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橋田壽賀子氏と戦争とパール判事

2007828

宇佐美 保

 2004年、プロ野球球団東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生劇当時、明大・一場投手(当時)への二百万円の裏金問題に絡み、長年君臨し続けてきた巨人軍オーナーを辞任したばかりの渡辺恒雄氏に対して、新聞記者がコメントを求めて群がると、渡辺氏は“これから家に帰ってテレビ見るので、失礼!”と言って、車に乗り込み、記者の“どんな番組ですか?”の問いに対して“渡る世間は鬼ばかり”と答えている状況を何度かテレビで見ました。

 

 そして、この番組「渡る世間は鬼ばかり」は、とても人気があるそうです。

でも、私はその番組を一度も見た事はありません。

その題名は、内容は兎も角(なにしろ私は一度も見た事が無いので、何も言えません)、如何にも、“何が何でも、人目を引こう!”との思いに満ち溢れている感じがして私は嫌いです。

(高視聴率を取っている今、その題名は、私の気持ちを更に逆撫でしてくれます)

そして、この人気番組を見ない理由はもう一つあります。

 

 今から10数年ほど前でしょうか?

橋田氏の番組のレギュラー出演者である一人の女優さんが、降板した際、“飼い犬に手をかまれた”と発言したのです。

 

 どんな人であれその人を公の場で“飼い犬”に喩える橋田氏こそが、まさしく“鬼のようだ”との印象を受けました。

以来、橋田氏が脚本を書いているドラマを見る事はありませんでした。
(と申しましても、その前から「おしん」すら見ていませんでした)

 

 その橋田氏の作品がいつまでも高視聴率を稼いでいるのが、私には不思議でなりませんでしたが、最近、朝日新聞(2007813日〜17日)に連載された『人生の贈り物 脚本家 橋田寿賀子(82)』を見て納得しました。

 

 第1回目の一部を抜粋させて頂きます。

 

・・・

豪華客船「飛鳥」での船旅。

101日間の旅で712日に戻りました。「渡る世間は鬼ばかり」の脚本を1シリーズ書いたら、自分へのご褒美のつもりで1年おきに旅に出ています。

船にトランクやスーツケースを20個ぐらい積んで、停泊した港から秘境や名所へ行く。荷物を運ばなくていいから楽ですよ。自分が動かなくても景色が動いてくれるし。費用はそれなりにかかるけれど、船旅はいま団塊世代の夫婦で満員ですって。できれば世界遺産を全部見たい。「世界遺産おばさん」と言われてるんです。・・・

 “船旅はいま団塊世代の夫婦で満員”との事ですが、バブル崩壊前であったら「農協の団体で満員」と書き換えられるかもしれませんよね。(私は、橋田氏ほどのお金に恵まれても「世界遺産」を訪ねる事は無いでしょう。
世界遺産」を足で踏み荒らしたりする心配から、写真や映画などで満足して、次世代への遺産として、次世代への遺産として残し、自らの目で素敵な場所を探す旅に出たいと存じております。
(私に、歌を教えてくださったマリオ・デル・モナコ先生(拙文《マリオ・デル・モナコ先生と私》をご参照下さい)の住んでおられたイタリアのトレヴィーソはとても素敵な都市でした。)
 

 ここで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、「橋田壽賀子」の項を見ますと、次の記述を目にします。

 

大衆に受け入れられてこそ価値のある作品であるという信念のもと、数多くのヒットを飛ばした。おしん(1983年〜1984:NHK)、春日局(1989:NHK)、渡る世間は鬼ばかり(1990年〜:TBS)など、後世に残る作品を数多く残している。

 

 成る程成る程、橋田氏は「大衆に受け入れられる」為に、ご自身が「大衆」に入り込んでいるのです。

否!「大衆」そのものなのです。
(と申しましても、「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品である」事が間違いである事は、最近での「小泉劇場」、更には「太平洋戦争」の例を見るまでもなく明らかと存じます)

 

 その「大衆」そのもの振りは、次の記述にも認められます。

 

・・・女学校を卒業後は、口うるさい母から離れたい一心で東京の日本女子大に進みました。

 −戦争の真っ最中

 勉強どころじゃなかったですね。1年の頃から陸軍省のある市ヶ谷で暗号の翻訳をやり、2年生になったら関西の海軍経理部に行かされて庶務の仕事をした。特攻隊に行く人に、故郷へ戻ってから知覧へ行く切符を手配したりしていたんです。

