広瀬隆氏の『テレビ報道の深刻な事態』の抜粋
2019年5月14日
宇佐美 保
広瀬氏は“韓国の2本の名作映画『弁護人』と『タクシー運転手』を見ずに、また『韓国大統領実録』を読んでいない人間は、現在の韓国について論評する資格はないし、テレビ報道番組で司会者・解説者・コメンテイターをつとめる資格はない。”と書かれています。
(カッコ内の「ページ数」は『テレビ報道の深刻な事態』の広瀬氏のPDFのページ数です)
2017年に公開されて1200万人の観客動員を記録した韓国映画した1980年5月に全斗煥の軍部独裁政権が凄惨な市民虐殺を起こした光州事件を描いた映画『タクシー運転手』、もう一本が翌年1981年9月に起こった「釜山の学林事件」を描いた映画『弁護人』(韓国の観客動員数が1100万人)である。
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筆者注:DVD『弁護人』の主演者(ソン・ガンホ氏)へのインタビュー中、
“韓国初 観客動員数累計1億人突破」”と流れていました。
尚、光州市民虐殺事件を契機として学生運動が爆発したため、 全斗煥政権が「共産主義分子を取り締まる」として学生運動団体すべてを反国家団体として弾圧した時、学生たちがそれに抵抗しようとソウルの「学林茶房(ハンニムタバン)」で会合を持ったところ、警察が学生と労働運動家24人を連行し、激しい殴打と水拷問・電気拷問を加え、国家保安法違反の罪で懲役2年から無期懲役までの宣告を下した。……釜山でこれらまったく罪のない民主化運動の学生がすさまじい拷問を受けていることを知って立ち上がり、無償の弁護を買って出たのが若き弁護士時代の盧武鉉(ノ・ムヒョン)(のちの大統領)であり、盧武鉉と共同弁護士事務所を開いたのが、文在寅大統領であった。
32ページ |
そして、この盧武鉉(ノ・ムヒョン)は、DVDを見ると大いに引き付けられます。
先のインタビューで、ソン・ガンホ氏は次のように語っています。
"故ノ・ムヒョン元大統領の政治哲学を描いたり、政治家としての姿を語ったりするための映画ではありません。
新たな軍事独大政権が始まった1980年代を映した作品だと思います。
民主化への弾圧が激しかった暗黒の時代に1人の若者真剣に人生と向き合い献身するそんな姿が描かれています。
その点が現代に生きる我々の気持ちを揺さぶったのでしょう。"
そして、2014年1月に出版された『韓国大統領実録』(朴永圭(パク・ヨンギュ)著、邦訳は、2015年10月15日初版、キネマ旬報社発行)を読むと、大統領引退後の2009年5月23日未明に盧武鉉(ノ・ムヒョン) が何故、自殺したのが悲しくなります。
この著では次のように書かれています。
盧武鉉を支持していた多くの国民は「庶民大統領」の惜しまれる死を悲しみ、哀悼の列に加わった。
野外葬儀場となつたソウル市庁前広場には五十万人が集まった。焼香所を訪れた国民は、葬礼の期間である七日間に、全国で五百万人を超えた。
(勿論、『タクシー運転手』も素晴らしい映画です)
次は、広瀬氏のPDFファイルからの抜粋を掲げます。
先ずは、一寸、長くなりますが問題の「徴用工」(韓国では「強制徴用被害者」、あるいは「強制動員被害者」)に関してです。
1927年に、熊本県水俣に工場を持つ日本窒素肥料(後年のチッソ)が、日本人が「こうなん」と呼んでいた興南に子会社「朝鮮窒素肥料」を設立して、10年後の1937年には朝鮮と満州の境界を流れる鴨緑 をせき止めて東洋一の水豊ダムの建設に着工した。琵琶湖の半分の面積を水没させるこの巨大工事で朝鮮人と中国人の土地を略奪したチッソが、600万坪におよぶ化学軍需コンビナートをつくりあげて、興南一帯を支配したのである。そうして水豊ダムから得た豊富な電力を朝鮮全土と満州に供給して、日本敗戦時に従業員4万5000人というマンモス企業になった同社は、戦後に世紀の大公害「水俣病」を引き起こす犯罪企業であり、朝鮮総督・南次郎の指令のもと、強制連行した朝鮮人労働者を牛馬のように酷使した。
