自然な発声(フィリッパ・ジョルダーノ)
2000年10月29日
宇佐美 保
数週間前のNHK教育テレビ『芸術劇場』で、ポップス調の歌い方で、オペラ・アリアを歌うというフィリッパ・ジョルダーノさん(テレビのテロップでは“ソプラノ”と紹介されていました)の演奏会とインタビューが放映されていました。
そこで、彼女は、次のように話していました。
“私は、従来のクラシック歌手と違って、オペラのアリアを自然な発声で(所謂「ソプラノの声」でなく)歌いたかったのです。
オペラ歌手の両親の演じてきたオペラのアリアをカンツォーネのように歌いたかったのです。
母からは声楽を教わり、父からも沢山の助言を受けました。
そして、今に生きるオペラの魅力を伝えたい。
いつの日にか、ポップスの歌手ばかりでマイクをつけてオペラを演じたい。
でも、初めはなかなか私の考えを認めてもらえなかった。”と。
更に、以前彼女は“13歳の時ポップスと出会いその自然さにとても魅かれ、オペラと違って発音や歌い方が自然でわかりやすかった。
でも母はオペラ歌手ですのでアリアも大切にしてゆきたい。
その結果二つが混じり合い自然でよりシンプルなアリアになりました。”とも語っていました。
そして、今や、フィリッパ・ジョルダーノさんのこのような歌に対しての姿勢が沢山の人達に受け入れられて、彼女のCDは飛ぶように売れ、演奏会も若い人達でも大変な盛況の様子です。
何十年か前の私でしたら、このフィリッパ・ジョルダーノさんの発言と歌に大いに共感し、CDも購入し、演奏会へも押しかけたでしょう。
1959年、1961年とNHKイタリアオペラ団の一員として来日して、『オテロ』『道化師』『アンドレア・シェニエ』等で、今まで耳にした事のないような圧倒的な声と歌唱で感銘を日本の聴衆に与えてくれた、カルーソー以降の最高のテノールであった故マリオ・デル・モナコに私も感動して、“マリオ・デル・モナコのように歌いたい!”と思いました。
それでも、当時は、“マリオ・デル・モナコの声は凄いが、作られた声で自然な声ではない!自分は自分の話し声と同じ声で歌う!”と息巻き、マリオ・デル・モナコのレコードに合せて五線の上の声までも、ガナリ捲くっていたものでした。
後年、マリオ・デル・モナコ先生のお宅に居候をしながら、先生の偉大な声を伝授して頂いている時ですら、マリオ・デル・モナコ先生の話し声が、オペラを歌う声と全く同じなのには驚かされていたのですが、それでも、先生の声の真の偉大さには気が付いていませんでした。
なにしろ、その時でさえも、“地声の大きさなら負けない!”と思い続けていたのですから。
その結果声の進歩は遅々としていました。
そして、1982年マリオ・デル・モナコ先生が亡くなられて、十年もの月日が流れた後、やっとマリオ・デル・モナコ先生の偉大さを認識できるようになりました。そして、その結果私自身の声の進歩に拍車が掛かってきました。
フィリッパ・ジョルダーノさんのCDでは、彼女の得意とする“私のお父さん”“歌に生き、恋に生き”では、ポップス調の歌い方に拘った為か、曲の途中でがなり立てていました。
“私のお父さん”では、お父さんへの心からの御願い、“歌に生き、恋に生き”では、神様への祈りを歌っているのに、何故彼女はガナルのだろうか?ととても不思議であり、とても聞き苦しく感じていました。
ところが、彼女の今回の演奏会では、双方の曲とも、途中でガナッタリはしませんでした。
今回の方が、とても自然に感じました。
私には、彼女の所謂ソプラノの声の方が自然に聞こえます。
若しかしたら、彼女は未だ、彼女にソプラノの声を教えてくれたお母様のソプラノの声を自然と感じるまでに到っては居ないのではないでしょうか?
或いは、彼女が尊敬していると言うソプラノの故マリア・カラスの声が自然の声とまでには完成されていなかった為に、故マリア・カラスの声、即ちソプラノの声が不自然と感じているのではないでしょうか?
偉大なオペラ歌手達といえども、故マリア・カラスを初めとして、彼らの声が自然な声までには完成されていないものです。
故マリア・カラスの活躍していた時代の最も偉大なバリトンの故ティト・ゴッビの声も完成されては居ませんでした。
それに、故マリア・カラスと競演を繰り返し世界中を熱狂させた、ジュゼッペ・ディ・ステファノは素晴らしい素質を持ちながらも、彼の声を磨くよりも、人生を楽しむ事に熱中し、現在人気絶大な三大テノールの誰よりも若くしてオペラの舞台から去らなくてはなりませんでした。
しかし、この彼に対して、世の中も、又、EMIのかっての名プロデューサーのW・レッゲも『最も自然な声』と称え、彼の歌うカンツォーネは絶品と称えられていました。
どうも、世間は、『自然な歌声』というのを『私達の日常会話のように歌う声』と認識されて、且つ又、『オペラの声』を誤解しているようです。
後者の端的な例として、雑誌「音楽の友」(2000年11月号)に、料理評論家の山本益博氏が、フィリッパ・ジョルダーノさんの歌ったアリアに対してのエッセイの中で、“声を張り上げたり、搾り出すような歌唱だったら、とてもこんな節まわしは無理だろう。音響機器の威力を借りるからこそ、ささやきもむせび泣きもほほ笑みすら、アリアの中から引き出すことができるのだ。”と書かれていました。
世間は、このような認識ですから、フィリッパ・ジョルダーノさんのポップス風の歌唱法に自然性を感じたのでしょう。
そして、その歌唱法に従うからには、マイクの使用は不可欠と考えてしまうのでしょう。
しかし、ここで、私達の日常会話の声をもう一度考え直すべきではないでしょうか?
