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子猫殺しと戦争(2

2006101

宇佐美 保

 先の拙文《子猫殺しと戦争(1》を続けさせて頂きます。

 

 しかし、次の記述を読むと、坂東氏の「子猫殺し」の不思議な本質がはっきりしてきます。

 

・・・どこかの段階で人との交流に障害が生まれると、その愛情の注ぎ先はペットに留まったり、ネット上でのバーチャルな相手に向かったりする。

 昨今の日本人のペットに対する溺愛ぶりに、私は同種の病理を感じる。

 他人事ではない。子供の頃から、私は猫が大好きだった。実の母親ではなく、飼い猫こそ自分の母親なんだと心の中で呟きつつ、寝床に猫を連れこんで、腹の匂いを嗅いだり、撫でたりしながら眠りに就いた。

 人を愛したい、だけど難しい。なにしろ人は言葉を話す、反論する、裏切る、棄てる。でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ。そんな人たちが結婚し、家庭を持つとどうなるか。夫や妻を、ほんとうに愛せるだろうか。さらには、生まれてきた子供を、ものいわぬ犬猫としてではなく、一個の人間として愛せるだろうか。

 

 私は、子供のころ母親に頼んで、猫や犬を飼ってもらいました。

ですから、坂東氏のように、(たぶん多くの方々同様に)猫や犬を母親と思ったこともありません。

逆に、猫犬にあまり愛情を注がず、友達とばかり遊んでいて、猫犬に申し訳ないことをしたとの念が湧き出てきます。

 しかし、子供のころは兎も角、現在、私は、動物を飼っていませんからはっきりとは分りませんが、この坂東氏の“人を愛したい、だけど難しい。・・・でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ。”との、「人の代わりに動物を愛する」的な動物への愛情は、動物にとって迷惑な愛情、押し付けがましい愛情ではありませんか?

 

 そして、坂東氏の「子猫殺しの告白」の背景が、おぼろげながら見えてきます。

 

 ペットと一緒に行けるレストランやカフェがオープンし、ペット同伴ツアーが生まれ、ペット用の衣類まで売られるといったペットブームの隆盛と裏腹に、幼児虐待の相談件数、心の荒廃した小学生を含む青少年の犯罪は増加の一方だ。

 この社会では、ペット世界の愛情は洪水の如く溢れかえり、人間世界の愛情は砂漠化し不毛となりつつある。不毛とは、豊穣の反対を指す。種なし、不妊、生殖活動の枯渇である。

 私が飼い猫に対する避妊手術、つまり不妊手術をどうしても行えないのは、ここに源がある。

 ペットを溺愛する行為の中には、人との関係は砂漠化しているが、心の中までも愛の不妊状態にはしたくないという思いもある。飼い猫に手術を施し、不妊状態にさせるのは、その希求をも踏みにじり、殺してしまうことになる。それは自分自身に不妊手術を施すのと同様の気分だそして、この場合の不妊とは、生きる、という希望を不毛化することに通じている。

 そこで子猫殺しをするしかなくなる。拷問である。子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる。

しかし、不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穿を前にする気分になる。

どちらを向いても、恐怖と動転がある。

そりゃ、ビョーキだよ

人は気軽にそういうだろう。しかし、そういう人自身はどうだろう。ペットを溺愛する中に、もしくは、子猫殺しという言葉を耳にして覚える、異常なまでのテンションの高まりの中に、愛の不妊というビョーキは潜んではいないだろうか。愛の不妊に対する恐怖や動転を見事に押し殺し、無自覚なだけではないだろうか(念を押しておくが、一般的な態度で動物を愛する人たちのことを述べているのではない)。

 

 (先ず、坂東氏への反論を書く前に、坂東氏が此処で記述している「愛の不妊というビョーキ」の意味は、何なのでしょうか?

