目次へ戻る

 

岡本太郎氏に学ぼう(3)〈独自な人間像の魅力〉

200723

宇佐美 保

岡本太郎氏に学ぼう(2》を続けさせて頂きます。

 

政治家のみならず、多くの会社の不祥事が、毎日のように新聞テレビを汚していています。

そのような会社の社長や幹部の方々の日常生活はどのようなのかと気にならなくもありません。

岡本太郎氏は次のように記述されています。

 

 どういう風の吹きまわしか、経営者ばかりを集めたセミナーに話をたのまれた。

僕の前の講師の話は、日本が今や個人所得の水準でもヨーロッパを越え、世界二位、やがてアメリカをおさえ、しのぐという勢いのいいものだった。

 まことに結構。だがそういう話を聞くたびに、ぼくはいつでも、ふと、それが一体われわれの運命を本当に変えて行くのかという、いささか絶望的な反間が心に浮かぶのだ。

 ぼくの番になった。壇上からあらためて聴衆を見わたし異様な気分にとらわれた。

……見るからに経営者。ビジネス、利潤追求だけに専念している、その外の人生はゴルフかマージャンだけというような。みんな同じ顔、同じ目つきで、ネクタイを締めて、ゾロッとすわっている。禿げた人、四角い顔、眼鏡、それぞれ違うのだが、同質に見える。ふと、何か異種の動物の前に立たされているような気持ちになった。

 ぼくは率直にその感想を話した。経済がどんなに成長しても、逆に人間喪失のむなしさはとり返しがつかないのではないか。ここからお見受けすると、皆さん、一目見て、いかにも経営者、商売人だ。それ以外の何ものでもないというところに、人間の全体像を失っている現代文明、そしてこれからの運命が象徴されている。その傾向はますます増大していくだろう。どんなに富裕になっても、人間像のふくらみがなかったら。……俗にいわれるエコノミック・アニマルであるにすぎない。

 日本はたしかに経済大国になり、一応成功した。だがその成果の裏には大きな落としものがある。ぼくにはそれがこういう形で、つきつけられているように思える。

あなた方、一人一人が、独自な人間像の魅力を強烈に放射するようになった時、その時こそ経済生活も人間本来の誇らしさを回復するのではないか……。

 もちろん、これは経営者だけのことではない。この社会のメカニズム、近代主義のなかで踊っている政治家しかり、芸術家しかり

 独自に生きたくても、現実にはむずかしいというかもしれないが、その矛盾と闘わなければだめなんだ。闘えばそのことのなかに自分の生きがいが発見できる可能性は大きいのだ。

若い人たちに言いたい、ただのなまぬるいサラリーマンになることは容易だ。しかし、そこではほんとうの自分をごまかして、画一化するよりほかはないのだ。それよりも、自分の目、手でふれる、だからこそ危険な道をきりひらいて行くべきだ。

決して遅くはない。あきらめて、投げてしまってはならない。あえて敗れることを決意して、社会にぶつかるのだ。それによって、さらに大きな、輝かしい人間像を形成していくのである。

 

 岡本太郎氏がここで書かれた“一人一人が、独自な人間像の魅力を強烈に放射するようになった時、その時こそ経済生活も人間本来の誇らしさを回復するのではないか”は、少なくともいかなる分野に於いても、そこでのトップの方々にとって大変重要な事と存じます。

 

 けれども、岡本太郎氏の“ただのなまぬるいサラリーマンになることは容易だ。しかし、そこではほんとうの自分をごまかして、画一化するよりほかはないのだ・・・”の件では、若干異論を差し挟ませていただきたく存じます。

例えば、岡本太郎氏が「太陽の塔」を制作する場合でも、制作協力者が“ほんとうの自分をごまかして、画一化する”事を止めて、自分たち独自の見解を岡本太郎氏にぶっけていたら、「太陽の塔」は完成しなかったでしょう。

そして、多くの工業製品も然りです。

工員の方々が製法に関して独自の見解に固執してしまっては、製品は完成しません。

(勿論、提案と言う形では有効ですが。)

但し、制作協力者も、工員の方々も、職場では「画一化」していても、自宅に帰ってからの独自の大事な時間をテレビのくだらない馬鹿番組で浪費するのは大反対です。

この時間にこそ“一人一人が、独自な人間像の魅力を強烈に放射するよう”自らを磨き上げる努力をすべきではないでしょうか?

