海老蔵そして藤原義江(1)≫の続きとしまして、『ピンカートンの息子たち 斎藤憐著 2001年2月23日 岩波書店発行』を以下に抜粋し、掲載させて頂きます。
その前に、私事ですが、私の母が生前、藤原義江に関して次のような記述を自叙伝に記してありますので、一寸掲げさせて下さい。
最後に、最近読んだ、藤原義江の伝記の本の中に、何度も出てきた歌が、私の大好きな歌なので、ここに書きます。 ・・・ 私の心を鼓舞しなければならない時に、歌う歌なのです。 それに、女学校時代に、金沢の公会堂で、素晴らしい歌を、藤原義江が歌って下さった事を思い出しつつ、何か面白いめぐり合せ!と、思いました。 『求めよ、さらば与えられん、叩けば開く、向上の 一路たどらん、我が友よ。 来たれ、遥かに永遠の、希望の光 仰ぎつつ、 尊く生きん、諸共に、 尊く生きん、諸共に。』 |
このように、私の母は、いつまでも藤原義江の歌(美声美男子ぶり)を思い出していました。
では、以下は、斎藤憐氏の著作の引用でございます。
一八九七(明治三十)年、スコットランドのグラスゴーから一人の青年が下関にやって来る。
・・・
稲荷町で筑前琵琶を弾きながら平曲を語る美人芸者坂田キクに、グラスゴーからやって来た青年実業家は出会う。ネール・ブロディ・リード二十八歳、キク二十三歳の春のことだ。
翌年、下関の「マダム・バタフライ」はリードとの混血児を大阪の実家で産んだ。
瓜生商会の番頭は、思いもよらない息子の誕生におろおろするネール・リードの「不始末」を、その筋に頼んで金で解決しようとした。だが、間に立った男は手切れ金を懐に入れ、キクと幼子には一銭も渡さなかった。
母が謡う落ち行く平家の物語を子守歌に関門海峡を渡って、藤原義江のこれから一生続く流浪の旅が始まった。
・・・
乳飲み子を抱えたキクは、その港町の石炭問屋に義江を預けた。石炭問屋の親爺がどうして混血児の赤ん坊を預かったかはわからない。だが、二十四歳の美人芸者の頼みを聞く男がその港町にいたとしても不思議じゃない。
・・・
ロシアが敵になると、ガイジンの顔をした少年は若松の子供たちから「露助の子」といじめられ、母子は大分県国東半島南端の別府湾に臨む杵築の旭楼に落ちていく。キクは足手まといの義江を村はずれの西林寺に預けた。義江は和尚の横で木魚を叩きながら、訳も分からぬお経を大声で唱えて発声練習。
・・・
スコットランド人の血を引く義江はぐんぐん大きくなって、いじめられっ子がやがてガキ大将になる。・・・「また義江ちゃんに殴られた」と帰ってくる子に近所の親たちが非難の大合唱。寺の和尚も手を焼いて放りだし、母キクは仕方なく義江を旭楼に連れ帰った。
楼主の藤原徳三郎が汗と埃にまみれた混血児を白粉の匂いのする風呂に入れると、みみず腫れの背中に蚤の死骸がへばりついていた……。
大分県速見郡杵築町大字杵築八番、坂田キク私生児、父藤原徳三郎、認知届け出。
抱えた芸者の私生児を置屋の親爺が認知してやるのは、この当時、さほど珍しいことではない。
この徳三郎さんのお蔭で、藤原義江という名前の混血児が日本国籍を持った。
旭楼の物好きな客たちは、酒の肴に混血児に唄を歌わせた。
町内で鉄工所を営む水野松次郎という客が、客の座興に唄を歌わせられている義江を見て、「子どもを見せ物にするとは何事か!」と強引に自分の家に連れ帰った。
・・・
一九〇五(明治三十八)年、この水野さんのお蔭で義江、晴れて杵築尋常小学校に入学した。
水野さんは前々から自分の鉄工所の跡取りを欲しいと思っていたので、母のキクに「義江を貰えないか」と話を持ちかけた。
母キクはあっさり義江を手放し、次の日から義江は水野君と呼ばれることになった。
後年、義江はこの水野を「短気な人で、わんぱくな僕はよくなぐられたが、それでもずいぶん大切にされた」と語っている。
混血児が学校に通い出せば、取り囲んだ級友たちから「アイノコ」と嚇される。さげすまれて泣き出す少年に、「日本人はね、みんな混血児なんだよ」と低い声で教えてくれた近所のお兄さんがいた。
義江は六十二年後、『歌に生き恋に生き』を書いた時、この河野のお兄さんの名前を覚えていた。
藤原徳三郎、鉄工所の水野さん、河野のお兄さん……。大分県地方には義侠心のある男が多いのか?
