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「安倍氏の美しい国」の先は行き止まり

2007724

宇佐美 保

 先ずは、先の拙文《「闘う政治家」を詐称して「戦う国へ」導く安倍氏》に続いて、「安倍内閣メールマガジン(第33 2007/06/14):ハイリゲンダム・サミットを終えて」の一部を抜粋させて頂きます。

 

 私は、まず、先週号でお話した、新提案「美しい星50"Cool Earth 50"を各国首脳に紹介しました。

 

 温室効果ガスを「2050年に半減」する長期目標、これに向けた次期枠組みづくりの3原則「すべての主要排出国の参加」、「各国ごとの事情に配慮する柔軟性」、「成長と環境の両立」を訴えました。

 

 温室効果ガス排出削減の数値目標を明確にしたいEU勢。現段階では、数値目標を掲げたくないアメリカ。各国の立場の差は依然として大きかったものの、この問題を先送りできないという共通の責任感のもと、熱のこもった議論が続けられました。

 

 CO2最大排出国であるアメリカが、温暖化対策に前向きになったことは画期的なこと。サミット直前に行った日米首脳会談で、私は、この姿勢を評価し、技術革新の分野では日米が協力をし、世界をリードすることでブッシュ大統領と一致。この合意が、G8での最終的なとりまとめに大きく貢献できたと思います。

 

 結果として、私の3原則はすべて宣言文に反映させることができました

同時に、数値目標を含む日本の提案を各国が「真剣に検討する」ことも明記されました。

 

 この安倍氏の提案「美しい星50」が「宣言文に反映させることができました」とのメールでは、「温室効果ガス排出削減の数値目標を明確にしたいEU」と「数値目標を掲げたくないアメリカ」のどちらの立場が尊重されたのかが良く分りません。

 

そこで、これまた、先の拙文で引用させて頂いた朝日ニュースターの「ニュースにだまされるな623日放映)」のホームページから下記にその一部を引用させて頂きます。

 

(1)ドイツサミットの評価をめぐって

1.日本のメディアの多くはG8サミットの環境問題に関する合意を評価するが、6月10日付け英「インデペンデント」紙に載っている記事において、英国会の全政党環境監査委員会のティム・イェオ会長(保守党)は、G8首脳会議の環境声明などを鋭く批判している。イェオ会長は、ブッシュの中国を待つスタンスは「道徳的に破綻しており」ビジネス・センスも無く、ブッシュは国内外も孤立していると指摘している。ちなみに、イェオ会長は安倍および「美しい星50」について何も言及していない。つまり無視。

http://comment.independent.co.uk/commentators/article2640334.ece

2.6月7日付けガーディアン紙の記事によれば、環境保護主義者たちが、ほぼ「一文の値打ちもない」合意だとしている。

http://www.guardian.co.uk/g8/story/0,,2097889,00.html

6月8日付け「デーリ・テレグラフ」:「ブッシュが欲しかったものを得た」と評価する

 

 これを読みますと、安倍氏のメールでは、安倍氏は「温室効果ガスを「2050年に半減」する長期目標」と書いていながら、「サミット直前に行った日米首脳会談で・・・ブッシュ大統領と一致」と書かれているのですから、“ああ!やっぱり、安倍氏はブッシュ大統領の立場を代弁しただけなのだ!!”と思わざるを得ません。

(なにしろ、米国は「京都議定書」から離脱したままです)

 

 こんな合意を、安倍氏が自画自賛するのはさておきまして、何故「日本のメディアの多くはG8サミットの環境問題に関する合意を評価する」との事態に陥ってしまうのでしょうか?

(最近、私は地上波テレビや、新聞もほとんど見ません。見るのが嫌になってしまいました)

 

 更におかしいのは、安倍氏の提案が日本題で「美しい星50」となっていながら、横文字では"Cool Earth 50"なっている点です。

横文字が正式名なら、日本名は「クール・ビズ」を推進している安倍内閣としたら、「クール・アース50」とすべきではありませんか!?

(私達日本人には「アース」が地球を意味しているのかが、直ぐには分りませんから、「クール・地球50」とでも呼称してくだされば良いのでは?)

 

 なのに、何故安倍氏は「美しい星50」と唱えるのでしょうか?