 

 更に、次の記述もあります。

 

政治・経済は人間にとって勿論欠くことの出来ないシステムである。というより生活自体なのだ。しかしおかしなことは、日常、ぼくらにとって、「政治」「経済」と聞くと、何かひどくよそよそしい。多分これらの機構がいわゆる政治家、経済人によって勝手にコントロールされ、「芸術」つまり「人間」が抜け落ちてしまっているからだろう。

 ぼくはこういう場合には「政治屋」「商売人」と呼ぶ方が適切だと思う。彼ら専門家だけでがっちり自分たちの領分を抑えている。われわれ一般は好むと好まざるとにかかわらず、つくられた枠の中に生活をつつみ込まれ、規定されて、そのツケだけを払わされているような感じがする。

 政治家は自分たちの囲いの中での権謀術数、かけ引きのかたまり、経済人はソロバン勘定だけ。その面ではきびしいが、人間としての生き方の哲学については、まるでうとい。と失礼ながら、そんな風に思えてならないのだ。

 もう大分前のことになるが、すでに亡くなったある総理大臣が国際ペンクラブのパーティーに出席した。スピーチの段になって、招ばれてきたお愛想のつもりか、「私も大変文学が好きでありまして」とはじめた。

 おや、そういうお人柄には見えないが、人は見かけによらぬもの、と聞いていると、とたんにあとがいけなかった。

「若い時分、『講談倶楽部』を愛読しました」

 得々と、平気な顔で吹聴している。その無邪気さにぼくは笑ってしまったが、会の世話役だった高見順さんが顔色を変えて憤慨していたのを覚えている。

 つい先だっても、某政治家に、ある人がインタビューして、趣味の話になった。

彼もやはり文学が大好きだ、と得意そうに語った。

「あなたは太宰治の文学をどうお考えですか」と質問したら、

「えっ〜ダザイ〜」

 聞いたことがないという顔だったという。正直な人だ。

 政治家というものは、成功するためには一途に政界の流れの中にもぐり込んで、さまざまの裏取引きや人間関係に神経を使っていなければならない。そんな苦労に明け暮れて、人間的な教養とか、ゆとりなどというものは持つ暇がなかったのだろう。ぼくには大変お気の毒に思える。

 だがこれは何も政治家ばかりではない。いわゆる財界の方々にも、教養のなさを呆れることが多い。会社では巨億の金を動かし、鮮やかに冴えた腕を見せても、文化的には惨憺たるものだ

 たとえば、最新の近代的ビルでも、重役室に入ると、つまらない富士山や花の絵などがかかっている。自分で判断できないので、画商あたりのお仕着せでごまかしているのだろう。大金をまきあげられながら、高価なものだからと得々としている。

それで読むのは週刊誌、話題はゴルフ、ときては……。

 今さらこんなことを言わなくても、誰でも感じとっている空しさだろう。

・・・

 外国でよく聞く話だが、日本人は働いてばかりいて気味がわるい。パーティーなどに招んでも、話題もないし、楽しくないという。商社などから派遣されている人は優秀なエリートなのだろうが、どうもシステムだけに忠実で、人間本来の魅力には欠けるようだ

 タイで日本商品ボイコット運動が起こり、根強い姿勢を見せている。これはさらに東南アジア一帯にもひろがりそうな気配だ。原因はいろいろあるだろうが、単に目にあまるメイド・イン・ジャパンの氾濫という経済的な問題ばかりでなく、やはり人間としてつきあいにくいということが土台にあるのではないか。

