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子猫殺しと戦争(1)

2006101

宇佐美 保

 小泉氏の5年間で、日本は殺伐とした国になってしまった感があります。

イラクには大量破壊兵器があるからと、又、フセインはアルカイダを支援しているからと言いがかりをつけて、イラクを破壊して多くのイラクの方々を死に追いやってしまったブッシュ政権に、小泉氏らは盲従してきました。

その上、米国が、これらの言いがかりは全て間違いであると認めた今も、小泉氏らはその間違いを認めようとしていません。

 

 1月(?)ほど前のサンデープロジェクトで、公明党幹事長(当時)の冬柴氏は、

“それでも、日本はイラクへ人道支援を行った事は評価されるべき”

旨を、大きな顔を更に大きくして語っておられました。

 

 そして、ブッシュ政権も小泉氏らも

“独裁者フセインを倒し、イラクに民主主義を齎した点に大きな意義がある”

と屁理屈を捏ねています。

 

 この度の理不尽な攻撃の為に亡くなられた方々にも、民主主義がもたらされたのでしょうか?

それとも、亡くなられた方々は、イラクが民主主義を獲得する為に命を捧げた英霊となられたと言うのでしょうか?!

でも、今のイラクは民主主義国家ですか?

 

小泉氏を引き継いだ安倍晋三首相の著作『美しい国へ』(文春新書)に関する、立教大学経済学部教授のアンドリュー・デウィット氏のコラム(週刊金曜日(2006.9.22号))の一部を抜粋させて頂きます。

 

 ・・・

現代米国は人権や法の支配などの価値あるものを擁護しているという主張がある。そして安倍は日本もこれらの価値を共有していると訴えている(「……日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争一市場経済という、基本的な価値観を共有している……」129ページ)。

 どうやら彼はブッシュ政権が継続して拷問を利用していることや、イラク侵攻その他の違法な行動が中東やそれ以外の地域においても、民主主義的改革派に対する途方もない打撃を与えていることに気づいていないか、関心がない

 

 キューバ・グアンタナモの米海軍基地内のテロ容疑者収容施設が、自由と民主主義、人権・・・を尊重すると言う米国に、何故今以って存続しているのでしょうか?

 

 更に、氏は次のように続けておられます。

 

 イタリア前首相のベルルスコーニでさえ、「自分は戦争がある国を民主的にするのに、たとえそれが非道な独裁政権を打倒するためであったとしても、戦争を行なうことが最良の方法であると考えたことは一度もない‥…私は米大統領に何度も、戦争をしないように説得しようとした」と語っている。

 

 このような説得を小泉氏は、親友のブッシュ氏になさったのでしょうか?

 

 イラクの現状を、小泉氏も安倍氏も、どう思っておられるのでしょうか?

他国民の事はどうでも良いのでしょうか?

 

 他国の事はどうなろうと、日本だけが「美しい国」でよいのでしょうか?

 

 (しかし、昨日の朝日ニュースターの番組「ニュースにだまされるな!」中で、慶応大学教授の金子勝氏は、

“中国では、「アメリカ」を「美国」と書く、
さすれば安倍氏の唱える『美しい国へ』とは、
日本が「美国」即ち「アメリカへ」靡いて行けとの意味なのか?”

と話されていました。)

 

 このような小泉氏が君臨した(又、安倍氏が君臨し始める)日本で、日本経済新聞(夕刊 2006.8.18)の「プロムナード」とのコラムに“子猫殺し”が掲載されたのです。

この坂東眞砂子氏による記述の一部を抜粋させて頂きます。

(全文は、文末(補足)に掲げさせて頂きます。)

 

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している

 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。

自然に還るだけだ。

子猫殺しを犯すに至ったのは、色々と考えた結果だ。

私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、

・・・

避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか

・・・

 

 なんだか、この言い草は、ブッシュ氏や小泉氏の言い草に似てはいませんか?

私が代弁させて頂きますと、次のようになります。

 

“人間にとって「」の源は、民主主義である!
その大事な民主主義をイラク国民に与える為には、
無辜の子ども達が命を落とそうと問題ない、
独裁政権の下では、所詮は幸せな一生を送れないのであるから!”