美しい国」の延長線で「美しい星50」と唱えたのでしょうが、それも変ですよね!

美しい国」の延長線で考えるなら、「美しい地球50」とすべきです!

 

 「」と「地球」ではは大違いです!

夜空に輝く「」がどんなに美しかろうと、その「」の数は天文学的数字であります。

しかし、我々人類が(動植物が)生息できるのは、唯一つ「地球」でしかないのです。

地球」は私にとって掛替えのない「」なのです。

ですから、私達の目標は「美しい星50」ではなくて、
美しい地球
50」、というより「掛替えのない地球50」でなくてはならないのです!

 

 それなのに、何故「美しい地球50」ではなく
安倍氏は、
美しい50」との文言を用いたのでしょうか!?

 

 その理由は、安倍氏の著作『美しい国へ』の「曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷」の項を読みますと、「地球」を否定し「美しい星」に拘る安倍氏の魂胆が見えてきます。(それにしましても、書かれている事が矛盾だらけのこの『美しい国へ』を書いて得意面をしている安倍氏を首相にしたのか!?自民党議員の見識を疑わざるを得ません!)

 

 そこでこの項を、順を追って引用させて頂きます。

 

「地域コミュニティの再評価」をスローガンにして活動している人たちのなかには、地域にたいして愛着をもつのは、よいことだが、国家にたいして愛着をもつのは、ごめんだ、という人がいる。そういう人たちには、地域社会から国家をバイパスし、一足飛びに地球市民にいってしまう考えの人が、なぜか多い

 地球上のすべての人類が、自分の生まれ育った地域を大切にすれば、やがて地球がひとつの大きなコミュニティになる、という考え方である。一見正しいように思えるが、どこか不自然だ。

 地球市民というのは、人類がかかげるべき概念のひとつかもしれないが、事実上空想の世界でしかない

 

 この部分の最後の「地球市民というのは、・・・事実上空想の世界でしかない」との安倍氏の見解(私から見ればねじけた見解)が、安倍氏をして「地球」を否定し「美しい星」に拘らせたのだと存じます。

 

 そして、「地域社会から国家をバイパスし、一足飛びに地球市民にいってしまう考えの人が、なぜか多い」と感じる思考の浅い安倍氏は、その原因を次のように記述しています。

 

かりに実現したとしても、その市民の安全や財産、あるいは人権をいったいだれが担保するのか。基礎的な単位が必要であり、その単位が国家であるのは自明だろう。にもかかわらず、その国家をバイパスするという感性が育まれた背景には、戦後日本が抱えてきた矛盾が大きく影響している。国家という概念へのアレルギーが、地域住民と地球市民をダイレクトに結びつけてしまう作用をはたしてしまうのだ

 

 こんな「子供の論理以下の論理」を振り回す安倍氏が、本当に日本国の首相なのでしょうか!?

 

 「地域社会」と、安倍氏が理想とする「国家」には根本的な相違が横たわっているのです。

どんな人も、「地域社会」を守る為に「武力」を用いません。

(「武力」はいわば「警察」の役目ですし、場合によっては争いごとの解決に「裁判所」も寄与します。)

ところが、「安倍氏が理想とする国家」は「武力、軍隊」を保持して「集団的自衛権」と称して、又、「平和憲法」を変えてでも「国連を無視して、戦争することを厭わない国家」なのです。

(この「安倍氏が理想とする国家」こそが「国家という概念へのアレルギー」の「抗原(アレルギーの元)」なのです)

 

 日本が「平和憲法」を守り「国連を通じての世界平和に貢献する国家」であるのなら、
「地域コミュニティの再評価」をスローガンにして活動している人たちだけでなく、
誰でも、「国家をバイパス」することなく、
地域社会から、平和国家へと進み、その先に地球市民に至る道を希求するでしょう。

 

 そうでなかったら、何故日本国は「国連の常任理事国」の地位を渇望しているのですか?

単に、「国連の常任理事国」との肩書きを欲しているのですか!?

日本が「国連」、更には、この717日に「105番目の締約国」となった「国際刑事裁判所(ICC」を通じて、世界の平和に貢献したいとの願いからではないのですか?!