 それは土地の文化に溶け込んでいく広さと深さがないからだと思う。超過密社会の猛烈な競争に馴らされているので、気がつかずにカミカゼ″になってしまう。

しかもいま言ったような人間関係の空しさが、いっそうエコノミック・アニマル″の印象を与え、反感を強めさせるのだろう。

 

 

 しかし、私が日頃愛聴しているスピーカーの国内販売元のオーディオメーカーCEC社のホームページを訪ねますと、「社長室」のサイトでは、“個人的に興味を持ったことなどについて徒然なるままに書き連ねていこうと思います”との断り書きの下、主にご専門のオーディオに関する社長さんのご見解を書かれた「Ken Isiwata の独り言」のほかに、色々な野鳥を紹介して下さる「徒然野鳥記」、ご自身が読まれた本の紹介とそれに対してのご見解も紹介されている「みだれ観照記」とのサイトを見る事が出来ます。

私は、このようなサイトの背景となる充実した日常生活を過ごされている社長さんの下で作られるオーディオ製品に対して多大の信頼と期待を抱き、この会社で作られる製品をもっと愛用したくなってしまいます。

http://www.cec-web.co.jp/frame_set.html

 

 勿論、本業のオーディオ分野では、Ken Ishiwara の独り言の「第09回 2001/07/03」の「CEC・ベルトドライブCDプレーヤーへの道」などで、独自技術の開発とその開発への執念が記載されていますので、その一部を抜粋させて頂きます。

 

従来のCDプレーヤーは、つまりアナログ時代の言葉でいうと、ダイレクトドライブ方式が採られて来たのです当社が、ベルトドライブ方式CDプレーヤーを世に問う(1991年、TL-1を世界で初めて発売、現在でもベルトドライブ方式CDプレーヤーの唯一のメーカーです)までは、世界中のどのメーカーも、自社で採用しているCDプレーヤーの駆動方式がダイレクトドライブ方式であるとは認識していなかったことと思われます。つまり、CDプレーヤーにあっては、方式に名前を付ける必要がないほど、ディスクをモーターで直接回転させつつ、モーターの回転速度を変化させることにより、ディスクの回転に変化をつけることが、「唯一無二」の方式であったわけです。

しかし、この回転に変化を付けるやり方を電気的なサーボ方式で行うことにより、実際はアナログプレーヤーにおけるコギング現象に似た蛇行的、非円滑的回転要因を招来し、そのため、常にエラー訂正を強制的に行うため自然なトレースが妨げられ、ひいては本来CDディスクに刻まれた信号を読み取るのに余計なエネルギー(本来、信号を100%読み取ることに費やすべきエネルギー)を費やして、結局再生音を悪くしている、と思われてならないのです

 

尚、文末に(補足)を付け加えさせて頂きました。

全文は、氏のサイトを御覧下さい。

 

 更に、岡本太郎氏の記述を続けます。

 

 態度がわるいといえば、観光客も同じだ。

 ぼくもAA諸国や中南米をしばしば旅行するので、実際に日本人が土地の人々に接する態度を見る機会がある。悪意ではないのだが、後進国を無意識的に見下げる態度が見えすいて、その非人間的なのに腹が立つことがよくある。

 ある国では戦争中さんざん迷惑をかけ、ひどい目にあわせた所なのに、旅行団がおれ達は日本人だとばかり、全員、胸に大きな日の丸のワッペンをつけて押し歩いていた。いかにも大国づらをした無神経さだ。

 ところが、西欧先進諸国でははじめからへり下って、バカに謙虚だ。自分よりも経済的に低い、遅れていると思うと、とたんにそっくり返り、傍若無人になる。極めて自然に、無邪気(?)にそうなるのだから、まことに始末がわるい。その卑しさに気がついていないのである。

 明治百年以来、日本人はなりふり構わず、大変な背のびをしてきた。その成果,経済大国になったようだが。しかし国や組織ばかり太っても、一人一人の中身は逆に貧しくなってしまったのではないか。

