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エコノミック・ヒットマンそして日本(2)
2008年1月15日
宇佐美 保
先の拙文《エコノミック・ヒットマンそして日本(1)》を続けさせて頂きます。
元「エコノミック・ヒットマン(EHM)」のパーキンス氏の回想録『エコノミック・ヒットマン』には、次のように記述されています。
カラカスで展開していた出来事は、かつて私たちEHMがつくりあげた世界で、どんな症状が現れるかを示していた。 二〇〇二年一二月までに、ベネズエラもイラクも、危機的な状況に陥っていた。ただし、事態の進展の様相はきわめて対照的だった。イラクでは、水面下での試みは──EHMもジャッカルもすべて──サダムを従わせることに失敗し、アメリカは究極の解決策である軍事侵攻を準備していた。 ベネズエラでは、ブッシュ政権はカーミット・ルーズベルトがイランを攻略したときのモデルが再現されようとしていた。『ニューヨークタイムズ』はこう報告した。 無数のベネズエラ人が街を埋め尽くし、国を挙げてのストライキへの誓いを宣言している。 今日でストライキは開始から二八日目に突入し、人々はウーゴ・チャベス大統領の追放を叫んでいる。 ストライキに参加している石油労働者は概算で三万人、世界第五位の産油国であるこの国に、何カ月にもわたる混乱をきたすだろうと危惧された……。 最近、ストライキは一種の行き詰まりに到達した。チャベスはストライキに参加していない労働者を使って、国有石油会社の操業を正常化しようとしている。一方、経営者と労働者のリーダーが連携して率いる彼に反対する者たちは、ストライキがまず会社を追いこみ、さらにはチャベス政権を崩壊させるだろうと強く主張している。 これはまさしく、CIAがイランでモサデクを引き下ろし、代わりに国王を立てたやり方だ。これほどよく似たケースは他にはないだろう。五〇年の年月を隔てて、ぞっとする歴史がくりかえされているのだと思えた。半世紀もの年月が過ぎても、石油は依然として歴史の原動力だった。 二〇〇三年一月四日、チャベス支持勢力は反対勢力との衝突をくりかえした。報道によると、数人が射殺され、負傷者は数十人に及んだ。その翌日、長年ジャッカルとかかわってきた昔の友人と話す機会があった。彼も私と同じく、政府機関に直接に雇われたことは一度もなかったが、数多くの国で秘密裏の工作活動を指揮してきた。ある筋から接触があって、仕事を打診されたと彼は私に話した。カラカスでストライキの扇動をして、さらには軍隊の士官たち──その多くは、米州学校で訓練を受けていた──に賄賂を渡して、大統領に反旗を翻させてほしいと依頼されたのだという。 彼はそれを断ったそうだが、私にこういった。「仕事を引き受けた男は、きっと役目を果たすだろう」 石油会社の経営陣と金融業界は、原油価格の値上がりとアメリカの資産の目減りを恐れていた。 中東の状況からして、ブッシュ政権はチャベスを引き下ろすためなら手段を選ばないだろうと、私にはわかっていた。そして、ついに彼らが成功したというニュースが飛びこんできた。つまり、チャベスは地位を追われた。『ニューヨークタイムズ』はこのときとばかりに歴史的視点を披露した──そして、現代のベネズエラでカーミット・ルーズベルトの役割を演じたらしい男の人物像についても追及した。 アメリカは……冷戦中から冷戦後にかけて、経済的政治的な利益を守るために中南米各国の独裁政権を支援した。 |
それでも、民衆の支持によりチャベス大統領は復活しています。
しかし、今後又米国側からどんな干渉が加えられるかは不明です。
ベネズエラで、昨年の12月2日に行われた国民投票(大統領権限の大幅強化をめざした憲法改正をめぐり、反対票が51%と賛成をわずかに上回る結果で否決された)に対して、米国からの反対工作が皆無であったと言い切れるでしょうか?