・・・日露戦争に勝って一等国の国民に成り上がり、・・・餓鬼どもに混血児は「フツウでない」といじめられ、義江は反抗的になる。水野さんの細君、すなわち義母にもたてつくようになり、小学校四年を終わったところで、この養子縁組はご破算、水野義江は藤原義江に戻った。
義江を水野さんに渡して身軽になった母のキクは、大阪は「北新地」で働いていた。
「母が働きに出たあとの一人ぼっちは寂しかったが、それよりも義江には昼の方がつらかった。杵築以来、学校に行っていないので、近所の子供たちが学校から帰って来るまでは、たいてい一人ぼっちでお弁当を持っては梅田駅に行った。改札口の手摺りにもたれて、日が暮れるまで飽きもせずに、上り下りの汽車を眺めていた」「今と違って一時間に一本或は二時間に一本であったかもしれない」
ある日曜日のこと、キクの弟の辰之助が義江を活動写真に連れていってくれた。映画館の前で客入れのための楽師の演奏に義江は引きつけられる。「一人は往来を見、一人は楽譜を見、一人が青空を仰いで、めいめいが大小違ったラッパを、やけくそのように吹きまくっていた」「義江は、活動写真館に早く入ろうという叔父にさからって、いつまでもこの楽隊の音楽に聞きほれていた」
・・・
叔父の辰之助は、十歳になった義江を歯ブラシを作る外資系の「ロイヤル・ブラッシュ社」の給仕にする。朝六時に家を出て四円の月給を取ったが、辰之助は五十銭だけを少年に渡し、あとは養育費だといって自分の懐に入れた。次には近所の質屋の住み込み丁稚になり、二歳のお坊ちゃんを一日中背中にくくりつけられて、背中が小便でただれる。煎餅布団に腐った飯、下痢をすれば「絶食が一番の薬」と言われ、毎日学校に通える近所の子をぼんやり見ている毎日。
次に勤めたのは渡辺橋の帽子屋の住み込み店員。その次には上福島の天理教教会の給仕。
いくら職場を変えても、手に職も学歴もないから、お茶汲みや届け物とかの雑用ばかりで面白いわけがない。
・・・
義江は大阪のサミュエル商会という外資系の貿易会社の給仕をしていた。
七月の暑いある日、母のキクが会社を早引けしてこいと言った。汐見橋のたもとにある母の宿屋に行くと「何もかもここによう書いてあるよって、これを持ってお父さんの所へお行き」「お前はお父さんの所へ行けばしあわせになれるんや」と汽車の切符を渡された。父親が下関にいるから会いに行けというのだ。どうやら、近頃母キクの所へ出入りを始めた義太夫語りの男が、情婦のコブの厄介払いを思いついたらしい。
「お父さん」という言葉に実感がない十一歳の少年は、眺めるばかりだった汽車に乗れるのが嬉しくて、下関行きの汽車に乗った。
・・・
十一年前、赤ん坊の顔さえ見ずに逃げ出した父親との対面である。
背の高い西洋人がはいって来た。僕はギョッとして棒立ちになった。その西洋人がたしかに父であると直感したのだが、その人は僕には少しもかまわずにつかつかと進み、テーブルの前に腰かけ、葉巻を灰皿の上に置いて、そこにある手紙を一つ一つ封を切っては目をとおし、鉛筆で何やら目印をつけていた。その間、かわるがわる若い人や老人たちが来て、ペコペコおじぎをし、書類を持って来てはサインをもらって出ていった。
……何か言ってくれるのを待っていたが、依然として父は一言も発しなかった。子ども心にこうした父の仕打ちが理解できなかった。やがてこれもりっぱな髭の持ち主が羽織袴で入って来て、母からの手紙を持って父に英語で話し始めた。だいぶ長い会話だったが僕にはわかるはずもなく、初めて聞く英語の発音を珍しく耳にしていた。
・・・
父親とは言葉だって通じない。
そして、父の部下は日本語で「いろいろわけがあるので、この手紙を持ってまた大阪へ行きなさい。
わかりましたね。サヨナラ」と言う。
・・・
両親に見放された少年を運命の女神が助ける。
汽車の長旅に疲れ切って眠り込んでいると「姫路、姫路、播但線乗り換え。十五分停車」という駅員の大きな呼び声。眠い目をこすって座席から起き上がると、続いて大阪北区延焼中の知らせ。
七月三十一日の朝日新聞縮刷版を見てみよう。