 

 更に、坂東氏は次のように記述しています。

 

子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。

 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。

 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない

 

 坂東氏は、“子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ”とあっさり書いていますが、男性諸氏(勿論、私も)は、これから自分達の本分を果たしたがっている私達の分身である元気はつらつとした子種を、常々下水に流し去ったりして殺してしまう行為を繰り返しております。

我が分身の気持ちを斟酌すれば辛い別れです。

 

 でも、この辛さは、“できた子を殺す”とは大違いです。

 

 更に抜粋させて頂きます。

 

 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる

 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。

 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

 

 しかし、おかしな事に“人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている”と主張する坂東氏は、自らの手で子猫の命を奪っているのです。

 

そして“それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである”と書かれていますが、どうやって死んでしまった子猫の悲しみを引き受ける事が出来るのですか!?

どうやって、自分の子どもを殺された雌猫の悲しみを引き受けておられるのでしょうか?

(万が一にも、小泉氏が、“イラクの民主主義の犠牲の為に命を落とされた方々の痛み苦しみを、私小泉が、引き受けている”と言ったとしても、亡くなった方々に何の価値があるというのでしょうか?!)

 

 坂東氏は“人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる”と書かれておられるのですから、このようなコラムを書くべきではなかった筈です。

 

 それでも、何故、こんな事を敢えて、坂東氏は書かれたのでしょうか?

坂東氏が書かれた、週刊現代(2006916日号)の「『子猫殺し』騒動。私の反論」にその理由を垣間見る事が出来ます。

しかし、その理由を推測する前に、坂東氏の反論に対して、私は反論を書きたくなるのです。

 

先ず、坂東氏は「殺しの合法と違法」を次のように記述しています。

 

 人殺しは、この世界で日常的に起きている戦争、自衛、堕胎など、ある条件下では、合法とすらされている

 堕胎が法律的に許されるのは、妊娠22週未満。この時期までに胎児はすでに髪の毛はあり、目鼻立ちもしっかりとし、口をばくばくと動かしはじめる。全身産毛に覆われ、爪もある。母胎から出されても成育の可能性のある直前の段階だ。

 日本では年間30万以上の小さくはあっても立派な人命が殺されている。だが、殺し、とはいわない。妊娠中絶という言葉によって合法化される。イラクや、レバノンで起きている、戦争や自衛という条件下の殺しはいわずもがなだ。

 殺しを合法と違法に分ける「条件」とは何だろうか

誰が、何を基準にこの「条件」を定めたのか。

 

私が坂東氏の見解と異なる点は、自らの子猫殺しを正当化(?)する為に「戦争、自衛、堕胎」の合法性を挙げていますが、私は(少なくとも私達日本人にとって)「戦争」が合法であるとの認識は、排除すべきと存じます。

日本の憲法第9条(第1項)は、下記の通りです。

 

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 しかし、「戦争」の非合法性は日本に限らないのです。

週刊現代(2006.10.7号)に於いて、ノンフィクション作家の吉田司氏が『「いつも心に憲法を」隊、アメリカを行く@』との記事の中で、

「戦争そのものを禁止した」1928年のパリ不戦条約

に関して次のように記述しています。

 

 安倍に限らず日本の改憲派は、「平和9条」は米国からの(押しつけ憲法)であり、民族的な(自主憲法)に変えるべきだと主張している。しかし最近の学説では、9条の「戦争放棄」条項は、実はそのパリ不戦条約(仏外相ブリアンと米国務長官ケロッグと日本の外相・幣原喜重郎の3人が根回しして、63ヵ国が調印した)の再現であったとの指摘が力を得つつある。実際、半藤一利の『昭和史』にも、敗戦後、幣原内閣が出来て、「幣原さんがマッカーサーに会った時、それ(パリ不戦条約)を思い出し、これからの日本は…‥国策の手段として戦争を放棄すると明言した」との新しいアングルからの憲法制定物語が記されている。

 

 従って、戦争」は、平和憲法下の日本だけではなく、全世界的に、合法的でないのです。

(「戦争」という国家による殺人行為を合法的と認識している坂東氏に、愛(たとえ猫に対する愛であっても)を語る資格があるのでしょうか?)

