目次へ戻る

 

JR西日本の脱線事故と戦争

2005年5月7日 宇佐美

 あまりにも痛ましいJR宝塚線(福知山線)の脱線事故に関する情報をテレビ新聞で見聞きするたびに『戦争』が私の頭の中に浮かんできます。

 

 日常生活から突然惨たらしい死に追いやられた多数のお気の毒な犠牲者。

……原爆で亡くなった方々、東京大空襲で亡くなった方々、沖縄の犠牲者の方々、そして最近では、空爆等で命を奪われた多くのイラク市民……

ブレーキを握ったまま亡くなった事故電車の運転手。

……銃を持ったまま戦死した兵士……

テレビから音声だけで流れてきた運転ミスした運転手への「日勤教育」(再教育システム)と称する『人格剥奪教育』の惨さ加減。

(この「日勤教育」が真に事故防止の為であったと、JR西日本は主張し続けるのでしょうか?
 若し、事故防止教育であったら、JR宝塚線(福知山線)の運転業務に関する数々の問題点が、運転手の方からリストアップされており、その問題点に対して幹部達が(運転手の協力も仰ぎ)徹底的に十分な対策を練り、過密なダイヤ編成の見直し、新型の自動列車停止装置(ATS―P)の整備などを事前に実施していなくてはなりません。
 そして、その結果、今回の事故は防げていたはずです。

それでも、JR西日本が“「日勤教育」は、事故防止の為だった”と主張するなら、どのような問題点がリストアップされて討議されたかの書類を提出して頂きたいものです。

 

今回漏れ聞こえたJR西日本の『人格剥奪教育』は、JR西日本だけの特殊教育ではなく、どこの大企業でも行われているのだと、日本の超大企業に勤務した体験のある私は思いました。

子供の頃から「個性」、「個性」とバカの一つ覚えのように唱えながら会社に飛び込んだ若者達に“「個性」など糞の足しにも成らず、上役の命令に対して、疑問を挟んだり異議を申し立てることなく忠実に従う「会社の歯車に」になることこそが肝要!”といった『人格剥奪教育』(人間歯車形成教育)を身近に体験してきました。

 

だってそうではありませんか?

事故電車に乗り合わせた運転士2人が救助活動をせずに出勤したり、事故の3時間後に社員43人がボウリング大会を開いたりしていますが、これは『人格剥奪教育』の結果、JRの皆様が「会社の歯車に」成り下がって、自らの思考判断力を幹部達に委譲してしまった結果ではありませんか!?

 

更には、毎日新聞(2005年5月7日大阪朝刊)の次の記事を読みますと、『人格剥奪教育』の悪の成果が浮き彫りされてきます。

(そして、この『人格剥奪教育』が「国労対策」の延長線上の存在と感じ取る事が出来ます。)

 

 同線での運転歴がある運転士は「国鉄時代のような労組による職場支配の復活を恐れる経営側が、労組の要求に応えることを必要以上に毛嫌いしているとしか思えない」と話す。
 同社の経営陣は87年の「国鉄消滅・解体」を経験した旧国鉄幹部が中心。発足時には2兆円以上の長期債務と余剰人員の「負の遺産」を抱えていたうえ、路線の半分が赤字ローカル線で、経営基盤の強化が急務だった。国鉄改革の立役者で、社長と会長を務めた井手正敬取締役相談役が中心になって厳しい合理化を進め、南谷昌二郎会長、垣内剛社長も引き継いだ

 しかし、経営改革の成功は権力をトップに集中させ、社内の風通しが悪くなったとされる。社員からの意見は、スピードアップや人員・コストの削減などに関するものは採用されても、経営方針に抵触する意見はまず取り上げられないという。

 こうした企業風土の下、管理はどんどん強まった。事故車両の6両目に乗りながら救助活動をしなかった運転士(27)は「気が動転していた」と釈明しているが、この日の勤務は午後2時9分からで遅刻の心配はなかった。運転士は、午前10時開会の橋本光人・同社大阪支社長の講演会に出る予定だったのだ

