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国家の品格について(5)(国家より個人の品格)

2006128

宇佐美 保

 先の拙文《国家の品格について(4)(お陰様)》を続けさせて頂きます。

 

藤原氏は、「品格ある国家の指標」として、次の4つを挙げて、次のように結論付けています。

 

1 独立不覊

  独立不覊には、自分の国は自分で守るという覚悟も必要です。注意すべきは、確固たる防衛力は、隣国への侵略力にも転じかねないということです。だからこそ一層、美しい情緒と形が必要なのです。

2 高い道徳

3 美しい田園

  美しい田園が保たれているということは、金銭至上主義に冒されていない、美しい情緒がその国に存在する証拠です。

4 天才の輩出

 

 日本人一人一人が美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務と思うのです。ここ四世紀間ほど世界を支配した欧米の教義は、ようやく破綻を見せ始めました。世界は途方に暮れています。時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです。

 

 しかしおかしくはありませんか?!

「1 独立不覊」では、日本は、藤原氏流に言えば、イギリス以下でしょう。

 

 では、「2 高い道徳」に関しては如何でしょうか?

この件に関して、藤原氏はイギリスに賛辞を呈しては居ませんが、わが日本の現状は如何でしょうか?

 最近では、昔の日本人の道徳感では信じられない事件が多発しています。

私の通っているスポーツクラブのロッカーでは、辺り構わず自分のパンツをバタバタ・パタパタと振り回してから穿く輩が多々います。

スーパーに行けば、自分の使った買い物篭、カートなどを使いっぱなしの人が多々居ります。

(日本人の持っていた「他人を思う心」は何処へ言ってしまったのでしょうか?!)

 

 ですから、何故藤原氏が「この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいない」と思われるのか、私には不思議でなりません。

 

「3 美しい田園」に対して、藤原氏は、イギリスを讃えています。でも、日本の現状はどうでしょうか?!

それに、田園の美は人工美です。


 藤原氏は、次のように書いて欧米人の自然破壊に憤慨していますが、田園だって見方を変えれば自然破壊だと思います。

 

欧米人にとって自然は、人類の幸福のために征服すべき対象です。しかし、太古の昔から日本人で、「人類の幸福」などという目的のために、「自然を征服すべき」などと思った輩は一人もいない。自然というのは、人間とは比較にならないほど偉大で、ひれ伏す対象だった。自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があったのです。だからこそ神道が生まれた。

 この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。「人類の幸福のために自然を征服する」などというのは、手に負えない人間の傲慢です。そもそもそんなことを言い出したら、地球環境は破滅に向かってまっしぐらとなります。

 

しかし、日本人も、自分の食糧確保のため、自然を都合の良いように田園へと変えています

それで良いのでしょうか?!

(声高に「美しい田園」と叫ばず、“美しく使いますから自然様お許し下さい!”に止めるべきと存じます。)

 

 「4 天才の輩出」では、藤原氏はイギリスを絶賛しています。

そして、日本も数学の分野などで多くの天才を排出したと書かれて居ますが、日本はそれらの天才をどのように遇して来たでしょうか?

 

 1903年12月17日にライト兄弟が有人飛行に成功して以来、100年余りの歳月が流れましたが、彼らよりも前に有人飛行に成功していたかもしれない二宮忠八氏を気の毒に思えてなりません。

(以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用させて頂きます

 

明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。そうしたある日、忠八は昼飯を食っているときに滑空しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付く。そして忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えたのである。

これを基に忠八は、模型飛行機を作成明治24年(1891年)4月29日3mの滑走の後10mを飛行させて、世界初のプロペラ飛行実験を成功させた。さらに日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、四枚翼飛行機「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された

その後大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて支社長にまで昇進するものの飛行機の開発の資金をまかうことはできず、ほかにスポンサーも現れなかったため開発は難航した。そうするうちに明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。それを聞いた忠八は、動力源以外完成していた飛行機の開発を取りやめてしまい、薬の製造の仕事にうちこむようになった。

 

 藤原氏が記述していますように、日本人には、独創性もあり、又、天才的才能も有していましょう。

 しかし、残念ながら、日本人の大なる欠点は、他人の業績を正当に評価できない点にあると私は感じます。

例えば、次の藤原氏の記述です。

 

 日本では、日亜化学工業の元社員が「青色発光ダイオードは自分が発明した」にもかかわらず、「それに見合った報酬を受けていない」として会社を訴えました。一審の東京地裁は、法外な二百億円もの支払い命令を出しました。企業は強者だから悪、一研究者は弱者だから善という、マスコミをはじめとする「ポリテイカリー・コレクト」の気運に迎合したのでしょう。だから、冷静さを取り戻した二審の判決では、約六億円での和解勧告に落ち着きました。

 