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言うまでもなく、「朝鮮人の強制労働被害者は、強制的に連行(拉致)された大量の人間である。日本人の労務係が深夜や早暁に突如、朝鮮人の男子がいる家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中に、トラックを回して何気なくそれに乗せ、それらの拉致被害者の集団を編成して、炭坑や製鉄所、鉱山、道路、トンネル建設の土建業など、重要基幹産業部門などに送りこむという乱暴狼藉がおこなわれた。終戦までに、70万人を超える朝鮮人が強制連行(徴用・拉致)され、女性は女子挺身隊として釜山港から日本に連れ去られ、およそ4万人の中国人が強制連行されたのである。
だが、それだけではない。甘い言葉で朝鮮人を日本企業に誘って、自ら志願させておいて、残忍苛酷な労働を強いた」というのが史実であった。1910年の韓国併合後、朝鮮半島全土を日本の植民地とし、その下で戦時体制下における労働力確保のため、朝鮮総督の南次郎らが「朝鮮人労務者募集 並 渡航取扱要綱」を定め、朝鮮総督府配下の警察力を動員して、1939年から労務動員計画による強制連行が開始された。さらに1942年に日本政府が制定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」による国家的な就職紹介および就職促進事業(官斡旋)や、1944年に日本政府が植民地朝鮮に全面的に発動した「徴用令」による強制連行が実施される中で進行した労働だったのである。
……
「日本で2年間訓練を受ければ技術を習得でき、終了後は朝鮮半島の製鉄所で技術者として就職できる」という募集広告にだまされ、実際には月に2、3円の小遣いを渡されただけで、賃金を入金した原告の口座の通帳と印鑑は寄宿舎の舎監が保管して本人に渡されなかった。感電死する危険があるなかで溶鉱炉にコークスを投入するなどの過酷で危険な労働を強いられ、窓に鉄格子が入った牢獄と同じ工場で外出も許されず、わずかで粗末な食事しか与えられず、逃亡を企てたとして殴られるなどおそるべき環境に置かれ、軍隊と同じように警察官らによって監視されていた事実が、韓国の裁判で明らかにされていたのである。
これは国際労働機関(ILO)条約に定める強制労働や、1926年の奴隷条約に記述されている奴隷制に当たるものであり、重大な人権侵害であった。ナチス・ドイツがユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所に送りこんだのと何ら違わないことを、日本人が朝鮮人に対しておこなったのである。
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韓国では、普通の人が聞いても意味不明の「徴用工」という言葉ではなく、「強制徴用被害者」、あるいは「強制動員被害者」と表現している……
国際社会は、70万人を超える朝鮮人が日本人によって強制連行(拉致)され、そのすさまじい被害が戦後にまったく無視され続けてきたことを知っているので、日本人が何を考えているのか不思議でならない」と言って、日本人全体の知性と良識のなさを嘆いているほどである。 25ページ |
1965年6月22日の「日韓国交正常化」における日韓請求権協定の締結にあたって、日本政府は「請求権協定1条の〝経済協力の増進(日本から韓国への資金提供)〟と、2条の〝権利問題の解決(日本の植民地統治時代の被害者救済)〟との間には、法律的に何の相互関係も存在しない」としていた。すなわち、「日本が韓国に支払った経済協力資金は、韓国民の請求権の対価として支払われたものではなく、それによって強制連行(強制動員・強制労働)被害者に対する補償(賠償)の債務が日本政府・国民から韓国政府に移転したものではない」ということを明らかにしていた。つまり日韓請求権協定の締結にあたって、「この協定で放棄されるのは両国の外交保護権(相手国の責任を追究する権利)であり、個人の権利を消滅させるものではない」という法律論が、日本政府の認識だったのである。
