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私の一番好きな事

2009114

宇佐美 保

 

私の一番好きな事は、道を譲る事です。

(車は運転しませんが)歩いている時も、自転車に乗っている時も、他人に道を譲ると、二度に一度の割合くらいでしょうか?

(でも残念な事に、私くらいの年配の男性女性、特に男性の場合は、この確率は激減します)

若いお母さんや、若者や、お子さん方から
とても素敵な笑顔をと共に感謝の言葉まで頂戴します。

 

 このような笑顔を頂くと、私の一日はバラ色に輝きだします。

そして、今は惨憺たる状況だけれど日本の未来もまんざら捨てたものでないとも思ったりするのです。

 

 しかし、直ぐに、先の拙文《悪が勝つには良い人間が何もしないだけで十分》に於ける、「半身不随イラク帰還兵」のこの拙文の題目通りの言葉が頭に浮かんでくるのです。

 

 なにしろ、日本の現在の舵取りである

麻生太郎首相は、笑顔礼賛者であっても、御自分の笑顔の礼賛者

なのですから!

国会答弁の際は、一字一句原稿を間違うことなく読もうとしている為か、口を曲げて濁声を発しておられるだけですが、その他の時には、麻生氏は常に自らの笑顔を日本中に振り撒こうとしておられるようです。

 

 テレビで拝見する麻生太郎氏の笑顔からは、“加藤紘一は、芸者さん達にもてないけれど、俺は、もてるのだ!”と自慢されていたのも頷けます。

(“太郎さんの笑顔かわいい〜〜!太郎さん素敵!”と芸者さんが太郎氏に寄り添ってゆく光景が目に浮かびます)

 

 なにしろ、麻生氏は、大金持ちの家に生まれ、選挙地盤も受け継ぎ、戦後のワンマン首相であられた吉田茂氏の御孫さんと来れば、何の努力もなく、朝から晩まで(夜の御座敷やバーに於いてまで)夢の中まで、笑顔が止め処もなく溢れ出てくる事でしょう。

 

 しかし、一国の首相にとって大事なのは、御自分の笑顔ではなく、国民の笑顔です。

2兆円を国民にばら撒いて国民の笑顔を買おうとしても無理です。

そのお金の使用法に国民の70%以上が反対しているのですし、そのお金は麻生家の個人的なお金ではなく国民から徴収した税金なのです)

 

 それでも、“国民の心を明るくする為に、自分が率先して明るい笑顔を振り撒いているのだ!”と反論されるのなら、(たとえ、衆議院の解散を先送りしたいが為とはいえ)

“今回の経済危機は、百年に一度の危機だ”などと
国民の経済活動を萎縮するような発言をすべきではなかった筈です。

 

 しかし、この麻生太郎氏に対して、私がいくら歯噛みしていらだっても状況は全く変らないのでしょう。

(余り激しく歯噛みした為に、私の奥歯は先週末にかけてしまい、今は歯医者さんに通っています。

歯医者さんは“なんでこんな風に欠けてしまったのだろうか?”と不思議がっておられました)

 

 しかし、何も行動しないのでいると、先の“悪が勝つには良い人間が何もしないだけで十分”の言葉が私の心を揺さぶり始めます。

 

 昨年(2008年)ノーベル物理学賞を得られた益川敏英氏は、“ノーベル賞を授与された結果、私の発言に耳を傾ける人が多くなった事が嬉しい”旨を語っていました。

ですから、私は『コロンブスの電磁気学』の増補改訂版に全力を傾けております。

(是非《『コロンブスの電磁気学』の概略》を覗いてみてください)

確かに、素粒子研究の分野に於ける多くの日本人化学者の業績は瞠目に値します。

 

 しかし、こんなことを書いては失礼とは存じますが、それらの研究は「量子力学」の根幹ではなく、大きく太くはあっても枝の部分です。

 

 

私の『コロンブスの電磁気学』に於ける「電気に関する研究」は、
M.ファラデーの「電磁誘導」を、J.C.マクスウェルの「変位電流」などを否定して、
「コンデンサ」、「コイル」、「トランス」「発電」等々に関する従来説を打破して
新しい理論を構築してきました。

次の増補改訂版では「電気化学」「半導体」に関する理論も書き換えようとしています。

 

 即ち、150年以上前から築かれてきた「電気の理論」を根幹から書き換えようとしているのです。

 この結果、

肌の白い欧米人やユダヤ系の方々でなくても、
肌の黄色い日本人でも「科学の根本原理」を構築できる事を証明して、
私の発言力を増す為以上に、
地球上から人種的偏見を一掃する為に貢献したいと願っているのです。