私にははっきり分らないのですが、先に坂東氏は「人を愛したい、だけど難しい。なにしろ人は言葉を話す、反論する、裏切る、棄てる。でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ」と書かれているのですから、「人間への愛を生み出す事が出来ずにいる方々」(ご自身も含めて)を坂東氏は「愛の不妊というビョーキ」に感染していると記述しているのだと私は解釈しました。)

 

 「ペットを溺愛する行為の中には、人との関係は砂漠化している」との坂東氏の見解が、多くの動物愛護者の心を示しているとは私には思えません。

ですから、坂東氏自身もこの抜粋分の最後で、“(念を押しておくが、一般的な態度で動物を愛する人たちのことを述べているのではない)”と書かれているのでしょう。

 

 そして、坂東氏の「子猫殺しの告白」は、“人を愛したい、だけど難しい。・・・でも、誰かを愛したい、愛されたい、だから犬猫に愛を注ぐ”そして“ペットを溺愛する行為の中には、人との関係は砂漠化している”と、坂東氏が感じている方々へ「子猫殺しの告白」が発信されたのでは?と私は感じるのです。

 

 そして、坂東氏は、それらの方々に非難の声を上げたのでは?

“あなた方が、「子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する」事で、社会的責任も果たし、且つ、飼い猫への愛情も十分注いでいると思っておられましょうが、飼い猫に手術を施し、不妊状態にさせるのは、その希求をも踏みにじり、殺してしまうことになるのですよ!”と。

そして、又、“あなた方は、「飼い猫の不妊手術」に関して、今まで深く考えた事は無いようですが、「それは自分自身に不妊手術を施すのと同様の気分だそして、この場合の不妊とは、生きる、という希望を不毛化することに通じている」事をご存知ですか!?”と訴えたかったのかもしれません。

 

 そこで、“飼い猫の、また、自分自身の「生きる、という希望を不毛化すること」を避ける為に「子猫殺しをするしかなくなる。拷問である。子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる」ここまで、あなた方は考えた事があるのですか!?こういうことに対して、無自覚のまま「猫可愛がり」をしていて良いのですか!?”と抗議(?)の声を上げたかったのかもしれません。

 

 ですからこそ、坂東氏は次のように続けられています。

 

 私は、そんな無自覚な人の中にも、愛の不妊に対する恐怖や動転は存在していると思う。その感情は出口がないだけに、飢えた狼のように暗い心の底を彷徨している。そして、たまたま出口が開けたりすれば、ものすごい勢いで飛びだして、手当たり次第の獲物に襲いいかかっていく。

「子猫殺し」のエッセイは、その出口となったのだろうと、私は考えている。

 

 私は、この坂東氏の見解に賛意を示す事はできません。

それなのに、更に、不可思議な見解を披露されます。

 

愛の不妊の中でペットを溺愛する人々にとって、ペットは人と同じ、自己の投影にもなりうる。猫は自分となり、そこに子育てがしたい「母性」などという、人が創造した文化まで押し付けるようになる(猫の母性についての見解は人の想像の域を出ない)。

 そのために「子猫殺し」の言葉を耳にしたとたん、人が殺された、さらには、自分が殺されたと同様の恐怖と動転に襲われる。

ネット上での攻撃の過熱ぶり、マスコミ報道のおかしさを見ると、この種の動転と恐怖は、実に大勢の人の内に起き、ヒステリー現象に繋がったとわかる

・・・・・・

子猫殺し」騒動自体は、愛の不妊というビョーキに悩み、出口を模索する私に、同じビヨーキの人たちが「頭おかしいんじゃないか」と殴りかかってきたみたいなことだ

 しかしこの騒動を通して見えてくるのは、社会がいかに病んでいるかということだ。子猫殺しに対する病的な攻撃はやめて、そろそろこんな現象の起きた日本社会の深淵を覗きこみ、話しあう時ではないだろうか。

 

 以上の記述から、坂東氏の「子猫殺しの告白」が、「愛の不妊というビョーキに悩み、出口を模索する」坂東氏が、「(無自覚に飼い猫を愛している)同じビヨーキの人たち」への(抗議の、そして、心の片隅で、“坂東さんの飼い猫への献身的な愛情に感激します”との共感を求めての)発信であったと私は感じるのです。

 

 ですから、週刊文春(2006.9.14号)には、この坂東氏からの発信を「無自覚に飼い猫を愛していた」東野圭吾氏が受信同調されて、「坂東真砂子『子猫殺し』について」を書かれて居ります。

 その記事の一部を抜粋させて頂きます。

 

八月十八日の日本経済新聞夕刊に掲載きれた坂東眞砂子氏のエッセイ「子猫殺し」。「私は子猫を殺している」という衝撃の告白は、非難の的となり、日経新聞には八百件近くの抗議が殺到したという。自らも猫を飼っている東野圭吾氏が、このエッセイを考える。

 

