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デル・モナコ先生への一般的な評価に対して

1994102

宇佐美 保

[T]デル・モナコ先生への評価

 とても不思議な事に、世の中(特に日本では)デル・モナコ先生に対して、正当な評価がなされているとは私には思えないのです。

これらの代表的な例を抜書きさせて戴きましょう。

 

1)日本で最も権威がある(?)レコード雑誌の批評家の高崎氏の評価

 (マリオ・デル・モナコ全集の解説書の中で)

 要するに、昔も今も、私にとってデル・モナコは、ただひとえに偉大なるオテロ歌手として、かけがえのない存在なのである。極端ないい方かもしれないが、彼のその他のあらゆる歌は、ただこのひとつの真実だけをくりかえし、手をかえ品をかえて立証してみせることで意味がある。こんな奇妙な歌手が、いつたい他にいるだろうか?……

 彼の力強い声は、全身を共鳴体としてまろやかにひびくような普通の発声とはちがって、いわば声帯から直接にとび出してくる。

デル・モナコの声を指して用いられてきた「黄金のトランペット」という形容詞は、その意味では実に適切な言葉であって、殆どヴイブラートのないその強じん無比な声を咽喉だけで支えるような芸当は、デル・モナコにだけ可能な放れ業だといっていいくらいだ。

従って、その声は、全身の力をこめたフォルテか、あるいは全く咽喉の力を抜いたピアノのいづれかしかあり得ず、その両極の間で多彩に変化するディナミークの変動はあり得ない。……

 

2)会社勤務の傍ら『思いっきりオペラ』を著した本間公氏の評価

(氏の上記の著書[音楽評論の権威者の吉用秀和絶賛]の中で。)

 デル・モナコが戦後の代表的なドラマティック・テノールの一人であることはたしかだが、冷静に今日の耳と目で評価するとソプラノにおけるカラスほど傑出しているわけでない。強勒な声には感服するし感情移入の歌唱力もみごとなものだが、歌唱そのものはかなり粗雑である。流麗なカンタービレもしなやかなアジリティも欠いている。演技といえば、聴かせどころになると相手ではなくて観客席に向かって足を踏ん張るタイプでいささか滑稽である。

 しかしデル・モナコの歌唱は聴衆を巻きこむ。それはひとえに有無を言わさぬ

あのトランペットのように高らかに響く強勒な声と感情移入の激しい熱血的な歌唱スタイルゆえだろう。この発声法、歌唱法をデル・モナコは自己流で体得したといわれる(ペルティレなど往年の名歌手のレコードを聴いて)。五線譜より上の高音を発する時、オペラ的な発声ではどちらかといえば顎は引く(さもないとこの音域は充分に響かない)ものだが、デル・モナコはしろうと歌手のように顎を突き出してなおかつあの高音をフォルテでしかも長く延々と響かせるのには驚嘆させられる。並はずれて強靭な声帯と豊かな肺活量、気息の長さを保有しているのだろう。……

 

3)日本の音楽評論の権威者のお一人である遠山氏の評価

 大理石という見事な教会の伽藍をつくりだすように、モナコの声が、おのずから音の壮麗な建築をつくり出す。ヴェルデイの天才も、この素材の力に謙虚に従っているように見える。……

 フルトヴェングラーやコルトオの音楽に感動したのは、それにくらべれば、もっとはるかに芸術の表現の力に属することである。コルトオの音は本当にすばらしかったが、その純粋さはモナコの声に及ばない。ロマン主義という近代の歴史をくぐりぬけてきた彼らの音楽は、もっとはるかに複雑な精神的いとなみのなかで表現の世界の追及にむかうのである。イタリア・オペラは、そうした歴史の外で、音楽の古典性を支えている。モナコの声は――私には――その象徴だった。

(この評論の全文は、『日本の歌を歌う為の、日本独自の発声法は、全く不要!』に掲載させて戴いてあります。)

 

[U]私の見解

 

 上記しましたデル・モナコ先生への評価に対しては、私は全く納得出来ないのです。

 

1)デル・モナコ先生の発声は素人の発声ではありませんよ!

 デル・モナコ先生の発声の根本は、イタリア/ペーザロにて学んだメロッキ先生の教えだと思いますよ。

教わるという事は、学校教育だけではないし、又、いつも手取り足取り教わる事だけではなく、短い期間にミツチリ叩き込まれたら、後は、一生自分自身でその教えを発展、脹らませて行く事もあるのでしょうよ!