それを裏付ける事実として、1991年8月27日に、外務省条約局長の柳井俊二が参議院算委員会においておこなった以下の答弁がある。「(1965年の日韓基本条約の請求権協定は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。
2018年10月30日の韓国大法院(最高裁)判決の基盤となったその6年前の2012年5月24日の韓国大法院判決は、次のように述べていた。「1965年の請求権協定は、日本の植民地支配賠償を請求するためのものではない。請求権協定の交渉過程で、日本政府が植民地支配の不法性(悪事)を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したため、韓国・日本の両国政府は大日本帝国の韓半島植民地支配の性格について合意できなかった。したがって日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は、請求権協定の適用対象に含まれてはいない」ことを明確にしており、1965年の協定そのものが、損害賠償とは無関係であると断じたのである。この韓国最高裁判決は、日本による朝鮮半島の植民地支配を犯罪行為であると定義した最も重要な史実の指摘であり、保守派の李明博政権時代の判決なのである。
事実、1965年の日韓基本条約で、日本政府は韓国に支払う金を「賠償」と表現することを拒否し、日韓基本条約を締結した外務大臣・椎名悦三郎 が1965年11月19日の国会で、「協定によって韓国に支払った金は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄する気持を持って、また新しい国の出発を祝うという点において、 この経済協力を認めたのでございます」と答弁し、賠償ではなく〝独立祝い金〟であったと述べたのだから、外務大臣が「日本は賠償金を支払っていない」と明言していたのである。なぜこう答弁したかと言えば、「賠償金を支払った」とすると、「日本の植民地統治が重大な犯罪行為であったという史実」を日本政府が認めることになるからである。 23ページ |
このように、日本側の非を認めているのは、岩上ジャーナルで「岩月弁護士」が、次のように説明しておられます。
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435874
岩月弁護士は、徴用工判決に対する日本人の感情的な反応について、「日韓請求権協定を結んで、被害者個人の請求権はなくなったと思われているが、実は違う。日本の裁判所は『訴える権利(訴権)はない。しかし、請求権は存在する』と判断している」とし、日韓請求権協定によって日本が韓国に支払った5億ドルの行方なども含めて、詳細を説明していった。
この様な悲惨な状態が発生する朝鮮での無残な状況を、抜き書きさせて頂きます。
日本の植民地統治時代には、日本人が南朝鮮の資産の90%以上を略奪して、裕福となった日本人が富を独占していた。日本敗戦後は、日本人が日本に帰国して朝鮮に残したその巨大な資産を、アメリカ軍政が本来の所有者である朝鮮人に返却すべきところ、すべて軍政下に置いてしま ったのだ。そのうち一部の資産は、李承晩政権にコネを持ってアメリカ軍政に寄生する商人と、地主などの特権層にだけ、安価で払い下げられてきたのだから、大半の南朝鮮の民衆は、貧困のどん底から抜け出られなかった。
かくして1946年6月には、南西部地方、全羅南道(チョルラナムド)の光州にある和順(ファスン)炭鉱の労働者が、こうしたアメリカ軍政の寄生者である警察と右翼に反対して決起し、無実で投獄されている者の釈放を要求してデモをおこなった。その時、米軍の歩兵部隊と、韓国警察の武装騎馬隊がこのデモを鎮圧し、500人以上が死傷する光州虐殺事件が起こり、大惨事となった。 36頁 |
“日本の植民地統治時代には、日本人が南朝鮮の資産の90%以上を略奪して”と書かれておられます。
この資産は、今のお金に換算して幾ら?
