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日本のオペラは駄目!?

(日本語で歌えなくて、外国語で歌うなんておかしい!)

(オペラが悪いのでなく、発声が悪いのです!)

1994928

宇佐美 保

 

 

 玉木正之氏の著書『音楽は嫌い、歌が好き』を読んでいますと、日本のオペラに対して(又、歌手や、歌唱法にも)批判的な記述が目に付きます。

(以下、四角の枠内に、氏の著書の抜粋を掲げます。)

 

1)松本幸四郎主演の“ミュージカル”『ZEAMI』批判

……“ミュージカル”の『ZEAMI』を見た。……

 松本幸四郎主演のこの舞台は、山崎正和の名作戯曲『世阿弥』をミュージカル化したもので、「ロンドンで大評判の凱旋公演」という触れ込みだった。しかし、わたしには、その音楽(歌)を、じっとすわって聴くことができなかった。♪ア〜ア〜、ア〜トネ〜チヤ〜……というCMでうたわれているような、いかにもミュージカルでございます、というようなメロディにのせて室町時代の物語が進行することの不自然さに、我慢がならなかったのだ。……

 わたしは、朗々たる声で気持ちよさそうにうたう松本幸四餌の婆を見ながら……

 

 

2)なかにし礼氏訳詞のオペラ『天国と地獄』批判

 それから数日後、なかにし礼氏が、新しく日本語の詞をつけたオッフェンバックのオペラ『天国と地獄』のビデオを見た。しかし、そこでも、『ZEAMI』と同様の不自然さは拭えなかった。……

 せっかくの日本語も、西洋音楽のメロディにはすべてが自然に乗るというわけにいかず、しかも、西洋式の発声法が日本語の意味を聞き取りにくいものにし、その結果、歌手がなにをいってるのかわからない部分や少なくなく、これなら原語で歌ってくれて、翻訳を字幕で読むほうがわかりやすい、と思ったのだ。……

 

3)『二期会と藤原歌劇団の公演』批判

 わたしは、正直にいって、これまでに、二期会と藤原歌劇団の公演を観て、おもしろいと思ったことがいちどもない。「鹿鳴館」のような趣にうんざりさせられてばかりいる。あるいは、かっての新劇の「赤毛もの」のような不自然さを感じ、「オペラのスリル」を味わうどころではない。……

 

4)オペラ『夕鶴』批判

 また、以前にも書いたことがあるが、この国のオペラの最高傑作といわれている団伊玖磨氏の『タ鶴』を、何度聴いても何度観ても、わたしは、おもしろいと思ったことがない、古い童歌のメロディが出てくるとほっとするが、それ以外の西洋音階にのせた日本語はやはり不自然で、これもまた西洋文化と日本文化が合体しないまま混合されただけで、「日本ならではのオペラ」とは思えないのだ。

 

 わたしは、なにも国粋主義的な考えからいっているのではない。日本人の顔つき、日本人の体型、日本人の仕種、日本語の発声法、日本の過去の文化的背景と現在の状況などが、すべて自然に(あるいは不自然さが魅力に昇華されたり、パロディとしておもしろく味わえるような形で)「オペラ」の世界に融合されて、はじめて日本のオペラ文化が成立すると思えるのである。……

 

5)『伊東ゆかり』賛

 たとえば、最近では神戸へ講演会の仕事で行ったときに、新幹線グリーン車の椅子の脇にある穴にイヤホンをつつこんで聴いた伊東ゆかりの歌がすばらしかった。

 テレビの『シャボン玉ホリデー』以来、というのは少々オーバーだが、ひさしぶりに聴いた伊東ゆかりの歌は、声がじつに色っぽくなっていたうえに、歌詞の言葉のひとつひとつに丁寧にこめられた感情がじつにメロディとマッチしていて、歌の内容がわたしの心にびんびんと伝わってきた。そして、ああ、女のひとというのはこんなふうにして美しく歳を重ねるのだ……と、心の底から納得してしまうほど聴き惚れた。

しかも、彼女のうたう歌は、アメリカのポップスでもイタリアのカンツォーネでも、すべて日本語でうたわれ、それがまったく不自然でないのがよかった。

 その見事な日本語の歌を聴きながら、つぎのようなことが、連想された。

 