 この藤原氏の記述にある日亜化学工業の元社員(中村修二氏)に関しては、先の拙文《中村教授と日亜化学の悲劇》をご参照頂けたらと存じます。

 その一部を抜粋しますと、中村氏の活躍以前の日亜化学工業は、同僚から次のような言葉を浴びせられる状態だったのです。

 

 こんなこともよく言われた。「こんなド田舎の、いつ潰れるかわからない会社へ、何でまたわざわざ徳島大学からくるのか」と。しかも専門が電子工学だから、当時の社員にとってはなぜと首をかしげても不思議ではなかったのだ。

 

更には、当時の日亜化学に対する世間の認識度が次のようなものだったのです。

 

実験をやるにあたっては、いろいろな測定装置や備品が必要になる。しかし徳島県の、しかも阿南市などといった田舎都市には、そのような高度な半導体関係の測定装置や備品を置いている会社などない。だから、大都会の会社へ注文しなければならない。そこへ電話してまずカタログを送ってもらうことになるのだが、その段階ですでにつまずくことになる。

 電話をして「徳島県なんですが」と言うと、必ずや「徳島で半導体などやって、どうするんですか」と聞かれるのだ。よけいなお世話なのだが、そのうえ「徳島市からさらに入った阿南市というところなんですが」と言うと、「どこの半導体メーカーの下請けさんでしょうか」と聞かれるのだ。・・・

悔しさをバネに、一人黙々と開発に取り組んだ

 ところが、いい気なもので、いったん私が成功したとなると、掌を返したように人が集まってきた。頼みもしないのに嫌という程のカタログが送られてくる。日本中、いや世界中から営業マンが雲霞のごとく押しよせてくるようになったのだ

 日本の企業の悪いところは、ブランド力のあるところは信用するけれども、そうでないところは歯牙にもかけないといった扱いをすることだ。何事もブランドと肩書で判断してしまうのである。

 

 ここに書かれた「悔しさをバネに、一人黙々と開発に取り組んだ」件に関しては長くなりますので拙文中村教授と日亜化学の悲劇》をご参照頂けたらと存じます。

 

 このような中村氏への報酬に対する、藤原氏の認識は「冷静さを取り戻した二審の判決では、約六億円での和解勧告に落ち着きました」と言うのは如何なものでしょうか?

(勿論、先の拙文にも書きましたが「最高の幸せで、奇跡でもあった、故小川信雄社長と中村氏との関係」が、故小川信雄社長が長生きされて続いて居たら、中村氏が裁判を起こしたかどうか?不明です。私は起こさなかったと存じます。)

 

 この中村氏が獲得した「約六億円」がどの程度の価値なのでしょうか?
野球選手達の年俸と比べたら如何ですか?!

大リーグから、日本に帰ってきた佐々木主浩投手に対して、
横浜ベイスターズ(親会社は
TBS)は、2年間で13億円払っています。
しかし、佐々木投手の2年間の成績は、1勝2敗19セーブ」です。


 

大リーグでの最終年の佐々木投手を見れば、この成績は当然です。

なのに誰もその責任は取っていないようです。

(そんなTBSだから村上世彰氏に狙われた?)

それなのに、中村氏の6億円には、ブツブツ言います。

不思議ですね〜〜!変ですね〜〜〜!

藤原氏は、“平等」の旗手アメリカこそは、企業経営者の平均年収が約十三億円”と書かれています。

(日本でも、会社をガタガタにして辞めてゆく社長や会長に何億円もの退職金を払っています。)

大リーグの最高年俸はヤンキースのアレックス・ロドリゲス内野手の約27億円です。

日本では、松中信彦内野手(ソフトバンク)の年俸は、「5億円+出来高」だそうです。

 

 更に、藤原氏は次のように書かれています。

 

 実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルに

なります。ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる教えたら最後、自分が追い落とされてしまいますしたがって、いつも敵に囲まれているという非常に不安定

な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです。

 世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功

序列を基本とした社会システムを支持します。

 

 此処での記述の「ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます」に納得出来ません。

大リーグなどをテレビで見ていると、

投手は同僚或いはオールスターの時には他チームの投手にも
ボールの握り方など伝授している場面を良く見ます。

プロ野球の世界こそ「徹底した実力主義の世界」です。

でも、互いに彼らのノウハウを教えあっています。

 

 私は、半導体メーカーに勤務している際は、私の上司から次のように常々言われていました。

 

 宇佐美さん、いつでも何処でも誰にでも(同業他社の方でも)、貴方の知っているノウハウを口にしてOKですよ。

半導体の仕事は自分一人で、又、自社だけで頑張っても出来ない事が沢山あります。

みんなと、又、他社と一緒になって開発してゆく必要があるのです。

ただ、大事な事は、自分達が他人より他社より、半歩リードしていることです。

 

 如何でしょうか?