今年2019年3月1日に、韓国で三・一独立運動100年記念行事がおこなわれたのは、100年前の1919年3月1日当時、植民地統治反対に決起した勇気ある国民の歴史を胸に刻むと同時に、日本人によって独立運動が弾圧され、朝鮮全土で虐殺された朝鮮人死者7500人を追悼するためであった。
1920年10月21日から、満州の青山里付近で、日本軍に対して、朝鮮人の独立運動武装組織との間で戦闘がおこなわれ、キム・ジャジン将軍率いる朝鮮独立軍が日本軍を壊滅して大勝利をおさめた。 (16頁) |
連合国のポツダム宣言を日本が受け入れ、1945年8月15日に、無条件降伏した時点で、朝鮮半島では朝鮮民族が解放された。そしてこの解放の日を、朝鮮では、「自由の光が戻った」との意をこめて「光復節(クァンボクチョル)」と呼んで祝ってきた。
……
侵略者であった日本は分割されずに、解放されたはずの朝鮮が南北に分断され、朝鮮が再び植民地化される地獄に投げこまれたのである。
14ページ |
かくして8月14日に、「北緯38度線を境界にした朝鮮半島の分割占領案」をアメリカがソ連軍に通告したので、当時アメリカに従っていたソ連軍がそれを受諾した。
17ページ |
8月20日になって、フィリピンの首都マニラにいたアメリカ太平洋方面軍のダグラス・マッカーサー司令官が、朝鮮総督・阿部信行に対して「南朝鮮の治安維持に全面的な責任を持つこと」を特別命令として指示し、「日本人による南朝鮮の治安維持」を命じたのである。そして米軍が朝鮮に到着するまで、敗戦国の日本軍が鉄道・電力・水道などの重要施設と刑務所を警備するよう命じたのだ。
大日本帝国の軍隊を動員して、朝鮮人が接収していた警察署と放送局を、再び日本人が接収したのである。そのため日本軍はほぼ1ヶ月間、武装解除をせず、しかも日本が敗れたため自暴自棄になって、朝鮮にあった工場の機械を破壊したり、相変らず乱暴狼藉を働いたとされている。 19ページ |
マッカーサーから朝鮮人民向けの布告第1号が次のように発表された。「近日中に、米軍が北緯38度線より南の朝鮮領土を占領する。朝鮮統治の権限は私(アメリカ軍政)にある。朝鮮人民は私の命に服従しなければならない」
20ページ |
9月8日に、アメリカの連合軍司令官ジョン・ホッジ中将が、2個師団4万5000人の米軍兵士を率いて京城に入ると、この都市を、首都を意味するソウル(Seoul)と呼び換え、南朝鮮一帯に軍政を敷き始めた。日本軍は武装したままこの米軍を迎え、朝鮮人に対して最後まで威圧的姿勢で臨もうとした。このアメリカ軍政による支配は、のちに韓国が形式的に国家として独立し、初代大統領・李承 に政権を移譲する1948年9月11日晩まで3年間続いた。
さらにアメリカ軍政部は、ソウルに入るなり、午前0時~4時のあいだ、夜間通行禁止令(夜間外出禁止令)を発した。この禁止令は、1982年1月5日に解除されるまで実に37年間続けられ、韓国人は自分の国に住んでいながら、深夜になると自由に外出することも許されなくなったのである。
1945年9月20日に、アメリカ軍政庁が正式に発足
このアメリカ軍政が、朝鮮人に対して何をしたかと言えば、信じられないことではあったが、朝鮮総督府に日本の売国奴として雇われていた朝鮮人を引き立て、その〝親日派〟朝鮮人がこのあと南朝鮮(韓国)の新しい支配層にのし上がっていくようにレールを敷いたのである。
米軍が南朝鮮(韓国)の治安を維持する目的のため、〝親日派〟を呼び戻し、そのうち5000人以上を採用し、新生国家となるべき朝鮮の警察幹部が彼ら売国奴で占められてしまったのだ。 21ページ |
アメリカは、朝鮮を大日本帝国の支配から解放したのではなく、日本の植民地統治時代の朝鮮人売国奴を軍の幹部に引き戻す主役を演じていたのだ。 35ページ |
1948年2月7~9日には、李承晩が「南朝鮮における単独の選挙」をめざしていることに南朝鮮労働党傘下の労働者が反対し、南朝鮮と北朝鮮の分裂を食い止めようとゼネストを挙行し、農民と学生200万人がこの反対行動に参加して全国に広がり、検挙者・死傷者とも数万人に達した。続く4月3日には、済州島(チェジュド)に武装蜂起という大事件が勃発し、これが米軍による〝四・三大虐殺事件〟を招いた。韓国南部の現在のリゾート地・済州島全域で、朝鮮半島の南北分断政策をめざす李承晩派が南朝鮮だけの単独選挙を挙行することに反対して、島の人々が武装蜂起したのである。