 講演のテーマは3月に打ち出した同社の中期計画と支社の方針。同社は遅延時間の短縮を経営課題の一つに初めて強く打ち出し、橋本支社長自身が「支社長方針」として文書では、五つの課題のうち、「稼ぐ」が筆頭項目だった。ある中堅運転士は「大阪支社は職員5000人を抱える。支社長は王様みたいなもの。講演に遅れるわけにはいかないと考えても不思議ではない」と推測する

 

 『人格剥奪教育』を身近に体験した私にはこのような運転手さん達を非難する資格がないように感じているのです。

 

そして、「軍事教育」も、JR西日本の『人格剥奪教育』同様であったに違いないと思いました。

その「軍事教育」の結果、「赤紙」で召集された多くの日本人は、「大日本帝国軍の一歯車」となり、戦場の犠牲者となられたのではないでしょうか?

勿論、今回のJR西日本の幹部達は、「支社長方針」筆頭項目「稼ぐ」に関しては、「経常利益は▽00年度434億円▽01年度は540億円と順調で、昨年度は743億円を記録し5年連続で増益となっている。」と言うのですから目標を見事に達成しているのでしょう。

しかし、その目標達成の為に「安全性の欠落」と言う落とし穴を過小評価してきたのです。

 そして、こんな点も「大日本帝国海軍」との類似性を感じているのです。

真珠湾攻撃などは「大日本帝国海軍」上層部の思惑通りの快挙(JR西日本の5年連続で増益の如くに)と喜んだのでしょう。

 

 この「真珠湾攻撃の大戦果」に対する故小林秀雄氏(文芸評論家:19021983)の記述を次のホームページから引用させて頂きます。

http://www.asahi-net.or.jp/~dn8k-tkm/kobayashiwar0.html

 

小林秀雄「三つの放送」昭和171月『現地報告』

(漢字は新字体に改めました。仮名遣いは原文のまま。)

 

「来るべきものが遂に来た、」といふ文句が新聞や雑誌で実に沢山使はれてゐるが、やはりどうも確かに来てみないと来るべきものだつたといふ事が、しつかり合点出来ないらしい。

 

帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり

 

 いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。僕等凡夫は、常に様々な空想で、徒らに疲れてゐるものだ。日米会談といふものは、一体本当のところどんな掛け引きをやつてゐるものなのか、僕等にはよく解らない。よく解らぬのが当り前なら、いつそさつぱりして、よく解つてゐるめいめいの仕事に専念してゐれば、よいわけなのだ、それがなかなかうまくいかない。あれやこれやと曖昧模糊とした空想で頭を一杯にしてゐる。その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。

 

 何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。

 

 やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た

 

 確かに当時の日本人の大多数はこの小林氏の記述通りの歓喜を味わっていたのでしょう。

その意味から言えば、知性の代表者でもある(?)文芸評論家として記述としては御立派と言えるのかもしれません。

でも、こんな事で良かったのでしょうか?

小林氏は

日米会談といふものは、一体本当のところどんな掛け引きをやつてゐるものなのか、僕等にはよく解らない。よく解らぬのが当り前なら、いつそさつぱりして、よく解つてゐるめいめいの仕事に専念してゐれば、よいわけなのだが……

と書かれています。

あまりに無責任では!?

その後の多くの痛ましい犠牲者の発生を予感できなかったのかしら?!

 

 JRの幹部にしても、企業の収益増大ばかりに現を抜かしていて、今回のような痛ましい惨事の発生を予測出来なかったのだろうか?!と思ったりしていましたところ、私の先の拙文《衣食足りて礼節を忘れた日本人》を御覧下さった方から、次のようなメールを頂きました。

 