 

 「国際刑事裁判所問題日本ネットワークのホームページ」を訪ねますと次のように書かれています。

http://homepage3.nifty.com/wfmj/icc/

 

国際刑事裁判所(ICC)設立条約採択9周年を祝う

2007717

 本年7月17日に、国際刑事裁判所(ICCは、設立条約採択から9周年を迎える。100年の間に2度も戦争の惨禍を経験した人類社会にとって、戦争の廃絶は、奴隷制の廃止ともに避けては通れない歴史的な課題である。1928年の不戦条約と並んで、平和に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪を行った戦争犯罪人を処罰したニュルンベルク裁判および東京裁判は、この歴史的な課題を果たす重要な一歩であった。さらに1998年にローマで採択されたICC設立条約は、この歴史的な課題を果たすべき決定的な一歩を築くものであり、これによって、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪などの重大な国際犯罪を行った個人は、もはや不処罰の文化( Culture of Impunity)に身を委ねることは許されなくなった

 

 ICC条約が採択された日は、これまでも「国際司法の日」(World Day of International Justice )として記念日とされてきたが、今年はとりわけ重要な日となった。それは、この日に日本が105番目の締約国として、ICCの家族に加わるからである。日本は、 世界で三番目の軍事拠出を誇りながらも、戦争の放棄および戦力の不保持を宣言した憲法をもち、力強い経済と優美な文化を通じて、世界に貢献してきた。これからはさらに、ICCの一員として、公正と正義を基調とする国際司法を発展させるため、多大な貢献を果たすことが期待される。その決意の一端は、7.2億円に上る分担金の支払いとともに、今年の締約国会議において選出される裁判官の補選に候補者を推薦し、人的な貢献をも惜しまない態度を表明している。

 

 われわれは、重大な国際犯罪について、不処罰の文化に代えて、責任の文化(Culture of Responsibility )を創造するために、日本が先頭に立ち、いまだ十分には貢献していないアジアの諸国に働きかけて、ICC規程の世界的な普及・批准を達成することに尽力することを切に期待する。日本はこれまでも、核兵器の廃絶に向けて絶えず世界を説得してきた実績を持つ。しかし、唯一の被爆国である我が国は、さらに平和と人権の側面からも、人類社会に貢献する重要な役割を果たすべきである

 

 日本は、やっと「105番目の締約国」となりましたが、米国は、未だにこの条約を批准していません。

安倍氏が「米国に貢献する」事よりも「人類社会に貢献する」事を重要視するのなら、先ずは、米国も「国際刑事裁判所(ICC)締結国」に加わるようにブッシュ大統領を説得すべきではありませんか!?

 

なのに、我が国の首相である安倍氏は、次の記述のように「人類社会に貢献する」よりも、「国を守る(?)」ことを重要視するのです。

 

 そもそも、人間はひとりで生きているわけではないし、ひとりでは生きられない。その人の両親、生まれた土地、その人が育まれた地域のコミュニティ、そして、それらをとりまいている文化や伝統や歴史から、個人を独立させて、切り離すことなどできないのだ。

人は、「個」として存在しているように見えるが、その実体は、さまざまなものとつながっていて、けっして「個」ではない。国もまた、同じだ。人が生まれて成長して年をとっていくうえで、切り離せないものとして存在しているのである。

 ここでいう国とは統治機構としてのそれではない。悠久の歴史をもった日本という土地柄である。そこにはわたしたちの慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということば、自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである

 

 安倍氏は、「自分」、「家族」、「地域」を守ることと「」を守ることはつながっていると記述しているのに、何故、「国を守るということ」だけには「武力、軍隊」が必要と考えるのでしょうか!?

逆ではありませんか?!

 

 「自分」、「家族」、「地域」を守ることと「」を守ることはつながっている、「自分」、「家族」、「地域」を守ることには武力は不要!

よって「国を守るのにも武力は不要!」と考え、日本国の首相としての行動を起こすべきではありませんか!?

 

 それに、安倍氏は「人間はひとりで生きているわけではないし、ひとりでは生きられない・・・国もまた、同じだ」と書かれています。

事実そうです。

資源の乏しい日本は、日本だけでは生きてゆけません。

となりますと、安倍氏は、「武力で持って他国から資源を横取り」しようと思っているのでしょうか?!