6)三枝成彰氏のオペラ『千の記憶の物語』批判

何か月か前に、オーチヤード・ホールで三枝成彰氏のオペラ『千の記憶の物語』を見て、うんざりさせられた。メロディは美しくても台本が目茶苦茶で、おまけに歌手の声量がオソマツで声がまったくといっていいほど聴こえず、聴こえたと思ったら発音が悪くて言葉が聴きとれなかった。……

 

7)『最近の日本語訳』&『日本人歌手の日本語の発声法並び歌唱』批判と、

『工ルンスト・ヘフリガーの日本歌曲』&『伊東ゆかりの歌唱』賛

 最近は、オペラやベートーヴェンの第九やマーラーの歌曲などを、原語ではなく、翻訳した日本語でうたうことが流行しているようで、さらは日本語による日本の新作オペラの上演もさかんだが、これは……!と思える日本語の詩や演奏に出逢うことができない。わたしが少しばかりおもしろいと思えたのは(百パーセント満足とはいえないにしても)、松本隆氏が書いたシューベルトの『冬の旅』(五郎部俊朗=テノール/岡田知子=ピアノ)のCDくらいなものだ。

 いや、それ以上に、往年の(といってもまだバリバリの現役だが)大テノール歌手であるエルンスト・ヘフリガーのうたったドイツ語調による日本歌曲のほうが自然に聴こえ、『城が島の雨』『かやの木山』『花』『やしの実』といつた名曲だけでなく、『赤とんぼ』『叱られて』『待ちぼうけ』といった名曲ではあっても慣れ親しみすぎて、とくにとびきりすばらしいとも思っていなかつた曲が、シューベルトやヴオルフやリヒァルト・シュトラウスの歌曲にも比すべき味わいをともなって耳に響いたのには驚かされた。

かっては、♪風のなかの羽のように……という見事な訳詞があったのだから、オペラや歌曲を日本語に置換えてうたうことは可能だと思うが、最近の訳詞は原語から離れることを躊躇しているように思える。そのうえクラシックの歌手は言葉が聴きとれなくてもいいとでも思っているのか、日本語にまったく向かない歌唱法を押し通して平気でいるから、いまさら日本語を用いても、クラシック音楽の普及には貢献していないように思う。

 メロディや歌唱法や発声法にちがいがあるのは百も承知だが、クラシックの音楽関係者は、もう少し伊東ゆかりのようなポップス・シンガーの日本語の詩を伝えようとする姿勢を見習ってはどうか。わけのわからない日本語を♪アアアア〜とうたっているだけでは、どんな音楽でもリズムに合せ腰と扇子を振ってるだけの“ジユリアナ娘’’と同じですよ。……

 

 と、玉木正之氏は、日本のオペラ、日本語のオペラ、そして日本語の歌曲の現状を嘆いておられます。

 

そして、この玉木氏の嘆きを裏付けるが如きインタビュー記事が、922日の朝日新聞の夕刊に載っていました。

その記事とは、

 

8)「日本語では、歌うのも、聴くのも難しい」と言ってしまう歌手

1988年の劇団四季のミュージカル「オペラ座の怪人」のオペラ歌手の役で初舞台を踏み、89年の二期会の「椿姫」でオペラ・デビューし、2年前、オペラ・アリアのCDを原語と、なかにし礼氏の日本語訳との2通りでだしたという歌手の塩田美奈子さんは、「日本語で歌うと、お客さんの空気の色が違います。確かに日本語では、歌うのも聴くのも難かしいけれど、もっと詩人が力をふるう場があると思う」と語っておられます。

 

この記事が、日本中にまかり通ってしますのですから、おかしな事です。

「日本語では、歌うのも、聴くのも難かしい」だなんて!又、それを本人が自覚しながらも歌い、聴衆に楽しみでなく、難かしさを強要するなんて!(日本語の歌は、「強要」というか「教養」の音楽ですか?との駄洒落でも言いたくなってしまいます。)

これでは、玉木氏ならずとも怒りますよ。

 

9)日本歌曲コンクール

 しかし、玉木氏の御怒りの前に、日本の音楽界の方々もこの怪奇な現象(なにしろ、「日本語を歌うとなると、歌手と聴衆共々に、難業を強いる」というのですから。)に業を煮やし(?)『イタリアのベルカント唱法では、日本語は歌えない!よって、日本語を歌う為の日本独自の歌唱法を開拓さなければならない!』とのスローガンにて、日本歌曲コンクールを開催し、今年で5年目との事です。

 

ここにもう少し玉木氏の御意見を抜粋させて戴きます。

 

10)マイク無しで歌え!