「日本人」は変身しなければならない。

政治家よ、エコノミストよ、官僚よ、もっと人間になってほしい。そして芸術家に

 

芸術といっても、なにも絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことは全くしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。

失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。

 もっと政治が芸術の香気をもち、経済が無償と思われるような夢に賭ける。

環境問題も大事だし、列島改造も結構だが、容れるものを前提とするより、まず、日本人″が変身し、平気で、ひらけた表情をうち出すべきだ。そして現代の政治・経済がおちこんでいる、あまりにも非人間的なあり方に「人間存在」と息吹をふきいれ、生きがいを奪回すべきなのである

 

 テレビの情報番組「発掘!あるある大事典」の実験データねつ造事件を機に、私達はもういい加減にテレビの馬鹿番組に“さよなら”を告げるべき時が来たのではありませんか!?

そして、それによって回復して貴重な時間で“あまりにも非人間的なあり方に「人間存在」と息吹をふきいれ、生きがいを奪回すべき”ではありませんか!?

そうすれば、「後進国を無意識的に見下げる態度」や「西欧先進諸国でははじめからへり下って、バカに謙虚」になる態度は、自然に消滅すると存じます。

 

 ところが、現在の日本人の代表的な感性の持ち主と私が日頃感じている、ベストセラー作家の林真理子氏は、氏のコラム「夜ふけのなわとび(第1008回):週刊文春(2007.2.8号)」にて、次のように記述しています。

 

・・・だから例の納豆事件も、少しも腹が立たない。

 そもそもあの番組を本気で信じていた人がいるのであろうか。特定のダイエット食品にとびつき、そしてすぐに飽きるのは女たちの年中行事ではないか。

 古くは紅茶キノコから始まって、コンニャク、黒酢に酢大豆、羊肉、最近では白いんげん豆を手に入れようと私は奔走した。名刺交換をした北海道選出の議員さんにおねだりをしたりもした。が、どれも楽しいレジャー、効果がなくても腹を立てたことはない。続かない自分の根性のなさが悲しいだけで、商品を恨んだことはない。

 そもそも納豆を食べて、迷惑をした人っているんだろうか。納豆は健康にもよくておいしい。安いうえにどこでも手に入る。消費者を騙したということであるが、女はダイエットに関して、一ケ月おきに騙されているじゃないか。

 

  あの番組を本気で信じていた人がいるのであろうか”そして“そもそも納豆を食べて、迷惑をした人っているんだろうか との林氏の発言は本気なのでしょうか?

多くの人が納豆買いに走り、無駄に食し、店では品不足になり、それに対して生産者は増産し、あげくは大量在庫を抱えたりと、こんな無駄が限られた資源のしかない地球に対して許される行為でしょうか!?

 

 それよりも何よりも、

「テレビで流された欺瞞」を、「テレビだからそんな嘘は当然よ!」と「訳知り顔を」する態度は、
ひいては、新聞テレビで、「政治家のどんな不正が流されても」
「政治家なんて信用するのが間違いよ!政治家なんかそんなものよ
!」的風潮がはびこり、
安倍内閣の閣僚たちが、どんな不正を働いていても、
彼らが、“選挙までには、みんな忘れてしまうさ!”と嘯くのを許すに到っているのです。

そして、「小泉劇場」に酔った何年かの後、
「小泉劇場なんか誰も信じていなかったわよね!」と偉ぶっても、
もう遅いのです。

その時は、私達をとんでもない悲劇が襲っているのかもしれません。

 

 ですから、常々、このような林真理子氏は、「日本人の精神の荒廃への旗振り役」と思わざるを得ないのです。

(そして、このような林氏を、1000回以上も同一コラムに起用されている週刊文春の方々も、同じ穴の狢と思えてなりません。)

 

 ここでは、こんな林氏とはおさらばして、岡本太郎氏に戻ります。

 