 

 デル・モナコ先生は、メロッキ先生の教えを一生掛けて発展させて、自らの声を、とことん磨き続けて行かれた方だと思いますよ。

(多くの歌手は、デル・モナコ先生程には、自己研磨に打込み続けられなかったのだと思いますよ。)

だからこそ、他の追随を許さない声を、勝ち得たのだと思いますよ。

喉に力が入っていたら、あのような響きは絶対に出て来ないのですよ。

「顎を突出して高音を歌う」等と書かれるなんて、本間氏(他の多くの方々も同じとは思いますが)は何処に目を付けられておられるのでしょうか?

もう一度デル・モナコ先生の『道化師』のLD(最近ではDVD)の画像を御覧になって下さい!

高音を歌っておられる時のデル・モナコ先生の横顔が写っていますから。

顎を突き出して、あのように素晴らしい高音の響きが出ると御思いですか?

それに、声が、声帯から直接にとび出したりしたら、どうやって素晴らしい高音の響きが出ると思っておられるのでしょうか?「響き」というのは、共鳴が有ってこそ出てくるのですよ。それとも、お二方は、デル・モナコ先生の声の中に「響き」を御聞取りにならないのでしょうか?

それに、テノールの響きは、主に頭部の共鳴であって、まろやかな体全体の共鳴ではないのです。

(勿論、体全体を使いますし、力みも無いから体も共鳴しますけれども。)

 

 デル・モナコ先生は「喉に力を入れた素人の発声」という間違った先入観の下に、デル・モナコ先生の歌を聴かれるから、「歌唱そのものはかなり粗雑である。流麗なカンタービレもしなやかなアジリティも欠いている。」等と書かれてしまうのだと思いますよ。

どうか、誤った先入観を捨てデル・モナコ先生のレコードやCDを改めて御聴きになってはいかがなものでしょうか?

トロバトーレの“見よ!恐ろしき焚木を”や、セビリヤの理髪師の“何でも屋の歌’’などを聴かれて「アジリティも欠いている」等と失礼な事を書けるのでしょうか?

そして、他人迄も間違った方向に導いてしまう罪作りな誤った先入観を捨てられたら、デル・モナコ先生の歌の中に、フォルテからピアノ迄の間に無限の段階が有る事に気が付かれると思いますよ!

 

 それが御気付きにならないのでしたら、モノクロ写真を前にして、「この写真には、白と黒しかない!」と怒鳴っているようなものですよ。

モノクロ写真の白と黒の間には、見る人が見れば、無限の色調が秘められているというのに!

 

 それに、高崎氏は、デル・モナコ先生に対して、“まるで親の仇でもとるがの如き形相にて歌う”と頻繁に著述されますが、端正な歌いぶりで有名なアルフレッド・クラウスでさえ、いわゆるハイC等の高音を発声する際は(多くの方々もお気付きと存じますが)物凄い顔付きになります。

なぜ皆様は、アルフレッド・クラウスの形相には目をつぶり、デル・モナコ先生の事となるとそれこそ親の仇を討つばかりに筆を振るうのでしょうか?

デル・モナコ先生も、アルフレッド・クラウスもハイC等の高音を発声する際の物凄い顔付き(?)は、あくまでも、喉に力をいれず力まずに高音を出す為の手段なのです。

 

 デル・モナコ先生が、喉に力をいれずに発声している証拠には、デル・モナコ先生の話し声は全くオペラを歌われているときと全く同じなのです。

私達へのレッスンの際、部屋中に響く声で説明している途中から其の侭の声でお手本に歌って下さいました。

又、レッスンをさぼった生徒をお怒りになる際はデル・モナコ先生の声で部屋中がびりびりと振動しだすのでした。

デル・モナコ先生の話し声をお聞きになってない方は、『マリオ・デル・モナコ全集』の中の「マリオ・デル・モナコ/わが人生を語る」のCDで、デル・モナコ先生の話し声をお聞きください。まるで、『セビリアの理髪師』のフィガロの様に処々に裏声を混ぜたりして響き有る声で自由闊達に話されております。

(今の時代、三大テノールをはじめとしてどんなテノールが、デル・モナコ先生のように歌声と同様な魅力有る声で話されるでしょうか?)