 渋谷のシアター・コクーンでウテ・レンパーによるクルト・ワイルの作品集のコンサートを見た(聴いた?)ときもちょっと裏切られた気持ちになって、舞台を見ながら、CDで何度も聴いた披女の歌声を思出してしまった。

 というのは、さほど広くない会場で、一台のピアノ伴奏という演奏会であったにもかかわらず、彼女はすべての歌をマイクを手に握りしめたままうたったのである。その結果、レンバーのマレーネ・デイートリツヒばりのルックスは堪能することはできたものの、せっかくの美しいプロポーションによる体の動き(表現)にまったく魅力が感じられず(CDを聴きながら想像をたくましくするほうがすばらしく)、そしてなによりも、CDで聴くのとまったくかわらない電気をとうした歌声にがっかりさせられた。これでは“ナマ”の歌声を聴いたことにならない。

 しかも、スタジオ録音のCDを聴くほうが歌の完成度が高いから、なにもわざわざ時間をとって足をはこぶことはなかった、と後悔した(同じ会場で、同じような曲目を、昨年来日したミルバは、マイクをつかわずにナマの声で見事にうたいあげた。そのときは、ミルバにすばらしいCDがないわけではないが、録音のほうが……などとは微塵も思わなかった)。

 

11)『都はるみ』賛

 そしてもうひとつ、NHK衛星放送の『都はるみ武道館ライブ』も、すばらしかった。

都はるみのライブは、蜷川幸雄演出による『さよなららコンサート』(まえに引退を宣言したときの最後の全国ツアーのコンサートをおさめたビデオ)をのぞけば、わたしはこれまで『川崎市民会館ライブ』のアルバムが最高と思っていた(残念ながらこれはCD化されていない)。が、その川崎市民会館での徹底的に泥臭いはるみ節の魅力にたいして、今回の武道館の舞台は見事に洗練され、『大阪しぐれ』『おんなの海峡』といった名曲をじつくり聴かせてくれる一方で、『惚れちゃったんだよ』といった初期の元気のいい演歌をラテンの

リズムにのせ、振り袖婆の都はるみがギターやサックスを持ったミユージシサンたちとランバダもどきの踊りを披露してくれた。それは、紛れもないニュー・アジアン・ポップの表現として最高レベルのものであり心のそこから楽しめるものだった。

 ここまでやってくれたのなら、次はクラシックのフル・オーケストラをバックに、オペラ歌手のアリア・コンサートのように、演歌をたっぷりうたいあげる演奏会をぜひともおこなってほしいものである。

 

12)『蜷川幸雄の演出によるシェークスピア━━まったく違和感がない━━それが自然な行為に見えるのだ。』

 そういえば、蜷川幸雄の演出によるシェ−クスピアの『リア王』や『マクベス』では、登場人物すべて和服を身にまとい、日本的な身体の所作で動きながら、「マクベス様は、いずこにおいでじゃ」などという台詞を口にする。が、まったく違和感がない。日本語を口にする役者なら、それが自然な行為に見えるのだ。

 何が自然で、何が不自然か……。それは、行為者が、自分のやりたいと思っていることを、自分の外部の存在するものに合わそうとするか、自分の内側から湧き出るもものに求めているか、といったごく単純なものにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 玉木氏の著作からの抜粋は、この位にさせて戴いて、次には『私の見解』を述べさせて戴きましょう。

 

1)『日本の歌を歌う為の、日本独自の発声法は、全く不要!』

 (全ては、日本人のく発声)が悪い為です!)