空襲も激しかった。空襲警報が鳴ると、私は海軍の書類を持って逃げる役目だったので、いつも逃げ遅れて機銃掃射されるんです。いっしょに逃げた男の子が死んだこともある。実家のある堺市も空襲にあい、数日間は熱気で市内に入ることもできない。ようやく入れたときには実家は焼けていて、しばらく母の行方もわからなかった。

 −大変な時代です

 でも、いつも死と隣り合わせだから麻痺しちゃってるのね。

身近な人が死んでも、明日は自分も死ぬかもしれないと思っているから、お互い様。私は軍国少女で「お国のために燃えつきよう」と燃えていましたしね

 玉音放送を聞いた後は、アメリカ軍がすぐに上陸してくると聞き、33晩徹夜で資料を燃やしました。本当に悲しくて悔しくて。いっそ死のうと思い詰めていた。

 

 この「私は軍国少女」は、兎も角(?)、「33晩徹夜で資料を燃やしました」に対して、橋田氏は何の反省も無いのです。

不思議で不思議でなりません。

 

 橋田氏も東京新聞(2007814日)に掲載された、保阪正康氏(ノンフィクション作家)の対談記事をお読みになっては如何でしょうか?

(その一部を抜粋させて頂きます)

 

 豊田 なぜ記録が十分でないことをいいことに、史実がなかったと言いだせる風潮が強まるのでしょうか。

 

 保阪 これは安倍さんがつくり出した政治的潮流の一環だと思います。政治指導者の発言によって、それにつながる歴史観は勢いを持ちます。同時に、安倍さんを支える国民の側にも不勉強さや鈍感さがあります。従軍慰安婦問題でも、われわれには軍の関与を示す資料はないと言う資格はありません。なぜかというと、昭和二十(一九四五)年八月十四日の閣議で、行政や軍事機構の末端まで、資料を焼却せよという命令を出したんですね。全部燃やしているわけですよ。日本の戦争に関する資料はほとんど残っていない。戦争責任の追及を恐れたんでしょうが次の時代に資料を残して、判断を仰ぐという国家としての姿勢が全くなく、燃やせということを平気でやる。そうしたことを知らないスカスカの歴史認識、史実に対する不勉強を、国際社会に対して平気で言う神経は僕には信じられません

 

 この保坂氏の談話にある「資料を焼却せよという命令」に従って、「軍国少女」の橋田氏は大事な資料を「33晩徹夜で資料を燃やし」たのです。

軍国少女」であった当時は兎も角、今以って「次の時代に資料を残して、判断を仰ぐという国家としての姿勢が全くなく、燃やせという」行為に加担してしまった失態への反省の念が全く無いのが不思議なのです。

 

 更に、橋田氏が「軍国少女」であった時代に次のような話があったのです。

朝日新聞の「降旗康男(映画監督)ひとインタビュー」の次の記述を抜粋させて頂きます。

http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/070615.html

 

戦時下の教師の言葉が支えに

――自身の思いを貫き通すのは案外パワーが必要なことです

子どもの頃、戦争の最中のことですが、ある日の放課後、担任の先生に呼ばれて「サイパンが陥落した。日本は戦争に負けるよお前はお調子者だから、気軽に少年兵志願に手を挙げたりしちゃいけないよ」と言われました。みんなが日本は勝つと信じていた時代だっただけに驚いたと同時に、この先生のようにものを考える人がいることに目を開かされました。そうしたら、今度は近所にやってきた特攻隊の兵士が「君たちは志願して兵隊になってはいけない」と同じことを話してくれた。そのときに「大勢(たいせい)に流されない人たちがいるのだ」と知り、素直にすごいなあと思ったんです。それから絶対、大勢に流されてはいけないと心に言い聞かせ、自分の生きていく指針となっています。安易に迎合しない、自分の意志に逆らうことをしないのはその経験が大きい。

 

 保坂氏は次のようにも話されています。

 

記憶が薄れつつある昭和史は今、同時代史から歴史に移行する端境期で、これ幸いとばかりに、独断と偏見による政治的プロパガンダが行われます。こうしたプロパガンダに耐久性を持たせないためにも、歴史を真摯(しんし)に考える人たちが、批判しなければなりません。黙っていて、力に押されると、日本はとんでもない国になる。過去を反省しないばかりか、美化し始めます。端境期の今がまさに正念場です。

 

 橋田氏の生きがいは「テレビで高視聴率を取ること」そして「世界遺産」を訪ねる事だけなのでしょうか!?