 

 私が出演させて頂いた、『題名のない音楽会』(’ 94.4.3放映)に於いて、岩城宏之、黛敏郎両先生は“デル・モナコの声は低音から高音まで響きの均一な唯一の歌手”とご指摘されました。

又、以前、 デル・モナコ先生の奥様へ“今のオペラ界に、デル・モナコ先生のような声を持った歌手が居ないのは何故ですか?”との私の問いに、デル・モナコ先生の奥様は、“私の夫の声は特別なのだ!”と答えて下ださったものでした。

デル・モナコ先生の下に、沢山の歌手の方々が教えを請いに参っておりましたが、私の知り得ている範囲では、誰一人デル・モナコ先生の声の響きを獲得された方はおられませんでした。

(自慢気で申し訳ありませんが、私だけがその例外であった事を、ここに書かせて下さい。)

 私の友達にも、“デル・モナコ先生に教えて戴けて良かったね、だからこそ、そんな声が出せるんだものね!”と良く言われます。

でも、その度に、“そりゃ、デル・モナコ先生に教えて戴けた事は、最高の幸せ!だからと言って、カール・ルイスのコーチに習ったからと言って、誰もがオリンピックで優勝出来るのではない!”と、私はむきになって、答えていました。

 

 黛先生は、“デル・モナコは、鉄の声を持つ。”と御紹介されましたが、私は“デル・モナコ先生の声は、ジークフリートの鍛え上げた剣であるノートングであって、単なる鉄でなく、小人ミーメでは鍛える事が出来なかった、神々の主ウォータンからの剣の破片を鍛えたからの剣なのではないでしょうか?

デル・モナコ先生の喉であったから、そして、デル・モナコ先生が鍛えたからこそ、出来上がった声なのでは?”と思います。

 

2)デル・モナコ先生の歌は、大理石の「聖堂」でなく「ピエタ像」です。

 遠山氏の評論の中で「フルトヴェングラーやコルトオの音楽は、モナコのそれより、もっとはるかに複雑な営みの中で表現の世界の追及にむかい。イタリア・オペラは、そうした歴史の外で、音楽の古典性を支えている。モナコの声は――私には――その象徴だった。」との旨を書かれ、高崎氏と同様に、「大理石の聖堂」にたとえられますが、私には、毅然とした精神性を持ったミケランジェリの彫刻(いつも優しいデル・モナコ先生の膝の中で泣いていた私はにとっては、「ピエタ像」)を連想します。

B・ジーリや、F・タリアビーニ達は、フアルセット等の表面効果の上がるテクニックを駆使しますから、あたかも豪華な色彩の油絵のようでしょうが、そのようなテクニックを排除したデル・モナコ先生の歌に、磨きに磨かれた大理石を連想なさるのは流石ではございますが、モノクロ写真の中に無限の色調があるように、デル・モナコ先生の「磨きに磨かれた大理石」の中には、無限の感情が精神が込められているのです。

そしてその精神は、声を徹底的に追い求め、その声が最良の状着で発せられるように、自らの人生の23を犠牲になさる程の毅然とした克己心の強さを示しておられるのです。

 

3)デル・モナコ先生は、声や歌をレコードで学んだのではありません!

 私は、デル・モナコ先生にレッスンの際“宇佐美!私の物真似はしてはいけないよ!私のレコードは聴かないように!私のレコードは皆捨ててしまいなさい!”と奥様共々に諭されました。

ですから、私は、この10数年デル・モナコ先生のレコードは(捨てはしませんでしたが)殆ど聴いておりません。

(但し、私の財政状態に拘りなく、デル・モナコ先生のレコードCDは、店頭で見掛ければ必ず購入しております。まるではデル・モナコ先生への信仰の証でもあるように.それから、ちなみに私が撮影したデル・モナコ先生の写真はDECCA レコードのSTEREO DDI 1104のジャケットに採用されています。)

なのに、私の声は進歩し、益々デル・モナコ先生の声に近付いて来ました。

只々、デル・モナコ先生の教えを思い出し、遵守し、練習してきたのです。

(物真似に堕しては進歩は有りませんが、最近これらの文章を書くに当たって久し振りに色々のレコードを聴いて見ましたが、それはそれなりにとても参考になりました。こういうレコードの聴き方は、巷間言われているデル・モナコ先生のレコードによる勉強法とは違い、どなたも時折なさる事ではないでしょうか?)