素敵な上司ではありませんか?!

私は幸せでした。

(なのに、中村氏は、お一人でやり遂げました。尊敬しています。

又、山田洋次監督作品『隠し剣 鬼の爪』に於ける「鬼の爪」などの秘伝の類は、誰にでも伝授すべきものではないでしょうが。)

 

 しかし、なんと藤原氏は「ケツの孔の小さい」ことなのでしょうか?!

それでも、次のように書かれているのです。

 

 情緒と形が大切な四番日の理由は、美しい情緒や形は人間としてのスケールを大きくする」ということです。

欧米人のように「論理的にきちんとしていればよい」「筋道が立っていればよい」という考えは、今まで述べてきた通り、誤りです。万人の認める公理から出発する数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。論理が非常に重要なのは言うまでもありませんが、それは世界中の人が声高に言っているから、私はわざわざ言いません。しかし、この出発点を選ぶ情緒や形の重要性については、世界中誰一人言っていないようなので、私が声高に言うのです。これは論理と同等、またはそれ以上に重要です

 

 此処での藤原氏の記述に於いては「俗世に万人の認める公理はありません」の件は前にも書きましたように反対ですが、他の面では大賛成です。

なのに、藤原氏は先のような「スケールの小さな人間の見解」を披露されるのです。

 

 このような藤原氏から思い起こす事実があります。

多くの文化人(?)と言われていた方々の発言です。

 

 日本に居る時は、自分は「愛国心」には無縁な人間と思っていたが、
外国で暮らしていると「愛国心」が芽生えてくる
のを抑え切れなかった。

 

 そして、この発言を聞いたり読んだりするたびに、

 

 この文化人(?)は、個人としては外国人の中で認められない為に、「偉大なる日本国民の一人」の看板を欲しがったのだな!?

と、感じていました。

 

 そして、残念ながら「祖国愛」「国家の品格」を盛んに口にする藤原氏も、文化人(?)と同じなのだ〜〜!との感を強く抱くのです。

それに「祖国愛」などに固執していたら、移民の方、国際結婚の方、不幸にして祖国が無い方(一時期のユダヤの方)の「祖国愛」は、どうなるのでしょうか?

 

それでも、藤原氏は「真のエリート」の必要性を次のように説かれます。

 

 国民は永遠に成熟しない放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。

国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう

 それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。

・・・

 真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぶりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一条件です。

 第二条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。

 

 確かに「真のエリート」は必要かもしれません。

(“「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概がある”などと前もって「命を捨てる気概」などを表に出したり、表明するのは、先の小泉氏同様に下品と私は感じます。)

しかし、「真のエリート」、また、「国家の品格」を云々する前に、私達は「個人の品格」を取り戻さなくてはいけないのだと思います。

(「個人の品格」を取り戻すには、藤原氏の主張するエリートの条件の「何の役にも立たないような教養をたっぶりと身につけている」ことも必要でしょうが。)

 

 「個人の品格」を携えて、世界に出れば、「祖国愛」にすがることなく、世界の人々と「真の国際人」として交流し、心を通わせ、その結果、世界の平和に大きく貢献することでしょう。

 

更に藤原氏は次のように書かれています。

 

明治の初年の頃、多くの日本人が海外留学しました。彼らの殆どが下級武士の息子でした。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心と、みな下級武士の息子です。

彼らの多くは、欧米に出向いていって、賞賛を受けて帰って来る。海を渡る前、おそく彼らは、西欧のエチケットはほとんど知らなかったはすです。レディー・ファーストやフォークとナイフの使い方もよく知らないし、シェイクスピアやディケンズも読んいない。世界史も世界地理もよく知らなかった。福沢、新渡戸、内村、岡倉などは例外ですが、多くは肝心の英語さえままならなかったはずです。だけど尊敬されて帰って来た。

彼らの身につけていたものは何か。まず日本の古典をきちんと読んでいた。それから漢籍、すなわち漢文をよく読んでいた。そして武士道精神をしっかり身に付けていた

この三つで尊敬されて帰って来たのです。美しい情緒と形で武装していたわけです。

いま海外に百万人近い日本人が住んでいますが、その中のどれぐらいの人が尊敬されているでしょうか。羨望はされても尊敬されている人は非常に少ないのではないでしょうか。

 

 私の見解は藤原氏と若干異なります。

「福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心」等が欧米に出向いていって、賞賛を受けて帰って来たのは、藤原氏の見解の「まず日本の古典をきちんと読んでいた・・・この三つで尊敬されて帰って来た」ではなく、又、当時の日本には、藤原氏が主張する「国家の品格」など備わっていなかった筈ですから、欧米人が賞賛したのは、彼らの「祖国愛」ではなく、彼ら自身が備えていた「個人の品格」が欧米人を圧倒してきたのだと存じます。