この武装蜂起に対しては、最初からアメリカ軍政が警備隊を送りこみ、軍と警察が島に火を放って焦土化し、島民を虐殺しつくした。人口30万余の済州島で実に死者が3万人を超え、女性と子供だけでも1万人以上が殺される大虐殺を引き起こしたのだ。加えて、逮捕された無実の島民は、逮捕された意味も分らずに殴られ、激しい拷問を受け、軍法会議にかけられてアッという間に2530人にデタラメの有罪判決が下されたのである。
当時、米軍にとっての済州島は、日本における沖縄と同じ軍事基地であった。 37ページ |
1948年8月13日に南朝鮮に韓国(大韓民国)という新国家が誕生し、初代大統領に李承晩が就任したのである。
10月24日には、麗水へ向かう韓国正規軍が反乱軍の待ち伏せに遭い、正規軍270人以上が戦死し、この間に反乱軍の主力1000人が北部の智異(チリ)山へ移動し、反乱軍がパルチザンとなって山中に潜伏して長期的なゲリラ闘争を展開した。ちょうどキューバ革命の成功前に、カストロとチェ・ゲバラが独裁者バティスタに山中からゲリラ戦を挑んだような大事件であった。
李承晩大統領と米軍は、大規模な軍部の反乱に衝撃を受け、韓国に駐在するアメリカの軍隊が鎮圧に乗り出した。この時の李承晩は、この反乱を利用して左翼を撲滅する絶好機ととらえて、直ちに米軍と共に鎮圧部隊を投入したため、10月27日までに反乱部隊を鎮圧し、反乱部隊だけでなく非武装の民間人8000人を殺害する大事件となった。反乱軍に加担した嫌疑で1万7000人以上の市民が裁判にかけられ、866人に死刑が宣告されたのだ。さらに、終身刑を言い渡された568人の将兵は、1950年の朝鮮戦争勃発と同時に、全員処刑されたのである【この「麗順事件」の犠牲者に関しても、前述の過去事委員会が調査をおこなった結果、不法に逮捕・監禁された事実が明らかにされ、今年2019年3月21日に韓国最高裁(大法院)で71年ぶりの再審開始が決定されたばかりである】 38ページ |
韓国の大統領が、信じられないことに日本の植民地統治時代の売国奴を使って、朝鮮/韓国独立運動の英雄を惨殺しながら、軍事独裁者に成り上がっていったのである。またそれが、アメリカの指示によるものであった。
40ページ |
1946年2月8日には、北朝鮮に金日成を主席(首相)とする臨時人民委員会が成立し、これが北朝鮮の行政を実行する内閣として活動を開始した。そこで金日成は、ただちに3月5日、北朝鮮臨時人民委員会の名で、民衆が農地を平等に所有できるようにする「土地改革令」を発布した。……
戦後の日本で1946年10月11日から実施されて成功した第二次農地改革は、この北朝鮮に半年ほど遅れてスタートし、ほぼ同じ内容の改革であった。 44ページ |
北朝鮮における民主的な土地改革令(農地改革)と、工業社会の労働法令の実施が、奴隷化されていた南朝鮮の朝鮮人民衆にとって羨望の的となり、アメリカ軍政に反対する意思をますます強めた。……
北朝鮮は「理想郷」と呼ぶにはほど遠くとも、はるかに民主的で、生活の向上に向けた労働条件が整っていたのである。 45ページ |
李承晩は、北朝鮮に倣って左翼出身の者を農林長官に任命して農地改革を実施させたので、政権末期の1960年までに、小作農民の90%が自作農になることができた。李承晩が国民につくした政治的な業績は唯一これだけであった。
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韓国人1人当たりの国民所得が北朝鮮と同じレベルに追いついたのは、ようやく1972年頃だったのである。
1949年1月1日に、アメリカ政府が最もおそれていた出来事が起こった。……
10月1日に30万の大群集が天安門広場に集まって建国式典が挙行され、北平を北京と改称して「中華人民共和国」が成立したのである。中央人民政府主席に毛沢東が就任し、首相・外相に周恩来が就任した。……明白な共産党政権だったため、アメリカは中国からの撤退を余儀なくされることになった。
ヨーロッパでは、この6日後の10月7日に、東ベルリンでドイツ民主共和国の建国が宣言され、共産主義国・東ドイツが成立していた。
蔣介石自身も四川省の省都「成都」から台北に逃れ、翌年1950年3月1日に台湾で正式に中華民国の総統にようやく復帰する状況であった。