「大阪市北区空心町のメリヤス工場から出荷した火は、十メートルの風にあおられて堂島川の北側を西に向かった。一日燃え続け、全半焼五十一町、一万六千戸、死者三万人を出し、大阪キタは壊滅した」
臨時停車した列車に行き先のない少年がポツンと取り残された。
「家は、両親は?」と車掌が尋ねても首を振るばかりなので、駅長室へ連れて行かれる。駅長は少年の持っていた手紙を読んで、「かわいそうだが、もう一度下関へ帰ったほうがいい。下関へは連絡をつけてあげよう」と言ってくれた。
・・・
義江は、男ができた女が非情なものだということを、十一歳にして学習していた。
翌朝、憔悴しきって下関にたどり着くと、長崎のホーム・リンガー商会への出張から帰って来た取締役の有山寅槌が、「リードさまの若様」を迎え入れてくれた。
おそらく、事情を聞いた有山さんは、リードにこんこんと説教したのだろう。・・・
その日の夕食は父リードと有山さんと三人で下関山陽ホテルで取り、その夜から義江は有山家へ引き取られる。
「父も有山家へ来たり、僕も父の住まいに行ったり、日ごとに父の一人息子として愛されるようになった。この父の心境の変化は、有山さんの好意ある進言によるものと後でわかった」
・・・
十一の歳まで、勉強する機会もなかった義江を東京の学校に入れるにあたって、有山さんは暁星を、父のリードは富三郎の通った学習院を主張した。
瓜生商会を引退し、今は束京の新宿に住んでいた瓜生寅さんのお屋敷から、義江お坊っちゃまはカトリック系の暁星小学校に通うことになる。
この瓜生寅さんが、義江の第三の恩人。
人名録には「天保十三年生れ。幼にして孤児となり、発奮して京に学び……」とある。幼少期の不幸をテコに人格者になる人もいる一方で……。
突然、乞食の子が王子さまになった。
学習院より暁星の方が混血児が多いというのが理由だったのだろうが、最初のつまずきは、普通の学校にさえ行っていない義江が、フランス語が必須科目だった学校に入れられたこと。
親に見捨てられた少年はこれまで、野原を走り回り、ポケットに石ころを忍ばせて「アイノコ」と蔑む餓鬼どもを追い散らし、自由奔放に生きてきた。全寮制の規律だらけの学校に入れられた毛猿は、息ができない。授業の最中にはいたずらをし、ハーモニカを吹き鳴らし、パンツをはいて入る規則の風呂にフリチンで入り、あっさり退学処分。
一方、瓜生さんの家で義江、二つの悪癖を身につけた。
ふんだんにお小遣いが貰えたので金銭感覚が麻痺し、浪費家になる。
そしてもう一つ。瓜生家の女中の「お愛」に戸締まりを手伝ってくれと蔵に連れ込まれ、されるがままに知ってしまったエクスタシー。バタくさい顔立ちゆえにいじめられた義江もはや十五、彫りの深い顔立ちとスラリとした体躯、女たちがほっとかない。愛さんに抱かれながら、母に抱かれた記憶のない義江は、女と肌を合わせる歓喜を始めて知って……。
この二つの悪癖は、一生直らない。
身元引受人の瓜生寅は、どんどん不良化する義江に手を焼き、
・・・そこで瓜生さんは、「一切の費用は瓜生家でみるから、しばらくは引き取るように」という手紙を大阪のキクに出した。
転送を繰り返した手紙の返事は、なんと眼と鼻の先の浅草から来た。キクはその時、義太夫語りと水入らず、「せっかく落ち着けたのに、ここで義江に来られては私の生活はご破算になります。母は大阪で死んだと言ってください」との返事。
瓜生さんは義江に実の母が拒絶したことを隠したが、女中のお愛がシンジツを囁いて、義江、ますますぐれた。それで「家庭学校」と名前はいいが、早く言えば上流階級子弟用の感化院に入れられる。
二年後に明治学院中等部に入るが二年半で退学させられ、次は京北実業学校。野球がやりたくて、早稲田実業、そしてさらには聖書学院。
ついに第三の恩人瓜生寅も匙を投げ、義江は、瓜生家を出た。
真面目に学業に励んでおれば、大学にだって、いやアメリカ留学だってさせてくれたろう。やっと親子の情を持ってくれたリード、親身に世話をしてくれた瓜生の恩を仇で返すことになった。