パーキンス氏は、インドネシアでの成功によりメイン社の上役から「君はなかなかよくやっている。私たちの君への評価を示すために、一生に一度あるかないかの機会をやろう……」ということで、パナマに送られます。
一九七二年、四月のある晩遅く、熱帯特有の大雨が降りしきるなか、私はパナマのトクメン国際空港へ降り立った。そして、いつものように数人の重役たちと一緒にタクシーに乗りこんだ。スペイン語を話す私は必ず助手席に座ることになっていた。私は車の前面ガラスをぼんやりと眺めていた。 降りしきる雨のなか、ヘッドライトが照らし出した大看板には、秀でた眉に輝く瞳の端正な男の顔があった。つばの広い帽子を粋な感じにやや斜めにかぶっている。それは現代パナマの英雄、オマール・トリホス将軍だった。 この出張に出る前に、私は例のごとくボストン公立図書館(BPL)の資料室で下調べをした。 トリホスが国民に絶大な人気を誇っている理由のひとつは、パナマの自治権を主張し、アメリカにパナマ運河返還を強く求めている点にあった。彼を指導者としたからには、この一国は必ずや不名誉な歴史の罠から逃れられると、国民は期待していた。 パナマがコロンビアの一部だった当時、かつてスエズ運河の建設を指揮したフランスの技師フェルディナン・ド・レセップスは、パナマ地峡に大西洋と太平洋とをつなぐ運河を築こうと決心した。 大工事は一八八一年に開始されたが、つぎつぎに悲劇に見舞われる。そして一八八九年、プロジェクトは資金難のため失敗に終わっただが、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の野心をかりたてた。二〇世紀はじめ、アメリカはコロンビアに対してパナマ地峡の行政権の委譲を含む条約に調印するよう要求した。コロンビアはこれを拒否した。 一九〇三年、ルーズベルト大統領は戦艦ナッシュビルをパナマに送りこんだ。上陸した米軍はパナマを占拠し、地元で人気を得ていた市民軍の指揮官を殺害し、パナマは独立国であると宣言した。 傀儡政権が樹立され、最初のパナマ条約が結ばれた。この条約は完成後の運河の両岸をアメリカが行政権を持つ地帯と定め、アメリカの軍事介入を法的に認め、新しくつくられた「独立」国家の実質的な支配権をアメリカに与えた。 奇妙なことに、この条約を調印したのは、アメリカのへイ国務長官と、当初から運河建設にかかわっていたパナマ運河会社のフランス人技師フィリップ・ビュノー・ヴアリーヤであり、パナマ人は署名していない。要するに、パナマはアメリカの利益のために、アメリカ人とフランス人によってつくられた契約によって力ずくでコロンビアから切り離されたのだ──今にして思えば、その後の成りゆきを予言するはじまりだった。 半世紀以上ものあいだ、パナマを少数独裁政治で支配していたのは、米政府に強力なコネを持つ富裕な人々だった。彼らは右派の独裁主義者で、自国がアメリカの利益を生み出していることを確実にするために必要とあれば、どんな手段も厭わなかった。米政府と手を組んだラテンアメリカ諸国の大多数の例に漏れず、パナマの支配者たちは社会主義的傾向を感じさせる人民主義運動を抑圧することがアメリカの利益であると解釈した。彼らはまた、西半球におけるCIAやNSAの反共産主義活動を支持し、ロックフェラーのスタンダード石油やユナイテッドフルーツ社(この会社はジョージ・H・W・ブッシュに買われた)などアメリカ資本の大企業を助けた。各国政府は明らかに、悲惨な貧困にあえぐ人々や大農園や大企業で実質的には奴隷として働いている人々の生活を向上させることによってアメリカの利益が促進されるとは考えていなかった。 パナマの支配階級の人々は、そうしてアメリカを支持することで大きな利益を得ていた。パナマの独立が宣言されてから一九六八年までのあいだに、アメリカ軍は何度も彼らのために介入した。 だが一九六八年、私がまだ平和部隊の一員としてエクアドルでボランティア活動をしていたときに、パナマの歴史は急激に大きく変化した。独裁者アルヌルフォ・アリエスがクーデターで倒され、クーデターに積極的に関与していなかったにもかかわらず、オマール・トリホスが指導者として表舞台に登場した。 |