 最初にこのエッセイを読んだ時には、驚愕すると共に、ひどい不快感に襲われた。坂東眞砂子は私の友人である。尊敬もしている。

それでもやはり反発せずにはいられなかった。

・・・・・・

 そこで私は逆に疑問に思った。あの坂東真砂子が、万人に簡単に反論が思いつくようなエッセイを書くだろうか。「生」 について、常に真摯に考え続けている人物である

 そこで私は自分なりにもう一度考え直すことにした。じつは私も猫を一匹飼っている。ただし雄だ。独り暮らしの私に十年以上も付き合ってくれている。その猫を眺めながら坂東真砂子のエッセイについて考えた。

 キーワードは、「もし猫が言葉を話せるならば」というものだった。うちの猫は、私に何をいいたいだろうか。

 

 

 変ではありませんか?!“あの坂東真砂子が、万人に簡単に反論が思いつくようなエッセイを書くだろうか。「生」 について、常に真摯に考え続けている人物である

 そこで私は自分なりにもう一度考え直すことにした。”とは!?

 

お二方が、「直木賞作家」であるがゆえ、“万人に簡単に反論が思いつくような”思考を凌駕されるとでも思われているのでしょうか?

(お二人は、万人よりもずっとご立派な思考の持ち主?)

 

 私は、万人の中の一人の凡人として、先には、坂東氏に反論しましたが、もう一人の直木賞作家の東野圭吾氏に対しても反論を試みます。

 

 先ずは、東野氏は、坂東氏に簡単に同調、共感して次のように記述しています。

 

 突然はっとした。これまで一度も考えたことのない想像が頭をよぎったからだ。

 十二年前、家の裏の林で子猫を拾った。捨て猫だったのだ。体重は二百グラムちょっと。目も満足に開いてておらず、そのまま放置すれば間違いなく死んでいただろう。私はその猫を拾い、病院に連れていった。

「うまく育つかどうかわからない」といわれながらも看病していたら、やがて元気になった。そのまま、何となく飼い始めた。猫の飼い方について勉強し、「子供を作らせる気がないのなら去勢したほうが飼いやすいし、辛い発情期を迎えさせなくて済むので猫のためでもある」という考えのもと、しかるべき時期に去勢手術を施した。

 私は自分のしたことに対して、これまで一度たりとも疑問を持ったことがない。私の目には猫は幸せそうに見えるし、人からも「幸せそうだね」といってもらえる。私は悦に入っていた

 だが果たしてそうだろうか。

 あの雨の夜に「にゃあにゃあ」と鳴いていた子猫は、本当に今のような状況を望んでいたのだろうか。

たぶん、拾われて元気になった時点では、ああよかったと感じていたと思う。だがその後はどうか。狭い家の中に連れ込まれ、一歩も外に出られなくなった時にはどう感じただろうか。さらに子孫を残す能力を問答無用で奪われた時には、自分の「生」について何を考えただろう。

(自分は一体何のために生まれてきたのだろう。この人間と一緒にいれば、生きていくことはできそうだ。

しかし自分に何かの価値があるのか。もしあるとすれば、この人間の愛玩用としてのものだけだ。自分は本来、子孫を残すために生まれてきたはずなのだ。それなのに生き続ける意味があるのか。一体何のためにいかされたのだ。こんな空しい時を過ごすくらいなら、あの雨の夜に死んでいたほうがよかったのではないのか

 こういうふうには考えたくはない。そんなはずはないと信じたい。しかしそれを確認する術はないのだ。

・・・・・・

 

 坂東氏の「愛の不妊症」の感染力の強さに驚きます。

そして、その坂東氏の病に感染した東野氏の「猫かわいがり」には、呆れてしまいます。

万が一にも東野氏の飼い猫が“こんな空しい時を過ごすくらいなら、あの雨の夜に死んでいたほうがよかったのではないのか”と思うのでしたら、その猫ちゃんは、東野氏の家を出て外の世界の自由(並びに危険)を満喫すればよいのです。

去勢手術」されていても、外には色々な楽しみ冒険があるはずです。

なのに、今以って、猫ちゃんが家出していないのですから、東野氏の「猫かわいがり」を猫ちゃんは満喫しているのでしょう。

ですから、東野氏が「私は自分のしたことに対して、これまで一度たりとも疑問を持ったことがない。私の目には猫は幸せそうに見えるし、人からも「幸せそうだね」といってもらえる。私は悦に入っていた」と思っていると同様に猫ちゃんも幸せなのだと存じます。

 

 そして、坂東氏も東野氏も「愛」を曲解されているようです。

ですから、「愛の不妊症」に感染してしまうのです。

完全なる愛が存在しますか?!