それとも、「ホリエモン氏同様に金さえあれば何でも買える」と錯覚しているのでしょうか?!

 

 資源だけではありません。

科学技術も然りです。

どんなに「日本は技術大国だ!」とほざいても、私達の生活になくてはならない「電気」などの基本的な発見発明を考慮しただけでも、外国のお世話によっています。

 

 こんな事が理解出来ない安倍氏が、首相の座を確保出来たのは、「拉致問題の安倍」を謳い文句としたお陰と存じます。

 

 そして、「拉致問題の安倍」氏は、次のように続けます。

 

 北朝鮮に帰属の権利を奪われた拉致被害者のひとり、曽我ひとみさんが、二〇〇二年秋、二十四年ぶりに故郷の佐渡の土を踏んだとき、記者会見の席で読んだ自作の詩があった。

 みなさんは記憶しているだろうか。自らの国を失うとはどういうことか、国とはわたしたちにとって、どういう存在なのか、率直に、そして力強く語りかけてくれたのを。

《みなさん、こんにちは。二十四年ぶりにふるさとに帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすみませんでした。今、私は夢を見ているようです。

人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。

「おかえりなさい、がんばってきたね」。だから、私もうれしそうに、「帰ってきました。ありがとう」と元気に話します。みなさん、本当にどうもありがとうございました──》

 

 曽我ひとみさんの、文章や詩を読ませて頂くたびに、「なんと感性も文才も豊かなお方だろうか!」と感嘆してしまうのです。

私が、曽我さんの立場でしたら、このような詩は詠めません!

なにしろ、東京生まれの東京育ちの私には、「山、川、谷」もありませんし、囁いてくれる優しい「空も土地も木」もありません。

逆に、次のような恨み言を吐きたくなります。

“何故、私を二十四年間も、拉致されたままに放置しておいたのですか!?

それに、私のお母さんは、未だ拉致されたままです!”と!

 

 そして又、安倍氏の心の貧弱さに驚かされるのです!

曽我ひとみさんのお母様は、未だ帰国されていないのです!

曽我ひとみさんの詩は、
お母さんに対する悲しみを押し殺しての感謝の詩なのです

 

 なのに、その曽我さんの悲しみを少しも斟酌せずに、自らの著作へ「痛切な思いを秘めた曽我ひとみさんの詩」を自慢げに引用する安倍氏の無神経さに驚くのです。

 

 安倍氏は、この曽我さんの詩と共に、少なくとも曽我さんのお母さんの事にも触れるべきです。

安倍氏が自ら、平壌へ乗り込んで金正日と直談判するとか、中山恭子氏を内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に任命せずに、平壌へ拉致問題担当駐在員として送り込むべきだったと存じます。

いわんや、中山恭子氏を今回の参議院選挙に立候補させるなどとはもってのほかです。

(安倍氏は「拉致問題を食い物にしている」と言われて当然です)

 

 ここでは、安倍氏は「国とはわたしたちにとって、どういう存在なのか・・・」と書かれ、又、別の箇所では次のように書かれています。

 

アメリカという国には、日本のように百二十五代にわたって天皇を戴いてきたという歴史があるわけではない。

 

 でもおかしくありませんか!?

江戸時代、明治前までは「沖縄」は「琉球国」でしたし、「北海道」は「アイヌの方々の居住地」だったのですから、そこに住んでおられた方々、又、ご先祖の方々には、「百二十五代にわたって天皇を戴いてきたという歴史」はない筈です。

 

 その沖縄の方々を戦渦に巻き込み、日本軍は彼らを集団自殺追い込んだ挙げ句に、戦後は、米軍基地を押し付け、その上、沖縄の方々の戦中の悲惨な歴史を歪曲抹消しようと安倍氏達は企んでいるのですから情けなくなってしまいます。

 

 勿論、沖縄、北海道に限らず、明治以前では、日本は「藩」に分かれていたのです。

従って、私達の先祖達(武士達)は、日本国(天皇)の為ではなく、「藩(藩主)」の為に命を捧げていたのです。

 

 でも、今では「藩のために命を捧げよう!」などと誰も思いも言いもしません。

 

 私の父の出身地(郷=国)は東京(江戸)でした、母の出身地(郷=国)は、金沢(加賀藩)でしたから、私はいわば「混血児」です。

そして、この世界的な交通機関の発達した現代においては、「藩を超えた」どころではなく「国を超えた」結婚が益々増大するでしょう。

 

 そのような状態では、ご夫婦の「」は?お子様達の「」は?