そして、このオマール・トリホス将軍は、パナマでの暗躍を開始したパーキンス氏に車を差し向け彼の別荘に招待して次のような会話を行います。
「私たちは運河を持ってる。アルベンスが農地改革をして農民に売却させたグアテマラのユナイテッドフルーツ社の用地よりも、はるかに重大だ」 グアテマラについては調べてあったので、トリホスの言葉の意味は理解できた。グアテマラのユナイテッドフルーツ社は、政治的な意味でパナマの運河に相当するものだった。一八〇〇年代終わりに創設されたユナイテッドフルーツ社は、たちまち中米の最大企業のひとつに成長した。一九五〇年代はじめグアテマラでは、民主主義の模範として西半球全体で高く評価された選挙で、改革派のハコボ・アルベンスが大統領に選ばれた。当時のグアテマラでは、全人口の三パーセントにも満たないごく少数の人々が、国土の七〇パーセントを所有していた。アルベンスは貧しい人々を飢えから救うと公約し、選挙後に広範囲な農地改革を実行した。 「全ラテンアメリカの中流以下の人々はみな、アルベンスを賞賛した」とトリホスは語った。「個人的にも、彼は私のヒーローのひとりだった。だが、私たちは固唾をのんで成りゆきを見守ってもいた。グアテマラで絶大な力を誇る最大の土地所有者であるユナイテッドフルーツ社が、土地改革に反対するとわかっていたから。ユナイテッドフルーツ杜はパナマだけでなく、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ジャマイカ、ニカラグア、サントドミンゴにも広大な農園を持っていた」 その後の経緯は私も承知していた。ユナイテッドフルーツ社はアメリカで大規模な広報活動をくりひろげ、アルベンスは共産主義の手先でありグアテマラはソ連の前哨基地になっていると一般大衆や議会に信じさせた。そして一九五四年、CIAがグアテマラでクーデターを支援した。米軍機が首都グアテマラシティを爆撃し、民主的な選挙で選ばれたアルベンス大統領は失脚させられ、冷酷な右派の独裁者カステイーリョ・アルマスが政権に就いた。 新政権はユナイテッドフルーツ社から絶大なる恩恵をこうむっていた。その感謝のしるしとして、農地改革を帳消しにしたうえ、外国投資家に支払われる利息や配当金に対する税金を撤廃し、無記名投票を廃止し、政策を批判する人々を数多く投獄した。カステイーリョに反対するような意見を少しでも口にすれば、誰だろうと罰せられた。歴史家たちは、二〇世紀後半のほぼすべてにわたって、グアテマラを苦しめた暴虐とテロリズムの発端は、ユナイテッドフルーツ社とCIAと独裁者に率いられたグアテマラ軍部との公然の秘密ともいえる結託にあったとしている。 「アルベンスは暗殺された。政治的、人格的な暗殺だ」トリホスは一呼吸おいて、眉をひそめた。 「君たちアメリカ人は、いったいどうしてCIAのたわごとを鵜呑みにしたんだ?私はそう簡単にはやられない。この国の軍隊は私の味方だ。政治的暗殺など不可能だ」彼は笑顔を見せた。 「やるなら、CIA自らが私を殺さなければ!」 私たちはそれぞれの考えに気をとられて、しばらく黙ったまま座っていた。トリホスが先に口を開いた。 「ユナイテッドフルーツ社の持ち主は誰か、知っているか」と彼が聞いた。 「ザパタ石油、わが国の国連大使ジョージ・ブッシュの会社です」 「野心を持つ男だ」彼は身を乗り出して、低い声でいった。「じつは、私は今、ベクテル社の彼の旧友たちと対決している」 その言葉に私は驚いた。ベクテル社は世界有数のエンジニアリング会社であり、さまざまなプロジェクトでメイン社と連携する機会も多い。