 パリ大学の映像人類学をひらいたジャン・ルーシュという教授が、ぼくの記録映画を撮りたいといって東京にやってきた。

 彼は自分でカメラを廻しながら、ぽんぽん、こっちが考えたりするひまがないほど矢つぎ早に質問をぶつける。ずっと廻しっばなしで。それが対象の取りつくろったり、構えたりする表皮のもっと内面に迫って、実体を浮かび上がらせるんだというユニークな手法で、アフリカの酋長だの、優れた記録映画を沢山作っている人だ。

彼が質問した。

「あなたは優れた芸術家なのに、どうして民族学をやったんですか」

 ぼくは「人類の職業分化に反対だから」と答えた。絵描きは絵描き、学者は学者、靴屋は靴屋、役人は役人、というように職業の狭い枠の中に入ってしまって、全人間的に生きようとしない、それが現代のむなしさなんだ……まだほかにもいろいろ喋って、この映画はイタリアのアゾロの映画祭で大賞をとったんだ。

 まあ、その話は省くとして、職業分化の問題。

職業があることは悪いことじやない。いまの社会人はほとんど職業を持って生きているし、社会もそれに支えられている。

ぼくはいままで一度も職業を持つことが、卑しいなどといったことはない。人間が社会で生きていくには、職業を持つことはノーマルなんだから。

しかし、そのために、全人間として生きないで、職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう

 それがいけない、つまらないことだ。

ぼくの言う三権分立の「人間」=「芸術」が抜けてしまう。現代社会の一番困った、不幸なポイントだ。

 

 

 この岡本太郎氏の“ぼくは「人類の職業分化に反対だから」と答えた。絵描きは絵描き、学者は学者、靴屋は靴屋、役人は役人、というように職業の狭い枠の中に入ってしまって、全人間的に生きようとしない、それが現代のむなしさなんだ”と見解は大賛成です。

 

偉大なレオナルド・ダヴィンチも画家であり彫刻家であり科学者でもありました。

そして、彼のライバルのミケランジェロも画家、彫刻家、建築家、更には詩人でもありました。

 

 

 そして、私達は、「政治屋」「商売人」におさらばして、“もっと政治が芸術の香気をもち、経済が無償と思われるような夢に賭け”“もっと人間であって、そして芸術家である”「政治家」「経済人」を見出し、また、私達自身が“もっと人間であって、そして芸術家である”ように努力してゆくべきと存じます。

 

 又、長くなりましたので、《岡本太郎氏に学ぼう(4》に続けさせて頂こうと存じます。


目次へ戻る


 

(補足)

 

Ken Ishiwara の独り言の「第09回 2001/07/03」には、「CEC・ベルトドライブCDプレーヤーへの道」が記載されていますが、CDプレーヤーに関して素人の見地から少し補足させて頂きます。

 

 CD登場前の、LPレコード〈アナログ〉の再生時には、レコードを載せる回転盤(ターンテーブル)は毎分33+1/3回転との一定速度で回転してれば良かったのです。

この一定回転数を確保する手段として、最終的には、ベルトドライブ方式と、ダイレクトドライブ方式の二つの方法が残りました。

 

 ベルトドライブ方式は、モーターの回転軸とターンテーブルの外側面にリング状のベルトを架けて、モーターの回転をターテーブルに伝える方式です。

 

 一方、ダイレクトドライブ方式は、モーターの回転軸をターンテーブルの回転軸として、直接(ダイレクトに)ターンテーブルを回転させる方式です。

 

 しかし、家庭内に引き込まれる電源電圧の微妙な変化、或いは、レコードを再生する針からの負荷の変化(音の強弱によってレコードの溝が、大きく振れたり、小さく振れたりしていますので)によって、ターンテーブルの回転数を正確に維持する事が困難でした。

(勿論、しかし、昔のSPを再生する蓄音機では、ここまでの配慮はされていません。)

 

 この回転数一定化に関しては、ベルトドライブ方式では、一度速度が一定となれば、その後は、ターンテーブルの重量(故意に重くする場合もあり)の慣性力が大きいので、ターンテーブルの回転速度を一定に保持するなは容易になります。