 

 更に、「堕胎」に関して、“堕胎が法律的に許されるのは、妊娠22週未満。この時期までに胎児はすでに髪の毛はあり、目鼻立ちもしっかりとし、口をばくばくと動かしはじめる・・・”と非難されるのなら、坂東氏は、子猫殺しを告白する前に、“堕胎は、髪の毛はあり、目鼻立ちもしっかりとし、口をばくばくと動かしはじめる・・・状態になってからは不許可とすべし!”とでも、声を上げるべきではありませんか?!

 

 それでも、坂東氏は次のように記述されています。

 

 人と猫とは別問題だという声もあるだろう。では、獣殺しを見てみよう。国内で食用のために殺された鶏は、2005年度で7711万羽(この場合も、殺す、とはいわずに、処理される、と発表される)、屠殺された豚は、‘04年度は16596045頭、牛は1265822頭。輸入肉は含まれない。

 いや、食用獣は意味が違う。猫はペット、愛玩動物だという人もいるかもしれない。しかし保健所に引き取られ、飼い主が見つからずに殺された犬猫は、‘04年度で、犬93985匹、猫238929匹もいた。

「だからこそ、避妊手術が必要なのではないか」との声が聞こえてきそうだが、ちょっと待ってほしい。

 どうして、食用獣殺しは当然のこととして見過され、犬猫のペットの命であれば、それほどの重みがでてくるのだろう。

 ちなみに私の住んでいるタヒチ島では、犬を食べる習慣があり、今も続いていると聞く。それを考えると、食用獣とペットの差は、獣の種類ではなく、人がその対象となる獣にかける愛情の有無となってくる。

 まるで人は神であり、その愛を注いだ獣は祝福され、その命は人と同様か、それ以上の価値を持ってくるかのようだ。

 

 それでは、坂東氏が非難される「食用獣殺し」を止める為に、私達は、動物を食べず、ベジタリアンになったらどうでしょう?

しかし、それでも殺生から逃れる事は出来ないのです。

 

この件に関しては、宮沢賢治の作品『ビヂテリアン大祭』に、次のような記述があります。

 

「諸君、私の疑問に答へたまへ。

 動物と植物との間には確たる境堺がない。パンフレットにも書いて置いた通りそれは人類の勝手に設けた分類に過ぎない。動物がかあいさうならいつの間にか植物もかあいさうになる筈だ。動物の中の原生動物と植物の中の細菌類とは殆んど相密接せるものである。又動物の中にだってヒドラや珊瑚類のやうに植物に似たやつもあれば植物の中にだって食虫植物もある、睡眠を摂る植物もある、睡る植物などは毎晩邪魔して睡らせないと枯れて

しまふ、食虫植物には小鳥を捕るのもあり人間を殺すやつさへあるぞ。殊にバタテリヤなどは先頃まで度々分類学者が動物の中へ入れたんだ。今はまあ植物の中へ入れてあるがそれはほんのはづみなのだ。そんな曖昧な動物かも知れないものは勿論仁慈に富めるビデテリアン諸氏は食べたり殺したりしないだらう。ところがどうだ諸君諸君が一寸菜っ葉へ酢をかけてたべる、そのとき諸君の胃袋に入って死んでしまふバクテリアの数は百億や二百億ぢゃ利けやしない。諸君が一寸葡萄をたべるその一房にいくらの細菌や酵母がついてゐるか、もっと早いとこ諸君が町の空気を吸ふ一回に多いときなら一万ぐらゐの細菌が殺される。そんな工合で毎日生きてゐながら私はビヂテリアンですから牛肉はたべません、なんて、牛肉はいくら喰べたって一つの命の百分の一にもならないのだ、偽善と云はうか無智と云はうかとても話にならない。本たうに動物が可あいさうなら植物を喰べたり殺したりするのも廃し給へ。動物と植物とを殺すのをやめるためにまづ水と食塩だけ呑み給へ。水はごくいゝ湧水にかぎる、それも新鮮な処にかぎる、すこし置いたんぢゃもうバクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸ひ給へ、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山の中へ行っていゝ空気といゝ水と岩塩でもたべながらこのビヂテリアン大祭をやるやうにし給へ。こゝの空気は吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。」拍手は起り、笑声も起りましたが多くの人はだまって考へてゐました。