李承晩は1948年7月20日に大統領に当選した時に、傲慢にも「韓国政府は朝鮮半島における唯一の合法政府あり、武力によってでも北朝鮮に対する主権を回復する権限を有する」と宣言していたので、その政策の実現に踏み出したのである。北緯38度線の国境での武力衝突は1000回近くになり、いよいよ南北の開戦が近づいていることは明らかであった。
1948年1月6日にアメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが「日本を反共の砦とする声明」を発表し、5月18日には、はっきりと日本の再軍備を提唱したのはそのためであり、これまでのマッカーサーの政策と正反対の「日本を軍国化する」流れが生まれていた。続く1948年10月7日には、アメリカの国家安全保障会議(NSC)が、以下のような「アメリカの対日政策に関する勧告」を承認した。
──(アメリカの占領を終らせて日本を独立させる)講和条約は、日本に対する懲罰をナシとする。横須賀と沖縄のアメリカ海軍基地を今後も強く維持し、日本の警察力を強化する。連合国軍GHQ最高司令官マッカーサーの日本政府への統制力は弱めるべきである。戦争遂行に関与した日本人の公職追放を緩和する。日本工業界の非軍事化は最小で一時的な制限に限定すべきである── 47ページ |
一方、韓国では、ほぼ同時期の1948年9月7日に、日本の植民地統治時代に〝親日派〟だった売国奴を政界から追放するための反民族行為処罰法が、憲法制定議会の141議員のうち103人(73%)が賛成する圧倒的な支持で可決され、続いて反民族行為特別調査委員会が組織され、親日派を一掃する活動がスタートしていた。ところが〝親日派〟の売国奴だった資産家を政治基盤に抱える李承晩大統領が、この動きを阻止しようと動きだし、翌年の1949年8月22日には、韓国国会に圧力をかけ、この調査委員会を「廃止する」議案を強引に通して、委員会が闇に葬られてしまったのである。
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1950年6月25日に、朝鮮戦争が勃発したのである。
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1952年2月21日には、中国の国営・新華社通信が「1月28日~2月17日に米軍が北朝鮮と中国東北部で細菌を撒布した」と報道して、恐怖の細菌兵器の使用が明らかになった。アメリカは、日本が開発した〝悪魔の細菌戦〟731部隊の殺人技術をひそかに引き継ぐため、東京裁判で731部隊を免責してきたが、彼らから聞き出したBC兵器(Bio-Chemical Weapon──生物化学兵器)の技術を、ついに朝鮮戦争で米軍が実際に使用したのである。
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朝鮮戦争の激戦が続く中、1951年9月4日にアメリカが強引に開催したサンフランシスコ講和会議で、9月8日に日本の独立を認める講和条約の調印式がおこなわれ、対日平和条約に次々と署名が始まり、最終的に会議参加52ヶ国中の49ヶ国が調印した。アジアで署名したのはカンボジア、セイロン(現スリランカ)、インドネシア、ラオス、パキスタン、(アメリカが反共政策を進めていた)フィリピンと、(フランス軍統治下の)ベトナムだけで、〝第二次世界大戦中の日本によるアジア侵略の最大の被害国〟である中国、台湾、韓国、北朝鮮、インド、ビルマ(現ミャンマー)など主要なアジア諸国は出席もせず、ソ連、東西ドイツ、東ヨーロッパ諸国も署名しなかった。
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ポツダム宣言【十二条】に、「日本国民の自由意志による政府が樹立されれば、連合国占領軍はただちに日本から撤退する」という条文があったにもかかわらず、米軍はそれを無視して、日本駐留を継続することに成功したのである。そして同日、日本政府がGHQの承認を得て、戦時中に拷問をくり返して日本国民を苦しめた恐怖の旧特高警察関係者336人の復帰(追放解除)を発表した。日本国内の反戦平和主義者の一掃をはかるため、特高警察の内務省関係者が、どっと復権したのがこの時であった。