 

安倍氏は、「曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷」の項目の前で、次のようにも記述しています。

 

 若者たちが、自分たちが生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国にたいする帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか

 

 安倍氏よ、一寸考えてください。

曽我ひとみさんのご主人のジェンキンスさんの「」は米国です。

もう少し考えてください。

北朝鮮で生まれたお二人のお子さんの「」は?

北朝鮮ですか?

それとも、日本?

 

 お二人のお子さんには、北朝鮮に沢山のお友達も居られたでしょう。

懐かしい野山もあったでしょう。

 

この3人の方々が、日本の土地を踏んだ時に(曽我ひとみさんのふるさとの土地を踏んだ時に)、安倍氏が引用された曽我ひとみさんの詩と同じ感慨を抱いたでしょうか?

 

 それに、日本が北朝鮮と、或いは米国と戦争する事態に陥った場合には、3人の方々はどうなさればよいのでしょうか?!

 

 先の戦争では、移民で米国へ渡った多くの日本人、その2世の方々、又、日本軍の為に戦うことを強制された韓国の方々の受けた苦しみは想像を絶します。

 

 

戦後レジーム」とは、「もう戦争はこりごりだ!ではありませんか!?

1954年生まれで、戦争を全く知らない安倍氏には、この感覚が全く欠如しているのでしょう。

そして、その戦争の悲惨さを知らない安倍氏は、次のようにチャーチル“讃”を綴っています。

 

かれ(チャーチル)には先見の明があった。軍備の強化こそがナチスを抑えられると早くから訴えていた。はじめ、その主張は無視されていたが、やがてチェンバレン内閣のヒトラーに対する「宥和政策」が、結果的にナチスドイツの侵略を招いたことがイギリス国民に理解されると、首相に選ばれる。

 のちに「一人の人間の精神の働きがこれほどまでに世界史の働きと一致したことはかつてなかった」と自ら語ったように、自分の判断の正しさに対する確信があった。結果、「どんな犠牲を払ってでも勝利する」と宣言して、連合国を勝利に導いた。

 チャーチルは若い頃から、すぐれた伝統と文化をもつ大英帝国の力を維持するには、国民生活の安定が不可欠だと考え、社会保障の充実を唱えてきた。安全保障と社会保障──じつはこれこそが政治家としてのわたしのテーマなのである

 確たる信念をもち、たじろがず、批判を覚悟で臨む──あらたな決意だった。

 

 「軍備の強化」が「ナチスを抑えられる」は成功したからと言って、「(軍備の強化による)安全保障」を「政治家としてのわたしのテーマ」と書いて憚らず、「批判」されても反省せずに突っ走る危険人物が首相である事は脅威です。

 

優れた政治家なら、“「ナチス」の登場は戦争に結びつくから、
ナチス」が登場しないような政治を志す”と書いてくれるでしょう。

 

 現に、ヨーロッパの各国は、欧州連合(EUを誕生させています。

駐日欧州委員会代表部のホームページを訪ねますと、次のような記述を見ます。

 

 EUは、人間の価値と社会の進歩を推進していくことを望んでいます。クローバリゼーションや技術革新によって世界が根本から変わりつつあることを目の当たりにしている欧州の人々は、世界中の人間がこの変化の犠牲になるのではなく、その変化を使いこなしてほしいと思っています。人々が必要とするものは、市場の力だけでも、また一国の単独行動によっても満たされるものではないのです。

 

 この「欧州連合(EU」の行き先に、私達は「地球市民」の存在を期待したいのです。

 

 何故、安倍氏は欧州連合(EUの存在に目を向けないのでしょうか?!

それに、「社会保障」をも「政治家としてのわたしのテーマ」と書きながら、長年「衆議院厚生委員会理事」の座についていながら「ガタガタとなった年金」の責任を民主党の菅直人氏に、又、社保庁に責任を押し付けたりとする人物は、早々に「首相の座」から降り、且つ、政治の場から引退していただきたいものです。

 

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