 

 しかし幾ら気張ってみても、私の“灰色の脳細胞”の多くは変色し劣化してしまっている為か、一日パソコンに向かっていると、灰色の脳細胞が悲鳴を上げ始めます。

ですから、一日の最後では“灰色の脳細胞”にCDの音楽を聴いて頂き、良く今日も一日働いて下さったと感謝しながら眠りに落ちるのが、私の好きな事の2番目となります。

 

 でもここで困った事が起こりました。

私のオーディオ装置は、音の分離が良く演奏している楽器がはっきりと聞き分ける事が出来ます、その上、ダイナミックレンジ(大きな音と小さな音との差)がとても大きいのです。

ですから、夜中にご近所迷惑にならないようにと、大きな音を基準にアンプのボリュームを絞ると小さな音が聞こえなくなってしまいます。そして、小さな音が聞こえるようにボリュームを設定すると、大きな音は外へと威勢良く飛び出して行くのですから!

その対策として、雨戸に防音シートを張ったり、ガラス戸を2重にしたりと対策を講じなくてはなりませんでした。

 

私のオーディオ装置が、このような状態になったのは訳があるのです。

先の『コロンブスの電磁気学』を大学時代の研究室仲間に押し売りした際、彼は、“幾ら新しい理論を構築しても、実生活には何の寄与もしないだろう!”と嫌味を吐きました。

(ファラデーが「電磁誘導の法則」を見つけた時も、そのような嫌味を言われたようです

でも、今の時代、モーターも発電機もトランスも彼の理論の賜物です)

そこで、次の著作では、新しい理論の簡単な適用例として、オーディオ装置の改良例を載せようと思い、先ず、自分の装置に適用してみたのです。

この改良は、どなたも簡単に出来ますので、興味を持たれましたら、自著をご参考になってトライしてみて下さい。

 

 私の“灰色の脳細胞”が一日の最後の休息前に特にねだるのは、ナチに追われて米国に亡命したユダヤ系のブルーノ・ワルターの指揮したベートーベンの「田園交響曲」です。

 

 こう書きますと、“それ見ろ!人種的な相違はあるじゃないか!”とおっしゃる方もございましょうが、ワルターがこの録音をされた1958年ごろにはオーケストラには女性奏者が居られたでしょうか?

今では、世界中のオーケストラでは沢山の東洋系の奏者と共に女性奏者が活躍されています。

指揮者も然りです。

 

 先日、お寿司屋さんのカウンターで、“地方都市は全てシャッター街だ、でも北海道のドコソコ(どこだか忘れてしまいましたが)の名産の”ウニは格別だな〜〜!色もここらで食べるのともまるで違うのもな〜〜!”、“しかし、その土地で食べるのに、値段は高かったな〜〜!”と話されてる方々が居られました。

そこで(♪〜〜ウミはヒロイな、オオキイな〜〜♪の旋律で)“ウニはウマイな、タ〜カイな”と歌いながら、その話の輪の中に入り込んで行きました。

そして、尋ねました“貴方は、何故日本各地のことにお詳しいのですか?”と。

すると“私は、ペットの排泄物を吸収固化するパルプで作った製品を全国に拡販していたので、引退した今でも、その頃の販売店さんから呼ばれたりしてるんです”更には、”お客様が喜んで下さる製品を売れる幸せはありません”と答えてくださいました。

成る程、御友達が旅行に行く際には、猫のトイレとしてのダンボールと、それに敷き詰める大豆位の大きさの白い塊の入った袋を猫と共に預かっていたことを思い出しました。

(猫の糞尿の匂いも気にならず、とても優れた製品だと思っていました)

 

 そこで、“海外にも沢山売れるでしょう?”との問いに“アジアでは少しは捌けますが、欧米は駄目です。彼らはペットが屋外でした糞尿は、公共機関が処理するものと決めて掛かっているのですから!”

 

 なるほど確かにそうなのでしょう。

私の体験では、カンヌの街では、朝早く水を吐き出し道路面を洗い流してゆく車を見かけましたし、有名なコート・ダジュールの一角を占めるニース(イタリア語ではニッツァ)の海岸に腰を下ろした際、手にべっとりと犬の糞がついたこともありました。

それに、昔のヨーロッパでは、窓から便器(おまる)にした糞尿を階下の公道にぶちまけていたそうですから。

 

 そこで、“それ見ろ!国民性の違いはあるんだ!日本人は散歩中の犬の糞をきちんとビニール袋に入れてもって帰っているんだから!”と憤慨される方もございましょうが、私の知人は夜の散歩を控えたりしています。

何故なら、夜に川沿いの道を散歩すると犬の糞を踏みつけてしまうからだそうです。

このように人目の有無で人間性が変るのは、逆に日本人の国民性なのでしょうか!?