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参加国すべての犠牲者の総数は、3年間で死者・行方不明者はおよそ275万人、負傷者はおよそ364万人、「死傷者の総計639万人」という、とてつもなく巨大な犠牲者の数であり、10年以上続いたベトナム戦争の犠牲者と比べても遜色ない数であった。そして南北の国境線によって同じ民族の家族が離散させられる大悲劇を招いて、家族が離れ離れになった人は1000万人以上に達したのだ(文在寅大統領の母も家族と離散したが、2004年になって幸運にも離散家族再会の対象に選ばれ、北朝鮮にいた唯一の身寄りである妹と、54年ぶりに再会した)。この悲劇の中で膨大な数の戦争孤児が生み出され、韓国から海外に養子縁組された人は、朝鮮戦争後の60年間でおよそ20万人にも達したとされる。さらに物的被害として、北朝鮮の産業生産施設の80%が破壊され、韓国の国家基盤施設の60%が消失したのである。
とりわけ韓国の場合は、朝鮮戦争の開戦17日後の7月12日、「韓国軍の統帥権を国連軍(米軍)司令官に移譲する協定」(大田(テジョン)協定)が締結されていた。「韓国軍に対する作戦指揮権は米軍に属する」という重大な規定が決められて、マッカーサー総司令官が朝鮮戦争における国連軍の最高指揮官となり、韓国が独立国家としての自主権を放棄していたのである。「戦時において韓国軍に対する作戦指揮権は米軍に属する」と定めたこの規定は、驚くべきことに2019年現在も維持され、決定の判断権を米軍が握っている。したがって「韓国大統領の同意がなくとも、米軍が朝鮮半島/韓国内で自由に軍事行動をとれる」という米韓関係はおかしいと、文在寅政権になって議論が起こされているのである。
その一方で日本は、サンフランシスコ講和条約を結んで「独立した」と言いながら、独立は言葉だけで、その後、ますますアメリカの言いなりになったのであった。日本の再軍備は、ここまで見た通り、すべてアメリカがお膳立てした通りであった。
日本の再軍備によって自衛隊を誕生させた先述の日米相互防衛援助協定(MSA協定)は、朝鮮戦争のために「反共軍事同盟」の確立を目的としたものだったが、この協定は「日本がアメリカの友好国である」ことを動かない事実として定め、政治的にも経済的にも軍事的にも、日本がアメリカに従属することを強要する内容であった。つまりこの時、軍事協定と同時に、余剰農産物の購入協定など一連の経済協力協定が締結され、アメリカの余剰農産物も日本が買い取らなければならないという約束が結ばれ、まるで日本がアメリカのゴミ箱のように利用されていたのである。
したがって、日本も韓国も、ワシントンの手の中で転がされるアメリカの属国であり、独立国ではなかったのである。 59ページ |
1980年の光州虐殺事件が起こった当時、「米軍が光州市の市庁舎の上から韓国軍の市民虐殺行為を見ていた」と、私は光州市民から聞いている。この時の米韓連合司令部の司令官は、「国連軍」の司令官で、ベトナム戦争の指揮官だったジョン・ウィッカムであった。韓国軍はウィッカムの許可がなければ移動できない組織だったから、韓国軍が光州市民を虐殺することを承認したのが米軍であった。加えて、人口70万の光州全市で、30万人がデモに立ち上がり、しばらくしてほとんどの市民が戒厳令を解除しろと要求して動き出した時、光州市民に襲いかかったのは、ベトナム戦争で秘密工作を展開した米軍の特殊部隊グリーンベレーがきたえた最も強力な部隊であり、彼らが手榴弾まで使用して市民殲滅を実行し、捕虜にしたデモ隊員を踏みつけて銃殺し、手をあげて投降する市民も射殺したのである。事件時の光州市は、まったくの血の海であった。
この全斗煥政権を支持したのが、アメリカ政府と日本政府であったのだ。
1971年に連隊長としてベトナム戦争に参戦し、空挺特戦旅団の旅団長となったのが、のちの韓国大統領・全斗煥(チョン・ドゥファン)であり、彼が光州事件の主犯であったから、光州事件で韓国軍による市民虐殺を承認したベトナム戦争の指揮官ジョン・ウィッカムと全斗煥が連動していたことは間違いない。
73ページ |
編集者で作家の矢部宏治氏は、日本のアメリカへの属国性を挙げていますが、韓国のアメリカへの(更には日本への)属国性を挙げて行くべきでしょう。
広瀬氏は、“私は「テレビ報道は絶対に必要だ」と信ずる。”と書かれていますが、但し、次の様な苦言を呈して居られます。
私が見るのは、ニュースや事件の真相を伝える「報道番組」と「ドキュメンタリー番組」と、BS11の「世界の国境を歩いてみたら…」のような「外国現地の取材番組」を、資料として録画して見ることにしている。