義江が生まれたとき、父のリードは友人から「芸者の子だろう。お前の子供かどうかわからんぞ」
と言われている。スコットランドのグラスゴー大学を卒業して、下関でポルトガル領事も兼ねていたリードは、再び「あいつは本当に俺の子か」と思った。
目をかけてくれた瓜生寅も亡くなり、父に見放された不良少年は、再び自分一人で生きて行かなければならなかった。
この時代の義江の不良ぶりを、親の愛の欠乏だけで説明するのは間違いだと思う。
小学校から大学までずっと劣等生で親と教師から匙を投げられていた僕には、この時代の義江のやけっぱちがよくわかる。学校教育にどうしてもなじめない子供がいるのだ。
義江はまだ、自分が熱中できるものを見つけていない。
・・・
大久保駅近くの朝三時起きの牛乳屋、月給十一円の電報配達も辛くてやめた。
明治学院の同級生が大阪の関西農報という出版社を紹介してくれて、お世話になった瓜生寅さんの墓参りだけして大阪行きの汽車に乗った。
そこで、義江は文学に出会う。
早稲田を出た『関西農報』主幹の鍋島嘉門さんは、梅田駅と堂島川に挟まれた福島の芸術家の集まるカフェーに義江を連れて行き、演劇人を紹介してくれた。
時はいつしか一九一六(大正五)年。最初の給料日、義江は道頓堀の浪花座にかかっていた評判の「芸術座」の『復活』を見に行く。島村抱月訳・演出。ネフリュードフは沢田正二郎、カチューシャは松井須磨子。・・・
最後の幕が下りても立ち上がれず、「掃除しまっせ」と注意されるまで義江は、浪花座の天井を見つめていた。
須磨子の歌った「カチューシャの唄」が耳から離れず、義江は劇場からまっすぐ鍋島嘉門さんの下宿を訪ねて、トルストイの『復活』と『アンナ・カレーニナ』をお借りする。
「ロシア物はトルストイをはじめみな理屈っぽく、量的にも大変だったので、おおむねハスに読んだ」とのちに正直に告白している。
それからの義江は物語の面白さにひかれて小説を読みふけるが、本人はそれを勉強だとは思っていない。関西農報の発送係だった義江は、郵便切手をくすねて東京の出版社に送り、藤村、漱石、独歩、四迷を取り寄せて読み、鍋島先輩の下宿に上がり込んでは人間の生きる意味なんぞを語り合う。
一年後、尊敬する鍋島嘉門先輩の指導するストライキに巻き込まれ、出版社を首になる。
なんてったって大正六年といえば、ロシアで革命が起こった一九一七年。
再び関門海峡を渡って、福岡県戸畑の「旭硝子」に勤める。
・・・
学歴はなくても歌は上手とおだてられた義江は、会社では給仕、宴会では主役で、「カチューシャの唄」は須磨子よりうまいと大評判。
・・・
さて、宴会の主役は、たちまち料亭の椅麗どころ、ツバメという源氏名の芸者と仲良くなる。
ツバメ姉さんと真冬の海を見に行った。洞海湾を挟んだ向こうは母キクと落ちていった若松港。で
も、義江にはそんな幼少の記憶はない。
「耳を澄ませてごらんよ。対馬海流と北から流れてくる親潮がぶつかるから、波が音を立てるの」
とツバメが言う。「ああ、それで響灘って言うのか」
この女学校出の芸者に恋をして、「恋するが故に手も握らなかった」と、稀代の色事師もまだ可愛い。
恋は時に、人を変える。
恋人によく見られたい思いで鏡を見れば、何の取り柄もない混血児が一人。自分は何者かにならなければ、人に愛される資格はない……。義江、はや十八歳。
義江は大里(現門司)の駅まで送りに来たツバメに別れて、東京に向かった。
カチューシャかはいや わかれのつらさ
・・・
その後上京して、『復活』でネフリュードフを演じていた沢田正二郎が創立したばかりの「新国劇」に入団し、 ・・・更には、イタリアへと渡りオペラへの道を歩みだす・・・ 藤原義江氏の波乱万丈の人生を『ピンカートンの息子たち』をお手にされてご驚嘆下さい。 但し、最後の一部もここに引用させて頂きます。 |
田舎のお寺で木魚を叩いていた小僧が、映画館のチンドン屋に感動し、浅草オペラに潜り込んだ。
それから、「我等のテナー」の記事が出るまでの義江の恩人、安藤文子、伊庭孝、父リードと瓜生商会の人々、そして吉田茂と原田譲次、その大が欠けても藤原義江は生まれなかった。しかし、その人たちはあなたに魅力を感じたからこそ、力を貸したのだ。