パナマの基本計画では、最大の競争相手のひとつになると考えていた。 「どういうことですか?」 「われわれは新しい運河の建設を検討している。海面レベルで、水位調節用のロックを必要としないものを。より大きな船舶が通行可能な運河だ。日本が資金提供に興味を持っているらしい」 「運河の最大の顧客ですからね」 「そうだ。もし日本が金を出せば、もちろん建設は彼らがやる」 驚くべき話だった。「ベクテルはのけ者になりますね」 「近年にない、大規模な建設工事だ」トリホスはそこで一呼吸おいた。「ベクテルにはニクソンやフォードやブッシュの盟友がたくさんいる(当時国連大使だったブッシュや、下院院内総務と共和党大会議長を務めていたフォードを、トリホスは政治的に強い影響力を持つ人物として認識していた)。ベクテルの人脈が共和党を操っていると、私は聞いている」 この会話は私にとって非常に気詰まりなものだった。私はトリホスが憎んでいるシステムを維持する側の人間だし、彼は確実にそのことを知っていると思えたからだ。アメリカ企業に工事を発注するという条件で巨額のローンを受けるように説得するという私の任務は、巨大な壁に阻まれたかのように思えた。私は正面突破を試みた。 「将軍、いったいなぜ、私をここへお呼びになったのですか?」 トリホスは時計をちらりと見て、笑顔を浮かべた。「そうだな、そろそろ本題に入ろうか。わが国は君の助けを必要としている。私は君の助けがほしい」 私は呆然となった。「私の助け? 何をすればいいのでしょう?」 「われわれは運河をこの手にとりもどす。だが、それだけでは十分ではない」彼は椅子に深く座りなおした。「手本にならなければならない。わが国が貧しい人々に手を差しのべることを広く示し、独立を勝ちとる決意が、ロシアや中国やキューバに操られた結果ではないことを白日の下にさらさなければならない。パナマが正当な国家であり、アメリカに敵対はしないが、貧しい人々の権利を守る国家であることを、世界に証明しなければならない」 彼は足を組んだ。「そのためには、この地域では他に類のないような経済的基盤を築かねばならない。もちろん電気は必要だただし、もっとも貧しい底辺の人々にまで行き届く、政府に補助された電気だ。輸送や通信の分野でも同じことがいえる。そして、農業はとくにそうといえる。これを実現するには金がかかるそれは世界銀行や米州開発銀行の金、つまり君たちの金だ」 もう一度、彼は身を乗り出した。彼は私の目をじっと見た。「君の会社は、プロジェクトの規模を膨らませて、より多くの仕事を手に入れようとしてる──高速道路網を広げ、発電施設の規模を拡大し、港を深くする。だが、今回はそうはいかない。国民にとって一番いい計画を提示してくれ、そうすれば仕事は全部やろう」 思ってもみないトリホスの提案に、私は驚くとともにぞくぞくする期待感もおぼえた。私がメイン社で教えられたことのまるで逆をやれ、というのだ。まちがいなく、彼は対外援助ゲームのペテンを知っていた──そうにちがいない。それは彼を金持ちにし、国家に借金の枷(かせ)をかけるためにあった。パナマを永久にアメリカやコーポレートクラシーの意のままにするのが目的だ。ラテンアメリカをマニフェスト・ディステイニーの路線に組みこんで、永遠にワシントンとウォールストリートの思いのままにするのだ。このシステムは権力を持つ者はすべて買収しやすいという仮説にもとづいており、それを個人的な利益を得るために利用しないという決意は脅威とみなされ、最終的にはシステム全体をぐらつかせるような連鎖反応を起こしうる新形態のドミノになりうることを、彼は知っているにちがいないと、私は確信した。 運河を持つがゆえに他に類のない特別な力を持ち、それゆえにきわめて危険な状況に置かれていることを、しつかりと自覚している男と、コーヒーテーブルを挟んで私は対峙していた。彼は注意深くあらねばならなかった。彼はすでに発展途上国のリーダーとしての地位を築いていた。