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日本語のアクセントと歌(メロディー)との関係

(シユーベルトの歌曲は『音学』?)

1994921

宇佐美 保

1 日本語のアクセントと歌の関係

 最近、『題名のない音楽会』にて、長年日本語のアクセントを研究されておられる国語学者の金田一春彦氏が、“シユーベルトの歌曲の『鱒』の訳詞に於いて、名訳詞家の堀内敬三の訳詞は、日本語の(高低)アクセントが、歌のメロディー上での音の高低に合致していないので、歌に於ける音の高低と、日本語のアクセントが合致する事を図りつつ、自分で訳詞を作った。しかし、その企ての完遂の為には若干原詩の意味からずれてしまった。”と、そして、又、“歌に於ける音の高低と、日本語のアクセントの合致が最も見事に実現されている歌としては、中田書直の『雪の降る町』がある。”との旨を語られておりました。

 

確かに、「日本語の高低アクセントは、歌の音の高低(メロディー)に反映させねばならない!」という事は、日本歌曲の先駆者でもある山田耕筰以来言われ続けている事ではあります。

でも、私は思います、“これは「金科玉条」でなく、あくまでも「原則」であつて、あまりこれに囚われて歌の柔軟性を奪ってはいけない!”と。

山田耕筰の名作『赤とんぼ』に於ける、私達一般人の日常での「赤とんぼ」のアクセントは(「赤鉛筆」と同様に)、どこにも無く、音符に表せば“皆同じ高さの音符!”となるのではないでしょうか?

ですから、私達一般人の言語感覚から言いましたら、山田耕筰の「赤とんぼ」の音符が、「ラドドレミ」となっていますが、「ドドドレミ」では、あまりにつまらないので、せめて「ララドレミ」と作曲して下ださってたら、アクセント的には気にならないのですが?

(でも、NHKのアクセント辞書では、「あかとんぼ」は、「あ」にアクセントが有る!と、どなたかおっしゃったような記憶があります。)

しかし、山田耕筰の歌のように、「赤とんぼ」の「あ」にアクセントが有りますと、「赤とんぼ」の「赤い色」が明確に私達の目に浮かんで来ます。

(「赤」のアクセントは、「あ」に有りますので。)

そして、金田一氏の揚げ足捕りみたいでもありますが、『雪の降る町』に於いて、「雪(ゆき)」は、「ミミ」と同じ音です、私には、「ゆき」の「き」の方にアクセントが有るように感じるのですが?

(この点は、アクセント学者の金田一氏に一歩譲らせて戴きまして、次に進み ます。)

でも、この「雪」の代わりに「雨」の言葉を置換えて歌ってみたらいかがなものでしょうか?

「雨」は、「あ」にアクセントが有るのですから、この旋律の「ミミ」と同じ音では不自然な筈です、でも、アクセントが無い為に、かえって憂欝な雨が降つている感じに聞こえて来ないでしょうか?

 

このような「へ理屈的」な事を書きますのは、

1)日本語の高低アクセントと言っても、「その高低の幅は?」「音符で表すと何度?半音?全音?三度?四度?五度?……それともオクターブ?」 と、追及しても、実際のアクセントの幅を、5線譜で書き表されるのでしょうか?

 と言いますより、実際のアクセントの幅にしたら、歌のメロディー・ラインの幅はとても狭い物になり、変化の乏しい歌だけが出来てしまうでしょう?

 ですから結局は、「高低アクセントの幅は、全く無視して「高いか?低いか?」と言語学的には中途半端な物になるのではないでしょうか?

2)言葉には、アクセントと共に、長短が有ります。「夕焼け」は、「ゆうやけ」と皆同じ長さで、「ゆうや−−け」と「や」だけが良い音では無い筈です、日常生活でこの様な言い方をしたら、『変な外国人?』と見なされてしまうでしょう、でも歌だったら不自然では有りません。

と言ったように、言葉は音符に乗る事で、一般日常的な枠を出るのですから、

あまりに言葉の主体性を主張するより、書符との協調性を強め、時には譲り、(時には、主張しても)互いに協力し合った方が、私には楽しい歌の世界が出現するのでは?と強く感じているのです。

そして、あまりに日本語の高低アクセントとメロディー・ラインの合致を図るその為だけに、歌の1番、2番、3番とメロディーが異なったり、あるいは又歌の1番、2番、3番とメロディーは同じにした場合に、アクセントの合致を図る為に、言葉の選択に不自由をきたしながら、作詞、訳詞するのでは、私にはその作業はジグソウー・パズルのように思えてしまいます。

私は、歌には、もっと大らかさがあって良いのでは?と思うのです。

で、私はシユーベルトの『鱒』を歌う時は、自分で作った訳詞で歌います。

 

2 シューベルトの歌曲は『音学』?

前述の番組にて、バリトンのS氏が、堀内氏と金田一氏の訳詞による、シューアルトの『鱒』を、日本語を一言一言噛んで含めるようにハツキリ、音程を正しく、テンポもキチンと一生懸命歌っておられました。

でも、私には一寸も楽しくありませんでした。

「鱒」は、清流を楽しげに泳いではなく、「鱒寿司」のように、「四角い器」にキッチリと押込まれているようでした。

へそ曲りな?私は、最高!と称えられているF・ディスカウのシユーベルトの歌曲の歌唱が好きではありません!

確かに、F・ディスカウは、彼の歌う一曲の中でも、常にピアノ、フォルテと、又、声質も変幻自在に変えて実に巧みに歌い別けておられます。

ですから、“F・ディスカウは、誠に素晴らしい「頭の芸術」をしてる!”とは理解出来るのですが、でも残念な私には、「心の芸術」をされてるとは感じられないのです。

でも、F・ディスカウ(あるいは?ドイツ人)の心は、実に節度ある心なのであまりあからさまに外には出さないのでしょうか?

そして、又、思うのです、高度の芸術とは「教養」なのかしら?

F・ディスカウを聞いたら、だれでも“「教養」させて貰った!”と思うでしょう。

F・ディスカウ(バレンボイムの伴奏)の『冬の族』を聞いても、本当に見事なのですが、この歌の主人公の若者は、実際に「涙」を流すのかしら?「死」等あるのかしら?いやいや、若しかしたら、ロボットか工イリアンなのでは?と思ってしまうのです。

 

と申しましても、デル・モナコ先生の『真の偉大さ』の片鱗ささえも、なかなか気が付かなかった私ですから、F・ディスカウの『真の偉大さ』に気が付く迄に、私が未だ成長してないのかもしれませんが。

それでも、私はシューベルトの歌唱は、古き昔のモノクロ映画『未完成交響曲』の中で、『シューベルトのセレナーデ』を、(まるで「流行歌」を歌うょぅに)野放図と思える程に伸び伸びと歌っていた女性の方の歌い方が大好きです。

 

そして、いつの日か、自分で『冬の旅』の訳詞を作って歌いたいなあ〜!と、思っております。

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