そして、「大衆」そのものであり続けるのでしょうか?!

 

 やはり橋田氏は「大衆」そのものなのでしょう。

例えば次の記述です。

 

・・・テレビの時代が生まれつつあったので、思いきって松竹を飛び出しました。

 −ツテはあったのですか

 いいえ。ひたすらシナリオを書いては持ち込みです。原稿を赤いリボンで綴じ、「赤いやつを読んで」と頼んで歩いた。

 そんな時に、TBSの日曜劇場のプロデューサーだった石井ふく子さんから声をかけられて、「袋を渡せば」というホームドラマを書きました。常々「旦那の給料の半分は主婦に権利があるはず」と思っていたことをドラマにしたんです。石井さんは「何もない世界だけど面白いわね」と使ってくれた。

 −そこからホームドラマ路線が・・・

 

 確かに“常々「旦那の給料の半分は主婦に権利があるはず」と思っていた”との橋田氏の思いは、テレビを見てくれる多くの主婦と共通の思いなのかもしれません。

 

 しかし、この橋田氏の思いは一面的でしかありません。

旦那の給料」の稼ぎ方は色々です。

従って、夫婦間の分配方法も画一的な等分ではなく色々あって然るべきと存じます。

旦那」が何十億も稼いでも、いかなる場合でも、その半分は「主婦のもの」という訳ではない筈です。

(勿論、「旦那」ご自身だけの力で全てを稼いだとしても、その「旦那」が、自分の稼ぎの半分は「主婦のもの」と考える事もありましょう)

 

 更に、橋田氏は「大衆」と共にあることを次のように告げています。

 

 −結婚して仕事が増えたそうですね

主人の給料があるから「喧嘩したら降りればいい」と開き直ったら、テレビ局の方が「橋田に文句を言うとすぐに降りるというから文句を言うな」と言い出した。のびのび仕事が出来るようになったんです。

 

 「主人の給料」という「盾」を用いて「テレビ局の方」と闘った事を(自慢げに?)公にする事は、自ら「大衆」の一員であるとの旗印を掲げているようです。

(しかし、自らの無能さを棚上げして「自ら反みて縮(ナオ)くんば千万人といえども吾ゆかん」と息巻く安倍氏よりもご立派なのかもしれませんが?)

 

 このような橋田氏は次のようにも語っています。

 

 戦争と平和」は、私の大きなテーマですね。戦争を体験した人がいなくなる中、ドラマの伝える力というのは大きいと思うんです。

 あの時代は、ある意味幸せだった。物がないのは同じだから、みな寛大でしたよ。戦争に勝つという共通の目標もあった今はどうですか。ブランド物を持っていても「隣の人はもっといい物を持っている」と恨んだり。「戦争中の方が幸せだった」と言わなきゃいけない時代なんて、そんな不幸はないですよ。

 

橋田氏は「あの時代は、ある意味幸せだった。物がないのは同じだから、みな寛大でしたよ」と話し、次のようにも語っています。

 

 でも、その日その日を生きているうちに、考えが変わってくるのね。食べるものがなくて、東京の大学寮では毎日ウドしか出てこない。このままではいけないと、2晩並んで列車の切符を買い、山形に疎開していた叔母の元に行ったら……その光景は今も忘れないですね。米の収穫時期で、稲穂が黄金の波に見えた。「日本はまだ大丈夫だ」と感激しましたよ。叔母の家ではおはぎを出されて急いで食べた。この歳になるまでいろんなごちそうを食べてきたけれど、あれよりおいしかったものはない。少しずつ「私も生きていていいのかな」と。

この時に、材木商に出る子どもが最上川を筏に乗せられて行くという話を聞きました。「おしん」の原型です。

 

 しかし、戦争が長引いていたら、「稲穂が黄金の波」も消えていたでしょうし、橋田氏は叔母さんの家だからこそ、歓待され「おはぎ」もご馳走になれたのでしょう。

地方に疎開した多くの家族は、食料を分けて貰う為に、得る為に、どれほどの苦労をしたのでしょうか!?

 

 そして、何よりも驚く事は、今以って橋田氏が「あの時代は、ある意味幸せだった。物がないのは同じだから、みな寛大でしたよ。戦争に勝つという共通の目標もあった」等との認識を抱いている事です。

共通の目標」があれば「戦争に勝つ」であっても良いと思って居られる様なのですから!