もしも彼が、彼のヒーローであるアルベンスのように、断固たる態度を示せば、世界が注目するだろう。 システムはどう対応するだろう? もっと具体的にいえば、米政府はどう反応するだろう? ラテンアメリカの歴史には、ヒーローの死がつきものだ。 私はまた、自分の目の前にいる男が、私が自分自身のためにつくりあげてきたすべての正当化に異議を申し立てているのだと思った。この男はたしかに彼なりの個人的な欠陥を抱えているが、海賊ではない。ヘンリー・モーガンやフランシス・ドレイクではない冒険とスリルを愛する彼らは、英国王から与えられた他国船拿捕免許状を盾にして海賊行為を正当化した。大看板の写真は、典型的な政治的欺瞞ではなかった。「オマールの理想は自由。ミサイルでは理想は殺せない!」トマス・ペインも同じようなことを書いたのではないだろうか? だが、彼の発言は私の心に大きな疑問を生じさせた。おそらく、理想は死なないだろうが、その背後にいる人々はどうだろう?チェ・ゲバラ、ハコボ・アルベンス、そしてサルバドール・アジェンデ。アジェンデだけは、当時まだ生き残っていたけれど、それもいつまでもつだろうかと私は感じていた。そして、もうひとつの疑問、もしトリホスが殉教者への道を突き進もうとしているのなら、私はどう答えればいいのだろう? 彼に別れの挨拶をするころには、メイン社は基本計画のための契約取りつけ、私は彼の言いつけに従うことを、お互いが暗黙のうちに了解していた。 |
そして、パーキンス氏は、トリホス将軍との暗黙の約束を履行して氏の所属するメイン社がトリホス政権から発注される契約で勝利しつづけたと次のように記しています。
オマール・トリホスと私は、秘密の約束を尊重した。私は正当な調査を実施し、貧しい人々を勘定に入れた推奨案をつくった。パナマに関する私の経済予測が通常の数字に達しておらず、社会主義的な印象があるというような不満が聞こえてきたりもしたが、実際には、トリホス政権から発注される契約でメイン社は勝利しつづけた。これらの契約は一次産業を含んでいた──従来からあるインフラ整備以外に農業部門をも含む革新的な総合基本計画(マスタープラン)を提供するために。私はまた、オマール・トリホスが当時の米大統領ジミー・カーターと、あらたな運河条約のための交渉を開始するのを見守っていた。 |
そして、トリホス将軍とカーター大統領との交渉結果は次のように記されています。
トリホスは運河を取り戻した。私がグリーン(筆者注:何年も後にノンフィクション『トリホス将軍の死』(早川書房)を出版)と出会ったのと同じ一九七七年、彼は当時のカーター大統領とのあいだに、運河地帯の支配権を委譲し運河自体をパナマの管理下に置くことを定めた新条約の締結に成功した。その後、ホワイトハウスは議会に条約の批准を迫った。長期にわたる熾烈なやりとりがあった。最終的に運河条約はわずか一票差で批准された。保守派は復讐を誓った。 |
そして、まことに残念なことに次のようになってしまいます。
一九八〇年二月、アメリカではカーターが大統領選挙でロナルド・レーガンに敗れた。トリホスと交渉してきたパナマ運河条約や、イラン情勢、そしてなによりもアメリカ大使館の人質救出作戦の失敗が大きな敗因だった。しかしながら、もっと目につきにくい要因もいろいろあった。世界平和を最大の目標とし、アメリカの石油への依存度を軽減させようと心を砕いていた大統領に取って代わったのは、アメリカが当然占めるべき場所は軍事力に支えられた世界のピラミッドの頂点であり、世界中のあらゆる油田を管理下に置くことはいわゆるマニフェスト・デスティニーなのだと信じる男だったのだ。 カーターはホワイトハウスの屋根にソーラーパネルを設置していたが、レーガンは就任と同時にそれを撤去させた。 カーターは偉大な功績を誇る政治家ではなかったかもしれないが、彼がアメリカに抱いていた理想は、独立宣言で定義されたものと一致する。