 

 玉木氏も、日本歌曲コンクールの主催者の方々も、日本人歌手達の日本語の歌唱を否定しつつも、彼等の外国語(イタリア語?)の歌唱を肯定なさっているのは、私は絶対に納得出来ないのです。

どうか、この件に関しては、私の拙文『日本の歌を歌う為の、日本独自の発声法は、全く不要!』を是非一読してください。

デル・モナコ先生の御教えに従って、発声器官を鍛え上げ、喉を自由にして歌えば、心のままに、どんな歌も歌う事が可能となるのです。

 この事によって、鹿鳴館的な物に不自然さを感じ、自然さを貴び、「何が自然で、何が不自然か……。それは、行為者が、自分のやりたいと思っていることを、自分の外部の存在するものに合わそうとするか、自分の内側から湧き出るものに求めているか、といったごく単純なものにちがいない。」と書かれておられる玉木氏の御要望にも十分に答える事が出来ます。

なにしろ、自らの心のままに、自らの内から、自然に、声が歌が出てくるのですから。

 

 私は、新劇にはあまり行った事はありませんが、昔の記憶では、新劇独特の発声が大嫌いでした、とても不自然に感じました。

ZEAMI』にて松本幸四郎が朗々たる声で気持ちよさそうに歌うのは(失礼ながら)そのようにしか歌えないからだと思います。

 近年、老境に達せられたF・ディスカウが、あるいは、E・ヘフリガーが同じ『ZEAMI』を歌われたら、朗々とばかりは歌わず、時には渋味のある声で、淡々と歌われるのではないでしょうか?

 なかにし礼氏の『天国と地獄』に於いても、それを歌っている歌手の声は、イタリアの声(デル・モナコ先生達の声)でなく、いみじくも玉木氏が書かれている『西洋式の発声』であって、これは純粋の『西洋の発声』とはとても似てはいても全く異なる発声なのです。

そう、ここに於ける『式』というのは、『もどき』と言替える事が出来るのではないでしょうか?

即ち、『西洋の発声』でなく『西洋もどきの発声』で歌われてしまう事に、全ての悲劇の源があるのではないでしょうか?

 前述した、塩田美奈子さんの談話にある「日本語では、歌うのも聴くのも難しい」と言うのは、「日本語で歌うのが難しいのみならず、本当は外国語(イタリア語)でも歌うのが難しい」のであって、「イタリア語で歌ってる積りでも実際は、イタリア語でも歌えてない!」のだと思いますよ!

だからこそ、玉木氏は、「これまでに、二期会と藤原歌劇団の公演を観て、おもしろいと思ったことがいちどもない。」とおっしゃるのだと思います。

 以前、ソプラノのレナータ・スコツト(?)が日本での演奏会のアンコールに日本語で『宵待草』を見事に歌い、勿論、日本語もはっきりと聞取れたので(日本の音楽界でも)大いに話題となった旨の記事を音楽雑誌で見た記憶がありますが、そのような事象は直ぐに脇に押しやられ、又も相変わらず、『ベルカントでは日本語は歌えず、日本語を歌うには日本独自の発声法が必要!』と唱えられるのは、何故なのでしょうか?

(レナータ・スコットの歌唱はベルカントでない!?)

 それから数年前の『題名のない音楽会』で、今や日本声楽界の大御所(?)のバリトンのH氏が、「ベルカント唱法では、日本語の歌は歌えない!」と発言なさり、多分私の記憶では、“いわゆるベルカント唱法”による『日本語が正真正銘聞取れない歌唱』を披露して下ださりました。

なのに「ソプラノのNさんは、見事な日本語を長年歌っておられる。」と、Nさんを紹介し、Nさんが、H氏よりずっと見事に日本の歌を歌われました。

(だったら、Nさんは、ベルカントではないのでしょうか?)

でも、御二人とも、何故H氏(並び日本全体の声楽界)が駄目で、Nさんが良かったのかは、語られませんでした。

(まあ「波風は立てない!」という事なのでしょうか?弘には判りません。)

でも、一番不思議なのは、Sさんが日本語を見事に歌われているという認識の下に、「ベルカントでは、日本語の歌は歌えない!」との発言をはばからないH氏(並びに日本の声楽界?)では?

 

2)悪いのは、日本のオペラでなくて、それを歌う歌手ではないのですか?

 

 団氏のオペラ、それから三枚氏のオペラを、F・ディスカウや、E・ヘフリガーが歌ったら、とても素敵なオペラになるのではないでしょうか?