戦後の藤原歌劇団公演は、あなたの名前がないと成り立たなかった。だから、他の役はダブル、トリプル(注:藤原義江氏の役は藤原氏のみが全ての公演に於いて歌い続け、他の役では、同じ役を2、或いは3人で別々の公演で歌う)に組んでも、あなたは喉を酷使して全日歌わねばならなかった。
にもかかわらず、「先生」と呼ばれることを嫌がったから、歌劇団の人々はあなたを「旦那」と呼んだ。あなたを知る人が異口同音にいうことは、舞台が異常に好きで、辛いことがあってもそんな様子はみじん点せず、誰に対しても笑みを浮かべて「ヤアー」と声をかけたその人柄だ。
ただの女たらしだと非難する世間の人たちもいるだろう。
世間には、妻と愛人二人さえ操縦することもできずに殺人事件さえ起こす男がいるが、あなたは、三上孝子に僕の相手になった女性は三百人とうそぶいている。
『流転七十五年』で白状した恋人たち、A、S、M、O、K、S、N、M、K、K、O、ピアニストのMたちの誰を、あなたは不幸にしたというのだ。
(この方々の実名は、斎藤氏の著作をご覧ください) |
あれほどあき子とその人脈のお世話になりながら、身持ちの悪さから離婚され、あなたから独り立ちしたあき子は、奔放に生きて人気者になり国会議員までなったという人もいる。
しかし、義江が吉田茂、朝日新聞の原田社会部長の画策でスターになったように、あき子も、『私の秘密』に出ていなければ参議院議員になることはなかった。義江の妻だったからこそNHKに出られたのであり、ずっと宮下博士夫人を務めていたら、世になんぼでもいる眼科医の奥さんで終わっただろう。
最後の恩人 三上孝子
あき子より一歳年下の義江も、持病のパーキンソン病が進み、体のバランスが取れなくなって行く。
あれほど華やかだった女出入りも途絶え、一人息子の義昭とも音信不通。
・・・
独りぼっちになった義江を支えたのが、三十六年前、『リゴレット』で共演した三上孝子だった。
知り合った時の孝子は、ただのお金持ちのお嬢様だった。あの時、義江と同じ舞台に立たなければ孝子には、まったく別な人生があったはずだ。
あき子が去って行った後、孝子は義江に寄り添い、スケジュール調整から来客の接待までを妻のようにこなした。
たくさんの女たちとの情事を知りながら、孝子は義江の傍らで四十年近くを過ごしてきた。
孝子は、親からの遺産の広大な土地を売って半身不随の義江を入院させ、付添婦のように介護し、車椅子に乗せて散歩させた。
・・・
一九七五年十月、孝子は疾がからみ呼吸困難になった義江を救急車で日比谷病院にかつぎ込んだ。
その夜、「我等のテナー」の気管支は切開され、二度とあのビロードの声を出すことがなかった。
孝子がちょっとベッドのそばを離れると、義江は枕元の呼び出しボタンを押し続けた。
一九七六年二月、藤原歌劇団は観世栄夫の演出で『セビリアの理髪師』を上演したが、もう声のでない義江は、最後のメッセージを書き送る。
「僕はベッドの上であの時この時といろいろな人達の舞台を思い浮かべている。一寸、アリアの一節を頭の中でくり返して感無量である。当日の成功を祈っている」
ひと月後の三月二十二日、義江は七十七年の生涯を終えた。
その年の十一月まで、看病疲れで寝込んでいた三上孝子は、単身ナポリ行きの飛行機に乗った。
『藤原義江−歌と女たちへの讃歌』によると、孝子は伊豆松崎の船大工高橋勝に全長七十五センチの小舟を作らせたという。
「お骨はナポリの海に」という義江との約束を守って、遺骨と遺髪を納めた箱を舟に乗せ、孝子はサンタ・ルチアの浜辺から海に流した。
それは四十八年前、世間の非難を浴びながらあき子が、義江の胸に抱かれるために「鹿島丸」でやってきた海だった。
武器商人グラバーと日本人女性の間に生まれた倉場富三郎は、生涯、日本人になろうとしたが混血児ゆえに迫害を受け続け、港町長崎の丘に眠っている。
下関で父に捨てられた藤原義江は、混血の容姿を武器に日本にオペラを移入し、異国の港町ナポリから海に流された。