 

ダイレクトドライブ方式は、このモーターの回転数は常に電気的に監視され又、補正されて、ターンテーブルの回転数が常に一定になるように図られていました。

 

 素人的な観点ですと、ダイレクトドライブ方式の方が、現在の技術に見合っているのではと思わずに入られませんが、良く考えますと、回転数のズレを感出してそれを補正するのですから、その間の時間は、回転数が変化していることになります。

(この現象を、ゴギングと称しているそうです。)

これは問題です。

 ですから、LPレコード・プレーヤーの最近の高級品は、回転数を電気的に制御したモーターを用いてのダイレクトドライブ方式が採用されているようです。

 

 そして、LPレコードの回転数が一定な為に、同じ振動数の信号でも、レコードの外側と内側に刻まれている音溝の長さは、極端に異なってしまいます。

例えば、LPレコードの外側(30センチ)の所にある長さで刻まれた同じ音信号を、内側(10センチ)のところに刻むには、その信号を刻む長さは、なんとその3分の1になってしまうのです。

ですから(同じ音信号の)LPレコードを再生針を用いて再生する際には、内側に行くほど、再生針がレコードの溝に追随するのが困難になって、ビリ付いた音がスピーカーから流れ出てきたりしました。

(私の手持ちのLPプレーヤーも然りです。)

 

 ところが、CDは、その音溝(実際には、デジタル信号)は、回転(円周)方向に対して一定の長さの単位(長さは0.867μmにから、0.289μm単位で、3.179μmまで9種類)で刻まれています。

従って、CDの音信号を読み取る為には、ターンテーブルの回転数を、円の内周(CDの場合は内周から読み取るそうです)では早く回転させ(約600rpm1分間に600回転、つまり1秒間に10回転)、そこから外周に行くに連れてだんだん速度が遅くなり、最外周では1分間に200回転(約200rpm)迄、変化させる必要があるのです。

 

 こんな芸当が出来るのは、CDの登場が、1982年と電気制御技術が十分に向上している時期であった為です。

LPの登場時にも、(モーター回転数の)電気制御技術が十分に向上していたら、CD同様に、内周と外周の回転数が異なっていた筈です
その結果、内周部でのビリツキを回避する事が出来た筈です。
(そのようなLP(例えば、外周部の回転数:15rpm、内周部は45rpm)が、今後、登場してくれたら?とも思います。)

又、逆に、CDの登場時の電気制御技術がLPの登場時と同様でしたら、LP同様にCDの回転数を一定で、CDの信号溝の長さは、内周と外周で異なっていたでしょう。)

 

 従って、常に変化する回転数をターンテーブルに与えるには、ターンターブルの慣性能力によって回転数の一定化を図るベルトドライブ方式をCDプレーヤーに採用する事など、誰も考えず、ダイレクトドライブ方式一辺倒だったのです。

 

 でも、先に述べましたように、「ダイレクトドライブ方式」は、回転数のズレを感出してそれを補正する間の回転数のズレ〈ゴギング〉は、CDの信号溝の長さが、0.289μm単位で、0.867μmにから3.179μmまで9種類刻まれているのだそうですから、この回転数のズレが単位長さ(0.289μmの半分0.144μmあったら、別な信号と誤認されてしまいます。

従って、読み取り信号の誤認を避けるべく実際の製品規格(回転数のズレ)を±0.039μm以内としていますから、頻繁にモーターの回転数を制御する為の信号がCDプレーヤー内を飛び交うことになります。

そして、この制御信号の周波数が高い為、CDプレーヤーの再生音に悪影響を与える懸念が大となってしまいます。

 

 そこで、石渡氏は、CDプレーヤーにも制御信号を頻繁に用いずに「ゴギング」の低減が可能な「ベルトドライブ方式」の必要性を感じたのだそうです。


岡本太郎氏に学ぼう(4》へ続く

目次へ戻る