振り返ってみれば、彼は素朴で古風な考えの持ち主であり、かつて私たちの祖先をこの土地へ渡らせ、新国家を築いた雌想を取り戻そうとしていたように思える。前任者や後継者と比較すると、彼はむしろ異例な大統領だった。カーターの世界観は、EHMの世界観とは一致しなかった。 それに対してレーガンは、誰よりも明確な世界帝国の建設者であり、コーポレートクラシーの手先だった。どう指図すべきかを熟知しているプロデューサーの命令に従ってきたハリウッド俳優である彼には、まさにうってつけの役割だということは、選挙のときから見てとれた。それこそ彼の真骨頂だった。彼は企業や銀行や政府の要職を渡り歩くような人々を満足させていたのだろう。一見すると彼に仕えているようでありながら、じつは自分が政府を動かしている人々、たとえば副大統領のジョージ・H・W・ブッシュ、国務長官のジョージ・シュルツ、国防長官のキャスパー・ワインバーガー、リチャード・チェイテ、リチャード・ヘルムズ、ロバート・マクナマラのような人々に仕えていたのだ。そういう人々が求めるものを、そのまま自分の口で提唱していたのだ。 |
カーター氏が敗北した当日、米国の知人から“レーガンの地すべり的な勝利だ!”との電話が掛かってきました。
“カーターは偉大な功績を誇る政治家ではなかったかもしれないが、彼がアメリカに抱いていた理想は、独立宣言で定義されたものと一致する” とパーキンス氏が記述されるカーター氏が私は大好きでしたから、大変悲しくなってしまいました。
そして、「レーガンが勝てたのは」とジャーナリストの田中宇氏は「ネオコンの表と裏(下)」に於いて、次のように紹介しています。
1980年の大統領選挙でレーガンが勝てたのは、選挙の前年に起きたイランのイスラム革命とその後のアメリカ大使館人質事件に関して有効な解決策が打てなかったのに対し、レーガンは選挙期間にイラン側と秘密裏に交渉し、それが成功したことが主因だった。人質はレーガンの大統領就任式の当日に解放された。レーガン陣営がイラン側とうまく交渉できたのは、仲介役としてイスラエルの諜報機関が協力していた可能性がある。イスラム革命前のイランには多くのユダヤ人が住んでおり、イスラエルはイランの諜報に強かった。 |
しかし、この田中宇氏の記述は不十分であると存じます。
田中氏の記述のままでは、「レーガンは選挙期間にイラン側と秘密裏に交渉」していても、その結果が明らかになりレーガンの偉大さ(?)が誇示されるのは「(大統領選が終了した後の)レーガンの大統領就任式の当日に解放」なのですから、「レーガン側の勝因」を「秘密裏に交渉し、それが成功したことが主因だった」と結論付ける事は出来ません。
私が、以前、目にした情報は、「レーガン側が秘密裏にカーター側の交渉を妨害し、 人質解放を大統領就任式の当日まで遅らせた」ということでした。 |
(この情報を私のパソコンの中や書棚に探したのですが、行方不明となっていました)
この私が得ていた情報の正否はともかくとして、 人質、そして人質の家族の苦しみを思えば「大統領就任式の当日」ではなく、 「一刻でも早い(選挙期間中の解放)」に向けて カーター大統領に協力するのが人の道と存じます。 |
そして、カーター氏が大統領の座を去った後を、パーキンス氏は次のように記述しています。
新しい傾向の代表例はエネルギー業界だったが、私はその渦中で働いていた。公益事業規制政策法(PURPA法)は、一九七八年に議会を通過し、一連の法的検討をへた後、ついに一九八二年に法制化された。議会は当初、この法律がこれまでにない燃料を開発したり、電力を生産するための革新的な方法を研究する、私の会社のような小規模な独立系企業の活動を奨励するための手段になると考えていた。この法律のもとでは、大手電力会社は、小規模な会社が生み出した電力を公正かつ適正な価格で買わなければならなかったのだ。この政策は、石油──輸入された石油のみならず、あらゆる石油──への依存度を減らしたいというカーターの願いの産物だった。法律のそもそもの意図は、石油に代わる代替エネルギー源を獲得することと、アメリカの起業家精神を反映した独立系企業を育てることだった。しかしながら現実は、非常に異なるものとなった。 |