……
男女を問わず語尾が聞き取りにくいことが多く、…… 123ページ |
NHKのすぐれたドキュメンタリー番組で、〝有名な女優〟がナレーションを読んでいた時、「最近の俳優は発声もできないのか」と、腹が立つほど聞き取れないボソボソ声だった例があり、このような録音のままチェックもせずに放映するNHKに、信じられない思いをしたこともある。
……
若手漫才師は、落語家に発声法を習って、話芸の修行が必要である。 124ページ |
私も一寸付け加えさせて頂きます。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/249292
には、次のように書かれています。
確かに、漫才師出身の「たけし」が、NHKテレビで、落語家の「三遊亭志ん朝」を演じて居るようですが、「志ん生が2人いて、時代が交錯するのが分かりにくい」……「たけしの滑舌が悪く、聞きづらい」……視聴者の声を集約するとこんな感じか。1ケタ続きの低視聴率にあえぐNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」。
しかし、亡くなった後も多くのファンを有する「立川談志」、その弟子で、今や売れっ子(?)の「立川志の輔」の発声は、「たけし」同様の真似してはならない発声です。
更に付け加えさせて頂きたいのは、BGMの多用です。
日本美術を紹介しているときに、なぜBGMが必要?
綺麗な景色を映しているときにBGMが必要?
大リーグの勝敗、チーム成績等でもBGMが必要?
そもそも、テレビにBGMが必要?
映画の場合の様に、監督等の製作者がその映画に必要と思った音楽を入れるのと訳が違うのです。
更には、広瀬氏は“私が、「地球の気象を左右しているのは主に宇宙であり、CO2ではない」と敢えて発言する”と下図を引用しながら記述されておられます。
更には“ノーベル賞騒ぎと、学歴・肩書社会にはびこる無知”も書かれて居られます。
ですから、大学時代も電気に携わっていない私が、現在の電気理論を塗り替えている『コロンブスの電磁気学』へも強い関心を抱いて下されることを願わざるを得ません。
http://u33.sakura.ne.jp/soubunsyamakuji.htm
そして、広瀬氏の“ジャマル・カショーギ惨殺事件とダイアナ妃黄金伝説”等々も興味深いお話であり、“次世代に受け継いでもらわなければならない資料が秘蔵されている”に於いては、
「キューバ危機を引き起こしたソ連の第一書記・首相だったニキタ・フルシチョフが、ロシア皇帝のロマノフ家ときわめて近い姻戚関係を持つロシア貴族の出だった」という奇想天外の驚くべき事実が明らかになった。…… |
と書かれておられます。
“ナチスが略奪した絵画の行方”では、ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスに美術品の審美眼と人脈の広さを買われ、1930年代から1940年代にかけて、ナチス政権が求める芸術作品の売買責任者に任じられたヒルデブラント・グルリットの家系を辿ると「偉大な作曲家であるメンデルスゾーン」そして戦中戦後日本で活躍された指揮者のマンフレート・グルリットまでも、広瀬氏の貯蔵する資料から分かるのです。
尚、 “強奪されたコレクションの数は、……カーン家1202点”と 広瀬氏は書かれておられますが、このカーン家は、NHKスペシャル「新・映像の世紀」のカメラを取らせたカーン氏の一族なのでしょうか?
最後に一言、広瀬氏は“平昌オリンピックで南北合同チームを組んだ時から、金正恩と文在寅のあいだに流れていた男の友情が、過去の自縄自縛の憎悪とわだかまりによる対決心を吹き飛ばしていた。”……「南北朝鮮を貫く天然ガス・パイプラインと交通網」で、これからの朝鮮は明るい未来が開ける旨を書かれていますが、疑い深い私は、独裁者としての金正恩の地位が心配です。
開かれた社会で金正恩の地位をどうするのでしょうか?
何はともあれ、是非とも、『テレビ報道の深刻な事態』をたんぽぽ舎にご連絡の上ご購読ください。
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| 『テレビ報道の深刻な事態』
| 心を落ち着けて、この長文の原稿(A4で155頁)を
| 熟読していただければ幸いです
└──── 広瀬
隆 (作家)
或いは、当方宛にご連絡ください。