愛はいつも不完全です。

人を愛したい、だけど難しい。なにしろ人は言葉を話す、反論する、裏切る、棄てる・・・」と嘆かれていますが、「真実の愛」が存在するとしたら、そのような中から芽生えてくるのではないでしょうか?

その不完全な愛を互いに補い合って行くことで又新たな愛さえ生まれるのではありませんか?!

(愛は一方通行ではありません。)

坂東氏はあまりに完全な愛を求めすぎてはいませんか?

完全な愛を求め合う事で人間関係は、かえってギクシャクしたものになります。

(親子の関係然りです。

本来子供は、親からの愛情は不十分といえども十分に感謝しているはずです。

しかし、〈坂東氏が、飼い猫に注ぐ愛のように〉親が子供に完全な愛を与えようと苦闘してしまうと、完全な愛を与えられない事で親は自分を責めるでしょう。

そして、そんな親に対しては、子供は、もっと完全な愛を与えられて然るべきなのに与えられていないと不満さえ抱いてしまう、そんな悲劇も起こりかねません。)

私には、

坂東氏は愛を育む努力をせず、
自らを「愛の不妊症」と喚いているようにしか思えません。

 

 そして、完全な愛を求める坂東氏も、東野氏が次のように指摘しているように、坂東氏の飼い猫に対して完全な愛を施す事は出来ていないのです。

 

「子猫を育てる」という生き甲斐は奪っている。それについてはたぶん彼女は、三匹の雌猫たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。だがある程度の子育てをさせてから、その子猫を奪って殺すという残虐行為までは、さすがの彼女もできなかったと思われる

 

 

 それでも、坂東氏の病に感染した東野氏は次のように続けます。

 

 もう一度、坂東真砂子のエッセイを読み返してみた。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」の前に、彼女はこう書いている。

 

「子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害するだから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。

 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。」

 完全なる私の読み落としだった。彼女はちゃんと、「この問題に関しては」とことわっているではないか。倫理の問題ではなく、社会的責任を果たすという問題に関しては、ということなのだ。

 

 この『「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」が、「倫理の問題ではなく、社会的責任を果たすという問題に関しては」同じだ』の論理が通用するのは、紙に書いた文字面だけです。

しかし、坂東氏は現実に子猫を殺しているのです。

そして、この行為を多くの方々が「倫理の問題」として非難しているのです。

 

 こんな屁理屈が罷り通っては、愚かな私達人間は、「子種である精子を殺そうが、生まれて直ぐの子を殺そうが同じ事だ」に発展します。

そして、「子種である精子を一度に数億(匹?)も殺しているのだから、生きてる人々を何人殺そうと何万人殺そうと同じ事」にまで、発展してしまうでしょう。

 

 “そんな馬鹿な!”とおっしゃる方もございましょうが、イラクへ自衛隊を派遣した今では、「集団的自衛権?」など訳の分らない錦の御旗を押し立てて、地球のいたるところ(米国の望むところ)へ、自衛隊(否!軍隊)を送ろうと画策している方々も存在しています。

 

 愚かな人間である私達は、どこかに「歯止め」が必要なのです。

ですから、どんなにずたずたに踏みにじられようと「平和憲法」が必要なのです。

そして、「無益な殺生」を行わない事が重要な歯止めでもあるのです。

 

 

 お気の毒な東野氏は次のようにも書かれています。

 

 私は自分の猫に対して、本当に正しいことをしたと断言することなどできない。彼が幸せだと考える根拠など一つもない。坂東真砂子の猫たちが確保している「生」は、すでに取り上げてしまった去勢手術など施さず、自由に外に出してやったほうが、彼にとっては幸せだったのかもしれない。それをしなかったのは、私の都合だけである

私は「子猫殺し」はせずに済んだが、一匹の猫を虐待し続けているのかもしれないのだ。

 

 先ほども書きましたが、東野氏の猫ちゃんが「虐待し続けている」と思っているなら、とっくの昔に東野氏の家から脱出しているはずです。

たとえ、「去勢手術」されてしまっていたとしても、猫ちゃんは東野氏に命を救われているのです。

猫ちゃんにとっては、「去勢手術」されてしまった恨みよりも、命を救われた喜びのほうが格段に大きいはずです。
私達の仲間の方々にも生みたくても産めない方も沢山居られます。
勿論、私達の人生だって全てが自分の希望通りにはなりません。
自分の数ある希望のうちの多くを諦めた結果、限られたあるものが手に入るのが常です。