 

 人目の有無の件は別として、日本でも、天気のよい日、お日様の光を浴びながら幸せな気分で公道を歩いている際、頭上からダニの死骸やら、フケなどを浴びせられ、肺の中に吸い込まされる事がたびたびあります。

見上げると、公道に面して家の2階のベランダに干された布団をご家族の為に一生懸命に、叩いている主婦を眼にするのです。

 

 布団を外で叩く事は、今ほど家が建て込まず、又、他人には何の害もなく、日光を十分に吸った布団をふんわりと仕上げるためだけであると信じていた時代と、今は違う受け止め方があるのではないでしょうか?

 

 このような日本の風習を欧米人は不思議に思うかもしれません。

 

 ですから、現在の風習は世界各国で異なる事はあるかもしれませんが、それらの風習も変るのです。

今時窓から糞尿を公道に撒き散らす欧米人は居ないでしょうし、一寸も前までは、日本に於いても犬の糞尿は処かまわずさせたい放題でした。

 

 それに、一昔前は、公道に面した塀には「立ち小便お断り」と書かれても居ましたが、今はそんな文言は「犬の糞尿お断り」に変っています。

 

 昨夜、チャンネルをカチャかチャと切り替えていましたら、爆笑問題の御二人がゴリラ研究の世界的権威(京都大学大学院教授の山極壽一氏)を訪ねているNHKの番組に出会いました。

 

 そこで、山極壽一氏の“人間の進歩は、4足歩行から、2足歩行、石器時代、言葉の使用・・・と段階的で、ことに因ると今は停滞期なのかもしれない”との発言を受けて、太田氏は

“人間の次なる進歩は、人種や国境のなくなる世界かもしれない”

と発言したように思います。

(昨夜のことなのにもう記憶がはっきりしていません)

私は太田氏の発言通りの人間の進歩を期待して居ます。

そして、日がな一日このことを夢見ています。

そして、電気のことも考えています。

このように、一日中夢見たり考えていますと、昼日中から私の“灰色の脳細胞”は休養を要求してきますので、そんなときにはCDをかけてあげます。

 

  “灰色の脳細胞”は幼い時、映画の中で憧れたシンドバッドの冒険などを思い出し、リムスキー・コルサコフ作曲の「シェエラザード」をそれも、昼間だから荒れ狂う海の場面の音楽を大きな音で聞きたがるのですが、私は、理由もなく米軍に殺されているイラクの(バクダッドの)方々の事を思うと、そのCDを避けてしまうのです。

 

 そこで、心優しいワルターのモーツアルトの交響曲を提案するのですが、“ワルターの子孫達のイスラエル人達は、罪もないパレスチナの人々を無差別に殺害しているぞ!”との声がどこからともなく聞こえてきます。

 

 しかし、この件に関しては、数週間前、朝日ニュースターの番組「おんな組」で、広河隆一氏(雑誌『DAYS JAPAN』の責任編集者)が次のように話されておりました。

 “最近では、イスラエルの人の中に、自分達の祖先を学問的に研究している方が出て来た。そして、

DNA的な研究から、イスラエルの今の土地に昔から住んでいたのは、
今住んでいるイスラエル人よりもパレスチナ人のほうが近く、
イスラエル人という方々は、ヨーロッパ各地で昔ユダヤ教に改宗された方の子孫が大多数である事も分かってきた

”といった事を話されていました。

(私の記憶は定かではありませんので、最近の『DAYS JAPAN』を購入しましたが、この件は載っていませんでした。バックナンバーを探して、この件を確認したいと思っています)

でも、広河氏の言葉を聞くと成る程と思いました。

(私はテレビなどで感じるだけですが)なにしろ、イスラエルの方々は、アラブ社会の方々よりも、いわゆる西欧社会の方々と同じ、或いは、近い肌の色と顔つきをしているように感じます。

 

 私達人間は、人種だ、国境だのの言葉を口にしなくなる前に、せめて、戦争をしない人間に進歩したいものです。

(武器を持って、殺しあっている(或いは一方的に殺している)人間社会をゴリラが知ったらどう思うのでしょうか?)

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