本当に私達の話し声は自然なのでしょうか?
だって、あんなに小さな身体の小鳥の声が、奇麗に遠くまで鳴り響くのでしょうか?
私達より身体の小さな犬の声は、遠くまで聞こえるのでしょう?
狼の遠吠えは数キロ先まで聞こえるといいます。
『自然な声』とは、私達の日常会話の声でなく、『動物たちの声』ではないでしょうか?
私達は、かっては動物達と同じような自然に遠くまでも響く声を持っていたのではないでしょうか?
それが、いつしか自分たちの周りの人達との会話に使われる機会が多くなり、遠くまで響く自然な発声方法を忘れ退化して来たのではないでしょうか?
マリオ・デル・モナコ先生は、“歌う時は話すように、話すときは歌うように。”と教えて下さいましたが、それには必ず厳しい発声練習が裏付けされてなくてはなりません。更に、“歌う時は発声方法を全て忘れて、軽々と歌え。”とも教えて下さいました。
事実、マリオ・デル・モナコ先生の話し声は、いつもオペラそのものでした。
ところが世の中の人達は批評家を初めとして、マリオ・デル・モナコ先生の“厳しい発声練習”を知らずして、“マリオ・デル・モナコの声は凄いが、彼の発生は喉に力を入れた強引な発声で、強靭な喉を持つマリオ・デル・モナコだけが許される発声方法である。”等とまことしやかに間違った判断を下しているのです。
このマリオ・デル・モナコ先生の厳しい発声練習が有ってこそ、錆び付いていた私の発声器官は、目を覚まし、動物達の声を取り戻し始めるのです。
ですから、三大テノールのパパロツティをもしのぐとされる高い声で、「キング・オブ・ハイF」の異名を取り、どんな曲も軽々と歌うイタリアのテノール歌手、ウィリアム・マテウッツィは、朝日新聞の夕刊(1999年8月5日付け)のインタビュー記事の中で、“歌手の人生は、肉体的にはスポーツマン、精神的には宗教家。負担は大きいけれど、がんばっていきたい”とも語っているのです。
ところが、この厳しい発声練習無しに、「話すように歌えば」、ロック歌手達のようなガナリ声の歌となるでしょうし、又、「軽々と歌えば」日本人の歌声に多い、薄っぺらな歌声となってしまうでしょう?
インタビューに答えていたフィリッパ・ジョルダーノさんの話し声は、素敵な響きを持っていましたから、そのうちに彼女の歌からは、ガナリ立てるフレーズが影を消して、更に、マイク無しで歌い始めるかもしれません。
なにしろ、オペラの声とは、「一般的に考えられているような大きな声(前記の山本益博氏の認識)」ではなく、「最も自然な声」なのですから、自然だからこそ良く響き、又、歌い手の感情のままに大きくもなり小さくもなる声なのですから。
ところが残念な事に、世の中の人達は、この厳しい声の鍛錬に耐えられず、或いは、無視してしまう為に、「歌声」に対しての多くの誤解が生じてしまうのです。
例えば、さだまさし氏はインタビュー(「ミュージックタウン183号」新星堂発行)記事で、“……僕は矢沢革命と呼んでいるのですが、彼はすごいなと思います。
日本語というのは12音階の西洋音楽には馴染みにくいじゃないですか。それを馴染ませるための努力を矢沢永吉はしましたね。LをRに変えて、OのあとにUを付けるんですよ。で、KをCに変えた。こうすることで、″おれのかのじょ″と言えば済むところを″おぅ
れのきゃのじょ″っと言うようになるんですよね(笑)。英語的に聞こえる。
これは発明だと思いますね。で、それ以後の歌い手はぜんぶ矢沢のなぞりなんです。言葉の面白い響きだけで遊んで、理屈もなにもない。矢沢は聴いていてメッセージを感じる。彼の後から狂ってしまったんだと思いますね。……”
ここでの、さだまさし氏の誤解にお気付きでしょうか?
先ず、“KをCに変えた”のは、何も矢沢が初めてではありません。
ヨドバシカメラのCMソングで、坂本すみこは、「カメラ」と歌わず「キャメラ」と歌っていたのは多くの方々はご存知でしょう。
ところが、多分全ての人は、彼女の発音を英語的或いはジャズ的と誤解していたのです。
坂本も矢沢も「か」とか「お」を歌の中で明瞭な日本語として歌えなかっただけの話なのです。
なにしろ、「か」とか「お」を(特に五線の上の音で)奇麗にはっきりと歌うのは大変難しいのですから。
(この件では、私の別文《日本の歌を歌う為の、日本独自の発声法は、全く不要!》の第9項の『ジャズ的発音の日本語なんかありえない!』&第10項の『“オペラ的な声”にはダマサレル!』等もご参照ください。)
目次へ戻る