坂東真砂子の猫たちが確保している「生」」が大事だといっても、坂東氏は猫本来の狩猟の喜びを奪っているかもしれません。

(でも、餌を貰う事で、そんな喜びも忘れているようです。

それだけ、飼われる事が快適なのかもしれません。)

 

 そして、東野氏は、最後を次のよう締めくくっています。

 

 私は罪深い人間だ。猫を飼うという習慣を容認し、実際に自らも飼い、多くの捨て猫が保健所で処分されている現実を知っていながら何もしていない。そんな私に彼女を非難する資格などない。自ら苦痛を引き受けながら愛猫たちの「生」を守ろうとしている坂東真砂子に対する反論など、何ひとつ浮かばない

 自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい。その非難は私に対して向けられたものでもある。その言葉を私は真摯に受け止める。

 

 確かに、東野氏の「多くの捨て猫が保健所で処分されている現実を知っていながら何もしていない」との指摘は確かです。

 

 でも、生まれてきた子猫を殺して「自ら苦痛を引き受けながら愛猫たちの「生」を守ろうとしている坂東真砂子に対する反論など、何ひとつ浮かばない」は、理が通りません。

 

先にも引用させて頂きましたが坂東氏は、次のように書かれているのです。

 

そこで子猫殺しをするしかなくなる。拷問である。子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる。

しかし、不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穿を前にする気分になる

 

 更には、次のように書かれています。

 

 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。

 

 坂東氏は、ご自身の苦しみは「拷問である」とか書かれていますが、でも、放り投げられた子猫は死なないで重傷を負ったまま行き続けているかもしれません。

そんなにして苦しんでいる子猫ちゃんを野良犬が食べ始めるかもしれません。

あっさり死ぬのは兎も角、苦しみながら死ぬのはあまりに可愛そうです。

拷問」以上の苦しみではありませんか!?

(キューバ・グアンタナモの米海軍基地内のテロ容疑者収容施設でどんな事が起こっているのでしょうか?)

 

 それに、「不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穿を前にする気分になる」との記述からは、「愛猫たちに不妊手術を施さないのは」、「愛猫たちの「生」を守ろう」というより、坂東氏ご自身を「自己を不妊に」しない為、猫のためよりご自分の為のようであります。

 

 坂東氏は、次のようにも書かれています。

 

ちなみに私の住んでいるタヒチ島では、犬を食べる習慣があり、今も続いていると聞く。それを考えると、食用獣とペットの差は、獣の種類ではなく、人がその対象となる獣にかける愛情の有無となってくる。

 

ですから、坂東氏が東野氏も書かれているように「自ら苦痛を引き受けながら愛猫たちの「生」を守ろうとしている」と言うのであれば、坂東氏は子猫ちゃんたちを「崖の下に放り投げる」のではなく、

坂東氏自らの手で子猫ちゃんたちの命を優しく絶ってあげるべきです。

そして、坂東氏は「タヒチ島では、犬を食べる習慣があり、今も続いていると聞く」と書かれているのですから、

可愛い子猫ちゃんたちの魂と肉体を
坂東氏ご自身の体内に納めてあげるべきです。

 

このような供養を、儀式を可愛い子猫ちゃんたちに施すことなく、「崖の下に放り投げる」のは、あまりに薄情すぎます。

 

 そして、このような儀式を施す事が出来ないなら、

 

 タヒチではおおっぴらに話されることはなくても、一般的に子猫子犬が棄てられている。しかし刑に問われたと聞いたことはない

 

と、坂東氏は書かれているのですから、今回のように「おおっぴらに」告白することなくご自身の子猫殺しをこっそり続けているべきだったと存じます。
否!それよりも子猫殺しを止めるべきです。

 

そして、坂東氏は声を上げるのでしたら、東野氏の指摘のように「多くの捨て猫が保健所で処分されている現実を知っていながら何もしていない」ことに対しての怒りの声を発すべきでした。

 

そして何よりも「子猫殺し」を正当化することなく、人間の命を国家的組織で奪い去る「戦争」に対する抗議の声を上げるべきと存じます。

 
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