パーキンス氏は更に悲しい事実を伝えてくれます。
私からすれば、ロルドスのような人物は希望を与えていた。エクアドルの新大統領ロルドスは、自国が置かれている微妙な状況を逐一把握しているにちがいないと思えた。彼はトリホスを賞賛し、パナマ運河問題におけるカーターの勇気ある決断に感服していた。彼は絶対にくじけないだろうと私は感じていた。その強靭な精神が、他の国々の指導者たちにとって、進むべき道を照らす灯火となることを願わずにはいられなかった。彼やトリホスがもたらす発想は、多くの指導者たちが必要とするものだった。 一九八一年はじめ、ロルドスの政府はエクアドル国会に、石油や天然ガスなどの炭化水素にかかわる法案を正式に提出した。もし施行されれば、国と石油会社との関係を改革するような法案だった。 多くの点からして、革命的で急進的ですらあった。従来の石油ビジネスのやり方を変革することを目的としていたにちがいない。その影響はエクアドル一国内にとどまらず、ラテンアメリカの多くの国々へ、そして世界中に広がっただろう。 石油会社は予想どおりの反応を示した。あらゆる手段を駆使して対抗したのだ。広報関係者はロルドスを中傷し、雇われたロビイストは脅しと賄賂がつまったブリーフケースを携えて、キトとワシントンをくまなく歩いた。彼らは、現代のエクアドルで民主的に選出された最初の大統領を、カストロの再来のように色づけしようとしたのだ。しかし、ロルドスは何ものにも屈しなかった。彼は政治と石油とが──そして宗教までもが──結託していると弾劾することで応戦した。福音派の伝道団SILが石油会社と共謀しているとして公然と非難し、さらには、非常に大胆な、無謀とさえとれる行動に出た。SILの締め出しを命じたのだ。 法案パッケージを議会に送った数週間後、そしてSILの伝道団を追放したわずか数日後に、ロルドスは石油会社にかぎらずすべての外国企業に対して、エクアドル国民のためになる計画を実行しないかぎり強制的にこの固から追い出すと警告した。キトにあるアタワルパ・オリンピックスタジアムで大々的な演説をした後、彼はエクアドル南部の小さな集落へと向かった。 一九八一年五月二四日、その地でヘリコプター事故に遭ったロルドスは、炎のなかで命を落とした。 世界中がショックを受けた。ラテンアメリカは激怒した。ラテンアメリカ諸国の新聞はこぞって「CIAによる暗殺!」と怒りの記事を載せた。米政府と石油会社が彼を憎悪していたことに加えて、さまざまな状況がこの主張を裏づけるかのように見えたし、さらなる事実が明らかになるにつれて、疑いはますます濃厚になっていった。動かぬ証拠は何ひとつなかったが、ロルドスは命を狙われていると警告されていて、移動にはヘリコプターを二機使うといったような警戒措置をしていたと語る証人もいる。事故の際には、ボディガードの勧めでダミーのヘリコプターに乗ったとされている。そのヘリコプターが爆発したのだ。 世界の反応にもかかわらず、このニュースはアメリカではあまり報道されなかった。 オズパルド・ウルタドが、エクアドル大統領の座を引き継いだ。彼は、SILとその資金提供者である石油会社を元どおり復活させた。そして、その年の終わりには、グアヤキル湾とアマゾン川流域で、テキサコ社や他の外国企業による原油掘削を拡大する野心的な計画を実行に移した。 オマール・トリホスは、ロルドスを賞賛して「兄弟」と呼んだ。また、自分が暗殺される悪夢を見ると告白していた。巨大な火の玉に包まれて空から墜落する自身の姿を見たというのだ。それは、まさに予言となった。 |
更には、次のように!