私の家内の親父は医者で台湾に従軍医として行って、戦死しています。

昭和天皇とA級戦犯は今でも憎悪の塊のようにののしります

犠牲者の家族はその生涯許せないという気持ちを持ち続けているものと思います。

A級戦犯の恩給は親父の恩給に比べ10倍以上(従軍医の恩給は高い)ということを家内の母から聞いたといっています。

したがって戦後の政府に対しても憎悪を持っています

私が某社に入ったときの上司(今でも鮮明に覚えている名前;S.U)は戦争帰還者で中国に行っていました

日本刀で数多くの中国市民を切り捨てたと平然と言っていました

しかもいろいろな殺し方を楽しんだと酒の席で自慢する有様です。

私など約半数の人間は大変しらけて、聞くに堪えない話と苦虫顔をしていましたが、半数は興味深げに聞き、話しをあおっていました。

このときのあおる人はどちらかといえば上司にへつらう人との印象を薄く持っています。私の上司当人は上司にへつらう典型的な人間でした。

当時の軍隊のトップの教育が日本人にあらずんば人にあらずという(虫けら論)ことを忠実に守り、戦争が終結し10数年、平和の精神が蔓延しても、全く反省しない人がいるということで、教育の恐ろしさを感じます

衣食住足りて礼節を知るという道徳教育は戦後の日教組がつぶしてしまいました

さらに追い討ちをかけて、親から親へ伝えられていた美徳が核家族で完全に根絶えました。美徳のかけらもないのが現在の日本です。

私は日教組こそ日本をつぶしたA級戦犯と思っています。

この元になった日本共産党と社会党は許せません。

 

 そして、

「私の家内の親父は医者で台湾に従軍医として行って、戦死しています。

昭和天皇とA級戦犯は今でも憎悪の塊のようにののしります

犠牲者の家族はその生涯許せないという気持ちを持ち続けているものと思います。

……したがって戦後の政府に対しても憎悪を持っています

を読ませて頂きますと、小泉首相らの、

どんな罪人でも、死ねばみな仏となり、生前の罪は許される

との発言が多くの御遺族の方々へ更なる苦痛を押し付けていると認識する事ができます。

 更には、今回の脱線転覆事故犠牲者の御遺族方々のJR西日本幹部へのお怒りが如何ばかりかとも思わずにいられませんでした。

 

 そして、南京虐殺事件は無かった等との見解を吐く方も御座いますが、

S.Uは戦争帰還者で中国に行っていました日本刀で数多くの中国市民を切り捨てたと平然と言っていました。しかもいろいろな殺し方を楽しんだと酒の席で自慢する有様です

との文面からは、南京の事件はさておき、日本がどれほど長年にわたり中国の方々に理不尽な不幸を押し付けてきたのかを納得させられます。

(『南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修三、他2名著、椛錘v社発行)』を見ると、南京事件の証拠写真の大部分が贋物だという事が判りますが、さりとて、写真が嘘とわかっても、虐殺が無かった証拠にはなりません。

今まで何度も書いてきましたが、何も虐殺が日本人特有の残虐行為ではなく、どこの世界の人でも、戦争では絶対に行わないとは言い切れない行為なのです。

ですから、戦争などと言う非人道的な行為はこの地上から排除する努力をしなくてはいけないのです。)

 

 そして又

当時の軍隊のトップの教育が日本人にあらずんば人にあらずという(虫けら論)ことを忠実に守り、戦争が終結し10数年、平和の精神が蔓延しても、全く反省しない人がいるということで、教育の恐ろしさを感じます。」

との記述から、JR西日本の『人格剥奪教育』を思わずにはいられなくなります。

 そして、今、中国韓国の怒りの矛先が「扶桑社の歴史教科書」の記述に対して向いているますが、この歴史書を制作している「新しい歴史教科書を作る会」の名誉会長の西尾幹二氏の書かれた『国民の歴史:扶桑社発行』を開きますと、次の「過去は反省しても始まらない」に始まる記述に驚くのです。

 

利口ぶった人間にはなるな615頁)

人間が生きるとは運命を生きることである。未来は見えない。過去は反省しても始まらない。取らぬ狸の皮算用と言うし、後悔は先に立たずである。同様に、後悔は犬にくれてやり、見えない未来を一歩ずつ切り拓くようにして生きていくべきだ。

かつて福田恒存は、自分は「大東亜戦争否定論の否定論者」だという名文句を吐いたことがある。あの戦争を肯定するとか、否定するとか、そういうことはことごとくおこがましい限りだという意味である。

肯定するも否定するもない、人はあの戦争を運命として受けとめ、生きたのである。そのむかし小林秀雄が、戦争の終わった時点で反省論者がいっぱい現れ出たので、「利口なやつはたんと反省するがいいさ。