 

4)デル・モナコ先生は、オテロだけの歌手ではありません!

 世間は、(特に日本では、その傾向が特に強いのでしょうか?)「何かにつけてレッテルを貼り、自ら進んでその固定観念に囚われて自らの視野を狭めてしまう」事が、お好きのようです。

 それでは、自ら楽しみの幅を狭めてしまい不幸なのでは?と思うのですが、見方を変えれば、楽しみはいくらでもあるから、その楽しみの選択の幅を適当に狭めて色々摘まみ食いするには、レッテルを目安に物事を判断するのは、人によっては勿論便利な事なのでしょう!でも、勝手にレッテルを貼られた方には迷惑な事だと思います。

(それも、間違ったレッテルでは尚の事!)

『デル・モナコ=オテロだけの歌手』

『デル・モナコ=喉に力を入れた強引な発声』等々。

そして、『デル・モナコは、どの役柄に於いても「将軍」のよう!』

世界中の「将軍」の方々は押し並べて、皆デル・モナコ先生に似ておられるのかしら?

 そして又『アンドレア・シェニエ』のベストLDのの選択記事等では「詩人ということを考えればカレラスは視角的には合っている。」といった類の多いのには驚かされます。

少なくも、新聞テレビで拝見する現在有数の詩人であるの大岡信さんは、カレラスとは余り似ておられないようですが?

若しかして、「批評家」の方々は、皆様、皆同じタイブの方々なのかしら?

(若しかして、「批評家」の方々は、「貴方は、典型的な批評家タイブの方ですね。」と認識される事が嬉しいのでしょうか?)

 イタリアに於いては、デル・モナコ先生のアンドレア・シェニエは、一段と高く評価されているのだと思いますよ!

デル・モナコ先生の一周忌を記念し、スカラ座の博物館入りした衣装は『アンドレア・シェ二エ』の衣装でしたよ!

(私は、その式典に奥様にくっついて参列し写真も撮りました。)

それから、デル・モナコ先生が音楽を学ばれたペーザロでの記念音楽会の会場に流れてたのは、デル・モナコ先生のアンドレア・シェ二エでした。

デル・モナコ先生の追悼の為に、A・プロツティが歌われたのもアンドレア・シェ二エからの「祖国の敵」だったと思いますよ。

デル・モナコ先生が、ノルマ、リゴレツト等々を歌われると、それら全て「将軍」のようにしか聞取れないのは何か寂しくないのでしょうか?

 デル・モナコ先生のアンドレア・シェ二エは、民衆の平和の為、愛の為、進んで命を投出す毅然とした、貴族的な心情、そして気品溢れる姿、声が満ち満ちていて私は大好きです。

 

5)公の場で公然と間違った事を発言し続けて、罪にならないのでしょうか?

(『貴ノ花』は、『男でござる!』)

『レコード芸術』という、日本で最も権威ある(?)(少なくも最高の発行部数を誇る、そして、私もかっては毎月購入していた)レコード(CD)雑誌に演奏家の評価(少なくも技術的な面)に於いて繰返し間違った発言を発表していて罪にならないのでしょうか?

(営業妨害とか、名誉棄損とかの罪では?)

高崎保男氏は『レコード芸術』誌で、オペラのレコード新譜批評を長年担当なさって「デル・モナコは、オテロだけの歌手。そして、彼の発声は、正規の発声でなく、咽喉に力を入れた強引な発声で、彼の発声を真似する者は咽喉を壊す!したがって、その声は全身の力をこめたフォルテか、あるいは全く咽喉のカをぬいたピアノのいづれかしかあり得ず、その両極の間で多彩に変化するディナミークの変動はあり得ない。」等と書かれておられて本当に罪にならないのですか?

 ここで、もう少し氏の文章を抜書きさせて戴きましょう。

「彼のポリオーネは、ノルマに叱りとばされてスクミあがっている浮気者ではない。……、何を、どんなオペラのどの役を歌おうと、デル・モナコは常にデル・モナコであり、常にオテロだった。力強く、率直で、りん然と経き、堂々とそびえ立っていた。それはあたかも、ミラノの壮麗なドウモ(大寺院)を思わせる、すばらしい肉声の建築物であった。」と。

 

 私は思います、

ポリオーネは、ガリア地区の総督(ローマ人)であり、気弱な浮気者でなく、高崎氏御指摘のデル・モナコ先生得意の将軍的役柄ではないのでしょうか?