(勿論、彼らの「品格」を支えていたのは、欧米から多くを吸収して日本の発展に役立てたいなどの熱き思い、真摯な態度などの他に、日本の古典をきちんと読んでいた・・・の力もありましょうが・・・)

 

 藤原氏が重要視する新渡戸稲造氏の著作『武士道』の序文には、次のように書かれています。

 

 この小論全体を通じて、私はいいたいことのすべてを、ヨーロッパの歴史や文学から、類似の例証をあげて説明しようとした。なぜなら、このような例証は、外国人読者の理解をより身近なものにすると思うからである。

 

 このように新渡戸稲造は、日本の古典だけでなく、「ヨーロッパの歴史や文学」にも精通していたのです。

だからこそ、彼の著作が欧米の多くの読者を獲得できたのだと存じます。

そして、又、彼自身も「個人の品格」を備えた人物として欧米人に受け入れられたのだと存じます。

 

 

 そして、此処まで書いてきて、26日の衆院予算委員会での小泉首相の答弁をテレビで見ていて悲しく恥ずかしくなってきました。

 

 自民党が昨年の総選挙で、堀江貴文ライブドア前社長(証券取引法違反容疑者)を応援したことについて、「責任があると言われれば、甘んじて受ける」と答弁しながらも、大げさな身振り手振りで、

「マスコミこそが彼を持ち上げたのだ!自分以上にマスコミの責任が大きい!」

旨を主張していました。

 

全く情けなくなります。

「責任があると言われれば、甘んじて受ける」と答弁したなら、今回に事件の種(選挙に絡む)を蒔いたのは小泉氏本人なのですから、その種をマスコミが大きく育てたから、マスコミこそが問題だとの態度は、責任の他人転嫁そのものです。

種を蒔いたのは小泉氏なのですから、小泉氏が最も反省し責任を取らなくてはならないのです。

 更に、小泉氏は、ほざきました。

「そうは言っても、選挙民は堀江氏にNO!を突きつけた
選挙民は賢い。」


と選挙民を持ち上げて、又、支持率の確保を狙った発言をしていました。

 おかしくありませんか?!

選挙民はホリエモンにNO!を突きつけたのではなく、
小泉氏に反対した亀井氏をより支持したのではありませんか?!


選挙民は堀江氏にNO!を突きつけたのではなくて
小泉氏にNO!を突きつけた!


と、小泉氏は、全てに於いて自分は正しいとの自己中心的な立場を捨てて、自分は間違っていたと謙虚に反省すべきではありませんか?!

 

 更に、米国産牛肉のBSE問題に関する、小泉氏の

責められるべきは米国側だ。なぜ日本が責められるのか、分からない」

との答弁も、責任の他人転嫁そのものです。

今回のように、検査漏れの牛肉が米国から輸出される事態は、前もって、米国での検査体制をしっかり検査し指導して、日本側がOKを出してから輸入再開するのが手順です

 そして、この検査指導を行った後に今回の事態が発生したのであれば、一つは日本側の検査指導が不十分であったこと、もう一つは米国側が日本の指導をきちんと守らなかったことの2点となり、どちらか一方だけの責任とは言い切れません。

ですから、責められるべきは米国側だ。なぜ日本が責められるのか、分からない」と答弁する小泉氏は愚か者と思えてなりません。

 勿論、

前もって、日本側が検査指導を行わず「米国を信用していた」と言うのでは、
今回の耐震偽装事件同様の「性善説を信じていた」との無責任答弁そのものです。

 

 誰でも、間違い失敗はありましょう。

でもその間違いを真摯に詫び反省する事から新たな発展進歩が生じるのでしょう。

そして、次第に「品格」が備わってくるのではないでしょうか?

 

 「靖国参拝問題」にしても、「中国韓国の内政干渉こそが問題」と、

非を他者に求め自己の正当化を図るような小泉氏


から、「品格」のひとかけらも私は感じません。

 

藤原氏の「国民は永遠に成熟しない」との見解が正しく、その為「国民」は、小泉氏を永遠に支持し続けるのでしょうか?!

(なにしろ、非を他者に求め自己の正当化を図る方は、残念ながら小泉氏お一人ではないようですから!)

 

 それにしても、藤原氏の「国家の品格」の条件に「首相の品格」が何故入っていないのでしょうか?!
そして又、藤原氏が「論理の出発点を選ぶ情緒や形が、論理と同等、またはそれ以上に重要です。」と唱えれば唱えるほど、論理を無視して独善的な論理の出発点だけを声高に叫ぶ人に力を与える危険性を私は危惧しています。

 そして、私は、「論理の出発点を選ぶ力」は、「情緒や形」ではなくて「品格」であると信じているのです。


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