俺は反省なんかしないよと言ってのけたという名台詞と、どこか一脈つながっている。

しかし利口な人間は後を絶たない。歴史を二つに分けて、日清・日露までは正しく、昭和になって間違えた、というような便利な考えをもてあそぶのは、利口ぶった人間のしがちなことなのである。

 いったい日清・日露まで日本はなぜ自分の羅針盤ひとつを頼りにして、なんとか国を亡ぼさずに大過なく生き延びることに成功したのだろうか。自分の過去を否定したり反省したりする利口な人間がいなかったからだ。自分の過去を善悪二つに分けて生きるような閑人がいなかったからだ。

 未来が怒涛のごとく押し寄せてきて、小利口に生きる余裕は誰にもなかった。ほんとうは大東亜戦争だって、われわれはそのようにして生きたのである。勝敗の結果は逆だったが、日本人のけなげな生き方にはなにも違いはなかったのではないか。それが軌道を踏み外した錯誤だったのかどうかも、じつをいうと、誰にもまだよくわからない。さらに五十年、日清・日露と同じくらいの時間の距離ができなければ、あの戦争については、なにひとつまともな、後世に恥じないですむ判断はできないだろう

 

 私は、小林秀雄氏や福田恒存氏に関する知識は全く持ち合わせておりません。

しかし、小林秀雄氏は、文芸批評を生業とする身で、先に掲げた『真珠湾攻撃賛美論』をぶちまけておきながら

利口なやつはたんと反省するがいいさ。俺は反省なんかしないよ

はないと思います。

そして、この小林見解を良しとする、西尾氏の記述『国民の歴史』を読むのを断念したのです。

 ただ、福田恆存氏(劇作家・評論家:1912〜1994)に関しては、ホームページを訪ね回って、次なるページにめぐり会えましたので、一部抜粋させていただきます。

http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/shincho9502.html

 

 批評精神とは――もつともすぐれた批評精神とは――おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことであること、いふまでもない。それは公約数的な臨界角度を持たずに、水平面との一度、一分、一秒の斜角をも鋭敏にかぎつける精神でなければならぬ。のみならず、それは文字どほり平地に波乱をさへおこしかねない。もちろん、かれもまた安定と平穏とを愛するであらう。いや、なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ。(1949年・『福田恆存全集』第2巻所収)

 

戦後に戦争責任を追及する左翼に対して、彼はつぎのように書いている。

 

 戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たちのゐたことは事実であり、かれらに対してぼくたちは憎悪と軽蔑をもつて酬いた。が、すくなくともぼくに関するかぎり、この憎悪と軽蔑とをたゞちに戦争責任といふやうなことばにすりかへようとはおもはぬ。その狂態がいかに常規を逸してゐようとも、またじゞつ、敗戦の責任を負ふべきものであつたにせよ、ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任があつたからではなく、文学者として無資格だつたからにほかならない

 

 こゝに節操といふことが問題になる。もし今度の戦争において節操といはれるものが存在しえたとするならば、それはいつたいどのやうな面に見られるのであらうか――ぼくはそこのところをあへて問ひたゞしたいのである。文学者の戦争責任を糾弾するものが多かれ少なかれこの節操を保持してきたひとたちであり、その実績を背景としてものをいつてゐる。が、ぼくはそれら一切を信じない。かれらの表明する節操にうしろぐらいものがあるといふのではない。すでにいつたやうに、ぼくはうしろぐらさを余儀なかつたものとして認めてゐる。たゞ不愉快なのはかれらの論理である。かれらも自分たちの卑劣と無力をみとめ、それを厳しい自己批判の方向に好転せしめ、さうすることによつて民主主義革命に参与する資格をかちえるものとしてゐる。かれらといはゆる戦犯作家との差異はその自己批判の有無によつて決せられるといふのであらうか。ぼくはさうした論理に、なによりも反撥を感じる。(「文学と戦争責任」)

 

 この記述を読めば、西尾氏の福田氏の「過去は反省しても始まらない」の解釈“あの戦争を肯定するとか、否定するとか、そういうことはことごとくおこがましい限りだという意味である”が全く的外れである事がわかります。

 

 福田恒存氏は、「批評精神とは――はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことである」と書いている彼なのですから!

戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たち”の「鋭敏に危機の到来を予知する精神」が欠如しているとして、作家としての資格を問題にしているのです。

 

だからこそ“ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任があつたからではなく、文学者として無資格だつたからにほかならない”と糾弾しているのです。

 

そして、いはゆる戦犯作家ではなかったという作家が、自分たちの卑劣と無力をみとめ自己批判した。

だからと言って“戦犯作家との差異はその自己批判の有無によつて決せられるといふのであらうか。ぼくはさうした論理に、なによりも反撥を感じる”との福田氏の見解は、「文学者として資格」が問われているのに、その無資格者たちが、反省したからと言って、ある日を境に、「文学者として資格」を勝ち取る事ができると言うのは理が通らないとの意味なのだと私は思います。

 ですから、福田氏に関しては過去は反省しても始まらない」は、

「もともと文学者の資格がない者が、反省したからと言って、文学者としての資格を獲得出来るものではない。」

の意味だと存じます。

 

 従いまして、真珠湾攻撃の成功に舞い上がってしまった小林秀雄氏には、「文学者」「批評家」としての資格がない事が暴露されてしまったのです。

ですから、この福田氏見解を前にしては「過去は反省しても始まらない」と言わざるを得ないのです。

 

 しかし、私達は、批評家でも文学者でもない凡人なのですから、日々反省を繰り返して、短い人生の道行きの中で一歩一歩でも進歩しようと努力し続ける事が大切なのです。

そして、その努力の成果を次の世代に引き継ぐ努力をしなくてはならないのです。

 

 西尾氏の

五十年、日清・日露と同じくらいの時間の距離ができなければ、あの戦争については、なにひとつまともな、後世に恥じないですむ判断はできないだろう

との見解は、批評家・文学者の資格を厳しく問う福田氏にとっては容認できないと思います。

 

 そして、この西尾氏の「判断を後世に委ねる」姿勢は、「今、ある事態を引き起こして、多くの人から非難されたとしても、そんなこと問題ではない、この事態の正否の判断は50年後の人々に委ねるべき」では、今を生きる私達の行動基準はどこにあるのですか?

“ただただ歴史の流れに任せていれば良いのだ!”なのでしょうか?

 

 私にははっきりした行動基準があります。

(勿論、いつも守れるとは限りませんが)

それは、これまで何度も《拙文》に書いてきましたように、次なる「お釈迦様の言葉」です。

 

 

あたかも、母が己がひとり子を身命を賭して護るように、

 そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、

 無量の(慈しみの)心を起こすべし。
             出典:『スッタニパータ』149

 

 そして、言い換えればキリストの“汝の敵を愛せ”です。

更には、「相手を思い遣る心」です。

 

 自己の正当化(言い訳)ほど簡単なことはありません。

でも、相手の気持ちを汲み取ることほど難しいことはありません。

(ですから、始終失敗します。)

それでも、この難事業に日々打ち込んでいたら脳は大変活性化されます。

サッカーの中田選手の金髪を真似して、頭を染めたって、そんなのは個性ではありません。

ズボンの裾を引き摺って歩いていたって、そんなの個性ではありません。

個性とは相手を思い遣る一寸した心の襞の相違が、個性として表面化してくるのだと思います。

戦後日教組がどんな教育をしたかは私には良くわかりません。

(なにしろ、「学校とは、学友と野球したり、水泳したりして遊ぶところ」としか思っていませんでしたから、それでも、「権利だ」「個性だ」の声は聞いてはいます。)

 

 

過去は反省しても始まらない

又、

五十年、日清・日露と同じくらいの時間の距離ができなければ、あの戦争については、なにひとつまともな、後世に恥じないですむ判断はできないだろう

と嘯く西尾氏が旗振りしている歴史教科書に「中国、韓国を思う心が組み込まれている」とは私には信じられません。

 

 JR西日本の「日勤教育」担当者の方や、幹部達が「他人を思う心の重要性」を認識していたら、今回の事故は未然に防げた可能性は高かったのではないでしょうか?!

目次へ戻る