 

 この記述のように、私達は生きてゆく為に、動物のみならず植物(植物の中にだって食虫植物もある、睡眠を摂る植物もある、睡る植物などは毎晩邪魔して睡らせないと枯れて

しまふ、食虫植物には小鳥を捕るのもあり人間を殺すやつさへある)バクテリアなどの生命をも奪い去っているのです。

 

 このように、

私達は、鉱物資源や空気などから合成した薬品だけで生きるのでない限り、
殺生せずには生きてゆけないのです。

ですから、私は、増子義久著『賢治の時代(岩波書店)』に紹介されているアイヌの方々の心に共感するのです。

 

 アイヌ語には「自然」という言葉も「動物」を総称する言葉もないという。「自然」を表現する場合は「カムイ」(神)という言葉が使われることが多い。射止めた動物−−「獲物」のことは「チ(われら)コイキ(いじめる)プ(もの)」と表現する。肉や毛皮などを人間に授けてくれる大事なカムイでもあるクマは「カムイチコイキプ」であり、魚を捕ることは「チェプ(魚)コイキ」である。このアイヌ語の背後には、「死に報いる」という信仰(思想)がある。心を込めて相手を捕獲し、その殺した動物や魚は無駄なく使い切り、食べ尽くす。自分の意志で「獲物」になってくれたカムイに対するこれが最大の礼儀だとアイヌ民族は考えたのである。

 例えば、アイヌ民族はかつてシカも肉や毛皮だけではなく、角は鋤に、アキレス腱は糸に、ぼうこうは水や油を入れる袋や氷のうとして利用した。また、大型動物の腸はガラス代わりの採光窓に、筋は傷跡を縫い含わせる材料として大切にしたという。こうした生類の死に報いる最大の儀式が「イヨマンテ」(クマの霊送り)なのである。

 

 更に、杉浦日向子著「杉浦日向子の食・道・楽(新潮社)」には次の記述があります。

 

 ところが、沖縄に、しばしば旅行するようになってから、肉を食べる考えが、がらりと改まりました。

 ・・・

 いいな、とおもったのは、食材を丸ごと使い切る姿勢。食べやすい部位だけ取って、他を捨てるのが当たり前の毎日では、食の文化は永遠に根付かない。肉でも、野菜でも、魚でも、アタマからシッポ、骨の髄まで生かしてこそ、命の循環の、奇麗な輪となる

 

 でも、更なる“命の循環の、奇麗な輪となる”為には、厨房から出る残り物、私達の排出物、「body」も、焼却などせず、地に帰って“命の循環の、奇麗な輪となる”手立てを考えてゆくべきと存じます。

 

 杉浦氏は次のようにも書かれています。

 

・・・「欲喰い」。ビュッフェなどで、めったやたらに、てんこもりに取って来て、そのくせ、ごっそり残す。

 皆、とても、不快な、作法だ。

 日本には、「いただきます」という、うつくしい言葉がある。これに当てはまる言葉は、諸国に見当たらないらしい。造物主の神に対する感謝や、狩猟の喜びや、良い食事を、との祝詞はある。しかし、地上の生命(野菜、肉等)を、今戴いて、この身の存続ができます、という、「(御命)いただきます」こそ、率直敬虔な、基本の作法の一言ではないだろうか。・・・

 

 坂東氏は、「食用獣殺し」を例に挙げて、自分の子猫殺しを正当化する前に、アイヌの方々、沖縄の方々、そして杉浦氏の食に対する姿勢を、改めて、日本人に提示すべきだと存じます。

 

 「長くなりましたので、一旦中断して、《子猫殺しと戦争(2》に続きを書かせて頂きます。」



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(補足)


 日本経済新聞「プロムナード」(2006.8.18夕刊)に掲載された、坂東 眞砂子氏による「子猫殺し」の全文を以下に転載させて頂くことをお許し頂きたく存じます。
 

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。

 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。

自然に還るだけだ。

子猫殺しを犯すに至ったのは、色々と考えた結果だ。

私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、

   

近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは、野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか

 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している、猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。

だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。

もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。

 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。

子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。

 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。

 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない

 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。

 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。

 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)

 
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