(あるいは、彼等の声と歌心を持った日本人歌手が。)

玉木氏も、宇野功芳氏指揮の女性合唱団による、団氏作曲の『花の街』等のCDを聴かれ、「“日本の歌”にも、じつにいい曲といい演奏があることに、ほつと胸をなでおろしたのだ。」ともお書きになってるのですから、同じ団氏作曲の『夕鶴』が、「西洋音階にのせた為に、日本語が不自然」、「西洋文化と日本文化が合体しないまま混合されただけ」と切って捨てられてしまうのは、私は納得できないのです。

(私の「へ理屈」でしょうか?)

E・ヘフリガーに歌われる事によって、「『赤とんぼ』『叱られて』『待ちぼうけ』といった名曲ではあっても慣れ親しみすぎて、とくにとびきりすばらしいとも思っていなかった曲が、シューベルトやヴォルフやリヒャルト・シュトラウスの歌曲にも比すべき味わいをともなって耳に響いたのには驚かされた」との体験を持たれている玉木氏なのですから。

 そして「へ理屈」を続けさせて戴くなら、「古い童歌のメロディが出てくるとほっとする」と書いておられるのは、童歌のメロディを歌うのが、不思議な唱法(“西洋もどきの発声”)では歌はない子供達だからではないでしょうか?

 

3)訳詞が悪いのではなく、歌手が悪いのではないでしょうか?!?

 訳詞は出来るだけ、原語に蜜着していて欲しい!

 玉木氏は、最近の日本で上演される日本語のオペラの日本語が聞取れなかったり(あるいはつまらなく)するのは、「訳詞が余りに原語に忠実足らんとするからで、もっと、昔の、“風の中の羽のように……”といった名訳を残された堀内氏等の姿勢を継承しては?」との如き御意見のようですが、『題名のない書楽会』では、昨年(一昨年?)の日本歌曲コンクール」の優勝者、入賞者が、夫々『浜子烏』、『叱られて』を、そして、今年の優勝者は、『出船』を(堀内氏の時代の歌詞でもハツキリ歌えないからこそ)従来然たる声で歌われておりました。

それから、若し原語で上演されているオペラの字幕が、堀内氏の如き訳詞だつたら、物足りなくならないでしょうか?“今、この歌手は本当は何を歌っているのかしら?”と。

字幕を見ながら映像を見るのが楽しいと同様に、歌う時も原語で歌うよりも日本語に訳して歌った方が楽しいのです。

(日本語で歌うのは難しいなんて論外!)

又、その時は、原語により忠実な訳詞の方がより楽しいのです。

 

 作曲家が、ある詩に感動して作曲したなら、出来るだけその詩に近い訳詞で歌いたいのです。勿論、言葉、文体が違えば詩は、全く別物とおっしゃるかもしれませんが、原詩によって表現されてる世界だけは、訳詞にも忠実に反映していて欲しい!と思うのです。

 ですから、私は、自分で歌う時は、自分で訳詞を作ります。(出来るだけ原語により忠実な訳詞を、出来る事なら、原語に相当する日本語が、それぞれ同じ音符の位置に来るようにと。)

その為には、従来の訳詞(日本歌曲)の不文律である、『一音符に一語』を打ち破らなければなりません、又、それを歌いこなす声が無くてはなりません。

(その声無くして、例の不文律を破ってしまっては、単なる自己満足!)

 懐かしの名画『ビルマの竪琴』の内でも、里見義氏の訳詞で日本の名曲といつても間違いでないように歌われていた、『埴生の宿』の訳詞でも、第2節の伴奏が、烏の鳴き声を奏でているのに、“清らかなり秋の月”と歌わねばならないなんて私には耐えられません!

(原語は、The birds singing  gaily That come at my call ;なのです。)

ですから、以前に、この曲をこの訳詞で歌った時には、ピアノ伴奏者に、第2節で一生懸命に鳥が鳴いてくれてる音形を、第1節の“花は主、鳥は友”の所に宿変えさせて貰って歌ったものでした。

 それから、玉木氏は、「伊東ゆかりは、アメリカのポップスも、イタリアのカンツォーネでも、すべて日本語で自然に見事に歌われた。」と、おっしゃるのですから、余り訳詞を苛めてはいかがなものでしょうか?