ロルドスの死が事故でないのは、私には疑いようがなかった。あらゆる点が、CIAの仕組んだ暗殺であると示していた。それほどあからさまに実行されたのはメッセージを送るためだと、私は理解した。レーガン新政権は、反射的に連想されるハリウッドの西部劇のイメージとあいまって、そのようなメッセージを伝えるには理想的な媒体だった。ジャッカルたちが戻ってきて、オマール・トリホスと、反コーポレートクラシーに名を連ねようとするすべての者に意志を伝えようとしていたのだ。 けれど、トリホスは屈しなかった。ロルドスと同じように、彼は脅迫に屈することを拒否した。 彼もまたSIL(筆者注:先にも記述されています福音派の伝道団SIL)を駆逐し、運河条約の再交渉についてのレーガン政権の要求をかたくなにこばんだ。 ロルドスの死から二カ月後、オマール・トリホスの悪夢が現実になった。彼は飛行機事故で命を落とした。一九八一年七月三一日のことだ。 ラテンアメリカと世界は動揺した。トリホスの名は、世界中で知られていた。アメリカにパナマ運河を放棄させて正当な持ち主の手に戻し、さらにロナルド・レーガンにも敢然と立ち向かう男として、尊敬されていたのだ。彼は人権を求めて戦う急先鋒にあり、イラン元国王をはじめ、政治的信条の違いを問わずに難民を受け入れた国家指導者であり、ノーベル平和賞受賞の呼び声も高く、社会正義の代弁者としてカリスマ的地位にあった人物だ。その彼が死んでしまった。「CIAによる暗殺!」新聞の見出しや社説がまたもや書きたてた。 グレアム・グリーンは、私が彼とパナマ・ホテルで出会ったときの旅行から生まれた著書『トリホス将軍の死』をこんな文章で書き出している。 一九八一年八月、五度目のパナマ訪問のため旅支度を終えたところへ、私の友人であり、招待主でもあるオマール・トリホス・エレーラ将軍の死を伝える電話が入った。将軍を乗せた小型機は、パナマの山岳地帯にあるコクレシトに所有する家に向かう途中で墜落し、生存者はいないという。数日後、彼の護衛をしていたチユチエ軍曹こと、パナマ大学のマルクス哲学の元教授であり、数学教授で詩人でもあるホセ・デ・ヘスス・マルティネスから電話があった。「あの飛行機には、爆弾が仕掛けられていました。まちがいなく爆弾があったんです。でも理由は電話では話せません」 貧民や弱者の味方として評判の高い将軍の死を悼む人々は、いたるところにいた。そうした民衆の声は、CIAの暗躍を究明しろという要求となって、米政府に向けられた。しかしながら、それは実現しなかった。一方にはトリホスを憎悪する人々がいて、そのリストには巨大な権力を有する人々が名を連ねていた。生前のトリホスは、レーガン大統領、ブッシュ副大統領、ワインバーガ一国防長官、統合参謀本部、そして多くの有力企業の経営者たちからあからさまに嫌われていた。 |
トリホス将軍の死後、米国のパナマへの対応をパーキンス氏は次のように記述されています。
パナマの場合、傀儡政権をふたたび樹立させた後は、トリホスとカーターが交渉した条約の条件にもかかわらず、私たちは運河を支配した。 |
あまりに悲しい事ばかりなので、ここで一旦打ち切り、パーキンス氏のサウジ・アラビアでの活動振りなどは、次の《エコノミック・ヒットマンそして日本(3)》へと移らせて頂きます。