戦争」は、「勝とうが負けようが人間の共通の目標」とすべきものではありません。

 

 このような認識の方から“戦争と平和」は、私の大きなテーマですね。戦争を体験した人がいなくなる中、ドラマの伝える力というのは大きいと思うんです。”との言葉を聴くと背筋が寒くならざるを得ません。

 

 なにしろ、橋田氏の「戦争」認識は、安倍首相の「戦争」認識との相違が分りません。

うっかりしたら、橋田氏も自認する「伝える力の大きなドラマ」で安倍氏の「戦争と平和」感を垂れ流されかもしれません。

 

 でも、このような橋田氏のドラマを見ていないと多くの方々は時代に取り残されるとの不安を感じるのでしょうか?
そして、このような橋田氏達によって作られるドラマによって、日本人の世論が形成されてゆく事に脅威を感じます。

 

 私の身近なある方は、“馬鹿番組のテレビを見る効用のひとつは、現在の社会の中に溶け込めるように流行ギャグの勉強と見受ける”とのご見解ですが、「流行ギャグが分からないと言う現在の社会」が異常だと存じます。

 そして、橋田ドラマを見ていないと、会話に乗れない社会も!

 

 「流行ギャグ」や「橋田ドラマ」を無視して「現在の社会の中に溶け込んだり、リードする気概」が私達には必要なのではないでしょうか?

 

 NHKの衛星放送や、歴史チャンネル、ナショナルジオグラフィックチャンネルなどでは素敵な番組が時折放映されています。

 

例えば、先日は、NHKの衛星放送で『パール判事は何を問いかけたか〜東京裁判 知られざる攻防〜』と言う素敵な番組が放映されていました。

うかつにも、私はその番組を途中からしか見ていないのですが、次のような事を教えてくれました。

 パール判事は、判事独自の判決書の中で、「全員無罪」と記しつつも日本の為政者・外交官および政治家らはおそらく間違っていたのであろう、またおそらく自ら過ちを犯したのであろうと記述し、又、西洋諸国に対する植民地支配に対し強く批判し、満州国建国を例に日本の帝国主義を西洋諸国の行為を真似た行為だったと、又、「バターン死の行進」「南京事件」「アジア太平洋各地での日本軍の行為」を激しく非難している。

 

 更に、パール判事は、裁判の後再度日本を訪れて、次のように語っておられました。

“私は繰り返して申し上げたい、戦争というものは平和への方法としては失敗であると、われわれはもはやこの失敗を重ねてはならない”

と。

 

そして、3度目の来日(199610月)の際、次のように語っておられたそうです。

“日本だけでなく世界の国々が武力を捨てて政治を考えるべき時だと私は思います。なぜなら誇張せずに言わせていただければ、武力はもはや何の役にも立たなくなったからです。武力は全く無意味になったのです”

と、

そして、パール判事はこの3ヵ月後81歳の生涯を閉じられたのです。

 

 橋田氏がこのパール判事の「戦争と平和」感に基づいてドラマを書き上げるのでしたら、喜んで視聴させて頂きたいと念じております。

と言うより、是非パール判事の思いを汲み取って「伝える力の大きいドラマ」を書き上げて頂きたく存じております。

 

 

 

(追記)

 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「橋田壽賀子」を見ていたら、次のような記述がありました。

 

担当脚本の作品では、もはや死語となった様な上品な台詞が多く発せられる。主なものに「作る」というところを必ず「拵える(こしらえる)」と言わせる、「味噌汁」を「御御御付(おみおつけ)」と言い換える等がある。

 

 私は、この橋田氏の“「味噌汁」を「御御御付(おみおつけ)」と言い換える”お気持ちに、共感します。

 

 私は、「御御御付(おみおつけ)」時には「おつけ」との用語で育ってきましたので、「味噌汁」と言われると、別な「・・汁」を思い浮かべてりして、「御御御付(おみおつけ)」を美味しく味わう幸せが飛び去ってしまう時が多々あるあるのです。

 

 上品な台詞云々の件は、私には分りませんが、「ドラマ」などのカタカナ言葉が、アクセントも無くダラーッと発音されると、その人には腹筋の力が欠落しているのかしら?それよりも生活自体がダラーッとして、ふしだらなのかしらと思ってしまったりするのです。

 

 
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