『天国と地獄』の訳詞者のなかにし氏は、数々のシャンソン等の名訳を残されてもおられるのですから。

(でも、氏のシャンソンの訳詞は、原語と随分異なっておられて思えましたので、私は、歌う時は、氏の訳詞を用いず、自分で訳詞を作りました。)

 

4)ポピュラー系の歌手も声を磨かれては?

 評論家の遠山氏は、デル・モナコ先生の評論の中で、「……オペラがマイクロフォンという仮構の世界を拒否するのも同じことである。ポピュラー音楽があくまで表現の世界を追及するのに対して、クラシック音楽は素材のもつ自然の力をはなれることはできない。はなれてはいけないのである。」

と、書かれておられましたが、私は、テレビ等を見ていると、ポピュラー音楽が表現の世界を追及しているとは全く思えないのです。

只々、ガナリまくられる歌には辟易してしまいます、これでは、只々、四六時中“いわゆる朗々”と歌われてしまうのと大同小異と思えます。

とても「表現の世界」とは思えません。

(「表現」とは「表面的な事を現す」というのなら異存は有りませんが。)

ですから、いつもガナリ続けるポピュラー系の方々も、声の素材自体の追及をされてはいかがでしょうか?

さすれば、表現の世界は、よりより広大なものに広がって行くのではないでしょうか?

(しかし、写頁の世界に、フル・カラーの世界と、又、モノ・カラーの世界、そしてセピア調といった世界の存在する如く、モト・トーンの歌の世界を追及される方もおられて当然でしょう、ですから、全ての方が、フル・トーンたれ!とは申しませんが、少なくとも、ガナルだけの世界は、日本語の聞取れないクラシック(?)の歌同様に遠慮させて戴きたいものです。)

 

 それから、若し万一、玉木氏の御希望通りに、都はるみさんが「クラシックのフル・オーケストラをバックに、オペラ歌手のアリア・コンサートのように演歌をたっぷり歌いあげる演奏会」を開かれるのでしたら、マイク無しで歌う声で歌われた方が良かろうと存じますが。

でないと、玉木氏は、ミルバがマイク無しで歌ったのに、ウテ・レンバーがマイクを用いて歌った時と同様な幻滅を味あわれるのではないでしょうか?

 

 但し、ウテ・レンバーのように妖艶な(?)女性歌手がハンド・マイクを握り締めて歌う大事な理由を玉木氏はお気付きになっておられないのでしょうか?

CDやオーディオ関係の批評家の方々の文章を読んでいますと、ハンド・マイクの効用は会場の隅々までに歌声を届かす為だけではないようです。

妖艶な女性歌手にとってはハンド・マイクは、会場のお客やCDの聞き手の耳でもあるのです。

ですから妖艶な女性歌手は聞き手の耳元だけに囁き掛ける如くにハンド・マイクを彼女の口元に出来る限り近づけ歌い囁くのです。

この結果、聞き手は妖艶な女性歌手の吐息のみならず、唇の音、舌の音、喉の音までも感じ取れるのです。

 従って、妖艶な女性歌手には、どんなに会場が狭かろうとハンド・マイクは手放せないのです。

 多分都はるみさんは兎も角、魅力的な伊東ゆかりさんもハンド・マイクは大好きなのではないでしょうか?

 

 

 

5)オペラ歌手こそが、表現の世界で秀でてなくては!

 心のままに、自然に無理なくあらゆる声を出す事の可能なオペラ歌手こそが、「表現の世界」にて秀でていなくてはならないのでは?

デル・モナコ先生、ディ・ステフアノ、ジーリが数々のイタリア民謡等の名曲を、E・シュヴァルツコップがドイツの色々な歌曲を、E・クンツがウィーンの名曲を残してくれたように!

 ですから、ハンド・マイクを握り締め奇妙きてれつな「演歌(?)」なるものを歌う(?)方々が、素敵なオペラ歌手でしょうか?

その方々が、日本語で歌えないからと言って、フレーニ、パパロツテイ、ギャーロフ達が、そして又彼等の発声方法で、レナータ・スコツトが「宵待草」を歌ったようには、日本語の歌が歌えないなんて事が有り得ましょうか!

(私の記憶では、E・ヘフリガーは、数曲は日本語で日本の歌を歌われたのではなかったでしょうか?)

 

 

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