小林利之氏の文章を引用させて戴くと、「この役(ポリオーネ投)は、当時までオペラ・セリアの英雄的な役がほとんどカステラート、もしくは男装したメッゾ・ソプラノの声のために書かれており、テノールの高音域をつねにファルセットもしくは弱声で美しくうたうばかりだった時代として破天荒とも言うべきテノールのフル・ヴォイスで高いA音をうたわせた最初の例であったと言われる。……ドラマティック・テノールがうたう。」との事です。

まさしく、デル・モナコ先生にぴったりの役柄ではないでしょうか?

レコードをCDを聴いても、お気の毒にも、高崎氏の「ポリオーネは、ノルマに叱りとばされてスクミあがっている浮気者」の役柄としか解釈出来ないのです。

ポリオーネは、二人の女性を愛してしまった不幸(?)幸い(?)の中、常に毅然としています、死を恐れずに愛を貫き、命請い等もせず、死へと向かうのです。

 

『貴ノ花』は、『男でござる!』

『貴ノ花と宮沢りえの婚約破棄事件』の際の、貴の花の「りえちゃんへの愛が冷めてしまったのです。」との発言に対して世の中は非難ごうごうでした。

 私は、「貴ノ花は凄い!」「男の中の男!」と思いました。

だって、そうでしょう?「りえちゃんへの愛が冷めてしまったのです。」と発言したら、貴ノ花が非難されるのは、誰でも分っている事ではないですか!

それを言ってしまうのは、『婚約破棄事件の悪者』の烙印を唯一人、貴ノ花自身が背負うとした、貴ノ花のりえちゃんへの(男の)愛情なのではないでしょうか?

そんな貴ノ花が私は大好きです!

高崎氏が、「貴ノ花こそ男!」と思われるなら、氏のポリオーネに関する解釈も変わるのでは?と、私は思うのですが。

 このような私のポリオーネの解釈に対し(そして貴ノ花についても)高崎氏が別な解釈をなさるのを非難するのは、水掛論的な事になるのでしょう。

でも、発声法という技術的な面では、高崎氏に代表される間違った見解は、名誉棄損、かつ、営業妨害罪だと思うのです!

氏の「その声は、全身の力をこめたフォルテか、あるいは全く咽喉の力をぬいたピアノのいずれかしかあり得ず、その両極の間で多彩に変化するディナミークの変動はあり得ない。」なる見解を次のように書き改めて欲しいものです。

「その声は、(無意識下に於いて)全身の力をこめ、全く咽喉の力をぬき、発声され、フォルテからピアノの両極の間で多彩に変化するディナミークの変動を有し、常に響きを失う事のない誠に範となる奇跡の如き声である。」と。

 そして、このような事を可能にしているのは、本間氏のおっしゃるように、デル・モナコ先生は、「並外れて強靭な声帯、豊かな肺活量、気息の長さを保有されておられる。」のかもしれません。

なにしろ、素材が良くなければ、どんなに立派なコーチについて一生懸命練習してもオリンピックで優勝は出来ないでしょうから。

でも、デル・モナコ先生といえども顎を突き出しては「高音のフォルテを長く延々と響かす」事は不可能なのですよ。

それは、優れた素材の上にテクニックが確立されてこそ可能になるのです。

(声だけ出すなら、そんなに肺活量が無くたって一分位は容易ですよ!)

響きのある声は、絶対に立派な技術(一生追い求める)が必要なのです。

 それに、デル・モナコ先生が、聴かせどころで客席に向かって足を踏張るのは演技でなく、高音を喉の力をいれずに体全体の力で発声する為ですよ!

そして、喉に力をいれずに出された声が、結果として客席に響き渡たるのです。

(客席に声を響き渡らせるのが目的ではないのです。客席に声が響き渡るのはあくまでも結果なのです。)

 

これを非難するのは、「瀕死のヴイオレッタやミミが歌ってるのは変!」と非難するようなもの?!

 

 くどいようですが、「喉に力を入れては、響きの或る高音を発声することは、絶対に不可能なのです。」

そして、高崎氏や多くの批評家の方々も、デル・モナコ先生の高音の美しい響きに耳を傾けてください。

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